花山の思い4番札所(馬みたい)

“深山路(みやまじ)や 檜原松原(ひばらまつばら) わけ行けば 槙尾寺(まきのおでら)に 駒(こま)ぞ勇める”

――大阪市和泉市にあるとは言え、西国観音5番札所の槙尾寺は今でもけっこうキツイ登山。昔のこととて、花山法皇がお参りした頃は、深い森林の山越えだったとも言われます。

ご詠歌の意味は―――
檜や松のそびえ立つ深い山道を分け入って到着するのが、槙尾寺である。このお寺にお参りにするには、馬(駒)のパッカパッカと前へ前へと走るくらいの気持ちがないとたどり着くことができない。このお寺にお参りすると、その駒の気持ちのように、悟りを目指す心をふるいたたせることができることだ。

ご詠歌の「深山路や檜原松原分け行けば」は、具体的な景色よりも、なかなか振りほどけない煩悩にまみれた生き方をしている我が身のことを言っています。
 何で「駒」が出てくるかというと、花山法皇は、槙を牧(場)とかけているからです。そして、仏教では馬がいろいろな意味で象徴的に扱われるからです。

 ご詠歌は和歌なので、基本的に仮名が表記されていたようです。
手元の資料を見ても「こまぞいさめる」とあります。これを「駒ぞいさめる」と表記してあるものがほとんどでした。

よって、私は当初、「いさめる」は「諫める」だと思っていました。馬が貪欲に飼い葉をたべるような、貪欲な心を駒と表現していると思ったのです。その貪欲な馬のような心をこのお寺にきて諫めなさい……そんな意味だと思っていました。
他にもその貪欲な食欲から、煩悩までも食べ尽くすという意味で、馬の首を頭上に頂くおっかない顔をした「馬頭観音」もいらっしゃいます。

しかし、昔からの解釈をひもとくと、どれもが「勇める」としてありました。だとしたら、「駒ぞいさめる」は、煩悩に勇気を与えるとなって、これじゃダークサイドのご詠歌になってしまいます。
よって、駒は、前に向かって走っていく"勢いの盛んなこと"を象徴していることになります。

まあ、どちらでも意味は通じるかしらんと思います。ひょっとしたら、両方取れるように謳ったのかもしれません。
古語の文法から云うと「諫める」は「諫むる」としか活用しないかもしれません。古典の文法に強い方、どなたかご教授いただけましたら、幸甚であります。

「お前って、馬みたいなところがあるな……」――あたなら、こんなこと言われたら、何を連想しますか。人によってさまざまでしょう。般若心経の「無受想行識」とはこのことです。

さて、槙尾寺の本尊さま、千手千眼観音さまに別れを告げて、次に向かうは5番の札所河内の国の、葛井寺(ふじいでら)。
 色彩豊かなご詠歌の登場です。

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 今宵は「声明ライブ」in チピー。
仲間の松谷君と水流(つる)ちゃんの、愉快なデュオ「まつる」も、ギターとジャンベで、げんきになる歌を歌ってくれます。
声明と交互の出演です。
歌の持つ魅力を存分にお楽しみください。
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