平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




 保元・平治の乱の頃には、大炊氏と源氏の間には
深い姻戚関係があったことは前回述べました。
大炊(おおい)氏の先祖多臣品治(おおのおみほむじ)は壬申の乱で
活躍し、その子(甥とも)太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)は、
我国最古の歴史書古事記を編纂した人物です。

今回は時代を遡って、わが国古代史最大の争乱といわれる壬申の乱を
簡単に見てみます。壬申の乱の原因は色々ありますが、中心になるのが
天智天皇の子大友皇子とその叔父大海人(おおあま)皇子の間で
7C後半に起こった皇位継承争いです。都を近江大津宮に移していた天智天皇は
陰で自分を支えてきた同母弟の大海人皇子を後継者としていましたが、
息子の大友皇子(後の弘文天皇)が成長すると、大友皇子を太政大臣に任命し
即位を願うようになります。これをさとった大海人皇子は、
自身の微妙な立場を考慮し出家して吉野にこもります。

まもなく天智天皇が近江大津宮で崩御した後、近江朝廷が不穏な動きを
見せているとの報告を受けた大海人皇子は、美濃にある自分の領地を基盤にして
672年6月反乱を起こします。当時美濃国には、大海人皇子に与えられていた
湯沐邑(ゆのむら)があり、そこを管理していたのが多臣品治です。
湯沐邑は皇太子や皇后の領土で、湯沐邑を管理する役人を湯沐令(ゆのうながし)
といいます。大海人皇子の湯沐邑は、濃尾平野の西から長良川と揖斐川に
挟まれた地・現在の安八群、大垣市ほぼ全域とその北側の揖斐郡の一部で、
そこには鉄や銅を産出する金生山もあるという豊かな土地です。

日本書紀によると大海人皇子は、側近として仕えていた美濃の豪族
村国男依(むらくにのおより)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)
身毛君廣(むげつきみひろ)を呼び「聞くところによれば近江朝廷の者は、
私を殺そうとしている。急いで美濃国へ行き管理人多臣品治に告げ、兵を集め
美濃国司に圧力をかけ、まず不破道を塞げ。」と命じたと書かれています。
美濃と近江を結ぶ不破道を塞いで近江朝廷軍を防ごうというわけです。

まもなく大海人皇子も吉野から徹夜で伊賀への道を急ぎ、途中合流した
長子の高市皇子(たけちのみこ)と鈴鹿の道を塞ぎ美濃に入り、
不破の野上に行宮をおいてここから全軍に指令を出しました。
一方先手を打たれた大友皇子側は、諸国に兵を募りますが、東国に送った使者が
不破道で大海人皇子軍に阻まれ、近江軍内部でも分裂が起こります。
さらに近江朝廷を見限って大海人皇子が挙兵する数ヶ月前から
大和に帰っていた大伴吹負(ふけい)が大海人皇子側について兵を挙げて、
近江を南から攻め、東山道では、村国男依が不破から息長(おきなが・
現米原市醒ヶ井)で近江軍を破り以後連戦連勝し近江に入ります。
最終決戦地となった瀬田でも、近江大津軍は大敗し大津京は陥落します。
大友皇子は山中で首を吊り、壬申の乱は二十日位で決着がつきました。

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<自害峯への道しるべ
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◆「関の藤川(藤古川)」 自害峯と不破関跡の間を流れる川で、
壬申の乱では、この川の東が大海人皇子、西が近江朝廷側であった。

◆「自害峯(弘文天皇御陵候補地)」 不破関跡から旧中山道に沿って
藤古川を越えて西へ少し行くと自害峯の道標があります。
壬申の乱で自害された大友皇子の御首をもって、村国男依は凱旋し
大海人皇子が首実検して自害峯に葬ったと伝えられています。

◆「黒血川」自害峯の麓を流れる小さな川ですが川底が深く壬申の乱では
軍事上の要所となり、両軍の血潮で川が黒々と染まったといわれています。








壬申の乱後、大海人皇子は功労者を讃え天武二年(673)
飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら)で即位し天武天皇となります。
地方豪族政治から中央集権政治への切り替え、公地公民制の推進や
八色(やくさ)の姓を制定し、天武天皇は古代天皇制の基礎を作ります。

さらに神代から続く天皇家の系図や歴史をまとめようとしますが、

諸家(大伴氏等)が持ち寄った王統譜「帝紀」や伝承「旧辞」に誤りが多いため、
記憶力に優れた当時28歳の稗田阿礼に命じて誦習させます。
それは「勅語旧辞」と呼ばれて伝えられますが完成しませんでした。

天武十三年(684)になって、壬申の乱で三千の兵を率いて伊賀国た萩野
(たらの・三重県上野市)で近江軍を撃退した多臣品治は、
朝臣の姓を賜り翌年には御衣袴を賜りさらに持統十年(696)には、
直広壹位を授けられたとあります。

奈良時代になって元明天皇は、和銅四年(711)稗田阿礼が誦習したものを
太安万侶にまとめ編纂するよう命じます。
和銅五年(712)太安万侶は天地開闢に始まりイザナギ命・イザナミ命の
国生み神話、スサノオノ命の大蛇退治など神代より推古天皇に至る皇室の系図を
中心に神話・伝説・歌謡を収録した古事記三巻を献上します。
昭和五十四年、奈良市田原の茶畑で太安万侶の墓誌が遺骨とともに出土し
墓誌には「左京四条四坊(居住地・奈良市三条添川町、三条宮前町、三条大宮辺)
従四位下勲五等(位階勲位)太朝臣安万侶、癸亥年(養老七年・722)
七月六日を以ちて卒す。(没年) 養老七年十二月十五日乙巳」と
記してあり、ビッグニュースになりました。
『アクセス』
「不破関跡」岐阜県不破郡関ヶ原町松尾21-1 JR関ヶ原駅下車徒歩20分

「弘文天皇陵」京阪電車石山線別所駅より徒歩10分
弘文天皇参拝道の碑を西へ少し行った角(大津市の案内板あり)を左折すぐ
『参考資料』
直木孝次郎「壬申の乱と古代の美濃」大垣市文化財保護協会編 
00年7月号、01年2月号「歴史読本」新人物往来社

№649「近畿文化」近畿文化会事務局  倉野憲司校註「古事記」岩波書店 
「日本古代氏族人名辞典」吉川弘文館

 





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