しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「父の野戦日記」⑧光山城に入城する

2022年08月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

【父の野戦日記】

雨天の中、光山城に入城した。
信陽攻略の要所だ。
空爆の跡を見る。高層な健築物は無く、ただ外部の一部一部を残すのみ。
その他は整然として聳える○○堂、そして繁華街は昔をしのばせるおもかげは語っているようだ。
あちらこちらの家陰、木陰に、支邦軍部隊の死体がわれ等の目にはいる。

我等は降りつつ雨の中気合をいれつつ、戦闘の戦果を納めつつ意気洋々と入城したのだった。
思えば徐州出発以来、いかなる雨天に悩まされつつ、悪天候と戦いつつ、あの日この日も休み無く。
血の攻撃、実戦悪夢。
敵の攻撃、悪戦苦闘で、今ようやく、光山城へ入城するのだ。

その雨につけ、照るにつけ、思うのは故郷のことだ。
朋は、姉妹は如何に。
だがそのような実に恥かしい。
ただ戦闘の束の間にちらつくホンの一瞬だ。
今は光山に入城する。後6日で我が氏神様の祭典だ。
ありがたき神様のご加護により生き長らえていることを誓って今日を休む。

昭和13年9月25日(光山城内にて)

・・・

・・・


「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行


漢口作戦に於ける第十師団の緒戦は、広州攻撃といえよう。
歩兵十聯隊第一大隊がこの戦で名を挙げた。
9月7日固始を占領し、14日光州に進出した。
9月18日敵は広州城から逃げた。
一方、第二大隊は光山攻撃に当り、19日光州出発、
およそ10キロほど前進した地点で敵と衝突。
彼我の距離80mくらいに近接することもあり、敵は光山に近い高地に拠ってから抵抗いよいよ激しく追撃砲弾の数も増した。
翌20日7時30分攻撃を再興、11時15分光山城を占領した。
すでに敵は敗走していたのである。

・・・・

 

「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

漢口攻略戦・その二 光州への攻撃

9月15日毛利部隊の来栖大隊(第一大隊)が先頭となって前進する。
戦闘が開始されると行軍に疲れた兵も緊張して、落伍者は一人もいない。
光州城を見下ろす位置に立つ。
光州城へは後2キロばかり。
9月17日午後クリークを境にして光州大城壁とにらみ合った。
同時夕刻来栖大隊長は攻撃を命じ、城門に突入。これを占領した。

 

・・・

 

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「父の野戦日記」⑦コレラで死んでいく人

2022年08月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

(父の話)
信陽への行軍は真夏じゃった。
真夏の漢口戦での光州行軍は多くのひとがコレラになった。
小さな小屋のなかにはコレラにかかったひとがびっしりつまって横になっていた。
コレラになった人は尻からビチが出ていた。

コレラは一種の脱水状態で、蒸留水を注射すれば助かるのだが・・・しかも現地でこしらえてもいたが、
(あまりに発病者が多く)それが足らんようになった。
助かりそうなのから選って治療して、そうでないのはホッテ、尻に石灰をかけてそのままにした。
ようけい死んだ。

談・2000.7.9

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

 

第十師団は歩兵第第八旅団が先頭にたち、我が歩兵第三十三旅団は大した戦闘を交えることなく進軍したが、

8月末の晴天つづきの炎天下であり、昼間百十余度も騰り、

当時携帯食糧等の負担量多く、給水また十分でなかったので、

落伍者多く喝病患者また発生、

マラリヤ、コレラ患者も続出して、苦難を極めた難行軍であった。

 

・・・


「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

漢口攻略戦・その一 光州への行軍


徒歩行軍で8月27日~30日慮州に入る。
第十師団は第三師団とともに光州へ進む。
行進したのが8月末の炎天下であり、日射病にかかる者数多く、
兵隊は唯だ黙々と歩み続けるのであるから、その労苦は倍加し、
敵兵の出現を願う気持ちとなる。
一休みできるからである。
倒れた戦友の死体をダビに附す暇もなく、道端の戦友を抱き起す力もなく、
その足もふらふらしている。
マラリアは蔓延し、兵糧は現地調達のため不足している。
この行軍は実に難行軍で惨憺たるものであった。

