平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
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源義朝野間へ敗走・頼朝青墓到着
平治の乱義朝・常盤・...
/
2009-11-13
平治の乱に敗れた
義朝は
東国へ敗走の途中、美濃国青墓宿に立ちよりました。
青墓の長者大炊(おおい)の娘延寿は、義朝となじみの間柄で
2人の間に夜叉御前がいました。
それだけでなく大炊の姉は、義朝の父為義の晩年の愛人となり、
乙若・亀若・鶴若・天王を儲けています。
保元の乱後、為義や乙若以下、幼い4人の息子を処刑され、
延寿の伯母が桂川で入水したことや天王の乳人であった平太政遠が、
主君の後をおって自害したことが『保元物語』に記されています。
大炊は義朝にここで年を越してから出発するよう引きとめます。
義朝は「ここは街道沿いなので人目が多くて危い」と出立しようとする所に、
宿の男達が義朝の噂を聞きつけ多勢で押し寄せましたが、
佐渡式部重成がこの窮地を救ってくれました。
自ら義朝と名乗り、重成が自害する間に義朝らは青墓宿を出ました。
義朝は乳母子の鎌田正清に「街道は宿場、宿場で平家が固めていてとても通れまい。
ここから川をくだって尾張の内海に行きたいと思うがどうであろう。」と言うと
「鷲の栖(養老郡養老町鷲の巣)源光(平三真遠)は、永く比叡山の僧徒でしたが、
現在は養老寺の住職をしていて逞しい男です。頼りになさいませ。」と申すので
使いをやると大炊の兄弟にあたる源光は小舟を一艘用意し「追われている身なら、
萱の下に隠れてなさい。」と言って義朝・平賀四郎・鎌田正清・金王丸を乗せ、
萱の上にさらに柴を積んで杭瀬川を下っていきました。
今の杭瀬川は狭い川ですが、昔はかなりの川幅があり流れも速かったようです。
途中、関所の番人が、舟を止め積んである柴を除けます。万事休す!
源光は自分も自害し左馬頭殿にも自害して頂こうと思っていると、
関所の番小屋から一人の侍が出てきて「義朝殿が落ちるのに
どんなに小人数といっても2、30騎より少ないことはあるまいし、
こんな小さな舟で下るとも思われない。早く行け。」こうして関も無事通過し、
川から海上に出て12月29日、一行を野間内海に送り届けました。
杭瀬川に架かる杭瀬橋
義朝が頼った知多半島内海の長田(平)忠致は、尾張国野間内海荘、
駿河国長田荘を所領としていたので長田(おさだ)庄司ともいい、
源氏代々の家人です。その上、鎌田正清(正家・政清とも)の
舅でしたから、信頼し立ち寄ったというわけです。
野間内海に辿りついた時には、馬もなく裸足という惨めな姿の義朝を
長田忠致は屋敷に泊め、さまざまにもてなし新年を迎えます。
『保元・平治の乱を読みなおす』によると「長田忠致は、平将門の叔父良兼の
系統に属する。10世紀末から11世紀の初め、良兼の孫致頼(むねより)、
その子致経が伊勢の所領をめぐって、貞盛の子維衡らと抗争するが敗北。
拠点を失って尾張に逃避したのであろう。河内源氏との主従関係が
いつ形成されたのかは不明だが、鎌田正家の舅とあるから、
京と東国を往復する義朝に接近して、郎従とも姻戚関係を
結んだものと考えられる。」と書かれています。
一方、吹雪の中で父とはぐれた頼朝は「正清はおらぬか。
金王丸はおらぬか。」と呼びながら一晩中さまよい歩き、明け方近くなって
山寺の麓にある小平(栗東町小平井か)という里に迷い出ました。
とある小屋の軒下に立っていると「左馬頭殿(義朝)やご子息が大勢でこの山に
差しかかられたそうだが、この雪の中どうして落ち延びることができようか。
探して捕え平家に褒美をもらおう。」と中から話す声が聞こえてきます。
頼朝はこっそり足音を立てないように立ち去り、思案にくれ
谷川のほとりの石に腰をかけていると、ある鵜飼が頼朝を見つけ
「左馬頭殿のお子様でいらっしゃいますか。平家の侍どもが、山から里に
下りてきて家ごとに探すと聞いております。私どもの家においでなさい。」と
声をかけます。「何をかくそう。我は義朝の子なり。汝は情けある者のように
みうける。頼朝を助けよ。」と仰ると鵜飼は頼朝を背負って家に連れて帰り、
食事をさしあげるとようやく人心地がついたようです。
鵜飼は急いで納戸の床板を外して穴を深く掘って頼朝を入れ、床板を
打ち付けた所に平家の侍がやってきて家中探し、納戸の床を破ったり
天井の上までも探しますが、誰もいないので出て行きました。
鵜飼は髭切の太刀を包んで持ち頼朝を女房姿に変装させ、男が女を
連れていく様子で小関を通って青墓の宿まで送ってくれました。
頼朝は「万一自分が世に出る時がくれば訪ねてくれ。
この恩は決して忘れないぞ。」と言って鵜飼を帰します。
頼朝はこのあと青墓の宿で平宗清に捕えられて伊豆に流され、
二十余年の年月を送り世に出た時、まずこの鵜飼を訪ね
小平をはじめ十余ヶ所を与えました。
『情けは人のためならず』とはこのようなことをいうようです。
青墓の大炊の屋敷に行き「頼朝なり」と仰ると、
大炊や延寿は大喜びでさまざまにもてなします。
『アクセス』
「赤坂総合センター」
JR大垣駅 →「赤坂総合センター行き」バス 約25分終点下車
赤坂総合センター隣の消防署で無料レンタサイクルをお借りしました。
「長田屋敷跡」名鉄電車知多新線「野間」駅下車
(名鉄電車名古屋駅から約1時間)徒歩約7分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
日本歴史地名大系「岐阜県の地名」平凡社 「平安時代史事典」角川書店
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