富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「罪による堕落」 創世記4章1~16節(p.5)

2017-11-02 15:50:42 | キリスト教

            ティントレット(1519-94)「カインのアベル殺害」(1552ー1553年)149㎝×196㎝ 【アカデミア美術館所蔵 ヴェネツィア】 (画面の右下に、アベルが捧げた小羊が描かれています。)                  

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすべに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     降誕前第8主日  2017年11月5日(日)    午後5時~5時50分

                  礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉                                   

讃美歌(21) 449(千歳の岩よ)                                                           

交読詩編   51(神よ、わたしを憐れんでください)                               

主の祈り   93-5、A                                                                    

使徒信条   93-4、A                                                                    

聖 書(新共同訳)   創世記4章1~16節(p.5)                                    

説  教    「罪による堕落」     辺見宗邦牧師                                

祈 祷                                                                                

讃美歌   441(信仰をもて)                       

献 金                                   

感謝祈祷                                  

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)                   

祝 祷                                   

後 奏  

           次週礼拝 11月12日(日)   午後5時~5時50分

            聖書   創世記15章1~18a節

            説教    「神の民の選び」

            讃美歌(21)402 433 24 交読詩編105篇 

本日の聖書 創世記4章1~10節

 1さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。 2彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。6主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」8カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。9主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」10主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。12土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」13カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。14今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」15主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。16カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

    本日の説教

 創世記1章1節から2章3節までの創造物語は、紀元前六世紀頃、バビロニアの捕囚地でイスラエルの祭司記者によって書かれた祭司資料によるものです。神の名はエロヒーム[אלִֹהיםエロヒーム:普通名詞]が用いられています。敗戦による亡国と捕囚の中で、イスラエルの人々は自分たちの罪と、神の全能と神の民としての恵みを知らされました。神は世界を支配する全能の唯一の神であり、天地万物は神の言葉によって造られたと信じました。人間は「神にかたどって」造られた存在であり、神に向き合い、神と霊的に交わり、神を賛美し、地を治める者であり、世界の歴史を支配し、導き、これを審き、かつ救うのは神であると告白したのです。

 2章4節bから25節までの2章の創造神話は、捕囚以前の紀元前九世紀、ソロモン王朝時代に、南ユダ王国で成立したものです。神の名は、神がモーセに語られたヤーウェ[יְהוָ֥הヤーウェ:固有名詞]が用いられています(出エジプト3・15の「主」はヤーウェです。聖書は「主」と表記しています)。祭司記者は、この資料を創世記に書き加えたのです。2章では、「主なる神」(原典は「ヤーウェ・エロヒーム」)は人間を土の塵で形づくり、その鼻に神の息を吹き入れ、生きた者としました。人間はもろい、朽ちるべきものですが、神の霊を与えられた特別な人格として造られたことが告白されています。神は人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。また、人を孤独から助けるパートナーとして女を造られました。

 3章は、男と女が、取って食べてはいけないと神から禁止されていた木の実を、蛇にそそのかされて取って食べてしまい、エデンの園から追放されるという物語です。罪の本質は、神に背を向け、神に従うのではなく、自分が主人になり、神に成り代わろうとすることです。禁止を破ったのは、アダムと女の連帯責任であったのに、男は女に罪を着せ、女は蛇のせいにしました。一心同体として愛と信頼で結ばれていた夫婦が、自己防衛のためにその一体性を失ったのです。アダムとエバの二人は罰せられ、エデンの園から追放されます。神への背きの罪のために、人はいのちの源である神との親しい交わりを失い、死すべきものとなりました。人間同士もまた対立し、交わりを失う状態になりました。この物語では、アダムはすべての人間の代表であり、人間全体を象徴しています。アダムと女(エバ)が原罪を犯したから、その子孫であるわたしたち人間がすべて罪人であるというのではありません。アダムは歴史的先祖ではなく、人間が宿命的の持っている罪への傾向性を説明するための先祖なのです。人間は罪と死に支配されています。この場合の<死>とは、ただ身体が死ぬことではなく、霊的存在としての人間全体が命の起源である神から切り離されて死んでいる状態(身体の死はその結果)を言い表しています。罪はたんに状態にとどまるのではなく、人間は罪深いもので、罪のとりこになりやすく、行為・行動となってあらわれるのです。そして今日の4章はカインとアベルの悲劇的物語(ヤーウェ資料)になるのです。

 「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。」(4・1~2)

 創世記4章は、エデンの園を追放されたアダムとエバは、神の祝福を得て、男の子カインを与えられました。カインとは「得る」という意味で、母エバ(「命」の意)はすべての命あるものの母となりました(3・20)。つづいて弟アベルが与えられました。アベルとは「息」という意味で、はかなく過ぎ去る運命を暗示しています。現実の人間関係は、もっとも基本である家族、この物語では兄弟において、すでに悲劇的な破れを含んでいることがあらわになります。兄のカインは土を耕す農夫となり、弟のアベルは羊を飼う者となりました。牧畜と農耕は古代社会の代表的な産業です。

