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色々なドラマがありますね! (yukariko)
2009-11-15 12:33:51
「関所の番小屋から一人の侍が出てきて…」の所など『安宅の関』を思い出します。

あちらは富樫が「義経主従」と分かっていながら表面上は弁慶の芝居に騙されたふりをして逃がしてやる訳ですが、こちらはどうだったのでしょうか?

家臣たちの身代りや手助けでかろうじて虎口を逃れ、尾張の内海の長田屋敷まで徒歩裸足になりながらも辿りつき、温かくもてなされ新年を迎えた時は
義朝はホッとした事でしょう。
このまま源氏の勢力下に戻る事が出来れば捲土重来も果たせるだろうと…。

頼朝も様々の苦労をして青墓に辿りついたのに…その結果がまた思いがけない展開になる訳ですから朝長と比べても人の運命とは分かりませんね。
 
 
 
関守 (sakura)
2009-11-16 13:38:36
今回金刀比羅宮蔵本を底本とした「平治物語」を
テキストにして読んでいます。
「平家物語」が盲目の琵琶法師によって伝えられたように
「保元・平治物語」も内容を少しずつ変えながら琵琶法師が語り
多くの異本を生み出しています。

京都市宇多野にある陽明文庫に伝えられている陽明文庫蔵
「平治物語」(「将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語」小学館)には、
この関守の箇所はなく「国府津という所に関所があり萱舟といって
無事通り抜けることができた」とさらっと語っています。
この本では義朝が平治の乱に負けて以後のことは
金王丸が尾張から常盤の許にやってきて「龍華越~青墓~杭瀬川
~野間で義朝が討たれた事」までを常盤への金王丸の報告談という形をとっています。

日下力「平治物語」によると
『陽明本は原作に相対的に最も近い形態を残存させているテキストであり、
源氏中心の物語ではなく原作者が抱いていたのは源氏一族よりも、
彼らを追討した平氏一門の方ではなかったかとまで思われるのです。
そこに作品の成立した時代の微妙な世相が臭ってくる』とあるように
陽明文庫蔵本には
「頼朝はこのあと青墓の宿で捕えられ、
伊豆に流され、二十余年の年月を送られ世に出られた時、
まずこの鵜飼をたずね小平をはじめ十余ヶ所をお与えになった。
『情けは人のためならず』とはこのようなことをいうようです。」
などのような源氏中心の物語の箇所はありません。

歌舞伎「勧進帳」や謡曲「安宅」で有名な関守富樫は、
加賀国の豪族で実在の人物ですが、「義経記」には
頼朝に追われ奥州へおちる義経主従が加賀国で富樫介という守護が、
義経を待ち受けているという噂あり云々と書かれていますが、
安宅の関のくだりは書かれていません。
「安宅の関」は判官びいきが生んだ虚構のようです。
「平治物語」に登場する関守も琵琶法師が語っているうちに物語を
ドラマチックにしようとした作り話かもしれませんね。

義朝がほっとしたのもつかの間、長田忠致は野心家でしたから、
源氏を見限って主人を暗殺し六波羅から恩賞を貰い出世しようとしたようです。
 
 
 
頼朝の1人落ち (うの)
2012-04-03 15:28:30
平治物語をもとにして、現地をこれほど詳しく調べてまとめてあり、とても参考になりました!
 頼朝が、皆についていけなくなった後のことは、平治物語では、詳しくかいていないのですが、滋賀県長浜市東部にのこる大吉寺は、頼朝がたちよったという
伝承が残っているそうです。大吉寺から青墓までの距離がかなりあります。本当に道を間違えて、伊吹山より北の場所までいったのでしょうか。
 「古典講読シリーズ平治物語」日下 力著
  岩波セミナーブックスの中の地図に、名前が載っているところから知りました。ただしこの本は、現在は図書館で見るか、古本での入手になると思います。、
 
 
 
大吉寺 (sakura)
2012-04-04 16:17:11
「吾妻鏡」文治3(1187)年2月9日条にこんな記事が載せられています。
大夫属(さかん)定康が鎌倉に参上し、平家の世では源氏の味方であることから
近江の所領を没収され、平家が滅亡した後は守護である佐々木定綱が押えている。
平治の乱で敗れた源義朝が東国・美濃国に逃げる途中、
その場に行き合わせた定康が氏寺である大吉堂の天井に匿い、
院主阿願坊はじめ住僧らに警護させた後、自宅にお招きして
翌年の春まで忠節を尽くした。と功労を申し立てると、
元通り近江の所領を定康が知行するよう命じられた。

平治物語では、不破の関は敵が固めていると聞いた義朝一行は
小野の宿(彦根市小野町)から東海道を右手にして
小関をさしておちた。とありますが、
「吾妻鏡」によると彦根より北の大吉寺に匿われていたことになりますね。

大吉寺は鎌倉時代には幕府の庇護を受けて栄えていたようですが
、度々の兵火にかかり伽藍が焼失、長浜市野瀬町の
天吉寺山頂上付近に寺跡があり現在は山麓の子院が
寺名を継いでいます。
 
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