富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「盲人バルティマイの信仰」と癒し」 マルコによる福音書10章46-52

2021-03-21 00:20:17 | キリスト教

                           ↑              Jesus! Son of David! Have mercy on me.

                                      Jesus said, What do you want me to do for you?

                                                                               Master! Let me receive my sight.

                                     Go your way, your faith has made you well.

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会     週 報

受難節第5主日  2021年3月21日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                 礼 拝 順 序

                 司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 288(恵みにかがやき)

交読詩編   16(神よ、守ってください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マルコによる福音書10章46-52(新p.83)

説  教  「盲人バルティマイの癒しと信仰」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                         

聖餐式    72(まごころもて)

讃美歌(21) 522(キリストにはかえられません)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                          次週礼拝  3月28日(日)午後5時~5時50分    

                                                          聖 書  マルコによる福音書10章17-22節

                                                          説教題  「あなたに足りないこと」

                                                          讃美歌(21) 299 311 27 交読詩篇 118篇1-29   

本日の聖書 マルコによる福音書10章46-52

 10:46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。 47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

   本日の説教

エリコの町での、イエスによる盲人の癒しは、三つの福音書に記されています。マタイ20章29-34節、ルカ18章25-43節、そしてマルコ10章46-52節です。しかし、バルティマイという盲人の名を記しているのはマルコによる福音書だけです。エリコの町に近づいたときの出来事なのか、町を去るときなのか、町を出たときなのか、は、それぞれの福音書によって異なります。マタイでは二人の盲人が癒されています。

マタイでは、盲人が、「イエスがお通りと聞いて」叫んだとあり、ルカでは「ナザレのイエスだと聞くと」とありますが、ルカでは、「群衆が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると」、叫んだ、状況をくわしく記しています。

また、イエスによる癒し方も、マタイでは「イエスが深く憐れんで、その目に触れて」とあり、ルカでは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言っており、マルコでは、「あなたの信仰があなたを救った」とだけしか言っていません。

見えるようになった盲人が、イエスに従ったと三福音書は共通して記していますが、ルカ福音書では、さらにくわしく、「神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した」と記しています。

 福音書記者の用いた資料の相違が、記述の相違になったと思われますが、比較しながら読むと、より補完された物語として読むことができます。

「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。」(10:46)

イエスの一行は、ガリラヤのカファルナウムを去ってユダヤ地方とペレヤ地方へ行きました(10:1)。一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれました(10:32)。それを見て弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた、とあります。受難の地エルサレムへ決然と向かうイエスの姿は弟子たちの不安をもたらしました。イエスは、三度目の自分の死と復活を予告しました。

イエスの受難の日が近づいているにもかかわらず、自分たちの高い地位を求めることにしか関心を示さない弟子たちに、イエスは「仕えること」を教えました(10:35-45)。

一行は、エルサレムへ上るため、ヨルダン川東岸経由でエリコの町に向いました(バイブルアトラス図56参照)。エリコに近いヨルダン川の西岸には、イエスが洗礼を受けた場所があります。    

    

           イエスの時代のパレスチナ

イエスとその弟子たちの一行はエリコの町に着きました。エリコは、海面下250m、ヨルダン川の西方約8㎞、死海の北約9.5㎞、エルサレムの東北東約24㎞に位置する低地です。エルサレムに行く入口の町です。

エリコの町では、イエスに従う弟子たちやガリラヤの人々の他に、エリコから従う者もありました。イエスは大勢の群衆と一緒に、エリコの町から出て行こうとされました。そのとき、ティマイの子で、バルティマイとい名の盲人の物乞いが道端に座っていました。「バル」はアラム語で息子を意味します。

「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。」(10:47)

 彼は、「ナザレのイエス」だと聞くと、「ダビデの子イエス」よ、わたしを憐れんでください、と叫び続けました。イエスはガリラヤ地方のナザレの出身なので、「ナザレのイエス」と呼ばれていました。当時のユダヤ人のあいだでは、メシア(救世主)はダビデの子孫から出ると考えられており、「ダビデの子」はメシアの称号として用いられていました。

「ナザレのイエス」が、メシア的な働きをしていることを、この盲人は聞いていたのでしょう。「憐れんでください(ἐλέησόνエレエソン」という語は強い嘆願です。

 「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」(10:48)

 弟子たちがすることを、ここでは「多くの人々」が盲人を叱りつけて、叫びを黙らせようとしました。盲人の激しい叫びを迷惑と考えたからでしょう。しかし彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。この盲人はナザレのイエスを救い主だと信じたのです。

「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』」(10:49)

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。小さな者、弱い立場にある者に対する、多くの人々の態度と、イエスの態度との違いが明らかにされます。人々は盲人を呼んで、「安心しなさい。立なさい。お呼びになっている」と告げました。

「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」(10:50)

 盲人は上着を脱ぎ捨てた、というよりは、施し物をもらうために地面に広げていた上着を投げ出して、踊り上がって喜び、イエスのところに来ました。

 「イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。」(10:51)

 イエスは盲人に「何をしてほしいのか」と問いました。この問いは盲人の必要とその意志を確認する言葉です。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」答えました。「先生」は「ラビ」よりも強い表現で、「わたしの主」という意味で、ユダヤ教指導者に対する最高の呼名です。「見えるようになりたい(ἀναβλέψωアナブレプソー)」は、もう一度見えるようになりたい」の意味です。

 「そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(10:52)

 そこで、イエスは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。バルティマイの信仰は執拗な懇願とイエスに呼ばれたときの歓喜の中にも表れていますが、信仰とは、ここでは、救い主イエスには、盲人の目を癒す力があると心から信頼することです。「あなたを救った」は、あなたはすでに癒されている、という状態を強調しています。バルティマイは目が開かれただけでなく、救われたのです。イエスは盲人の目を開くために、何も特別な言葉をかけていません。「あなたの信仰があなたを救った」というイエスの言葉は、このバルティマイの信仰をイエスが受け入れたのであり、バルティマイの全存在をも受け入れたことを意味しています。それはバルティマイに対するイエスの憐れみによるものでした。神の子イエスにとっては、迷える一匹の羊は、九十九匹以上に大切な存在でした。

盲人は、すぐまた見えるようになりました。家族のもとに「行きなさい」というイエスの言葉にもかかわらず、彼は、なお十字架の道を進むイエスに従いました。

バルティマイは、イエスに対する絶対の信頼により、肉体の病気を治されたばかりでなく、立派な信仰を与えられ、救われたのです。

目の癒し、視力の回復は、イザヤ書に約束されていた出来事でした。「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」という栄光の回復(イザヤ35;5)は、神の支配が開始されたことを指し示しています。イエスは、見えない人の目を開き、罪人の目を開けられる救い主なのです。盲目の者が「イエスを神の子」として見ることが出来るのに、弟子たちは目が見えるのに、復活のイエスに出会うまでは、イエスを神の子として見ることができませんでした。

 この盲人の癒しと救いは、「ホサナ。主の名によって来られた方に、祝福があるように」とイエスを迎える群衆の声を先取りするものでした。イエスはまさに憐れみ深いメシアとして、民のために、エルサレムへ行く途中にあるのです。来週の礼拝は棕櫚の主日を迎えて礼拝です。

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