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小林りん×岩瀬大輔【前編】「人と違うことは良いことだと、小さい頃に親から教わった」賢者の知恵
岩瀬大輔さん(ライフネット生命代表取締役社長兼COO)、小林りんさん(インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢代表理事)2014年4月に「我が子の多様な生き方を支える教育論」をテーマにライフネット生命保険が主催するセミナーが開催された。軽井沢に全寮制インターナショナルスクールを開校する、インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢(ISAK)代表理事の小林りんさんと、ライフネット生命保険代表取締役社長兼COOの岩瀬大輔さんが対談を行った。その模様を3回に分けてお伝えする。
○「なんでそんなことをやるの?」と言われ続けた人生
岩瀬: 本日はゲストとして、インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢(ISAK)の小林りんさんをお招きしています。実はわれわれは非常に長いつき合いでして、大学1年生のときからの同級生です。
当時から彼女はキラキラ輝いていました。僕は男子校上がりでガリ勉をして東大に入ったものですから、彼女を中心とした華やかな軍団を遠くからずっと見ていました(笑)。それからお互い外資系企業に就職し、2年くらい経って2人とも辞めて、その後ベンチャーに入ったのです。
実はライフネット生命とISAKは姉妹みたいな関係にあります。ライフネット生命を作るきっかけになった投資家の谷家衛さん(あすかアセットマネジメントCEO)という方がいらっしゃって、僕がハーバード経営大学院へ留学中だったときに「一緒に新しい保険会社を作らないか」と声をかけてくださったのです。そして、現在ライフネット生命の会長である出口を引き合わせてくれた。それがライフネット生命起業のきっかけです。
その谷家さんに、あるとき僕は「谷家さんは将来何をやりたいんですか?」と聞いたことがあります。すると、「学校を作りたい」と。それからしばらく経ったところで、「実は岩瀬君、そろそろ学校作りを始めたいのだけど、誰か一緒に学校を作ってくれる人を紹介してくれない?」と言われて、そこで僕がりんちゃんを紹介したというわけです。
そういうわけで、谷家さんを通じてライフネット生命とISAKはいわば姉妹のような関係にあります。
さて、今日は「教育」というテーマですが、僕は教育の専門家ではないので、自分がどのように育ってきたかとか、親からどのように接してもらったかということを中心にお話をできれば、と思っています。僕個人としては、どうやったらりんちゃんのような自由な大人に育つのか、ということに何かのヒントがあるのではないかと思っています。
最初に僕の生い立ちから話をすると、父親が商社マンで小学校2年生のときにイギリスに行きました。6年生のときまでイギリスで暮らし、それから地元の千葉の中学校に入り、高校から私立の学校に通いました。
高校時代は、親がニューヨークに転勤になったため、夏休みにはいつもアメリカを訪れていましたね。大学へ進んで、大学を卒業したあとは外資系を転々として今に至るという感じです。
それで、いつの頃からか「人と同じことをやるのがすごくイヤだ」と思うようになりました。大学在学中に司法試験に合格したあと、司法研修所というところに行くのですが、ふとイヤになったのです。
自分と同じようにこれから750人もの人たちが司法研修所に行く。そこで750人のなかの1人に埋没してしまうのはすごくイヤだなと思って、弁護士の道ではなく、同期が3人しかいない外資系の会社に就職しました。その頃から、他の人ができる仕事は自分がやらなくてもいいんじゃないか、自分でしかできない仕事をしたい、と思うようになったのです。
うちの母親が割とそうなのですが、もともとは僕も「みんなと同じじゃないとイヤだ」という子供でした。
今でもすごく覚えているのが、小学校入学の際にみんなで画板を集団購入したときのことです。みんな白っぽいA4サイズの画板を買ったのですが、母親が買いそびれて、僕だけ茶色っぽいB5サイズの画板に。「みんなと一緒じゃないとイヤだ」とダダをこねたことを覚えています。
それからイギリスの小学校時代に、最初の遠足に「おにぎり」を持っていったら、イギリス人のクラスメイトにすごくいじめられたんですよ。おにぎりを包む海苔が黒いので、「そんな真っ黒なものを食べていて気持ちが悪い、あっち行け」と。