・・・

(父の話)

行軍は真夏に続く、昼も夜も・・・。
「戦闘!」の時がはじめていっぷくできるときだ。
・・・「戦闘!」が待ちどうしい時もある。
戦闘がないと休みなしで歩く。歩きつづける。ナンボーにもえろうて、
「弾にでも当たりゃあエエ」と思うたりもする。
当たれば休めるから。
が、死にたくはない。
(死傷病者はどうなるのか?)
隊の後ろが野戦病院の列でそれが、トラックの時もあるし、たいていは馬がひくことが多かった。

談・2000.7.9

・・・

 

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「父の野戦日記」⑥武漢攻略戦へ

2022年08月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

【父の野戦日記】


ぬかるみを歩く
2~3日の雨が降る。
本日も雨である。 急に激しくなってきた。 予定のとおり六時出発だ。
雨はますます降り、我々は身も濡れ、濡れ鼠のようになって、一路目的地へと進む。 足はぬかるみにとおり、土は身体につく。

「たいてい」の二の舞だ。ますます激しい雨。休みつつすすむ。 実に戦場ならではの光景。
○○部落にて

昭和13年9月20日

 


・・・

 

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

 

漢口作戦

漢口進撃命令が下ったのは昭和13年8月22日であった。

漢口進撃作戦に従事した中支那派遣軍は、総兵力30万をこえる大軍団であった。

我軍の作戦進路は四路に分かれ、

我が第二軍は大別山の北麓に沿って信陽に進攻し漢口北方へ迂回するものであった。

8月27日、第十、第十三師団は金橋、椿樹嵩の線より行動を開始した。

8月28日、師団は六安を占領した。

道路は予想の如く不良で、尚且つ敵の破壊甚だしく車両部隊の追及は困難を極めた。

 

・・・

「近代日本戦争史3」 奥村房雄 紀伊国屋書店 平成7年発行

徐州会戦の成果

徐州会戦は北支方面軍と中支那派遣軍との間で、指揮関係のない,協同という形で行われた。
準備段階から両者を統制し、かつ作戦終了後の後始末まで同一指揮で律することに問題があった。
徐州会戦の勝利は、国民を歓喜させた。
政府に支那事変解決への意欲を与えた。
近衛首相は広田弘毅外相に替えて、宇垣一成大将を外相とした。
宇垣新外相の登場は、長期戦化の様相を呈してきた支那事変に、なんらかの局面打開の道を、開くのではないかという期待を抱かせた。

 

漢口作戦への転移

大本営は徐州会戦の間、漢口作戦の準備も進めた。
その際問題となったのは漢口作戦と広東作戦を同時に実施できないかということである。
二つの作戦の同時実施は無理のようであった、漢口作戦が先となった。
昭和13年6月23日、政府は声明を出し、
「支那事変は徐州陥落により戦局の一大進展をみたが、なお官民一体となって長期持久の戦時体制を確立して、時局に対処しなければならない」と述べた。
7月4日武漢攻略戦の態勢が整えられた。
中支那派遣軍は、畑俊六大将、四箇師団。
第二軍司令官は、東久邇宮稔彦中将、四箇師団。
第十一軍司令官は、岡村寧次中将、五箇半師団。

第二軍第十師団(抜粋)
第二軍の諸隊は7月中旬蘆州付近への集中を開始した。
第十師団は津浦線で蚌捍まできて、淮河をわたり、後徒歩で100キロ以上の道を蘆州に向かった。
8月26日蘆州付近に着いたが、その間、道路は不良で、そのうえコレラが発生した。
ここから西進したが、ここでも道路は道路は徹底的に破壊されていた。
しかも炎熱下の前進である。
第十師団は28日六安に着いた。