 「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、5カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(4・3~5)

 しばらくたって、二人は神にささげ物をしようとして、カインは地の産物の初物を持ってきました。アベルは羊の群れの中から肥えた羊の初子を持ってきました。ところが、神はカインのささげ物ではなく、アベルとアベルのささげ物に目を留められました。カインはアベルをねたみ、激しく怒って、神から顔をそむけ、顔を伏せました。

 「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。』」(4・6~7)

 主は、なぜ憤るのか、正しいことをしているなら、堂々と顔を上げればよかろう。そうでないのなら、お前は罪のとりこになってしまう。お前はその罪を克服しなけらばならない、と警告しました。

 「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」(4・8)

 カインは自分が認められなかったことによる、やりきれない不満を制することが出来ず、主の警告もきかず、怒りのほこ先を神に祝福されたアベルに向けます。カインはアベルを野原へおびき出し、襲いかかって殺しました。聖書が記す人間最初の死は、兄が弟を殺すという悲劇として起こりました。すさまじい自己中心性による罪が、カインの殺意をかりたてたのです。

「主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』」。(4・9)

 「弟がどこにいるのか」との主の問いは、共に生きるべき兄弟とのかかわりの大切さを気付かせるためでした。カインは、わたしは弟の番人ではありません。知りません、とうそぶきました。

「主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。12土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』」。(4・10~12)

「何ということをしたのか」。罪を認めさせ、悔い改めを呼び起こさせようとする神の声です。お前の弟の血が復讐のためにのろいとなって土の中からわたしに向かって叫んでいる。今お前は土の呪いを受けている。土が口を開けて、お前が流した弟の血を飲んだからだ。土を耕しても、土はもはやお前のための作物の実りをもたらさなくなった、と神は宣告しました。カインは、その地で農業を営むことが許されず、神と交わりをたたれ、地上の孤独な放浪者として追放されるのです。罪に対する当然の刑罰は、つぐないであるとともに、罪人を新しく再起させるためのものでもあります。

「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』」(4・13~14)

神の裁きの宣告をうけたカインは、自分の行った罪の重さを知りました。自分の犯した罪は重すぎて負い切れないことを知りました。また、自分が受けるであろう血の復讐を恐れました。

「主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。」(4・15)

 主は罪を犯したカインに対して保護を約束されます。「では、こうしよう。カインを殺す者はだれでも7倍の復讐を受けるであろう」。そして主は、カインが殺されることのないように彼に一つの「しるし」をつけました。この「しるし」がどういうものか分かりませんが、「焼き印」のような肉体的なしるしか、「皮の衣」の様な服装ともとれます。主は、血の復讐の連鎖を断ち切るための警告をされました。ここに罪人に対する神の愛が示さています。神はカインを見守ることを、言葉だけでなくしるしを付けるという行為のよっても明らかにしたのです。

 「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。」(4・16)

  カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住みました。「ノド」とは、「さすらい」という意味です。カイン(「カイン」という名は、[鍛治」という意味もあります。)は妻を得て、エノクを産み、町を建てて、古代文明のいろいろな技術を生み出す先祖とみなされるようになりました。

 神がアベルのささげ物を顧み、カインのささげ物を顧みられなかったのは、神が人をかたより見るからではありません。「神は人を分け隔てなさいません(ローマ2・11)。アベルを顧みられたのは、神のめぐみであり、自由な選びでした。しかし、カインは自分が顧みられなかったことに不満をもちました。カインがアベルを殺したのは、カインのアベルに対する競争心と嫉妬心でした。どんな人間の心の奥にも、これが深く根ざしています。カインは、自分の満足のいくように神がなされなったことを憤りました。自分のささげ物が顧みられても、顧みられなくても、なお神へ顔を向け、仰ぐことが真実の礼拝でした。もし不満があるなら、神に対して堂々と異議をとなえるか、自分の罪を治めるべきでした。アベルを殺しても何の解決にもならないのに、アベルをねたみ、無き者としようとしました。これが人間のみにくさです。自分が神にほめられたいと願う向上心の中にも罪は入り込みます。アベルを抹殺するカインと、死んでなお血の呪いを叫ぶアベルのいるこの世は、恐ろしい人間世界です。自己を生かすために他者の血を求める世界の悲惨を救うものは、他者のために自己の血を流すこともいとわない神の子イエス・キリストの十字架のあがないの血です。カインの住んだノドは、地理的位置は不明です。カインも、アダムお同じように人類の代表です。追放したカインを、神は守りつづけられます。

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