平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平清盛が経ヶ島築造にあたり、会下山(えげやま)の南麓から
社殿を移したと伝わる七宮神社が兵庫区七宮町にあります。


七宮交差点



七宮交差点から七宮神社境内へ

祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)で兵庫津の産土神です。

同社所蔵の古文書や記録類は、戦災ですべて焼失してしまいました。

同社の木遣(きやり)音頭は、清盛が経ヶ島を築くにあたって会下山麓から
社を移転した際、奉納した獅子舞や用材を運ぶ時に歌ったものという。

七宮神社(経ケ島築造伝説)
創建の年代は定かでありませんが、一説にはもとは会下山(えげやま)の
南麓の集落で、北風家が祀っていたと伝えられます。
清盛が経ケ島築造の工事を進めるにあたり、
暴風雨でなかなか進まないのを不審に思い、調べたところ、
築造に必要な土砂をとっていた塩槌山(しおつちやま)に住む神が怒って
暴風雨を起こすことがわかり、そこにあった神社を現在の七宮町に移築し
祀ったところ、無事築造できたと謂われています。(説明板より)

『七宮大明神記』によれば、経ヶ島の工事は難航したが、この神社に
参詣したことで成就したという。また同書は、一説には会下山の
南麓にあったが、清盛が経ヶ島を築くに当たって移転させたという
社伝も紹介する。(『源平50選神戸』)


会下山は鵯越道から真っすぐに南下すると、最初にぶつかる丘で
源平一の谷合戦では主戦場となった所です。
辺りにはこの合戦で討死した平家公達の塚や墓が残されています。


摂津名所図会が描く現在の七宮交差点付近の船入江の賑わい

兵庫県教育委員会で行われた兵庫津遺跡の七宮交差点の調査では、
絵図に描かれた船入江の石垣が国道2号線の下に埋もれていることがわかりました。
また、この船入江は明治時代中頃まで兵庫津の重要な施設として機能していたとされます。

遣唐使が廃止されて以来、日本は事実上の鎖国状態で、
日宋貿易は私的に大宰府で行われていただけでした。
大輪田泊に宋の貿易船が入港したのは、嘉応2年(1170)9月のことです。
この時、清盛は福原の山荘で宋人を後白河院に対面させています。
これを保守的な貴族たちは、「未曾有の事である。まるで天魔の行いのようだ」と
これまで外国からの使者に院が会うことなどなかったと非難しましたが、
院も清盛も全く気にしませんでした。
後白河院は貴族社会の因習にとらわれない進歩的な考えの持ち主でしたから、
日宋貿易に関しても清盛に協力的でした。宋から院と清盛に届けられた供物に対し、
翌年の承安3年(1173)、両者は返礼の品を贈っています。
これは宋との貿易を朝廷が認めたことになり、貿易は半公的な性格をおび、順調に
展開していくことになります。同年、清盛は大輪田泊を国際貿易港として発展させようと、
阿波民部重良を奉行として私費を投じ、波風よけの人工島の築造を始めました。


築島工事は難工事で大風や大波でたちまち崩れ去ったため、迷信深い公卿たちは、
「人柱を立てるべし」と決議しましたが、「それは罪業だ」といって清盛は反対し、
石の表面に一切経を書かせ、この石を廃船に積んで船ごと沈めました。
そのためこの人口島は経ヶ島(経の島)と名づけられ、一応、2年後には完成を見ましたが、
しかし完全には修復できず、私財にも限界があることから、清盛は国家事業による
改修を願い出ます。これが許可されたのは治承4年(1180)2月のことでした。
その三ヶ月後には、以仁王の謀反が起こり、源平の争乱が始まると、
改修計画は実行に移されることはありませんでした。
こうして清盛が完工を見ることができなかった経ヶ島築造工事は、
東大寺の大仏勧進僧重源の国営工事によって完成しました。

大輪田泊はその後、兵庫津、兵庫港として発展し、度々埋立て整備が行われ、
経ヶ島は陸地となり大きく変わってしまったため、この島の詳しい場所は不明です。

『源平と神戸』は、経ヶ島の位置について、築島寺が島上町にあることや旧図、
中山忠親の日記『山塊記』の記事などから、次のように見当がつけられるとしています。
南端…新川運河南側の南岸
北端…島上町北の松屋町辺
西端…新川運河に架かる大輪田橋辺
これは南北約900m、東西約420m、面積約11万5千坪

