平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




最寄りのJR南草津駅
『図説・源平合戦人物伝』に載っている清宗の胴塚の写真を見て、
草津市の遠藤(権兵衛)家でこの塚が保存されていることを知りました。

駅傍に立つ南草津案内板。

「南草津病院を営む遠藤勉医師宅の庭には、
平家の悲劇の若武者・平清宗の胴塚(五輪塔)がある。
首は六条川原に晒されたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、
約820年を経た今でも遠藤家によって懇ろに保存されている。」
(「野路町内会HP」)

平清宗(1170―1185)は、平宗盛の嫡男で
母は中納言三位ともいい、平時信の娘清子です。

清子は清盛の妻時子の妹ですから、
宗盛は1歳年上の叔母を正室にしたことになります。

後白河法皇の寵妃建春門院滋子は、清子の同母姉です。
仁安3年(1168)滋子の生んだ高倉天皇が即位し、
その3年後に時子の娘徳子(建礼門院)が高倉天皇に入内し、
中宮になると、平氏内における時子系統の権威が高まります。
建春門院と血縁関係がある清宗は、法皇に溺愛され、3歳で元服・
内昇殿・禁色(きんじき=特定の位の人しか着用を許されない色)を
許され、従五位下に叙せられます。
このような極端な待遇は、他に例のないものでした。
そして13歳で正三位に昇ります。

宗盛は清子が亡くなると、翌年の治承3年(1179)2月、
権大納言・右大将を辞任し、
後に法性寺一の橋の西に堂を建て、
丈六の阿弥陀像を安置し彼女の冥福を祈っています。

宗盛は凡庸で武家の棟梁としての資質が備わっていなかったといわれ、
評判の悪い人物の1人ですが、妻子に愛情注ぐよき家庭人でした。
宗盛は、篠原で清宗と引き離される際、「十七年の間、一日片時も
離れることはなかった。西国で海底に沈まないで憂き名を流すのも、
右衛門督(清宗=うえもんのかみ)故なのだ」と言って涙を流したという。
物語で語られた生への未練極まりない姿も、我が子を案じ、
気づかう強い思いがそのような形で現れたようです。

そして、清宗も父を慕い案じています。
清宗は処刑の際、義経の厚意によって、宗盛父子の
善知識として招かれた湛豪という聖に向って
「父上の最期はいかがでしたか。」と
尋ね、
「御立派な最期でした。」という言葉に安心して
安らかに斬られたのです。

『平家物語』は、宗盛父子はともに近江国篠原(現、野洲市篠原)で
処刑されたとしていますが、
『吾妻鏡』文治元年(1185)6月21日条によると、
「源義経は近江篠原宿に到着し、橘馬允(うまのじょう)公長に命じて
平宗盛を誅殺させた。次に野路口に至って、堀弥太郎景光に命じて
前右金吾(うきんご)清宗の首をさらさせた。」と記されています。

現在、清宗の胴塚は「医療法人芙蓉会」の敷地内にありますが、
防犯上立ち入り禁止です。事務長のお許しを得て参拝・撮影させていただきました。





平清宗(1170―1185) 平安時代の公卿、平宗盛の長男、
母は兵部權大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、
3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年
壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。

 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、
当家では代々胴塚として保存供養しているものである。 
  遠藤権兵衛家  当主遠藤 勉







清宗塚
 文治元年3月(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平氏を破り、
安徳天皇(8歳)は入水。平氏の総大将宗盛、長男清宗等を捕虜とし、
遠く源頼朝のもとに連れて行くが、頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、
鎌倉に入れず追い返す。仕方なく京都へ上る途中、
野洲篠原にて宗盛卿の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。
 清宗は父宗盛(39歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い
静かに手を合わせ、堀弥太郎景光の一刀にて首を落とされる。
同年6月21日の事、清宗時に17歳であった。首は京都六条河原にて晒される。
 平清盛は義経3歳の時、、あまりにも幼いという事で命を許した。
時を経て義経は平家一門を滅ぼし、又義経は兄頼朝に追われ、
奥州衣川にて31歳で殺される。

 夢幻泡影、有為転変は世の習い、諸行無常といわれるが、
歴史は我々に何を教えてくれるのか。



浄土宗 本誓山教善寺

教善寺の門前にたつ「草津歴史街道」説明板。

野路宿(駅とも)は、古代末から中世にかけて存在した
中世東海道の宿(しゅく)で、
現、野路町に推定されています。
 野路の地名は、『平家物語』、『平治物語』をはじめ、
多くの紀行文にもその名をみせています。

平治の乱に敗れた源義朝主従8騎は、野路(現、草津市野路町)を
通って落延びていきます。疲れ切った落武者たち、中でも初陣の頼朝は
豪胆のようにみえてもまだ13歳、なれぬ重い武具を身に着けての一日中の合戦。
おりからの雪に昼間の疲れが加わって馬上でうとうとしてしまい、
野路辺りから一行に遅れてしまいます。篠原堤(現、野洲市篠原)で
一行は頼朝がいないことに気づき、義朝の乳母子鎌田正清(政家)が
義朝の心を汲んで探しに戻りましたが見つかりませんでした。
(『平治物語・中・義朝奥波賀に落ち著く事』)
平家終焉の地(平宗盛・清宗胴塚)  
平宗盛、我が子副将との別れ(京の源義経の館)  
『アクセス』
「医療法人芙蓉会 南草津病院」滋賀県草津市野路5丁目2−39 
JR琵琶湖線「南草津駅」下車徒歩約10分
『参考資料』
「滋賀県の地名」平凡社、1991年 
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(下)」塙新書、1994年
 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書504、平成24年
「図説・源平合戦人物伝」学研、2004年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 



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