それで家に帰って、「お母さん、もう絶対おにぎりはイヤだから今度からサンドイッチにして」って言ったのを覚えています。なので、もともとは「みんなと同じでありたい」ととても強く思っている子供でした。
ちなみに、母親はすごくミーハーで、僕が生まれてくる前に「男だったらヒロミ、女だったら百恵にする」って言っていたくらいです(笑)。売れる前のアイドルを見ると「この子は絶対に売れる」と察知するのが自慢で、ピンクレディーが売れる前からずっと目をつけていたとかですね、そういう感じの人です(笑)。
だから、僕が司法試験に受かったのに、それを蹴って外資系に行くと言ったときは、すごく嫌がられました。「お願いだから弁護士になって。私、お友達に弁護士の母親だって自慢したいから」って言われて(笑)。
そういうふうに育ったのですが、イギリスの小学校では僕1人だけだったんですよ。なので、いつもイギリス人の友達に「僕はみんなと一緒だよね、英語も下手じゃないよね」と気にして心配していました。その頃の写真を見るとサッカーのチームの写真でもみんな金髪で僕1人だけ黒い髪だったり。そんな経験から「僕はみんなと一緒になれないんだな」と気づいたことが、今の性格に影響しているのかもしれないです。
ボストン・コンサルティング・グループに入ったときも、「なんで弁護士にならないの? もったいない」と言われました。ベンチャーに行ったときも「なんで? もったいない」と言われ、留学するときも20代後半だったので「もういまさら行く必要はないだろう」と外資系の人たちに言われました。帰ってきて保険会社を立ち上げるときも、「なんで保険会社なんかやるの?」と聞かれて、何だかずっと「なんでそんなことをやるの?」と言われ続けた人生でした。
今あらためて振り返ってみるとそういう生い立ちが今の自分につながっているのかな、と思っています。それでは、小林りんさんからまず一言お伺いしたいと思います。
○「りん」と名付けられた2つの理由
小林: 長すぎて誰も覚えられないと言われる「インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢」ですが、頭文字の「ISAK(アイザック)」だけ覚えていただければ幸いです(笑)。
いつもは生い立ちについて高校生のころから話をしているんですが、岩瀬君のお話を踏襲して、その前に遡ってお話をしたいと思います。今日は親御さんの方も多いと思います。なぜこんなふうに育ってしまったのかということを、私も振り返ってみたいと思います。
私の場合、旧姓は渡辺で「りん」というのは平仮名なんです。もう39歳になるんですが、39年前に平仮名でりんという名前の人なんて本当にいなかったんですね。それで小学校1年生の頃にこの名前のせいでいじめられました。私はもともと声が低いので「そんな声をしてりんなんておかしい」とか(笑)。
「私にそんなことを言われても困る」と思いながらいじめられていたんですが、小学校1年生の国語の授業で、「自分の名前の由来を親に聞いて作文にしましょう」という宿題があったんです。
名前のせいでいじめられていたものですから、親に「なんでこんな名前をつけたの」と聞いたら、二つの理由がありました。一つは「日本語でも英語でもスペイン語でも中国語でも、どんな国の言葉でも簡単に覚えやすい名前にしたかった」ということでした。
もう一つは「あえて平仮名にしたかった。なぜなら君の人生は、自分たち親のためにあるのではなくて、君自身のためにある。『倫理』の『りん』なのか、『凜々』の『りん』なのか、あるいは『チリン』という『りん』なのか、それを決めるのは自分自身なんだ」と言われたんですね。その他にも、あと五つくらい理由がありましたが、残りは忘れてしまってその二つだけを覚えているんです(笑)。
その理由を聞いて、「よくわからないけど、私は自由に生きていいんだな、日本だけじゃなくて世界中を見て好きなように生きていけばいいんだな」という思いを持ったことを覚えています。私の場合は人と違うことは良いことだというふうに小さい頃から親から教わったのかな、と思います。
それから、小学校から高校1年までは、ずっと公立の学校でした。うちは両親ともに市役所の職員という普通の家庭でしたので、高校1年生まで普通に地元の学校に行っていたんですが、高校1年のころ、「人と違うふうに生きたい」という気持ちが爆発しました。
今でもよく覚えているんですが、その年の8月に三者面談があって、そのときに私が最も苦手な物理の先生が担任でした。その先生に開口一番「あなたは本当に勉強を頑張ったほうがいい」と言われたんです。
私はそのときは学級委員もやっていましたし、バスケ部もやっていて、朝5時に起きて朝でも昼も夜もバスケばっかりやっていました。勉強でも文系科目を頑張ってやっていたんですが、そういう部分を一切見ずに、「君は物理をやったほうがいい」と言われて、疑問を持ち、学校を辞めることにしました(笑)。
