幸福の科学って、幸福を目指す団体なんだって? でも、この「幸福」って、一体全体、何なのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピア創造論』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。
幸福の科学においては、目的としての「幸福」と、手段としての「科学」──この二つの追究、探究が、基本として考えられています。分かりやすく言うならば、「幸福になるためには、どのように努力していけばよいのか」を、一緒に探っていこうとしているのです。
そして、私は「幸福の科学が目指す幸福には、私的幸福と公的幸福という二種類の幸福がある」と説いています。
「私的幸福」とは何でしょうか。それは個人としての幸福です。もう一方の「公的幸福」とは、社会全体の幸福のことです。
なぜ、この二種類の幸福が必要なのでしょうか。
まず、私的幸福から話を始めたいと思います。個人としての幸福とは何なのでしょうか。それは個々人の満足のことをいうのでしょうか。それとも、個々人が声を出して笑うような状態をいうのでしょうか。あるいは、他人から尊敬されるようなことをいうのでしょうか。
幸福には、「満足」の面を強調した静的な幸福、つまり、「足ることを知る」という意味での消極的な幸福もあれば、「進歩・向上」の面を強調した動的な幸福、つまり、「発展・成長を喜ぶ」という意味での積極的な幸福もあります。
そして、この二つは、いわばブレーキとアクセルのように、人生という名の自動車の運転に影響を与えているのではないでしょうか。
つまり、過熱気味な人、無我夢中の人生を生きている人に対しては、ブレーキとしての消極的幸福が勧められるべきであろうし、堂々巡りの人生を歩んでいる人、目標もなくその日暮らしをしている人に対しては、アクセルとしての積極的幸福が重要であろうと思うのです。
個人としての幸福には二面性がありますが、集団の一員として人生行路を渡っていく人間にとって、ブレーキとアクセルは両方とも必要です。すなわち、集団としての人類のまとまりのためには、この両方が不可欠なのです。
足の速すぎる人は、少し速度を落とす必要がありますし、休んでばかりいる人は、少しせきたてられる必要があります。個々人が自分の幸福を求めながら、同時に全体の調和というものを保っていかねばならないのです。
個人個人は、それぞれにアクセルを踏んだりブレーキを踏んだりして、私的幸福を味わっているのですが、社会全体としても、一つの大きなまとまり、大調和を形成しながら、進歩していくことが大切なのです。
結局のところ、私的幸福は、やがて社会全体、人類全体を大調和させ、進化させていく方向へと奉仕し、公的幸福の実現のための力となっていかねばならないのです。
かくして、各人の私的幸福をかなえながら、公的幸福をも形成していく方法論が必要となってきます。いろいろな時代に説かれた仏法真理、あるいはユートピア論は、つまるところ、私的幸福と公的幸福の大調和の実現に目的があったのです。
(11~14ページ)
今日は、幸福の科学ができて、最初期に説かれた幸福論のなかでも、もっとも典型的な部分をご紹介してみました。
話が抽象的で難しかったかなあ。
ひらたく言ってしまえば、「幸福」というのは、まずは自分自身が幸福にならなきゃいけない。
その幸福には静的なものも動的なものもあるんだけど、それだけじゃなく、自分以外のみんなが幸福にならなきゃいけないよ、ってこと。
こういう根本的な理念があって、幸福の科学の活動は、この30年あまり展開されていることを改めて確認できた気が私はしているのです。
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『ユートピア創造論』
大川隆法著 |
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