ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



善悪なんていうけど、悪なんて、善の不在でしょ。実体はないんじゃないの? なーんて哲学的疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「仏は光なり」という場合の光とは、どのような意味なのでしょうか。光の概念を考える場合、その対極にあるものを持ってきて、光の性質を浮き上がらせるという方法もあります。
 光の反対は「闇」だと言われています。そこで、闇の属性について考えてみると、まず、暗さを伴うということがあります。また、見えない、陰湿である、希望がない、生きる活力がないといったようなことも、闇の属性として考えられるでしょう。
 そうすると、光はそれらとは反対のものだということになります。そこで、光の属性を考えてみると、光が光であるゆえんは、まず、明るさを帯びているということです。しかも、単に明るいだけではなく、生命のエネルギー源であるところの、さまざまな意志や意図、性格、性質が宿っていると言えるのです。
 光と闇という話をしましたが、ここで問題となるのは、古くからある一元論と二元論の問題です。「闇は本来あるのかないのか」ということです。
 闇という存在は、それ自体、消極的存在であることは事実です。闇というものが放射されて夜ができるわけではありません。闇が闇であるのは、光をさえぎっているからであり、間接的な媒介を通して闇は存在するのです。一方、「光は積極的な存在であり、働きかけるものである」と言うことができます。
 どれほど強い光があっても、それをさえぎるものがあれば、闇ができます。光が強ければ強いほど、濃い闇ができます。たとえ一万燭光の光を持ってきても、あるいは百万燭光の光を持ってきても、岩陰に隠れたならば、その光はあたりません。光には「直進する」という性質があるので、さえぎるものがあれば、その光は行く手を閉ざされることになります。
 善と悪についても、これと同じようなことが言えます。すなわち、「善は積極的存在であり、悪は消極的存在である」と言うことができるのです。善はあって悪はないのかというと、一概にそうとは言えません。一定の間接的媒介を通して、消極的存在ではあるけれども、悪というものの存在がありうるのです。
 「本来、闇はない」と言っても、光のあるところには闇が生じます。同じく、「本来、悪はない」と言っても、善のあるところには、それを引き立てる意味で、悪があることも事実です。
 悪は積極的存在ではなく、善の欠如であることは事実ですが、「善の欠如を一つの媒介として、悪があるように見える」ということも、ある意味で事実なのです。
 たとえば、巨大な蛍光灯や白熱灯で室内を照らしたとき、どれほど燦然たる光を放ったとしても、室内のどこかに必ず影ができます。室内を鏡の部屋のようにした場合には、もちろん影はできないでしょうが、通常の人間が生活するような室内であれば、たとえどれほど強い光をあてたとしても、食器なり家具なりにさえぎられて、影のできる部分が必ず生じます。
 こうしてみると、「影、闇、悪というものは、本来はないにもかかわらず、人間が通常に生活していくうえにおいて生ずるものだ」と言うことができるのです。
(210~215ページ)

どれほど強い光があっても、それをさえぎるものがあれば闇ができる。「本来、闇はない」と言っても、光のあるところには闇が生じる。

これと同様に、善と悪についても、「本来、悪はない」と言っても、善のあるところには、それを引き立てる意味で、悪がある。

つまり、「影、闇、悪というものは、本来はないにもかかわらず、人間が通常に生活していくうえにおいて生ずるものだ」と言うことができる──。

光と闇を切り口にして、善悪の問題、そして、一元論と二元論の問題を論じられた教えを、今日はご紹介してみました。ちょっとむずかしかったでしょうか。

この一元論と二元論の問題については、一度ご紹介したことがありました。

仏は、心の問題や人生の悩みについてだけでなく、哲学の学徒が探究する、「真理」に関する問題についても、こうやって教えて下さる。

そんな大切な事実を、今日は改めて確認できた気が私はしているのです。

永遠の法―エル・カンターレの世界観 (OR books) 『永遠の法』

 大川隆法著

 

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