ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



怒りはいけないって、教えられてますよね。じゃ、どんな怒りも、ぜったいにいけないのって思ってる人、いませんか? 似たテーマの記事もあって、重なるところもあるけど、今日は少し違う角度から。

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 「瞋(じん)」は、カーッとこみ上げてくる怒り、自分で統制できない怒りです。短気で、すぐカッとしてしまう人がよくいます。(中略)この怒りのところを抑えると、心は常に穏やかで、修行に適した状態になります。
 ただ、これにも例外があるので付け加えておきます。ここで言われる怒りというのは、いわゆる「私憤」です。私の怒り、憤りを戒めているのです。これに対して「公憤」というものがあります。公の怒り、憤りです。これは完全になくしてしまってはいけないことなのです。この公の怒りというものがなくなると、世の中を前進させる力がなくなるのです。
 たとえば、非常な圧政、封建体制が続いていて、農民たちももはやがまんがならないし、このままでは世の中が立ちいかないというときに、革命のために起ち上がる、明治維新の志士のような人たちがいます。これは怒りに走っているから間違いかといえば、そうではなく、これは公憤なのです。公の憤りというのは失ってはいけないものです。これは正義とも関わってくることです。
 ですから、私憤、すなわち自分の個人的、本能的、反応的な怒りではなく、公の怒り、すなわち理性を内に秘めたような怒りを、ある意味では持っていなければ、世の中は少しも変わりませんから、これは知っておいてください。
 宗教改革なども、多くはみな、この公の怒りを内蔵しているものです。現状の宗教では人は救えない、そこで起ち上がる──そのエネルギーは公の怒りです。これは「瞋(じん)」とは違いますので、間違わないでいただきたいと思います。
 それから、個人的な領域においても、「怒る」ということと「叱る」ということはまた別のことです。人が間違ったことをしているのに、それをそのまま為さしめる、許容するのがよいという意味では必ずしもありません。叱るということはまた別にあります。子供がいたずらをして言うことを聞かないときに、親としては叱らなくてはいけません。それを叱らないで甘やかしておくと、いざというときに自分でチェックができない子供ができあがってきます。このように、未熟なる者に対して強い指導を与える場合の叱るという行為は、また別の行為です。
 この二つの例外があるということは知っておいてください。
(81~85ページ)

社会改革のための公的な怒り(「公憤」)と、教育のために愛をもって「叱る」こと。

この二つは、「怒ってはならない」という教えの例外にあたる。

もちろん、安易にこの例外に逃げ込んで、荒れ狂う心の炎を誤魔化してはならないだろうと思います。

でも、今日のお教えは、「怒り」というものについて、とっても大事なポイントを簡潔に教えて下さっていたのだと改めて私は思っているのです。

 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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