結晶化していく時

 昨日のブログで、白雪さんからナイスコメントをいただきましたので、今日はそれについて。

 仏教では「善因善果 悪因悪果」という言葉があります。この言葉日本では、江戸時代あたりから、道徳として盛んに使われるようになって今に至っています。
「いいことをするといい結果になり、悪いことをすれば悪い結果になる」
 霊感商法のヤカラなどは、どれほどこの言葉を使って人の心を騙すか…考えただけで、ゾッとします。

 私は、何を称して悪い結果というのか、非常に微妙ではないかと思っていました。そうしたら……、
 日本では江戸以前から「善因楽果、悪因苦果」だったということを本で読みまして……。ホホウと思ったことがあります。昨日も書きましたが、因のほうは道徳的な善悪で、結果としての善悪や、楽苦は、人の心の内面の問題としてとらえないと非常にアブナイ教えになります。

 そして昨日野白雪さんのコメントへと繋がります。
 
 仏教の教えとしてcoreになっているのは、白雪さんの押しゃるとおり、「因果」なんです。だって、善悪の基準は、国により、時代により、人により異なりますから。
 お釈迦さまは、状況によって変化してしまうような教えは、お弟子さんたちには基本的に言わなかった……というより、言ったとしても、お弟子たちが書き残さなかった筈です。

 お釈迦さまは、説法をする時に、その人の機根に応じて言い方を使い分けたと言われます。こを称して「対機説法」。農民には農民に分かるように、王さまには王さまに分かるように、子供には子供に、お年寄りにはお年寄りに、女性には女性にわかるように、言い方を変えたということです。そりゃそうでしょうね。

 説法は人によって使いわけても、つまり枝葉は異なっても、その元になる根っこは同じです。
「善因善果、悪因悪果」も「善因楽果、悪因悪果」も、根っこは「因縁」という大原則。この大原則を、状況によって変化させたものが、人の数と同じくらい沢山出てくるということでなんです。
 仏教の哲学的な部分(人とは何かについては「縁の集合体である」。現象については「すべてに原因がある」など)と、日々喜怒哀楽で暮らしている私たちに直接関係してくる仏教の実践編としての教えの部分(祈りとか救いに関したことなど)は、境界線が非常に曖昧です。
 それは木の根と幹と枝と葉の境界が捉えきれないのと似ています。
 私自身、まだ明確に捉えらずに、全体として、時により根について話し、場によって幹について書き、お酒を飲んでは枝について蘊蓄をたれ、相談されれば葉について説明する……そんな日々なのだと思います。

 長くなってすみません。この続きは明日になるか、ならぬか…わははは。

 今日は、とある会社の発行する来年の「日めくり」制作に関する第一回の会議に出席の予定。そしてまた今日は26回目の結婚記念日であります。丸25年が過ぎて、夫婦っておもしろいと思えるようになりました。愉快に乾杯しようと思います。
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