ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「スピリチュアル」って言葉、テレビでも雑誌でもネットでも、ものすごく身近になった感じがします。どうして、いまスピリチュアルなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、1992年に出版された『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 日本では、共産主義の代わりに、別な意味での一種の無神論的な唯物論が、数十年の間、知識人たちに信奉されていたのではないでしょうか。
 それに対して民衆の側には、「何かがおかしい」「そんなはずはないのではないか」という率直な気持ちがずっと滞(とどこお)っていた、あるいは伏流水のように流れていたのです。しかし、「知識人たちがそう言うなら、自分たちの考えはやはり迷信なのかな。古い時代の考えなのかな」というように、素朴な疑問を持ちつつも躊躇していたわけです。
 ところが、近年になって、「どうも知識人たちのほうが間違っていたのではないか」ということが次第しだいに明らかになってきました。そして、それにつれて、「では、自分たちが持っていた興味、関心というのは、いったい何だったのだろうか」「その問いに答えてくれるものはないのだろうか」という知的関心、欲求というものがでてきたわけです。それが今、新宗教ブームの背景にあるのではないでしょうか。
 こうした宗教的関心は、一時的なものではなく、人間性そのものに付随するものとして、人間が本来持っているものなのです。一部の人がそれを押さえつけようとしても、押さえつづけることはできないのです。
 なぜかは知らないけれども、お盆になれば郷里に帰って墓参りをしたくなる。周忌にはお坊さんを呼んで読経をしてもらいたくなる。また、お彼岸にも墓参りをしたくなる。お正月になれば神社に行きたくなる。
 ロでは「宗教は持っていない」とか「無神論者だ」と言いつつも、そういうことをするのが普通の人間です。
 このように矛盾した行動をとる理由は、根本的には信じているものがあるのに、それについて学校教育や世間では教えてくれなくなったので、それを説明する言葉が見つからないからなのです。それゆえに無意識のうちに本音と建前の使い分けがなされているのです。
 新宗教の最近の動きは、こうした本音に対して、言葉を与えてあげようとしているものなのです。
「あなた方が本当に思っていたこと、ずっと押さえられていて、伏流水のように流れていた思いとは、いったい何であったのか。それについて、知的に、他の人にわかるように、議論できるような言葉を与えてあげましょう」。
 それが新宗教のなかで流れている動きであり、そういった民衆の感情を代弁しているのが、新しい宗教の運動でもあるのです。
 しかも、そのなかの中核的存在である「幸福の科学」の役割というのは、たとえようもなく大きなものであると思います。今まで口を封じられていた民衆たちに、真実の意味を言葉として与えただけではありません。知識人として振舞っていた人たちに対し、その知識が偽物であったということを、理論的に、かつ、非常に知性的に論証しているのです。
(16~19ページ)

これはまさに新宗教がブームのまっただなかだった1992年のご論考です。

ところが、そのわずか3年後に、あのオウム教の地下鉄サリン事件が起きて、その結果、新しい宗教に対する否定的な世論が作られてしまいました。

それから25年の歳月を経て、「スピリチュアル」は、ブームとして盛り上がっただけじゃなく、もう普通のものとなっている感じがします。

その背景事情は、結局のところ、1992年当時と何もかわらないんじゃないかと思えます。

だとすると、ここで述べられている、「その素朴な感覚に説明する言葉を与える」という「幸福の科学」の役割は、25年前だけでなく今現在であっても、実はまったく変わっていないのだと私は思っているのです。

 

『宗教の挑戦』

大川隆法著


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