昭和13年8月22日、大本営は武漢攻略命令を下命した。
9月7日、御前会議において広東作戦の実施が決定された。

第二軍の西進
大別山北麓の第二軍は、道路の破壊が甚だしく、自動車による補給は困難と思われた。
このため糧食、弾薬等は駄馬運搬あるいは個人携行とし、
なるべく多くを持って、迅速に光州まで前進することにした。
8月29日から9月1日までは晴天続きであった。
炎熱甚だしく、携行糧食の負担が重い。
9月2日第十師団の一部、商城方向に突進させ、富金山の中国軍を背後から脅威した。
第十師団は9月7日固始を占領、次いで17日光州を攻略した。
光州、商城攻略後どうするかについて、第二軍は
第三・第十師団をもって速やかに信陽方面の中国軍を撃滅し、
第十三・十六師団をもって、大別山を突破するという方針を固めた。

 

・・・

 

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「父の野戦日記」⑤微山湖を渡る

2022年08月12日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

赤柴部隊へ到着・その2
自分は第二歩兵砲隊付だ。ここにきて”のぼるさん”と会う。 彼は元気でいたが、実に転戦の過去がある。
同郷の人と戦場で会う、出会う、語る。実に嬉しい。 個人のうかがいしれない感じである。
昭和13年5月15日

・・・


「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行


5月18日、聯隊は渡湖を始めた。
敵の交戦意欲は低下しているよう思考される。
敵の射撃は時々部隊の前後に落達し、人馬に若干の損傷を生じた。
翌19日五時十分、主力をもって魏庄に到着した。

 

・・・・

 


・・・・

微山湖を渡る

(父の話)

船で渡った。
途中からは敵がおるんで降りて歩りぃて渡った。

微山湖は渡りながら止まる。
止まってはまた前進する。
岸(対岸)からは敵が撃ってくる。

岸が近くなると船からおりて、歩く。止まる。
敵に撃つ。そしてまた前進。


逃げたので渡ったが、まだなんぼうかの敵がいた。
というふうにして渡った。

談・2000・7・2 

・・・・

「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行

中国軍が逃げ出した。
5月15日未明、中国軍の退却を知った第五師団は、ただちに追撃に移った。
第十師団は、微山湖西岸沿いに前進して、5月19日徐州北方6キロに達した

 

第二軍の第五、第百十四師団は微山湖東方から徐州南方の津浦線に向かい、
第十、第十六師団は徐州方面から西方へ向かった。

かくて徐州会戦は、中国側の黄河の堤防決壊をもって、幕を閉じることになった。

 

徐州会戦の勝利は、国民を歓喜させた。
また徐州会戦の勝利は、政府に支那事変解決への意欲を与えた。
近衛首相は5月26日内閣改造を行い、広田弘毅外相に替えて宇垣一成大将を外相兼拓相とした。

・・・


 

「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

5月18日第十一中隊は赤柴部隊とともに微山湖を渡り、微山湖西方を南下した。


5月22日列車で徐州に着く。
5月22日徐州西方地区を南下し、負敵を追撃。


磯谷中将が転任し、赤柴連隊長も転任し後任として6月28日
師団長篠崎中将。7月30日毛利連隊長が着任する。

 

・・・・

徐州包囲網
我が聯隊は5月12日には徐州包囲網の態勢が整った。
だが敵は、主力を徐州から撤退させるため、台児壮北方地区での抵抗は緩めようとはしなかった。

14日22時左記支隊命令に接した。
速やかに主決戦を徐州西方地区に導き徐州付近の敵の撃滅を企図ず。
これに基き赤柴聯隊長は、15日8時呉寺において右翼隊命令を下達した。
5月15日各隊は転進のため交代準備に忙殺されつつあった。

台児壮の激戦は徐州攻略戦を誘起した。
徐州攻略戦は、終結した敵約50箇団の捕捉撃滅ばかりでなく、津浦線の打通と、漢口作戦への含みをもち、在支の七箇団が起用された。
聯隊は第百十五連隊と交替し、
5月15日暮色漸く迫らんとする20時、呉寺出発棗壮に向かい北進した。
かくて聯隊主力は16日天明までに棗壮に終結を完了した。

