フランスで禅がブームらしい。
日頃気付きにくい内面の声を聞くことによって、今自分に必要なことは何か?見極めることができるかもしれませんね。それは、幸福な恋愛のはじめの第1歩に・・・
禅とは?
内面の言葉にならない意志を宇宙の力と融合し
自らの存在そのものを「無」の境地へ誘い
「有」として実存する日常の自分の姿を顧みる精神を養う技術である。
言い換えれば自分を見つめ直す
~社会という名の枠組みの中で矮小化された「個」の存在理由を
そのフィールドごと社会を超越した視点に置き換え見直す技術である~
その新たな世界には時空すら意味をなさない広大なフィールドが広がっている・・・
簡単に言えば、物事の一時的な負の要素など、一連の人間関係や時間軸でのみ考えれば
精神的なダメージは大きいかもしれないが
視点を変えれば
「失恋も、上司の小言も、夢破れた敗北なども・・・」
たいしたことではない。
生きていく限りそこに、新たなチャンスがある、新たな場が生じる、新たな出会いがある
「今」という時間軸にとらわれすぎている現代人にとって
それを超越する禅的な精神フィールドが与える、生命力の浄化と希望が
いかに大きな希望を呼び込む装置であるか、理解できるのではないだろうか。
瞑想
方法論としてはひたすら座禅~瞑想を繰り返す・・・
中国の禅の祖 達磨大師はひたすら9年間 壁に向かい座禅したという。
この座禅の際、人は何を思うのだろう?
単に煩悩を滅却するためではない、なぜなら煩悩を滅却するという欲が働けばすでにそれも
煩悩を滅却したい という新たな煩悩の誕生でしかないからである。。
禅の応用
本格的な「禅」の修行はちょっと・・・と言う人には、禅のスピリッツを適用した自己診断が可能な方法もあります。
以前、禅スピリッツと恋愛に関する入門編として禅スピリッツと恋愛道と言う記事を書きました、そちらのほうも読んでみて下さい。
また、その記事から。
禅のスピリッツをイメージから判断し、今、自分がどのような精神状態にあるのか?
判断できる記事をその続編 スピリッツ系占い1号 で書いていますので、診断してみて下さい。
このように、禅のスピリッツを応用し、自己診断する方法が今、色々と研究されています。
今後、さらにディープな考察が可能な方法論が開発させていくでしょう。
その応用には無限の可能性があるような気がします。楽しみですね!
SEXと恋愛
どのようなイメージが元になり個人それぞれのSEXのイメージが生成されただろう?
■実体験
■バーチャル
■うわさ・・・
など、その私的ルーツは千差万別でしかも、様々なイメージの混合体である。
この生成過程は恋愛と酷似している。
基本的にSEXと恋愛は切り離して考えられるものではないのであるから当然かもしれない。
SEXの本能的欲求が恋愛の希求を呼び込む これが生命の果実で言うところの果皮である。
しかし、その禁断の果実には、やはり実もある、種もある・・・
その実とは?
恋愛の発端を単なるSEXの本能的欲求としてとらえず、より精神的な渇望の元に寄り添い合う心の寄りどころを求めるための、他者との精神的融合を求める気持ちを発端として考えていく姿勢。
そこに「禅」に通じる「新たな恋愛観」が生じる (そして、混迷する現代社会においてはそれは必要なものであるかもしれない・・・)
SEXは子孫を絶やさないという人類の生物としての存続を維持するための装置であった。
恋愛はその装置を作動させるための引き金であった。
■原SEX ⇔ 原恋愛
このような構図は、現代社会においてはほとんど意識されることはない。
社会が形成され、文明が生じ、文化が芽生え、
これらの原型には元の姿・目的とは異なる形がすでに根付いてしまっている。
SEXはSEXとして楽しむように
恋愛は恋愛として楽しむように
それぞれ、変化した。
あらゆる文化の価値はその多様性にある
同時に人間の精神的欲求も多様化したわけである。
それに対し、老朽化した固定観念に縛られたSEXなり恋愛観なりが精神的な拘束力を持っていると、
そこにストレスが生じてもしかたない。
問題は、恋愛がひとりでは成立しないので、パートナーとの、こういった多様性に関する理解~認識度の調和がとれるか否か?である。
なぜか、相手に惹かれ恋に落ちたとしても・・
SEX~恋愛観
こういった価値観があまりにかけ離れているとしたら、それは悲惨な結果にしかならなくて当然であるのかもしれない・・・
相手選びの基本
自分で選んでいるようで、実はもっと大きな力で選ばされているような感覚?
を出会いに感じることはないだろうか?
■相手がどのような、精神文化レベルでの恋愛(SEX)を求めるか?
■自分がどのような、精神文化レベルでの恋愛(SEX)を求めているのか?
この見極めのシンクロがとれなければ、精神的に恋愛関係は、癒しへとは繋がることはないだろう。
やりがいのない恋愛~SEXにならざるを得ないかもしれない。
そこで、まず、
自分が求めるもの を見極める
なぜなら、自分が求めるものが何であるのかも、わかろうとせずに
相手の求めている物が何であるのか?を知ることは不可能である。
もちろん、自分の求めるものについても、
相手が求めるものについても、
最終的な答を得られなくて良い。
この答を得ることもまた、不可能である。
しかし、だからといって、
■答を得ようと自ら精神を磨き、答に近づこうとする努力を怠らない精神的姿勢と
■はなっから、答を求めようとしない精神的姿勢とが
同じ、安らぎを内面に生成できるはずはない。
内面に安らぎを生成し、その広大な内面の浄化された宇宙を際限なく広げていく「心の鍛錬」は
この時点で「禅の基本姿勢」に通ずるのではないだろうか?
このような「心の鍛錬」を互いに持ち合わせた恋愛が幸福な恋愛の第1歩を歩み出す可能性を最も強く内包しているはずである。
互いの存在そのものを高めあえるような恋愛はここから始まるのである。
存在価値を高め合うとあえて表現しないのは、この「高め合う」という言葉が示す定義に誤解が生じやすいからである。
高め合うといっても、商品価格が値上がりするたぐいの高め合うではない。
より深く、互いが自分にとって相手の存在価値を深く理解し合う
と言うことである。
「個」の存在を、まず認めるのは「個」である。
その「個」は自己に始まり、他者に発展していく、
その最小単位が 1対1 の人間関係である。
恋愛は、互いが認め合う最小単位の人間関係のひとつである。
恋愛のまえに・・・
もう一つの、最小単位の人間関係
VS 自分
この見極めをある程度、日常的に行えば・・
恋愛のアドバンテージが得られるに違いない。
少なくとも、闇雲な片思いで心を焦がしすぎる(笑)、ことはなくなるのではないだろうか・・・
「合わないのだから、仕方ない」
この内面的決定は単なるあきらめではない。
心のステップアップである。
http://allabout.co.jp/interest/fortunetelling/closeup/CU20070819A/index.htm
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