この言い方だと相当飛躍がありますが、最終的に辞めてしまったんですね。そのときにたまたま経団連から奨学金をいただいて、カナダの全寮制の高校に行くというチャンスをいただいたんです。
それは学校にA4の藁半紙が1枚だけペロッと貼ってあったんです。高校1年の12月くらいに辞めようと思ったときには、もうAFSとかYFUとか大手の1年間の交換留学が全部締め切られていたんですね。
私はもう、学校を辞めて2年間行くユナイテッド・ワールド・カレッジ(UWC)の選択肢しかなかったんです。留学したことでそれまでとは全然違う人生が始まるんですが、この辺りはあとでまたご質問があれば詳しくお話をしたいと思います。
留学生活のなかでメキシコ人の親友みたいな人ができました。私も全然英語ができないままカナダに行ってしまったので、英語ができない者同士で仲良くなる傾向というのはあったと思います(笑)。メキシコ人の女の子と一緒に「いやー、英語ができないと辛いよね」という日々を過ごしながら仲良くなったんです。
高校2年、3年の夏休みにメキシコにある彼女の実家を訪ねたんですが、本当に貧困などを目の当たりにしました。ビックリしたのは、彼女の家の兄弟が誰も学校に行っていなかったんですよね。彼女だけが奨学金をもらって学校に行っていたんです。
彼女の実家では7人家族で住んでいて、雨水をタンクに貯めて洗濯したりしていて、本当にビックリしたんです。そこで「日本人に生まれたということは何て幸せなことだったんだろう」と初めて実感したんです。ここから私のいろいろなジャーニーが始まったのかな、と思います。
とはいえ、途中で外資系に行ったり、間にいろいろなことをしているんですが、先ほどお話があった谷家さんとの出会いがあったのが2007年のことです。当時、私はユニセフ(国際連合児童基金)に勤めていました。
「ストリートチルドレン」という言葉をお聞きになったことがあると思います。フィリピンという9000万人くらいの人口の国で、15万人とも20万人とも言われる子供たちが、路上で生まれて路上で生活しています。フィリピンでは日本と同じで初等教育は無料なんですが、それでも彼らは学校に行けないんです。なぜだと思いますか?
それは児童労働の犠牲になるからなんですね。学校に行っていると授業料は無料なんですが、それだと1円の稼ぎにもならないから、学校に行かずに働いているんです。「スモーキーマウンテン」という言葉がありますが、大きなゴミの山に行って朝から晩までゴミを集める。その中から、たとえば瓶の蓋は金属なのでそれを集めるとリサイクルができるんですね。
それを5kg、10kgと集めてやっと5円、10円稼げるという世界なんです。そのために、一日中ゴミ山に働きに行かされる子供たちがフィリピンには何万人といます。
そういう子供たちのために、週末や夜中にバンを出して、国連で識字教育という形で支援させていただくというのが私の仕事でした。私が17歳でメキシコに行ったときの衝撃から考えると、これはドリームジョブだったと思います。私は、こういう貧困層の人たちにこそ、教育を与えたいと思っていたんですね。
マニラを歩いていると、本当に貧富の差が激しくて、貧困層の子供たちがいる一方で、政治家や財閥の方はものすごい家に住んでいるんです。つまり、一度貧困に陥るとそこから出てこられない社会構造になっているんです。
現場に行ってからは、貧困層教育だけをやっていても何かが根本的に変わるのだろうか、という思いがすごく強くなりました。それが2007年くらいのことです。このときはまだ私はフィリピンにいたんですが、主人が日本にいたので毎月日本に帰ってくるたびに岩瀬君と会っては、いろんな話をしていました。
そんな中で「私はこんなことを悩んでいて、今やっていることがちょっと違うような気がするんだよね」と言っていたら、岩瀬君が先ほどお話が出た谷家さんとのディナーをセットアップしてくれたんです。
このご縁のお陰で谷家さんとの出会いがあり、私はそのときに何となくモヤモヤしていた気持ちが、「そうか、学校を作るんだ」と吹っ切れました。そういう気持ちで始まったのが、2008年からのプロジェクトです。
その学校では、リーダーを育てるということで、いろいろな社会のどんな立場でもどんな分野でもいいので、変革やアクションを起こせる、リーダーシップをとれる人を輩出したいという思いでやっています。
○子供たちは親の背中を見ている
岩瀬: 今ご両親の影響というお話が出ましたが、ご両親とも市役所にお勤めだったということでした。
でも、実はお母様がそのあと市長になられているんですよね。最近の話だったと思います。お母さんからどういう影響を受けたのかということと、何故市長になったのかということを伺いたいと思います。