16日4時、聯隊は夏鎮に向かう前進を部署した。
軍情報は「微山湖は湖沼にあらずして草地に若干の水あるものと心得るべし」
とあり、
機動船隊は一挙に三千の兵員が渡湖し得るものと判断していた。

 

 

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「父の野戦日記」④赤柴連隊長へ着任の挨拶をする(昭和13年5月15日)

2022年08月11日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

黄河を渡り済南へ
途中、同輩が苦心して得た○○駅、○○駅を戦跡を眺めながら渡る。 銃弾砲撃した跡を眺めつつ通過していく。 各駅は警備の兵が我々の○○を守ってくれる。 日中は大変暖かくなってきた。 広漠たる地平線、遥かなる地平線を汽車は、一路大陸へ大陸へ。 部落には日章旗と五色がひるがえっている。 農夫もみうけられた。 子供たちは鉄道付近にきたりて、「バンザイ」「バンザイ」と叫びつつ、僕らを歓迎してくれる。 午後6時30分。東洋の大河・黄河の鉄橋にとおり着く。
その鉄道は陰もなく破壊され、むしろなにを運ぶ・・・・無事汽車は通過し、午後7時汽車は済南に着いた。
【父の談話】2001年8月6日(破壊された黄河鉄橋では)船を繋いで、その上にレールを敷いとった。 爆破しっしもおて、鉄道があったのが。 船は浮きになるんで、その上に柱を繋ぃで、鉄橋にしとった。

済南に着く
済南は山東の都だ。建設物が勇壮で、実に平穏だ。
しかし空爆のあと、砲爆の跡、銃撃の跡が見える。
ごうけん部落の××にて合掌する。

赤柴部隊へ
遠くのほうで銃声・砲声が聞こえる。しかし、待ちに待った戦場へいよいよ到着したのだ。
戦車・装甲車の車輪の音。 自動車のひびき、ごうごうたる○○本部だ。
本日はいよいよ隊へ配属されたのだ。 自動車にて一路戦線へ、戦線へと進む。
途中の戦跡、戦傷者の輸送。 各隊のものものしい警備。 顔、みな悲壮な決心がうかがわれた。
無事午後1時30分、赤柴部隊本部へ到着する。ああ戦場の柳の木、しょうようは散り倒れ、穴も各所に見受けられ、時々は、敵の不発の手のやつが空をじっとにらんでいる。 実に物騒なところだ。
流弾が地上をかすめる。 兵は皆、鉄帽をかぶり家の内や、穴の中に潜り込んでいる。いよいよ、第一戦だなあ、でも赤柴隊長殿の英姿をあおぎてわれ等も元気をだす。
言葉をいただき我等衛生兵10名はそれぞれ各隊へ配属される。

 

「父の野戦日記」昭和13年5月15日

 


【父の談話】2001年8月5日
父の談話
そりゃ、行ったときにゃ皆。穴ん中へおったんじゃけいのう。 穴の中から出てきて挨拶。せぃが済んだらまた穴ん中へ。

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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行

昭和13年5月14日瀬谷支隊命令
一、徐州方面の敵軍は動揺、軍は速やかに主決戦を徐州西方地区に導き敵の撃滅を図る。
二、支隊は逐次第百十四師団と交代する。
これに基き赤柴聯隊長は15日、要旨命令を出した。
斯くて、5月15日各隊は転進のための交代準備に忙殺されつつあった。

 

・・・


「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行
 
徐州正面では、第二軍の第五師団、第十師団が中国軍を十分に牽制、抑留した。
5月6日派遣軍司令官畑俊六は、南京周辺の警備に任じていた第三師団軍にも、徐州作戦への参加を命じた。
台児庄正面では、牽制・拘留に任じていた第十師団が、その任務を第百十四師団に譲って嶂県付近に集結し、その先遣隊は5月16日、微山湖を渡って西岸に進出した。

