―1999年12月
いとしい子供たち、
人生は二つのことがらから成り立っています。その第一は行為をおこなうこと。次にはその行為の結果を刈り取る(体験する)ことです。私たちが行為をおこなうのに正しい心構えをはぐくみ、行為の結果を体験するのにも正し心構えをはぐくむことができるなら、人生は大きな喜びと平安に満ちたものになるでしょう。
人生では私たちが望んだことが実際には起こらなくて、夢にも望まなかったようなことが起きる、ということがよく見受けられますね。それは、自分の努力以外にいくつかの条件が整わなくては行為の結果を得られないからです。すべての条件が満たされたときにはじめて望ましい結果が訪れるのです。けれども、私たちが自分でコントロールできるのはどのように行為をなすか、それだけです。だから私たちにできるのは、自分の力せい一杯にものごとを行い、結果については気にやまないことです。それでクリシュナ神はバガヴァッド・ギータのなかで「結果を期待しないで行為すること」を説いたのです。働いても給料をもらってはいけないと言っているのではありません。行為をなすときに、それで何が得られるかに気をとらわれずに行うことができれば、務めを効率的に果たすことができるようになります。そして結果は自然とやってくるのです。
たとえば試験で学生が良い答案を書いても、もし採点をする教授や点数を記録する事務員がうっかりしたならば、望んだ点数を得ることはできません。ある学生が試験のために大変よく勉強して満足のゆく答案を仕上げることができました。でも結果が公表されると、この学生の成績は合格点すれすれのものでした。優秀点を予想していた彼は、答案の再審査を申請しました。そして再審査の結果、優秀点をもらうことができました。何が起こったのでしょう? 尋ねてみると、最初に答案を採点した教授はその時ちょうどご夫人が誰かと駆け落ちしてしまったために精神状態が錯乱してしまっていたのでした。これがまさに、行為をなすにあたってとても良くできたとしても結果は自分の手の及ばないような他のいろいろな要因に左右されるとアンマが言っていることなのです。私たちの成功は自分の手の及ばないいくつかのことによって決定されるのです。誰かが道路を横断するのに注意深く渡ったとしても、乱暴な運転をする車にはねられることだってありえるのです。
そういうことを思えば、私たちの行為の結果を左右するいろいろな要因が良い方向に成就するためには、神の恩寵が必要だとわかるのです。この恩寵を受けとるいちばん単純な方法は、私たちがどんな行為をなすときにでもそれを神への礼拝として行うということなのです。自分の行為すべてを神への礼拝として見ることができればそのときその行為を細心の注意深さをもって行うようになるでしょう。
礼拝するとき私たちは神に一番良いものだけを捧げます。腐った果物やしおれた花は捧げないでしょう?礼拝に汚れた道具は決して使いません。それと同じように自分の行為の一つひとつを神への礼拝とするならば、その時、良い行為のみをなすことができるようになります。そしてついには私たちの行為すべてが崇高で無私のものとなり、悪い行いは神に捧げるには合いませんから、しないようになります。
礼拝をするにあたって一番大切なのは謙虚さを持つということです。自分の行為を礼拝とするならば自己中心的には決してなりません。なにか成功を得ることができても、それは自分の力の証しではなく神の恩寵であるととるようになります。礼拝のプージャの後に頂くものは何であれ神からのプラサードとなりますから、行為の結果が出た後でも謙虚な気持ちを忘れてはいけません。礼拝が終わった後でプラサードの質が悪いとかこだわりませんね。そして神からの祝福としていただきますね。何かが失敗に終わるときにも、それも神からのプラサードだと受け入れます。でも、失敗の後にこれが神の意志だと受け入れて、怠惰に座ったまま過ごせと言うのではありませんよ。成功の可能性があるならばもう一度やってみるのです。誠心誠意の努力をしてそれでもまた失敗に終わるならば、それを神のご意志として受け入れましょう。成功は神の恩寵として、失敗は神のご意志として受け入れるならば、成功に得意になることもなく失敗に打ちひしがれることもありません。
失敗も主のご意志であると受け入れられれば、なんて自分は不幸なんだろうなどと思いふけることはありません。失敗であってもそれはその時自分の成長のために通過しなければならない必要な体験なのだと受け入れるようにならねばなりません。むしろ自分のプララブダ、つまり今生に出てきているカルマが過ぎ去ったことを喜ぶべきです。それを教訓とみなして人生を前進していけるようそれに学ばなければなりません。
適切な識別力があれば、人生におけるどんな状況も私たちのために役立つものと変えることができます。行為をなすための正しい心構えを持つことで、私たちは束縛や倦怠から解放されます。正しい心構えがあれば自分の務めを勤勉かつ情熱をもって行うことができるでしょう。そこに神の恩寵が加わったときに成功が確実に訪れます。いずれにしても絶望してはいけません。神はいつでも、正しい心構えを持ち真摯な努力を重ねる人のそばにいます。成功もまたそのような人のものなのです。
インドのアシュラムで毎月出されている
月刊誌Matruvani 1999年11月号より
http://amma.jp/web/contents/talks/kotoba9912.htm
いとしい子供たち、