小林: 私は父からも母からも絶大な影響を受けています。父は市役所を40歳で脱サラをして、しかも法学部を出ていたのに物理の勉強をし直して、超精密レーザーの輸入商社を起業するんです。その会社を十数年やったんですが、60歳になって「お祖父ちゃん業に専念する」と言って会社を辞めました。それから3年経ったら「お祖父ちゃん業にも飽きた」と言い出して、63歳でもう一回起業したんですね(笑)。
私に対して「好きに生きろ」と言ったそのまんまで、自分自身も好きに生きているな、という感じです。一方で、母は父のリスクを取り放題で好き勝手に生きた人生を支える地味な市役所の職員だったんです。そもそも福祉がやりたくて市役所に入ったんですね。
うちは別に裕福な家でもなかったので、週末に旅行に行った記憶がほとんどありません。しかし、週末になると多摩川のゴミを拾い、点字教室に行き、ボランティアセンターに行き・・・毎週末ボランティア活動をするのが家族の行事みたいになっていたことを覚えています。
10年前のことなので最近というほどでもないんですが、母が53歳のときだったと思いますが、前職の市長さんが汚職で逮捕されるという事件が起きたんです。東京都の多摩市です。突然選挙ということになり、市民の方々が実家にウワーッと大挙していらっしゃって「選挙に出てほしい」と言ってきたんですね。
私はもう結婚して実家を出ていたので、父親から「お母さんが選挙に出るらしい、絶対無理だ、大反対だ」と電話がかかってきて、私も「やめたほうがいい」と言ったんです。でも、市民の方が何回もいらっしゃって、結局選挙に出てしまったんです。それで候補者が5人立ったんですが、結果的にぶっちぎりで当選させていただいた(笑)。
30年間ボランティア活動をしてきたので、知っている市民の方の数が半端ないんですよ(笑)。たくさんの市民の方々をフェイストゥフェイスで知っているので。そういう人たちが投票してくれたというだけの話だと思うんですが、そういう経緯で市長になったということです。
岩瀬: 僕は親の影響ってすごく大きいと思っています。自分自身の例で言うと、父親がサラリーマンをずっとやっていましたが、彼は勉強がとても好きな人でした。語学の勉強が好きで、社会人になってから会社の研修で台湾と香港に1年ずつ行っていたのですが、いつも中国語を勉強していました。
でも、全然喋れなくて。チャイナタウンに行って中国語をひけらかそうと思って喋ったら、北京語じゃなくてお店の人はみんな広東語で、結局英語で会話したとか(笑)。
ただ、子供の頃の風景として、父親がダイニングテーブルでメガネのツルをかじりながら一生懸命語学の勉強をしていた姿を覚えているんです。だから、僕は「勉強しろ」と言葉で言われたというより、そういう父親の背中を見ることで育ってきたのかな。たぶん口で言うよりも、子供たちは親の背中を見ているんだな、ということを思いました。
もう一つ聞きたいことがあります。りんちゃんは英語がメチャクチャ上手なんですよ。僕は帰国子女なので話せますが、彼女は帰国子女でもないのに発音がネイティブなんですね。だけど、高校までまったく海外に行ったことがなかった。
旦那様もまたすごい方なんですよ。
彼は高校まで滋賀県の片田舎の高校に通っていたのに、東大に入り、そのあと外資系の証券会社で大活躍した、その筋では有名な投資家です。でも、英語を習ったのはたぶん大人になってからですよね。
りんちゃんみたいに高校で初めて留学したとか、大学からアメリカに行ってそれまではほとんど英語を学んでいなかったという人ってけっこういますよね。今の時代は何となく「子供の頃から英語をやらせなきゃ」と思う人が多いと思いますが、子供の英語教育に関してはどう思いますか?
○子供に英語教育は一切していない
小林: 私は学校をつくっているうえに、子供が4歳と0歳ですから、「どんな英語教育をしているんですか?」と聞かれるんですが、一切していないです。
自分が中学校に入って初めて受験英語に触れて、高校も受験英語だけ。留学することが決まってから慌ててベルリッツに3回通ったというような人間です。それでも死ぬ気になってやって、英語で会話する社会に入ってしまえば、意外と簡単に身に付いたという経験があります。
また、母国語でも何語でもいいんですが、自分のなかで論理的思考能力があることが非常に大事だと思います。そのうえで外国語を学ぶことが重要だというふうに感じています。
岩瀬: あとは、耳が良いのかもしれませんね。モノマネが上手い人は語学が上手いと言われますが。
小林: 音楽をやっているということもあるかも知れませんね。岩瀬君は小さい頃からジャズピアノをやっていて、アドリブでピアノを弾くというカッコよすぎてちょっと狡い感じの人なんです(笑)。ピアノはいつからやっているんですか?