 

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行

我が聯隊は敵と近く相対峠し、大いなる犠牲を払わずんば到底戦闘を進捗せしむるに能わず。
戦線は膠着し戦闘は遂に交綬状態に陥った。
支隊は現在の戦線を堅固に確保し次期作戦を準備せんと5月4日から14日に至った。

 

・・・・

 

 

 

 

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「父の野戦日記」③宇品~塘沽~天津

2022年08月11日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

洋上にて
海峡にそって、ああ船はすべり目的地へ、目的地へと玄海灘をすすむ。

若者の○○は、なにものぞ。 洋上にでて、水平線場で夕陽を拝む。さざなみのように実にうつくしい。

船は洋上の彼方へ彼方へと進んだ。


昭和13年5月10日(洋上にて)

タンクーへ上陸
海上無事、タンクーへと上陸だ。大陸第一歩の喚声やいかん。
我が先輩らが血を流して得た土地。
もくもくと点在する民家も倒れ、砲撃の激しさを語っている。
ところどころに残る砲弾の跡。だが支那の人家は皆、土の壁だ。
もぐらか,蟻のありかのようだ。
支那保安隊の警察団のものものしい警備。

一路天津に向かう
タンクーより汽車に乗り、一路天津に向かう。
車窓に映る大陸の景。広漠たる平野だ。
まったくぞくぞくする水平線の各戦跡の車窓。
我等は元気で天津に着いた。

天津
天津は平穏だ。この土地が敵国の土地か。 多くの兵士でいっぱいだ。
 各機関は思うように運転している。
 支那特有のチャーチャンが多く、シャーシャンを見る。 (←チャーチャンまたはショーシャンは不明・未確認)
午後7時天津を出発済南に向かう。


昭和13年5月12日

 

・・・・

 

 

・・・・


「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行

徐州会戦の経過

徐州作戦の実施が決まると、北支方面軍は第二軍に、
第百十四師団と第十六師団を配属し第二軍の戦力を強化した。
第十師団の攻撃は当初順調に進展し、四月末まで台児庄東方10キロまで進んだ。
だがその後中国軍の抵抗は激しく、師団は苦戦した。
第五師団も中国軍の反撃を受けて、五月にはいっても両師団の苦戦はつづき、
状況は楽観を許さなかった。

・・・・

 

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「父の野戦日記」②軍都広島に着く

2022年08月06日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

汽車は一路山陽本線を南下しつある。
なつかしの母校(城見小学校)を眺め、小学校の歓送に感謝の涙にむせびつつ、汽車は大門駅に着く。
1時30分。ご両親に最後の別れを告げる。大門駅で両親と別れ
故郷を後に一路汽車は進んだ。
福山にて姉妹と会う。
ああこれで最後。故郷よさらば。
ご両親よ健康に。
姉妹よ健康に。

軍都広島に着く
軍部のプラットホームに着く。 「ちゃのま旅館」に泊まる。
軍都広島の夜は実に美しい。
一夜を明かす。

市内より午後二時、病院船千歳丸に乗り込む。
船は岸を離れた。岸からの○○の声も次第次第に遠のく。
春風は気持ちを良くし僕の笑顔をなぜ通る。 海上のすいきも、ああ船と共に進む。
○○も僕らの眼線より消えていく。 遠く近くにとびかうかもめも,山河もこれが見納めかと思うと、さらば、おさらば母国よ。

昭和13年5月7日
※〇〇は解読不明の文字。

 

宇品の「陸軍桟橋」、ここから父も乗船したのだろう。撮影2016.11.2

・・・・

 

 

徐州会戦
(Wikipedia)
戦争:日中戦争
年月日:1938年4月7日 - 5月19日(6月7日)
場所:江蘇省(徐州)、山東省南部、安徽省、河南省(開封)
結果:日本軍による徐州占領と包囲戦失敗、中国軍による黄河決壊
徐州会戦または徐州作戦、
日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった。
4月7日、大本営は「徐州付近の敵を撃破」することを命じ、不拡大方針は二ヶ月足らずで放棄された。

