

西鉄「五条」駅から北西に向かい、御笠川沿いに北上すると西鉄「太宰府」駅前に出ます。
駅前からは太宰府天満宮の参道が続いています。

太宰府天満宮は大宰府政庁跡から北東方向に2㎞ほどの場所にあり、
太宰府市役所はこの二ヵ所の中間に位置しています。太宰府天満宮には、
大宰府に左遷され、大宰府で亡くなった菅原道真が祀られています。
大宰府の中枢である四等官の規模は、長官の「帥(そち)」一人、
次官の「大弐(だいに)」一人と「少弐」二人、以下「大監(だいげん)」二人、
「少監」二人、「大典(だいてん)」二人、「少典」二人の計十二名です。
帥の相当位は従三位で、中央の八省の位よりも上でした。
大同元年(806)伊予親王が大宰帥になって以降、
帥には親王がなり、大宰府に来なくなりました。右大臣菅原道真が
大宰権帥(仮の官位、ごんのそち)として左遷されたのは、延喜元年(901)のことです。

太宰府市役所。
市役所駐車場傍の植込みの中に建つ「さいふ参り」の説明板。

太宰府天満宮への参詣は、平安時代より都からの官人や文人などにより行われていましたが、
江戸時代からは「さいふまいり」とよばれ、庶民にも広がっていきました。
「さいふ」は、都から西にある都督府(大宰府)があった地、「西府」の意味もありました。
御笠川に架かる五条橋の付近は、宰府(さいふ)宿(現在の太宰府)の入口にあたり、
橋のたもとに三浦の碑が建っています。この碑は、伊勢の二見浦、紀伊の和歌浦、筑前の箱崎浦の
砂を取り寄せて清めた行事の記念碑として、文政13年(1830)に建てられたものです。
太宰府天満宮参詣の人々は、この碑のところで穢れを払ったのだといわれています。

五条橋の西方には、大宰府の五条大路の名残の道、政庁通りが伸びています。

御笠川の畔に建つ三浦の碑。

大宰府の周辺には、政所(まんどころ)、公文所(くもんじょ)、
蔵司(くらのつかさ)などの多くの役所がありました。
政庁通りの北側にあるこの広場は学校院跡です。田園の中に石碑と説明板がたっています。

中央政府は官吏養成のため中央に大学、地方に国学を設置し、大宰府には
府学校が整備されました。学生は郡司など在地豪族の子弟に限定され、
府学校の教育水準はかなり高かったと推定されています。


「学校院跡
学校院は、西国の役人を養成する機関である。大宰府政庁の東側にあるこの地区は、
小字名を「学業」ということから、学校院があったと考えられている。
学校院では、博士を教官として、中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に、
政治・医術・算術・文章など、役人として必要なことを学んだ。
古代の教育システムでは、通常は国(ほぼ現在の県にあたる)ごとに国博士がおかれるが、
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の六国には博士はおかれず、
学生は大宰府で修学した。学生は、所定年内に必要な科目を修得した後に、
試験に合格すれば役人として採用される。天応元年(781)には約200人の学生が
大宰府に集まったとの記録があり、大宰府が学問の中心地としても
機能していたことを知ることができる。 太宰府市 」(現地説明板より)


政庁の西側の丘の小字蔵司(くらつかさ)には、「蔵司跡」があります。
この役所では、大宰府管内諸国から収納された調庸(租税)の出納事務にあたり、
また倉庫を管理した所と考えられています。

「蔵司地区官衙(かんが)
大宰府には、実務を行う19の役所があったことが知られている。
その多くは政庁の周辺に設けられていたと考えられる。
政庁の西側に位置する丘陵は、現在、字名から「蔵司」と呼ばれている。
「蔵司」は、もともと西海道(九州)九国三島(後に二島)の綿・絹などの
調庸(ちょうよう)物(税)を収納管理する役所である。
集められた調庸物は一旦ここに納められ、その後一部は都に進上された。
後方の丘陵上に礎石建物(倉庫)1棟が存在することは早くから知られていたが、
1978年・1979年に、この丘陵の前面地域が発掘調査され、
二重の築地(ついじ)と、その内部に建物5棟が新たに見つかった。
これらの築地や建物は、8世紀~11世紀前後にわたって営まれており、
「蔵司」を構成する建物の一部であることが明らかとなった。」(現地説明板より)
『アクセス』
「学校院跡」西鉄太宰府線「五条」駅下車徒歩15分、
または西鉄天神大牟田線「都府楼前」駅下車徒歩18分
市営バスまほろば号「観世音寺」より徒歩5分
『参考資料』
杉原敏之「遠の朝廷 大宰府」新泉社、2011年「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
「特別史跡大宰府政庁跡」財団法人古都大宰府保存協会、2009年
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年
太宰府天満宮や九州国立博物館などがあり、学問や文化に縁がありそうですね。
さいふまいりとは、一瞬なにか財布に縁のあるところを
参るのかと思いましたが、違いました。が、 お財布は忘れないように。なんてね。
江戸時代には、世の中が落ち着いて庶民の生活も豊かになり、
全国的に伊勢参りなどの社寺参詣が盛んになりました。宰府宿は黒田藩が設けた28宿のひとつとされ、
太宰府天満宮、その西2キロほど行ったところには、
80年の歳月をかけて天智天皇が創建した観世音寺があります。
観世音寺には、当時、日本に3か所だけの戒壇のひとつが置かれ、
往時には、七堂伽藍を備え49院を擁し「府の大寺」として大伽藍を誇っていました。
大宰府跡とその東方の観世音寺の間が大宰府学校院跡と推定されています。
この地区の発掘調査は、現在まで14回行われ、建物跡が11棟確認されています。
大宰府学校院は中央でいえば大学にあたり、活発な教育が行われていたようで、
観世音寺から大宰府にかけては、古くは文化・学問の中心地だったようです。
太宰府天満宮は「太宰府」駅から歩いて5分ほどのところにあり、
10年ほど前に九州国立博物館が開かれると、この駅で降りる人が一層多くなったそうです。
都でも堂上公家は華やかに権力闘争に明け暮れ、歌舞音曲で気楽に暮らしていたようについ思いますが、その下にはきちんとした官僚組織が整備されて日本全国を網羅して支配していたのでしょうね。
武士が台頭して後、鎌倉幕府が始まる頃まではずっとめちゃくちゃだった…でもなく、全国的にもそれなりにきちんと機能していたのでしょうね。
平氏一門が院の議定に参加することはありませんでした。
清盛の武家政権は、日宋貿易で手にした莫大な富と武力で
朝廷を支えるという形をとっています。とはいうものの、
重要な官職を一門で独占し、一門の知行国は30をこえ、
あまりの隆盛ぶりに不満を持つ者が多く現れます。
このような院政と武家政権の共存は、不安定要素が多く、
両者をとりもっていた後白河院の妃建春門院が亡くなると、
政局は動揺し、反平氏勢力が活発化します。