だてに育ったわけじゃない物語(その3)
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さて、『父母恩重経』の芳彦流超訳「だてに育ったわけじゃない物語」の続きとまいりましょう。
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……だからこそ、悲母(子供の苦しみを取り除こうとする母)が子供のことを思う心は、およそ比べるものがない程、深く温かいものなのです。――というお釈迦さまの話の続きです。
以下お釈迦さまの言葉です。
母の恩は、形あるものから、形なきものに及びます。
受精してから10カ月(まあ40週ですね)の間、行住坐臥いつだって、身重(みおも)の体で大変です。「ああ、身一つで、さっぱりした」なんて時は一瞬たりともないのですから。
食べ物、飲み物、服にいたるまで、自分の好きなものばかり食べたり、飲んだり、着たりすることはできなくなりますし、そんなことにかまってもいられません。
ただ、一心に安産を願って毎日を暮らしていくのです。
やがて時が満ちて、出産の時を迎えれば、陣痛が打ち寄せる波のごとくやってきて、――ここは原文でいきます――骨節ことごとく痛み、汗膏(あせあぶら)ともに流れてその苦しみ堪え難し。
父は、この事態に、心も身もおそれおののき、ただ母と生まれくる我が子の身を案じてオロオロするばかり。親族一同もみな母子の安全を一心に祈るばかりなのです。
そうやってついに子供が生まれると、まるで貧しい人が宝を得たように喜び、祝い、祝福するのです。「よく生まれてきたね」と。
その子が産声(うぶごえ)をあげると、母も自分が誕生したような歓喜に包まれます。
それからは、母の懐(ふところ)を寝床とし、母の膝を遊び場とし、母の乳を唯一の食べ物とし、母の情けを自らの命としていくのです。
母でなければ、お腹がすいても食べ物を食べさせることはできません。
母でなければ、喉が乾いても飲み物を与えることができません。
母でなければ、寒い時に服を着せてあげることもできません。
母でなければ、暑いとき、薄着にさせることもできません。
母は、自分が飢えている時でも、子供に食べさせます。
母は、自分が寒くても自分の着ているものを脱いで、子供に着させます。
母でなければ、子を養うことでできません
母でなければ、子供を育てることができません。
※原文のカキクダシでは、この二行は「母にあらざれば養われず。母にあらざれば育てられず。」という名文句です。
私流のツマラナイ訳にしちゃとう、威厳がなくなってしまうのが良くおわかりでしょう。時々、お経を漢文の棒読みで意味がわからないと文句を言う方がいます。たぶんその方々は、カキクダシにしても、「現代では意味が分からん」と文句を言うでしょう。分かりやすくすればいいってもんじゃないんです。――と坊主のグチであります。わはははは。
――さて、続きです。
慈しみ深い母は子を養う。ゆりかごを離れる頃にはその十本の指は子のウンチヤシッコで汚れているが、そんな指で食事をすることさえ厭わない。
母親からもらう乳の量はなんと合計で八石四斗※にもなる。
そのように、母の恩は天にその果てがないと同じくらいに大きいのである。
いったいそのような慈母にどのように報いたらよいのか考えたことがありますか?
※一斗は18リットル強、石(こく)はその十倍。従って八石四斗は1,500リットル余りになる。
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『父母恩重経』の第三回目ですが、このお経は具体例が多いので、私も説明をしたくなるところが多々あります。おかげで、みなさんのせっかくの意識の流れを中断してしまいます。
でも、とりあえず、あと10回以上続くこの話。芳彦流の訳におつきあいください。全部終了した後で、全文の口語訳をまとめてお読みいただけるようアップします。
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一昨日のお約束。弘法大師が、若き日に室戸岬で修行していた時に詠んだ歌の解説です。これもけっこう深い意味かあるので、何回かにわけてご説明申し上げます。
「法性(ほっしょう)の室戸と言えど、我が住めば、有為の波風寄せぬ日ぞ無き」
とりあえず今日はその通釈です。
「仏さまの気配を多く感じることができる四国の室戸とは言うけれど、未熟な私がここで修行していれば、仏さまのせっかくの聖地なのに、いろいろと娑婆世界の雑念が次々に沸き起こり、私を悩ますことだ」
この歌を「ふーん」ですませちゃ勿体ない。どのように解釈すると、今の私たちが変われるかを、順を追って、とりつぎまする~。
密蔵院ではとても珍しく、昨日、今日、明日と連続三日、法事が一軒づづ。
今日も今日とて、49日法要。面白いと言っては失礼だが、ある一人の方は、その三軒すべての親戚にあたっていて、連続三日密蔵院へ来ることに・・・。
だから昨日の法事の後に言いました。「連続三日というのも珍しいですね。三日間全部違う話をしますからお楽しみにね」
「どうせ、門を出ちゃえば、わすれちゃうからさ、同じ話でもいいよ」と貫祿充分なその奥さま。うはははは。そうはいくか、こっちも意地だ。ぎゃははは。
で、今日お通夜があって、行ったら、その奥さまが。うははは。密蔵院の檀家さんではないのですが、もう友達!って感じです。
町の小さな檀家寺の住職と、檀家さんや近所の関係っていうのはこういうものなんです。情の上にドンとのった仏教的関係はできあがりません。
仏教に「情」はいらないという方々もいるでしょう。それはそれでOKです。でも、そういう方々は、アソビがないような気がするんです。
心からの笑顔で笑うためには、アソビ心、つまり、ゆとりがとても大切だと思います。
長くなりました。失礼しました。。うはははは。
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