平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




地御前神社は厳島の対岸、明神山の社叢を背にして鎮座しています。
かつて厳島神社も伊勢神宮同様、内宮と外宮から成り、
明治維新までは厳島神社を内宮、当社を外宮(現在は摂社)としていました。
厳島が聖地と見なされた時代、島には社殿を造ることが許されなかったため、
対岸に神社を造って神を祀り、外宮はその島を遥拝する社でした。
その後、次第に島を禁足地とする意識は薄れ、島内に社殿が建てられるようになると、
祭祀の中心は外宮から内宮に移っていきました。

現在の地御前神社は、拝殿一宇・本殿二宇・幣殿一宇からなっていますが、
仁安3年(1169)に厳島神社神主佐伯景弘が書き残した文書によると、
十九宇の社殿があったとされ、当時の規模の大きさを物語っています。
この頃、清盛は私財をつぎこみ厳島神社の社殿を寝殿造りに作り替え、廻廊をめぐらし、
大鳥居を建て替えているので、外宮の修造も清盛の援助によるものとされます。

社伝によると、創建は厳島神社と同じ推古天皇元年(593)頃と伝えられています。
祭神も厳島神社と同じで、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を主祭神として、
田心姫命(タゴリヒメノミコト)、湍津姫命タギツヒメノミコト)のいわゆる宗像三女神を祀っています。



国道2号線、広島電鉄宮島線とJR山陽本線に挟まれて建っています。

拝殿、その背後に本殿。

社殿は国道2号線そばにありますが、車の往来が激しいこの国道はかつて海でした。

画像は早稲田大学古典籍総合データーベース「厳島図会」よりお借りしました。
江戸時代に発行された「厳島図絵」を見ると、地御前神社のすぐ前には海が広がり、
鳥居は海中にたっています。

平安朝ころ、都で盛んに行われていた管絃の風習を平清盛は厳島神社に移しました。
都で行われていたのは、河川や貴族の邸宅内で苑池に船を浮かべる「管絃の遊び」でしたが、
清盛はこれを神事として瀬戸内海で催すようになりました。
楽器も多く、
人数も多いことから大型の船でないと間に合わず、貿易船を用いたものと思われます。
現在、旧歴の6月17日の夜に催される管絃祭は、午後4時厳島神社の本殿で
発輦祭(はつれんさい)が行われ、次いで本殿から出た
鳳輦(ほうれん)を管絃船に移し、3艘の漕ぎ船にひかれ大鳥居沖に進みます。
船内で管絃を合奏しながら対岸の地御前神社の入江に入り、
管弦3曲を奉納して厳島神社に還ります。

また、陰暦の5月5日には、御陵衣祭が催され雅楽舞や流鏑馬神事が奉納されます。
『アクセス』
「地御前神社」 広島県廿日市市地御前5丁目
広島電鉄宮島線「地御前駅」から徒歩約10分。

『参考資料』
「広島県の地名」平凡社 「伊都岐島」厳島神社社務所 日下力「厳島神社と平家納経」青春出版社



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