 

・・・・

 

「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行


徐州会戦のきっかけになったのは、徐州東北の数十キロのところにある台児庄の戦いである。
昭和12年末、徐州北方では第二軍の第十師団が済南を占領し、徐州南方では上海派遣軍の第十三師団が昭和13年1月下旬、北上を始めた。
第二軍は方面軍司令官を通じ大本営に「当面の中国軍が増大したのでこれを撃破したお」と要請した。
大本営はこれを認可したが、それは現地幕領の「決して南へ深く入る作戦でない」という言葉を信じてのことである。

台児庄には中国第二集団軍が待ち構えており、3月下旬から4月上旬にかけて、
南進してきた日本軍第十師団の瀬谷支隊、第五師団の坂本支隊と戦かった。
激戦が続き4月6日、とうとう瀬谷支隊が後退した。
坂本支隊が後退したようだと思い、孤立を恐れて後退を命じた。
ところが坂本支隊は後退していなかった。激戦中であって、その最中に瀬谷支隊が後退したことを知り翌7日坂本支隊も、戦線を離脱したのである。

中国側はこの勝利を、大いに宣伝した。
「この戦闘で敵の死傷二万、歩兵銃一万余、軽機九百五十、戦車四十、歩兵砲七十七門、大砲五十、捕虜無数、敵板垣、磯谷師団の主力は、わがために殲滅された」
と述べた。
これを受け、その後の台児庄の戦況を知って、大本営は4月3日徐州作戦の実施を内定し、
次いで4月7日、その実施を関係方面軍に下命したのである。

しかしこの徐州作戦の実施は、2月16日大本営御前会議で決められた不拡大方針にもとるものであった。

 

 

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「父の野戦日記」①待ちに待った出征の日は来た

2022年08月05日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

昭和13年5月3日、大日本帝国陸軍第十師団歩兵十聯隊の父は、中国大陸に向け岡山の聯隊を出発した。
父の筆からは、胸の鼓動が聴こえるぐらい気持ちが高騰しているのが見とれる。
新兵で入営5ケ月での野戦、無理もない。

 

(徴兵検査)

 

・・・・

「父の野戦日記」


新亜細亜の動きは日一日と深刻、決裂を深めている。
いよいよ壮士・先輩・諸賢の元に往くことにあいなる。
5月3日、来たるべき日はきた。待ちに待った出征の日は来た。
満場の声に送られつつ、なつかしい兵舎を後にし、戦友と別れをつげ自動車にて一路駅頭に向かう。
早朝より揺る雨は矢のごとく、僕らの出征を祝福するかのごとき岡山駅プラットホームを離れた。
時まさに岡山駅零時16分。ああ、これまさに最後だ。
歓送の音楽の音に万感の音、耳に満ち ただ一筋に心はおどる。
ああこれが彼女との最後の決別か!
「お元気でね」
汽車は一路山陽本線を南下しつつある。

 

・・・・

 

「1億人の昭和史・2」 毎日新聞社 1975年発行

盧溝橋には、満州事変のような”計画性”はない。
日中両国とも戦争を避けようとしながら、ずるずると深みにはまっていった。

 

 

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盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか

2022年08月04日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

国家のデザインを描き、その意味を国民に説明し、最後に国会で決議し、実行する。
そういう首相は非常に残念ながら、滅多に出ない。
ここ30~40年間でいえば、
一に中曽根首相、二に竹下首相、三に・・・いないわ。
この二人だけ(涙)。

 

 

 

「歴史街道」  PHP 2021年9月号

盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか  井上寿一

昭和12年(1937)7月7日に北京郊外の盧溝橋で起きた、
日本と中国の偶発的な軍事衝突は、その4日後現地で停戦協定が結ばれた。

日中双方にそれぞれ事情があり、ともに戦争する気などなかったからだ。
日本は、対ソ戦の準備を優先させたかった。
中国は、国民党の蒋介石は共産党との内戦に備えるため軍事力消耗を避けたかった。

