富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主に従い、信仰のコースを走りきる」 ヘブライの信徒への手紙12章1~13節

2018-07-29 01:11:39 | キリスト教

    ↑ オリンピック競技の最終種目のマラソンは、きわめて過酷なレースです。競技場に42.195Kmを走り抜いて戻ってくると、大勢の観客が見守る中で、声援を受けてゴールします。信仰生活はマラソンの競技にたとえられます。

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

        日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

    聖霊降臨節第11主日  2018年7月29日(日)    午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 532(やすかれ、わがこころよ)

交読詩編   94篇(主よ、報復の神として)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳) ヘブライの信徒への手紙12章1~13節(p.416)

説  教   「主に従い、信仰のコースを走りきる」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 507(主に従うことは)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

               次週礼拝 8月5日(日) 午後5時~5時50分

              聖書  エフェソの信徒への手紙5章21~6章4節

              説教題   「家族」

              讃美歌(21) 161 556 24 交読詩編127篇

   本日の聖書  ヘブライの信徒への手紙12章3~13節            

 12:1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 6なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 8もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 9更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

      本日の説教

 ヘブライ人への手紙という名称から、ヘブライ人に宛てられた手紙となっていますが、ヘブライ人とは、ユダヤ人を指す古い呼び名です。しかし必ずしも必ずしもパレスチナのユダヤ人キリスト者たちではなく、13・24の<イタリア出身の人たち>という句からイタリアないしローマの地域のユダヤ人キリスト者を予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、おそらく離散したユダヤ人キリスト者たちがいるローマの集会に宛てて書かれたものと見る味方が有力です。ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。<ヘブライ人への手紙>という名称は、後になってから、その内容から察してつけられた名です。いきなり本文で始まるので、手紙よりも論説や説教のようなものです。 

   この書は、長い間パウロの書簡とされてきましたが、近代の研究では、バルナバ(キプロス島出身のユダヤ人)やアポロ(アレキサンドリア出身のユダヤ人)、プリスキラ(ローマを退去してコリント、そしてエフェスに移住した、アクラの妻で、ポントス[現在のトルコの黒海に近い町]生まれのユダヤ人)といった人物を著者とする説が有力ですが、明らかではありません。

   著者は旧約聖書に深い理解をもち、教養の高い、ギリシャ語を用いる外国に住むユダヤ人であると思われます。著者はテモテを知っており(13・23)、パウロの信仰を継承しています。執筆年代は、ネロの迫害(64年)の経験が言及されていますし(10・32~34)、しかも新たな迫害[ドミティアヌ帝(在位81~96年)の迫害]が近づき、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られないところから、一世紀末が考えられ、80~90年頃と推定されます。執筆の場所としては、エフェソあたりが最も可能性が高いとされています。

   執筆の事情については、次のようなことが考えられます。宛先の教会の人たちが、信仰に入った初めの頃は<苦しい大きな戦いによく耐えた>(10・32)のですが、その後の信仰生活の中で、彼らの中には、集会から離れ(10・25)、異なった教えに迷わされ(13・9)、みだらな生活に陥る(13・4)者たちも出たので、このような危機的な状況を知った、かつてこの集会の指導者であった著者が、新たな迫害に備えて、この勧告の手紙を書き送ったと推定されます。  

 ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)と信仰者の忍耐を説く勧めになっています。

 今日の聖書の箇所は、見出しの説明によると「主による鍛錬」とあります。

  「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(12:1)

 11章では、旧約聖書の優れた人々の例を挙げて述べています。挙げられているのは、①アベル・・神の喜ぶささげものをしました。(アダムとエバの子、創世記4:4)、②エノク・・自分の息子が生まれてから、自発的に神とともに歩みました。(創5:21)、③ノア・・神に従う正しい人で箱舟を作り救われました。(創6:13)、④アブラハム・・永遠の神の都を待ち望みました。(創12:1)、⑤サラ・・アブラハムの妻、諸国民の母とされました。(創17:16)、⑥イサク・・アブラハムの息子、彼の子孫によって諸国民は祝福を得ます(創26:4)、⑦ヤコブ・・旅の途中、天に達する階段の正夢を見ました。(創28:10)、⑧ヨセフ・・ヤコブの息子で、エジプト全国の上に立つ王位に次ぐ地位を与えられ、ヤコブ一族をエジプトに迎えました。(創41:41)、⑨モーセ・・この世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取りました。(出エジプト記2:2)、⑩遊女ラハブ・・異邦人でありながらも、命懸けで神の側につきました。(ヨシュア2:1)、⑪ギデオン・・石橋を叩いて渡るような小心者が戦いの戦士として尊く用いられました。(士師記6:11)、⑫バラク・・女預言者デボラと共に戦った士師(士4:6)、⑬サムソン・・怪力の士師(士13:24)⑭エフタ・・娘を主に捧げた士師(士11:30)、⑮ダビデ・・少年の時、ペリシテ人の巨人ゴリアテを石一つで倒したイスラエル統一王国の神と国民に愛された王(サムエル記上17:46)、⑯サムエル・・主の預言者として、イスラエルの人々に信頼された。(サム上3:20)等、16人の個人名が挙げられています。また、32節bの<預言者たち>とは、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどを指し、35節の<女たち>は、サレプたのやもめ(列王記上17:22)、シュネムの女(王下4:34)を指しています。