岩瀬: ピアノは小学校の頃にやっていましたが、その話は脇においておきましょう(笑)。ぼくも語学は躍起になってやらなくても、中高時代からやっても間に合うと思いますね。
【中編につづく】
小林りん×岩瀬大輔【前編】「人と違うことは良いことだと、小さい頃に親から教わった」賢者の知恵
岩瀬大輔さん(ライフネット生命代表取締役社長兼COO)、小林りんさん(インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢代表理事)2014年4月に「我が子の多様な生き方を支える教育論」をテーマにライフネット生命保険が主催するセミナーが開催された。軽井沢に全寮制インターナショナルスクールを開校する、インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢(ISAK)代表理事の小林りんさんと、ライフネット生命保険代表取締役社長兼COOの岩瀬大輔さんが対談を行った。その模様を3回に分けてお伝えする。
○「なんでそんなことをやるの?」と言われ続けた人生
岩瀬: 本日はゲストとして、インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢(ISAK)の小林りんさんをお招きしています。実はわれわれは非常に長いつき合いでして、大学1年生のときからの同級生です。
当時から彼女はキラキラ輝いていました。僕は男子校上がりでガリ勉をして東大に入ったものですから、彼女を中心とした華やかな軍団を遠くからずっと見ていました(笑)。それからお互い外資系企業に就職し、2年くらい経って2人とも辞めて、その後ベンチャーに入ったのです。
実はライフネット生命とISAKは姉妹みたいな関係にあります。ライフネット生命を作るきっかけになった投資家の谷家衛さん(あすかアセットマネジメントCEO)という方がいらっしゃって、僕がハーバード経営大学院へ留学中だったときに「一緒に新しい保険会社を作らないか」と声をかけてくださったのです。そして、現在ライフネット生命の会長である出口を引き合わせてくれた。それがライフネット生命起業のきっかけです。
その谷家さんに、あるとき僕は「谷家さんは将来何をやりたいんですか?」と聞いたことがあります。すると、「学校を作りたい」と。それからしばらく経ったところで、「実は岩瀬君、そろそろ学校作りを始めたいのだけど、誰か一緒に学校を作ってくれる人を紹介してくれない?」と言われて、そこで僕がりんちゃんを紹介したというわけです。
そういうわけで、谷家さんを通じてライフネット生命とISAKはいわば姉妹のような関係にあります。
さて、今日は「教育」というテーマですが、僕は教育の専門家ではないので、自分がどのように育ってきたかとか、親からどのように接してもらったかということを中心にお話をできれば、と思っています。僕個人としては、どうやったらりんちゃんのような自由な大人に育つのか、ということに何かのヒントがあるのではないかと思っています。
最初に僕の生い立ちから話をすると、父親が商社マンで小学校2年生のときにイギリスに行きました。6年生のときまでイギリスで暮らし、それから地元の千葉の中学校に入り、高校から私立の学校に通いました。
高校時代は、親がニューヨークに転勤になったため、夏休みにはいつもアメリカを訪れていましたね。大学へ進んで、大学を卒業したあとは外資系を転々として今に至るという感じです。
それで、いつの頃からか「人と同じことをやるのがすごくイヤだ」と思うようになりました。大学在学中に司法試験に合格したあと、司法研修所というところに行くのですが、ふとイヤになったのです。
自分と同じようにこれから750人もの人たちが司法研修所に行く。そこで750人のなかの1人に埋没してしまうのはすごくイヤだなと思って、弁護士の道ではなく、同期が3人しかいない外資系の会社に就職しました。その頃から、他の人ができる仕事は自分がやらなくてもいいんじゃないか、自分でしかできない仕事をしたい、と思うようになったのです。
うちの母親が割とそうなのですが、もともとは僕も「みんなと同じじゃないとイヤだ」という子供でした。
今でもすごく覚えているのが、小学校入学の際にみんなで画板を集団購入したときのことです。みんな白っぽいA4サイズの画板を買ったのですが、母親が買いそびれて、僕だけ茶色っぽいB5サイズの画板に。「みんなと一緒じゃないとイヤだ」とダダをこねたことを覚えています。
それからイギリスの小学校時代に、最初の遠足に「おにぎり」を持っていったら、イギリス人のクラスメイトにすごくいじめられたんですよ。おにぎりを包む海苔が黒いので、「そんな真っ黒なものを食べていて気持ちが悪い、あっち行け」と。
それで家に帰って、「お母さん、もう絶対おにぎりはイヤだから今度からサンドイッチにして」って言ったのを覚えています。なので、もともとは「みんなと同じでありたい」ととても強く思っている子供でした。