風鈴さまより塩槌山(しおつちやま)についての情報をいただきました。
追記させて頂きます。

『西摂大観』によると、羽坂通には平安時代まで塩槌山と呼ばれる
小山があったが、平清盛が経ヶ島を築くため崩したという。
塩槌山には大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られ、
その神の怒りで風波を引き起こさぬようにと、
七宮神社を建立して島の完成と港の安全を祈願したとされる。
(以上、大輪田の泊と平清盛の時代
神戸市兵庫区総務部まちづくり課のサイトより転写)

地下鉄海岸線「中央市場駅」付近には、大輪田泊をしのぶ史跡が点在しています。
大輪田泊・経ヶ島(古代大輪田泊の石椋・築島寺・金光寺・和田神社)
『アクセス』
「七宮神社」神戸市兵庫区七宮町2丁目3-21
JR神戸線「神戸」駅より、国道2号線に沿って西へ徒歩約10分
神戸市バス「七宮町」バス停下車すぐ
『参考資料』

高橋昌明編「王朝への挑戦 平清盛」別冊太陽・平凡社 「兵庫県の地名」(Ⅰ)平凡社
神戸史談会「福原遷都から800年 源平と神戸」神戸新聞出版センター 
「兵庫県の歴史」山川出版社 
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 
杜山悠「神戸歴史散歩」創元社 「源平50選神戸」神戸新聞社

 



コメント ( 6 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
日宋貿易が順調に拡大した事は清盛に力を与えたのでしょうね。 (yukariko)
2015-08-06 11:39:22
九州の太宰府近辺で細々と交易が行われていたのに比べ、兵庫津に国際貿易港が出来れば、京都にも近くさらに発展するだろうとの清盛の読みが当たり、難工事をいとわずに持ち前の実行力で進めたのに…動乱のあおりを受けて港の整備は遅延して成果を上げられなかったのですね。
結局1196年重源によって完成、実際の貿易の恩恵は鎌倉幕府以後の政権が受けたのでしょうか。
 
 
 
そういうことになります。 (sakura)
2015-08-07 09:29:56
朝廷や鎌倉幕府は自ら負担すべき大寺社の造営や修理の
費用を諸国の津であがる関税で賄うようになります。
兵庫津にも関所が置かれ、主に東大寺がこの関を管理していました。

東大寺には関のあがりでまず港の整備を行い、
残りを寺の収入にすることが義務付けられていましたが、
この特権に対して反対する寺社が多くあり、後にトラブルが発生しています。

第3代執権北条泰時も大型船が入港できなかった鎌倉の海に
和賀江島(人口島)を築かせています。
そして中国文化を直接とり入れ、鎌倉独自の武家文化が
開花することになります。
清盛の築いた日宋貿易は、しっかりと鎌倉幕府に受け継がれました。
 
 
 
塩槌山 (風鈴)
2019-12-18 11:12:31
古い記事にお邪魔しましてすみません。
ちょうど経ヶ島を調べていたものですから・・・

ここでは塩槌山があったのは会下山と書かれていますが、もっと南で今は羽坂通と名前がついている辺りです。
それから、築島工事での人柱は、30人必要となっていたのを一人の男が自分が人柱になるから、他の人は助けてほしいと願いを立て亡くなったとされ、清盛はその一人を奉る神社を建てています。

以上、横やりを入れましてすみませんでした。
 
 
 
ご訪問ありがとうございます。 (sakura)
2019-12-18 15:13:14
風鈴さま
経ヶ島をお調べになってらっしゃるそうですね。
平清盛が、経ケ島を築造するための岩を切り崩したのが塩槌山といわれています。
この山については、はっきりとした場所が特定できないと思っていましたが、
現在の羽坂通と名前がついている辺りなのですね。
何か資料をご覧になったのでしょうか。教えていただけると幸いです。