一つの要因として、日本が兵力を増員したことだ。
中国に圧力をかける背景があったが、新聞・雑誌の等のメディアが、
「断固排撃する」「膺懲(ようちょう)する」といった見出しの記事を掲げて、強硬論を展開するようになっていた。
「勝った、勝った」と威勢のいい話を求める読者向けの紙面づくりが主流をなした。
極端なことをいえば、戦争不拡大を支持したのは陸軍と外務省ぐらいだった。

昭和14年(1939)にはいると、日中戦争は膠着状態に陥る。
陸軍は「昭和15年中に戦争が終わらなければ、大規模な撤兵を行って、対ソ戦に備える」
という軍事戦略をたてた。
ところが昭和14年9月1日、第二次欧州大戦が始まった。
緒戦でヨーロッパを席巻したドイツとイタリアに最接近、三国同盟を締結した。

苦い教訓
日中戦争において日本政府は、戦争目的を「暴支膺懲」から「東亜新秩序」に変えたり、
蒋介石と和平を結ぼうとしていたにもかかわらず「国民政府を相手にせず」と宣言した。
国家のグランドデザインがなかった。
さらに戦争目的が曖昧であった、
二点目は、ポピュリズムの陥穽に落ちてはいけないことである。
三点目は、「組織利益よりも国益」の重視である。
陸軍と海軍はそれぞれの組織利益を守ろうとして、最終的に国家が破局を迎えた。

 

 

「歴史街道」  PHP 2021年9月号


両国の衝突をもたらした構図と問題の根源  岡本隆司

日清戦争・日露戦争に勝った日本人は、自国を「文明国」だと思い、
中国に「文明」を強要し、
「中国が日本のようになれないのは、劣っているからだ」
という考え方が根強かった。

「互いに相手のことを知らない」
という傾向はいまでも色濃く、根の深い問題である。
少なくとも、
「自分は相手をどこまでわかっているのか」
と、常に懐疑的であるほうが、泥沼の対立に陥る危険は小さくなるのではないだろうか。

・・・・

「歴史街道」  PHP 2021年9月号
「戦略」から読み解く泥沼化の真相  大木毅

昭和12年、盧溝橋の銃声は、およそ8年におよぶ日中全面衝突の引き金となった。
今日では国民政府軍兵士による偶発的射撃だったと考えるのが、もっとも説得力のある説とみてよかろう。
だとすれば、
この偶然、盧溝橋の銃撃がなければ日中戦争は起こらなかったのだろうか。
むろん、そうした主張は成り立たない。
それでは、日本政府や陸海軍は、当時4億の民がいるといわれた地大物博(ちだいぶっかく)の大国との戦争にあたり、
いかなる戦争目的を以ってのぞんだのか。
--驚くべきことに、
当時の日本には、戦略という名に値するような戦争指導方針はなかったのである。

昭和16年(1941)12月8日、日本は米英蘭に宣戦布告した。
短期間で中国を屈服させ、日本の要求を認めさせるはずだった「支邦事変」は、
連鎖反応的にその他の諸国との敵対につながり、
ついに世界大戦への突入をもたらしたのだ。
結局、大陸は日本にとっての鬼門でありつづけた。
そこでの戦略なき戦争は、長期にわたる多大な出血を招き、
さらには亡国の世界大戦をもたらしたのでる。

・・・・

 

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林芙美子の戦争協力

2022年03月15日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
日中戦争(1932~1945)には、多くの文化人や芸能人、歌手も力士も、軍の要請で慰問等に訪れている。
作詞家・作家の、なかにし礼氏は、著書のなかで林芙美子の行動が許せないと書いているが、彼女が作家として調子に乗りすぎて表現しているに加え、人間としての感性を疑っているからだろう。
ああいう時代ではあった。
でも、言わない自由はあったし、言わない人は多くいた。
なかにし氏も言うように「沈黙の余地」があったのはちがいない。