ちなみに、母親はすごくミーハーで、僕が生まれてくる前に「男だったらヒロミ、女だったら百恵にする」って言っていたくらいです(笑)。売れる前のアイドルを見ると「この子は絶対に売れる」と察知するのが自慢で、ピンクレディーが売れる前からずっと目をつけていたとかですね、そういう感じの人です(笑)。
だから、僕が司法試験に受かったのに、それを蹴って外資系に行くと言ったときは、すごく嫌がられました。「お願いだから弁護士になって。私、お友達に弁護士の母親だって自慢したいから」って言われて(笑)。
そういうふうに育ったのですが、イギリスの小学校では僕1人だけだったんですよ。なので、いつもイギリス人の友達に「僕はみんなと一緒だよね、英語も下手じゃないよね」と気にして心配していました。その頃の写真を見るとサッカーのチームの写真でもみんな金髪で僕1人だけ黒い髪だったり。そんな経験から「僕はみんなと一緒になれないんだな」と気づいたことが、今の性格に影響しているのかもしれないです。
ボストン・コンサルティング・グループに入ったときも、「なんで弁護士にならないの? もったいない」と言われました。ベンチャーに行ったときも「なんで? もったいない」と言われ、留学するときも20代後半だったので「もういまさら行く必要はないだろう」と外資系の人たちに言われました。帰ってきて保険会社を立ち上げるときも、「なんで保険会社なんかやるの?」と聞かれて、何だかずっと「なんでそんなことをやるの?」と言われ続けた人生でした。
今あらためて振り返ってみるとそういう生い立ちが今の自分につながっているのかな、と思っています。それでは、小林りんさんからまず一言お伺いしたいと思います。
○「りん」と名付けられた2つの理由
小林: 長すぎて誰も覚えられないと言われる「インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢」ですが、頭文字の「ISAK(アイザック)」だけ覚えていただければ幸いです(笑)。
いつもは生い立ちについて高校生のころから話をしているんですが、岩瀬君のお話を踏襲して、その前に遡ってお話をしたいと思います。今日は親御さんの方も多いと思います。なぜこんなふうに育ってしまったのかということを、私も振り返ってみたいと思います。
私の場合、旧姓は渡辺で「りん」というのは平仮名なんです。もう39歳になるんですが、39年前に平仮名でりんという名前の人なんて本当にいなかったんですね。それで小学校1年生の頃にこの名前のせいでいじめられました。私はもともと声が低いので「そんな声をしてりんなんておかしい」とか(笑)。
「私にそんなことを言われても困る」と思いながらいじめられていたんですが、小学校1年生の国語の授業で、「自分の名前の由来を親に聞いて作文にしましょう」という宿題があったんです。
名前のせいでいじめられていたものですから、親に「なんでこんな名前をつけたの」と聞いたら、二つの理由がありました。一つは「日本語でも英語でもスペイン語でも中国語でも、どんな国の言葉でも簡単に覚えやすい名前にしたかった」ということでした。
もう一つは「あえて平仮名にしたかった。なぜなら君の人生は、自分たち親のためにあるのではなくて、君自身のためにある。『倫理』の『りん』なのか、『凜々』の『りん』なのか、あるいは『チリン』という『りん』なのか、それを決めるのは自分自身なんだ」と言われたんですね。その他にも、あと五つくらい理由がありましたが、残りは忘れてしまってその二つだけを覚えているんです(笑)。
その理由を聞いて、「よくわからないけど、私は自由に生きていいんだな、日本だけじゃなくて世界中を見て好きなように生きていけばいいんだな」という思いを持ったことを覚えています。私の場合は人と違うことは良いことだというふうに小さい頃から親から教わったのかな、と思います。
それから、小学校から高校1年までは、ずっと公立の学校でした。うちは両親ともに市役所の職員という普通の家庭でしたので、高校1年生まで普通に地元の学校に行っていたんですが、高校1年のころ、「人と違うふうに生きたい」という気持ちが爆発しました。
今でもよく覚えているんですが、その年の8月に三者面談があって、そのときに私が最も苦手な物理の先生が担任でした。その先生に開口一番「あなたは本当に勉強を頑張ったほうがいい」と言われたんです。
私はそのときは学級委員もやっていましたし、バスケ部もやっていて、朝5時に起きて朝でも昼も夜もバスケばっかりやっていました。勉強でも文系科目を頑張ってやっていたんですが、そういう部分を一切見ずに、「君は物理をやったほうがいい」と言われて、疑問を持ち、学校を辞めることにしました(笑)。