人生は二つのことがらから成り立っています。その第一は行為をおこなうこと。次にはその行為の結果を刈り取る(体験する)ことです。私たちが行為をおこなうのに正しい心構えをはぐくみ、行為の結果を体験するのにも正し心構えをはぐくむことができるなら、人生は大きな喜びと平安に満ちたものになるでしょう。
人生では私たちが望んだことが実際には起こらなくて、夢にも望まなかったようなことが起きる、ということがよく見受けられますね。それは、自分の努力以外にいくつかの条件が整わなくては行為の結果を得られないからです。すべての条件が満たされたときにはじめて望ましい結果が訪れるのです。けれども、私たちが自分でコントロールできるのはどのように行為をなすか、それだけです。だから私たちにできるのは、自分の力せい一杯にものごとを行い、結果については気にやまないことです。それでクリシュナ神はバガヴァッド・ギータのなかで「結果を期待しないで行為すること」を説いたのです。働いても給料をもらってはいけないと言っているのではありません。行為をなすときに、それで何が得られるかに気をとらわれずに行うことができれば、務めを効率的に果たすことができるようになります。そして結果は自然とやってくるのです。
たとえば試験で学生が良い答案を書いても、もし採点をする教授や点数を記録する事務員がうっかりしたならば、望んだ点数を得ることはできません。ある学生が試験のために大変よく勉強して満足のゆく答案を仕上げることができました。でも結果が公表されると、この学生の成績は合格点すれすれのものでした。優秀点を予想していた彼は、答案の再審査を申請しました。そして再審査の結果、優秀点をもらうことができました。何が起こったのでしょう? 尋ねてみると、最初に答案を採点した教授はその時ちょうどご夫人が誰かと駆け落ちしてしまったために精神状態が錯乱してしまっていたのでした。これがまさに、行為をなすにあたってとても良くできたとしても結果は自分の手の及ばないような他のいろいろな要因に左右されるとアンマが言っていることなのです。私たちの成功は自分の手の及ばないいくつかのことによって決定されるのです。誰かが道路を横断するのに注意深く渡ったとしても、乱暴な運転をする車にはねられることだってありえるのです。
そういうことを思えば、私たちの行為の結果を左右するいろいろな要因が良い方向に成就するためには、神の恩寵が必要だとわかるのです。この恩寵を受けとるいちばん単純な方法は、私たちがどんな行為をなすときにでもそれを神への礼拝として行うということなのです。自分の行為すべてを神への礼拝として見ることができればそのときその行為を細心の注意深さをもって行うようになるでしょう。
礼拝するとき私たちは神に一番良いものだけを捧げます。腐った果物やしおれた花は捧げないでしょう?礼拝に汚れた道具は決して使いません。それと同じように自分の行為の一つひとつを神への礼拝とするならば、その時、良い行為のみをなすことができるようになります。そしてついには私たちの行為すべてが崇高で無私のものとなり、悪い行いは神に捧げるには合いませんから、しないようになります。
礼拝をするにあたって一番大切なのは謙虚さを持つということです。自分の行為を礼拝とするならば自己中心的には決してなりません。なにか成功を得ることができても、それは自分の力の証しではなく神の恩寵であるととるようになります。礼拝のプージャの後に頂くものは何であれ神からのプラサードとなりますから、行為の結果が出た後でも謙虚な気持ちを忘れてはいけません。礼拝が終わった後でプラサードの質が悪いとかこだわりませんね。そして神からの祝福としていただきますね。何かが失敗に終わるときにも、それも神からのプラサードだと受け入れます。でも、失敗の後にこれが神の意志だと受け入れて、怠惰に座ったまま過ごせと言うのではありませんよ。成功の可能性があるならばもう一度やってみるのです。誠心誠意の努力をしてそれでもまた失敗に終わるならば、それを神のご意志として受け入れましょう。成功は神の恩寵として、失敗は神のご意志として受け入れるならば、成功に得意になることもなく失敗に打ちひしがれることもありません。
失敗も主のご意志であると受け入れられれば、なんて自分は不幸なんだろうなどと思いふけることはありません。失敗であってもそれはその時自分の成長のために通過しなければならない必要な体験なのだと受け入れるようにならねばなりません。むしろ自分のプララブダ、つまり今生に出てきているカルマが過ぎ去ったことを喜ぶべきです。それを教訓とみなして人生を前進していけるようそれに学ばなければなりません。
適切な識別力があれば、人生におけるどんな状況も私たちのために役立つものと変えることができます。行為をなすための正しい心構えを持つことで、私たちは束縛や倦怠から解放されます。正しい心構えがあれば自分の務めを勤勉かつ情熱をもって行うことができるでしょう。そこに神の恩寵が加わったときに成功が確実に訪れます。いずれにしても絶望してはいけません。神はいつでも、正しい心構えを持ち真摯な努力を重ねる人のそばにいます。成功もまたそのような人のものなのです。
インドのアシュラムで毎月出されている
月刊誌Matruvani 1999年11月号より
http://amma.jp/web/contents/talks/kotoba9912.htm
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