コメント
 
 
 
美濃が古代より重要な地だったのですね (yukariko)
2009-11-03 00:15:51
壬申の乱で大海人皇子が吉野から密かに伊賀を抜けて不破の関を固め、大友皇子の各地への援軍要請をさせずその後の戦でも勝ち、近江朝を滅亡させて即位、天武天皇となった…と昔習いました。

長年兄天智天皇を支えて政治を取ってきた大海人皇子には、戦略上一番重要な場所が分かっていたのだと思っていたのですが、その重要な地点に自分の豊かな領地があったのですね。

そこを修める管理人多臣品治はもちろんですが、隣接する美濃国司も長年の有力者だった大海人皇子の意向には従ったでしょうから、天智天皇の意向で決まった若輩の弘文天皇では武力・政治力共に太刀打ち出来なかったでしょうね。

美濃と不破の関の辺りは古代からずっと重要な地点であり続けた訳で、その一帯の豪族として連綿と続いた大炊氏もその地方では有力な豪族ですね。

太安万侶の墓誌の記事は読みましたがその彼がこの一族とはびっくりしました。
天武天皇の治世下でも多臣品治は股肱の臣として活躍したのでしょうね。
朝臣の姓を賜り位階も授けられたとか。

それまで無関係と思っていた人が思いがけない所でつながるのが不思議というか!

コメント欄の「taira様」「木邑様」の多数のコメントに!!と読ませて頂きました。
スペインからのコメントにもびっくりしましたがとても真面目で学究的な内容に感心しています。
sakuraさまも付き合われて、お訪ねになったり、問い合わせられたり、難しいご本や資料をずっとお調べになっていらっしゃるのですね。

呑気に読ませて貰ってお気楽な感想を書いているのが申し訳ないような気がします。
 
 
 
お気楽な感想で十分です (sakura)
2009-11-04 16:32:50
お返事する方も素人ですから難しいことは分かりません。

「美濃を制するものは天下を制す」
などという言葉もあるように濃尾平野の肥沃な土地からの
産物や鉱物資源に恵まれた地であったため飛鳥時代には
大海人皇子の領地、平安時代になると美濃は受領たちが望む
大国で源頼光は再度にわたって美濃守に任命され、
この時得られた富で道長に随分奉仕しています。

多氏は、多から同じ音の大炊を名乗り、その後桓武平氏系
平国香の三男兼遠となります。保元平治の頃には、
源氏と縁を結んだことはご存知の通りです。

天智天皇が大化改新で中央集権国家を目指し、
天武天皇がそれを完成させますが、壬申の乱の後、
多臣品治は、天武天皇の手足となって諸国を巡り
境界を定めています。
多臣品治の子太安万侶は、古事記の序文とその没年が
「続日本書紀」に記されているだけで、太安万侶は
本当に存在していたのだろうかなどと言われたりも
していましたが、
茶畑を掘り起こしていた畑の持ち主が墓誌をみつけその存在が証明されたわけです。

これも随分前になり、今は主催者が違うようですが、
奈良交通が主催する「万葉大和路を歩く会」があり、
万葉集の故地を57のコースに分け、たまにはバスに乗ったりもして
訪ねるという楽しい催しがあり、この会から墓誌が発見されたという茶畑にも行きました。
会のスタッフの一人がもと産経新聞奈良支局の記者で、
現地で墓誌発見当時の取材の様子を話して下さいました。
茶畑は奈良といってもずっと東、春日大社からささやきの小径を抜け
高円山の東南不便な場所にありましたが、
丸く刈り込まれた茶畑が続く印象深い所でした。

太安万侶は、墓誌によると現在のJR奈良駅の西辺に
住んでいたことになりますが、
「田原本町多」に多一族が住んでいたという地域があり、
多神社や太安万侶を祭神とする小杜神社があります。
壬申の乱後、多臣品治がここに住み始めたのか、
太安万侶の子孫が住むようになったのかは分かりませんが、
どちらにしても多氏の拠点だったことは確かなようです。

公民館活動で平成17年から三年余にわたり講師を招いて
古事記を読みました。序文の所で太安万侶は壬申の乱で活躍した
多臣品治の子と習い資料も頂きましたが、
聞きなれない名前の「多臣品治」は遠い存在でした。
元円興寺に上り大炊一族の墓に立ててあった駒札を
読んで
やっと「多臣品治」が活きた人物として登場したわけです。

平康頼については素人の私があれこれ口をはさむ余地はないのですが、
各地にある県立図書館に照会すれば資料を探して下さるので
お願いしましたが、中々いい結果は得られません。


 
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