   彼らの全てが、「信仰によって」神に示された道を歩み、それぞれの時代、それぞれの状況において、神の恵みの業をその目で見、自ら神の御業の体験者となり、新約の時代に生きるキリスト者を支え導く人々となり、何よりも神の御業を証言した人々でした。

   その信仰は、「この世界が神の言葉によって創造され」ている、見えない事実を確認し、神の約束を望み見て、ただ神のみに従いました。旧約時代の人々は、信仰によって忍耐と希望を持ち続け、私たちと共に全き祝福にあずかる日を待っています。

    このように旧約の信仰の証人たちのことが示され以上、次に求められるのはこれを模範としてキリスト者も、忍耐と希望をもって信仰生活のたたかいに耐えようではないか、という勧告です。<このようにおびただしい証人の群れに囲まれて>は、競技場の観衆にたとえて旧約の信仰の証人たちを指してます。信仰生活を徒競走にたとえて、まず身を軽くするために<すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て>、<自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではないか、と勧めています。

 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(12:2)

  11章では、旧約時代の多くの信仰の先人の実例を挙げて励ましたが、ここでは、その究極的な存在としてのイエスを挙げます。イエスにおいて信仰が開始し、イエスにおいて信仰が完成するのです。イエスはわたしたちのために救いの道を開き、実現された方です。信仰はこの方に始まり、この方において完成するのです。このようなイエスをひたすら<見つめながら>走る時、わたしたちは信仰の競争を走り抜くことができるのです。イエスは天にある喜び捨て、<恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び>、再び<神の玉座の右に>座る祝福を与えられました。

 「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(12:3)

 <気力を失い疲れ果て」るとは、今読者たちが陥ろうとしている状態を指しています。そうならないように、最後まで耐え抜かれ、今や神の王座の右に座られているイエスのことを<よく考えなさい>と命じています。どのような妨げも、受難に耐え忍ぶイエスに目を注ぐならば、信仰を揺るがすものにはならないのです。

 「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(12:4)

 信仰生活における苦難の意義を、イエスのたたかい、また旧約の殉教者たちの行為を背景として語ります。ここではボクシングのたとえが用いられます。この時代のグローブは金具で裏打ちされていたので、しばしば流血を招きました。あなたたちは、まだ<血を流すまで>迫害に対する信仰の闘いを経験していないが、その様な状況になるかも知れないことを警告しています。

 「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」』」(12:5-6)

 箴言3:11-12が引用されています。<子よ>は、ここではキリスト者に対する呼びかけとして引用されています。古代世界では一家の家長は子供と奴隷を教育するために体罰を加わえることもありました。神もその家族の一員であるキリスト者を子供として厳しく鍛えられるのです。<主の鍛錬を軽んじ>るとは、神が人間を鍛え、育てようとして<懲らしめて>ておられるのに、その意味を少しも悟らないことです。<力を落としてはいけない>と励まします。主の訓練としての苦難の意味を正しく理解しなさい、ということです。

 「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子(しょし)であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。」(12:8-9)

  ここでは地上の父との対比で普遍的な父としての神が示されます。<庶子>とは、法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子です。<肉の父>とは、わたしたちの肉体と生命の源である人間としての父を指します。<霊の父>とは、根源的には神御自身が生命を与える方であり、神のみがわたしたちの身体を生かす霊を送られる父であることを言います。鍛えてくれる肉の父を尊敬するなら、なおさら、霊の父に服従すべきであると勧告しています。

 「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」

(12:10)

 <しばらくの間>とは、肉の父の場合には子供が幼い時期ということになるが、霊の父の場合には一生涯を意味します。両方の父の訓練の方法は、肉の父の場合<自分の思うまま>であって、誤りを犯したり、情熱に駆られる可能性もあることが暗示されています。これに対して霊の父は<わたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で>訓練されるのです。

 「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(12:11)

 <鍛錬>の本当の意図は、結果を体験してから始めて分かるものです。ここには、人生が一種の霊的な訓練の場であるとの思想が見られます。よい人生は、人間の側において積極的に神と共に働くということがあって初めて達成されます。

 「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。」(12:12)

 12節は、イザヤ書35:3以下を引用して、苦難にあって弱っている心を励ましているのです。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。……』」鍛錬は、霊の父である神が、御自分の神聖にあずからせる目的があるのだからというわけです。

「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(12:13)

  13節は箴言4:26-27を念頭に置いています。「どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものになろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。」「足の不自由な人」が、「いやされるように」、すなわち、しっかりした足どりで、確信を持って歩むことが出来るように、先に元気になった人は、自分の足で、信仰において自立した者として、「まっすぐな道」、正しい道を歩きなさいと勧めています。<まっすぐな道を歩>くとは、神の民の行進というイメージから出ています。<足の不自由な人が踏み外す>とは、集会を遠ざかっている人たちのことが考えられています。その人たちの問題を全教会員が自分自身の問題として受けとめるべきことが、警告されています。

  信仰の競争は、おびただしい証人の群れかなる観衆に囲まれ、見守られ、声援を送られての競争です。信仰の競争には、絡みつく罪や重荷をイエス様に取り去っていただき、かなぐり捨てて、走らなければなりません。途中で苦しくなって脱落しないように、大切なことは、自分を見ないで、「信仰の創始者(導き手)であり、またその完成者でもあるイエスに目を注ぎながら走ることです。わたしの中に信仰を始めて下さった方は、また完成してくださる主イエスなのです。イエス様は、わたしと一緒になって走ってくださる方でもあるのです。なんと力強い助け手、導き手ではないでしょうか。

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