この言い方だと相当飛躍がありますが、最終的に辞めてしまったんですね。そのときにたまたま経団連から奨学金をいただいて、カナダの全寮制の高校に行くというチャンスをいただいたんです。
それは学校にA4の藁半紙が1枚だけペロッと貼ってあったんです。高校1年の12月くらいに辞めようと思ったときには、もうAFSとかYFUとか大手の1年間の交換留学が全部締め切られていたんですね。
私はもう、学校を辞めて2年間行くユナイテッド・ワールド・カレッジ(UWC)の選択肢しかなかったんです。留学したことでそれまでとは全然違う人生が始まるんですが、この辺りはあとでまたご質問があれば詳しくお話をしたいと思います。
留学生活のなかでメキシコ人の親友みたいな人ができました。私も全然英語ができないままカナダに行ってしまったので、英語ができない者同士で仲良くなる傾向というのはあったと思います(笑)。メキシコ人の女の子と一緒に「いやー、英語ができないと辛いよね」という日々を過ごしながら仲良くなったんです。
高校2年、3年の夏休みにメキシコにある彼女の実家を訪ねたんですが、本当に貧困などを目の当たりにしました。ビックリしたのは、彼女の家の兄弟が誰も学校に行っていなかったんですよね。彼女だけが奨学金をもらって学校に行っていたんです。
彼女の実家では7人家族で住んでいて、雨水をタンクに貯めて洗濯したりしていて、本当にビックリしたんです。そこで「日本人に生まれたということは何て幸せなことだったんだろう」と初めて実感したんです。ここから私のいろいろなジャーニーが始まったのかな、と思います。
とはいえ、途中で外資系に行ったり、間にいろいろなことをしているんですが、先ほどお話があった谷家さんとの出会いがあったのが2007年のことです。当時、私はユニセフ(国際連合児童基金)に勤めていました。
「ストリートチルドレン」という言葉をお聞きになったことがあると思います。フィリピンという9000万人くらいの人口の国で、15万人とも20万人とも言われる子供たちが、路上で生まれて路上で生活しています。フィリピンでは日本と同じで初等教育は無料なんですが、それでも彼らは学校に行けないんです。なぜだと思いますか?
それは児童労働の犠牲になるからなんですね。学校に行っていると授業料は無料なんですが、それだと1円の稼ぎにもならないから、学校に行かずに働いているんです。「スモーキーマウンテン」という言葉がありますが、大きなゴミの山に行って朝から晩までゴミを集める。その中から、たとえば瓶の蓋は金属なのでそれを集めるとリサイクルができるんですね。
それを5kg、10kgと集めてやっと5円、10円稼げるという世界なんです。そのために、一日中ゴミ山に働きに行かされる子供たちがフィリピンには何万人といます。
そういう子供たちのために、週末や夜中にバンを出して、国連で識字教育という形で支援させていただくというのが私の仕事でした。私が17歳でメキシコに行ったときの衝撃から考えると、これはドリームジョブだったと思います。私は、こういう貧困層の人たちにこそ、教育を与えたいと思っていたんですね。
マニラを歩いていると、本当に貧富の差が激しくて、貧困層の子供たちがいる一方で、政治家や財閥の方はものすごい家に住んでいるんです。つまり、一度貧困に陥るとそこから出てこられない社会構造になっているんです。
現場に行ってからは、貧困層教育だけをやっていても何かが根本的に変わるのだろうか、という思いがすごく強くなりました。それが2007年くらいのことです。このときはまだ私はフィリピンにいたんですが、主人が日本にいたので毎月日本に帰ってくるたびに岩瀬君と会っては、いろんな話をしていました。
そんな中で「私はこんなことを悩んでいて、今やっていることがちょっと違うような気がするんだよね」と言っていたら、岩瀬君が先ほどお話が出た谷家さんとのディナーをセットアップしてくれたんです。
このご縁のお陰で谷家さんとの出会いがあり、私はそのときに何となくモヤモヤしていた気持ちが、「そうか、学校を作るんだ」と吹っ切れました。そういう気持ちで始まったのが、2008年からのプロジェクトです。
その学校では、リーダーを育てるということで、いろいろな社会のどんな立場でもどんな分野でもいいので、変革やアクションを起こせる、リーダーシップをとれる人を輩出したいという思いでやっています。
○子供たちは親の背中を見ている
岩瀬: 今ご両親の影響というお話が出ましたが、ご両親とも市役所にお勤めだったということでした。
でも、実はお母様がそのあと市長になられているんですよね。最近の話だったと思います。お母さんからどういう影響を受けたのかということと、何故市長になったのかということを伺いたいと思います。
小林: 私は父からも母からも絶大な影響を受けています。父は市役所を40歳で脱サラをして、しかも法学部を出ていたのに物理の勉強をし直して、超精密レーザーの輸入商社を起業するんです。その会社を十数年やったんですが、60歳になって「お祖父ちゃん業に専念する」と言って会社を辞めました。それから3年経ったら「お祖父ちゃん業にも飽きた」と言い出して、63歳でもう一回起業したんですね(笑)。