七宮神社の現地説明板(経ケ島築造伝説)には、
「創建の年代は定かでありませんが、一説にはもとは会下山(えげやま)の
南麓の集落で、北風家が祀っていたと伝えられます。
清盛が経ケ島築造の工事を進めるにあたり、
暴風雨でなかなか進まないのを不審に思い、調べたところ、
築造に必要な土砂をとっていた塩槌山(しおつちやま)に住む神が怒って
暴風雨を起こすことがわかり、そこにあった神社を現在の七宮町に移築し
祀ったところ、無事築造できたと謂われています。」とあり、
七宮神社が会下山の南麓の塩槌山にあったとしています。
この説明板の画像は記事に載せています。

神戸史談会「神戸市と源平」昭和56年発行にも、七宮神社について、
元は会下山の南麓の集落で北風家が祀った神社であったと記されています。
七宮神社は会下山の南麓にあったと書くべきでしたね。
南麓を付け加えておきます。ありがとうございました。

2012年6月29日の記事に
築島寺(来迎寺)について書いています。
以下、この記事より一部転写させていただきます。

清盛が大輪田泊修築工事にあたり、激しい雨風に工事が難航した際、
清盛の小姓松王丸が進んで人柱となり暴風雨を鎮めたという。
その霊を弔うために清盛が創建したと伝えています。

松王小児入海之碑
二条天皇の御代、平清盛公はわが国の貿易の中心はこの兵庫であるとの
確信をもって、良港を築くため海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし潮流が早く非常な難工事で、完成目前に押し流されることが二度に及んだ。
時の占い師は「これは竜神の怒りである。30人の人柱と一切経を書写した
石を鎮めると成就するであろう」と言上した。そこで清盛は生田の森に隠れ関所を構え
通行の旅人を捕えさせたが、肉親の悲嘆は大きかった。

このとき、清盛の侍童で香川の城主田井民部氏の嫡男松王十七歳が
「人柱のことは罪が深い。わたしひとりを身代りに沈めて下さい」と申し出た。
応保元年(1161)七月十三日、千僧読経のうち松王は海底に沈み築島造営は完成した。現在の神戸港の生い立ちである。
天皇は大いに感動されて松王の菩提を永く弔うため
当寺を建立し、念仏の道場とされた。(現地説明板)

しかし、平家物語は人柱説を否定しています。「阿波の民部重能を奉行として築かれ、
人柱を立てるべしとの公卿詮議がありましたが、
それは罪深いことだと言って石の表に
一切経を書いて沈めさせました。それ故、経の島と名づけられました。」(巻6・経の島の事)


 
 
 
遅くなってしまいました (風鈴)
2019-12-22 21:06:13
通りすがりに思わずコメントしてしまったため、
コメントに返信頂いていることに気付かず
遅くなってしまい申し訳ありませんでした。

塩槌山があった羽坂通ですが
神戸市の兵庫区の区の案内で記事を見つけました。
七宮神社の説明の中に
「『西摂大観』によると、羽坂通には平安時代まで塩槌山と呼ばれる小山があったが、平清盛が経ヶ島を築くため崩したという。塩槌山には大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られ、その神の怒りで風波を引き起こさぬようにと、七宮神社を建立して島の完成と港の安全を祈願したとされる。」
とありました。

これを元にいろいろ昔の地図を探していたところ
羽坂通に今ある「八王寺」というお寺の場所が、かなり昔の地図にもあったのですが、その場所が平安時代の地図では、山となっていたのでそうだと思いました。(この地図はネットで見つけたのですが、なくしてしまいました。すみません)

塩槌山=羽坂はその他いくつかのサイトでも見ました。また検索してみてください。

それから、経ヶ島ですが・・
これは私もどちらが正しいかわかりません。
松王丸の供養塔が築島寺にあるので、そうだと思っていました。
またどこかで信憑性が高いものを見つけましたら、ご報告いたします。
まだまだ勉強不足ですのに、横やりを入れてしまいましてすみませんでした。

 
 
 
Re:遅くなってしまいました (sakura)
2019-12-23 09:55:46
風鈴さま
貴重な情報ありがとうございました。

早速、神戸市の兵庫区の区の案内を検索してみました。
記事に追記させていただきます。
また何か情報があれば教えていただけると助かります。
 
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