哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

「トイレの神様」(植村花菜)

2011-02-24 00:50:00 | 音楽
 たまたまANAに乗ったところ、機内のオーディオプログラムで植村花菜さんの音楽特集をやっていた。

 表題の歌は歌詞がストーリー仕立てで、かつての「木綿のハンカチーフ」や「雨宿り」のような、歌詞を最後まで聞かないと完結しないパターンの歌だ。紅白歌合戦で全部歌うのかどうかが話題になったのも、そのためだろう。ただ上の2曲が紅白で歌われたりしたのかはよく知らない。そういえば外国曲で「コパカバーナ」というヒット曲もストーリー仕立てだった気がする。


 さて、表題の歌の中身はあまり触れるつもりはないが、去年上海万博で本人が歌ったところ中国人が感動して涙していたという話があった。ふと思ったのは、「トイレの神様」という、まるで一神教では考えられないような神様の命名は、中国では日本と同じように受け入れられやすいのかな、ということだ。多神教の社会なら、至るところに神様が居ても、全く不自然ではない。すると一方で、一神教においてはこの歌の題名はどう受け止められるだろうか。



「八百万の神々とは、言ってしまえば、アニミズムである。万物が神であるか、あるいは万物に神が宿っている。そしたらこの自分だって神であるか、何か神に近いものである。自分と神とは超越的に別物だとする、一神教的な無理がない。一神教の神様は絶対だから、その神様に救われなければ、人は絶対に救われない。どころか、追及されるか裁かれる。だから一神教の人々は、あんなふうに融通がきかないのである。
 しかし日本の神様は、いい加減で無責任である。なにしろ、捨てる神があれば、拾う神もある。」(『41歳からの哲学』「なんと自在でいい加減-神道」より)



 一神教の社会でこの歌がどう思われるかは、とくに話題になってなさそうなのでよく分からないが、肯定的に見れば、トイレの神様も唯一神の別の姿であって、トイレにおいても下々を見守っているということになるのだろうか。神は細部に宿る、という考え方は多神教でも一神教でも同じようにありそうだからだ。


 それにしても、「トイレの神様」の日本におけるスムーズな受け入れられ方は、なんだか微笑ましい。発端は、おばあちゃんの孫思いの教育における一種の方便なのだろうが、神様というものについての素朴な思い方や大らかさ、寛容さが感じられるからだ。いや、一神教の神だって(本来は)寛容なはずなので、もしかしたらスムーズに受け入れられるかも知れない。