私に対して「好きに生きろ」と言ったそのまんまで、自分自身も好きに生きているな、という感じです。一方で、母は父のリスクを取り放題で好き勝手に生きた人生を支える地味な市役所の職員だったんです。そもそも福祉がやりたくて市役所に入ったんですね。
うちは別に裕福な家でもなかったので、週末に旅行に行った記憶がほとんどありません。しかし、週末になると多摩川のゴミを拾い、点字教室に行き、ボランティアセンターに行き・・・毎週末ボランティア活動をするのが家族の行事みたいになっていたことを覚えています。
10年前のことなので最近というほどでもないんですが、母が53歳のときだったと思いますが、前職の市長さんが汚職で逮捕されるという事件が起きたんです。東京都の多摩市です。突然選挙ということになり、市民の方々が実家にウワーッと大挙していらっしゃって「選挙に出てほしい」と言ってきたんですね。
私はもう結婚して実家を出ていたので、父親から「お母さんが選挙に出るらしい、絶対無理だ、大反対だ」と電話がかかってきて、私も「やめたほうがいい」と言ったんです。でも、市民の方が何回もいらっしゃって、結局選挙に出てしまったんです。それで候補者が5人立ったんですが、結果的にぶっちぎりで当選させていただいた(笑)。
30年間ボランティア活動をしてきたので、知っている市民の方の数が半端ないんですよ(笑)。たくさんの市民の方々をフェイストゥフェイスで知っているので。そういう人たちが投票してくれたというだけの話だと思うんですが、そういう経緯で市長になったということです。
岩瀬: 僕は親の影響ってすごく大きいと思っています。自分自身の例で言うと、父親がサラリーマンをずっとやっていましたが、彼は勉強がとても好きな人でした。語学の勉強が好きで、社会人になってから会社の研修で台湾と香港に1年ずつ行っていたのですが、いつも中国語を勉強していました。
でも、全然喋れなくて。チャイナタウンに行って中国語をひけらかそうと思って喋ったら、北京語じゃなくてお店の人はみんな広東語で、結局英語で会話したとか(笑)。
ただ、子供の頃の風景として、父親がダイニングテーブルでメガネのツルをかじりながら一生懸命語学の勉強をしていた姿を覚えているんです。だから、僕は「勉強しろ」と言葉で言われたというより、そういう父親の背中を見ることで育ってきたのかな。たぶん口で言うよりも、子供たちは親の背中を見ているんだな、ということを思いました。
もう一つ聞きたいことがあります。りんちゃんは英語がメチャクチャ上手なんですよ。僕は帰国子女なので話せますが、彼女は帰国子女でもないのに発音がネイティブなんですね。だけど、高校までまったく海外に行ったことがなかった。
旦那様もまたすごい方なんですよ。
彼は高校まで滋賀県の片田舎の高校に通っていたのに、東大に入り、そのあと外資系の証券会社で大活躍した、その筋では有名な投資家です。でも、英語を習ったのはたぶん大人になってからですよね。
りんちゃんみたいに高校で初めて留学したとか、大学からアメリカに行ってそれまではほとんど英語を学んでいなかったという人ってけっこういますよね。今の時代は何となく「子供の頃から英語をやらせなきゃ」と思う人が多いと思いますが、子供の英語教育に関してはどう思いますか?
○子供に英語教育は一切していない
小林: 私は学校をつくっているうえに、子供が4歳と0歳ですから、「どんな英語教育をしているんですか?」と聞かれるんですが、一切していないです。
自分が中学校に入って初めて受験英語に触れて、高校も受験英語だけ。留学することが決まってから慌ててベルリッツに3回通ったというような人間です。それでも死ぬ気になってやって、英語で会話する社会に入ってしまえば、意外と簡単に身に付いたという経験があります。
また、母国語でも何語でもいいんですが、自分のなかで論理的思考能力があることが非常に大事だと思います。そのうえで外国語を学ぶことが重要だというふうに感じています。
岩瀬: あとは、耳が良いのかもしれませんね。モノマネが上手い人は語学が上手いと言われますが。
小林: 音楽をやっているということもあるかも知れませんね。岩瀬君は小さい頃からジャズピアノをやっていて、アドリブでピアノを弾くというカッコよすぎてちょっと狡い感じの人なんです(笑)。ピアノはいつからやっているんですか?
岩瀬: ピアノは小学校の頃にやっていましたが、その話は脇においておきましょう(笑)。ぼくも語学は躍起になってやらなくても、中高時代からやっても間に合うと思いますね。
【中編につづく】
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