・・・・・・




「生きるということ」 なかにし礼  毎日新聞出版  2015年発行

林芙美子の戦争協力をいま考える

林芙美子(1903~1951)は自らの貧しい生活体験を赤裸につづった日記体の小説『放浪記』(1930)の成功で一躍売れっ子作家になった。
しかし文壇では貧乏を売り物にする素人小説家などと陰口をたたかれ、なんとか一発、世間をあっと言わせるようなものを書きたいと切歯扼腕する思いでもあった。
そこで林は、時流に乗るようにして自ら進んで名乗りをあげ、1937年、南京攻略戦にひきつづく戦いに大手新聞社の特派員として戦地におもむき、
武漢作戦にも内閣情報部の「ペン部隊」の紅一点として従軍した。

その見聞をもとに『戦線』と『北岸部隊』を書いて文字通り世間をあっと言わせ、女流作家の第一人者となった。
しかし敗戦を迎えたあとは「太鼓たたいて笛ふいて」戦意高揚宣伝ガールをつとめたことを大いに悔い、その慚愧の思いをもとにして、数々の反戦ものを書き、ついには『浮雲』という傑作をものにし、四十七歳で逝った。

林芙美子の「転向」は凛々しいものだったのか、
また「過去のあやまち」は償えるものなのかどうか、考えさせられもした。

・・・

1937年12月、日本軍は南京を占領したが戦火はやまず、戦線は拡大する一方であった。
翌年5月には「国家総動員法」が施行され、国内に軍事色が濃くなっていく。
1938年8月23日、内閣情報部は菊池寛(作家・文芸春秋社長)、久米正雄以下文壇の重鎮12人と相談し
「文壇から20人のペンの戦士を選んで陥落間近な漢口の最前線へ送る」
という文壇動員計画を発表した。
この時、林芙美子が手をあげたのである。
「是非ゆきたい、自費でもゆきたい」
というわけで陸軍(第六師団)の漢口攻略に随行し、従軍記『戦線』を書いた。
それは大ベストセラーになった。



抗戦する支那兵を捕えたら兵隊のこんな会話をきいたことがあります。
「いっそ火焙りにしてやりたいくらいだ」
「馬鹿、日本男子らしく一刀のもとに斬り捨てろ、それでなかったら銃殺だ」
捕らえられた中国兵は実に堂々たる一刀のもとに、何の苦悶もなくさっと逝ってしまいました。


慄然とする光景である。
しかし林芙美子は眉一つ動かす気配もない。


部隊長の話では「味方の戦死者は5名、負傷者は81名です」
そして敵の損害は約7万。

丘の上や畑の中に算を乱して正規兵の死体が点々と転がっていた。
その支那兵の死体は一つの物体にしか見えず、
城内に這入って行くと、軒なみに、支那兵の死体がごろごろしていた。
沿道の死体は累々たるものであった。
しかも我軍勢は、沢山の土民や捕虜を雑役に使っております。
この戦場の美しさ・・・



林芙美子は中国の人々を虐殺する帝国軍閥とともに行動し、
日本の若者たちを戦場に送り込むことに協力したのである。

「戦争中の積極的な協力者が戦後民主主義に改宗したか。
改宗しなければ盗人たけだけしいだろう。
改宗すれば、引退するのが常識だろう」
(加藤周一『戦争と知識人』)

沈黙の余地は最後まであったのだから。


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「作家の使命・私の戦後」  山崎豊子 新潮社 2009年発行

追悼・石川達三

私が、戦時中『生きてゐる兵隊』を書かれた時、掲載誌「中央公論」は発売禁止になり、
石川先生は特高の取り調べを受けられた時のことをお尋ねすると、
作家として筆を持つ限り、それぐらいの勇気と社会的責任は、当然持つべきだと答えられた。
石川先生ほどの深い文学理念には及ばないが、強い共感を覚えたことを、
今もって覚えている。

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