平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



西行は弘川寺の座主であった空寂上人に心酔し、この地を
終焉の地に選んだといわれています。南北朝時代には、
楠木正成の戦場となり、戦国時代には家督相続をめぐり
河内国守護
畠山氏兄弟による河内国の争奪戦で堂塔はことごとく焼失してしまいました。
江戸時代に「今西行」
と呼ばれた似雲(じうん)法師が
この地を訪れ、諸堂を再建しました。

弘川寺をはじめて訪ねたのは平成14年春のことでした。
近鉄電車上太子駅から14Kの道を竹の内街道から叡福寺、小野妹子の墓、
磐船神社、高貴寺など寄り道しながら、葛城山系の麓を通って
ウォーキング仲間とともに
満開の桜をくぐり辿りつきました。
手入れの行き届いた庭園に面した方丈で、ご住職から西行、似雲、
待賢門院璋子、美福門院などのお話を聞いた後、西行、似雲ゆかりの
資料を
集めた西行記念館に案内していただきました。

再び弘川寺に参拝したのは、山全体がまだ薄茶色に染まっている
平成19年の春まだ浅い頃でした。
花にはまだ早いこの季節、不便な場所に位置する
この山寺に上ってくる人影はまばらです。

やはり以前訪ねた春の華やかな時とは、だいぶ様子が違っています。


弘川寺本堂
「弘川寺 当寺は天智天皇四年役行者によって創建せられ、天武・嵯峨・後鳥羽
三天皇の勅願寺で、本尊は薬師如来であります。
この上に西行堂が、更に
丘上に西行墳と似雲墳があります。本坊には西行に関する文献を保存し、
庭園に天然記念物「海棠」の老木があります。」(現地駒札より)


本堂の右手に回って少し上ると似雲法師が建てた西行堂があります。
堂内には西行坐像が安置され、お堂の左手には川田順筆の歌碑がたっています。
 ♪年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 
この歌は西行が東大寺再建の砂金を勧進するため、奥州へ赴いた時、
難所で有名な掛川の小夜の中山で詠んだものです。

さらに山道を上ると、本堂裏山の広場に西行の墓があります。

西行の墓は小さな円墳です。傍らに西行の歌碑があり、
その前には人の背丈の二倍はありそうな塔婆が立っています。

西行墳
西行(円位)上人は晩年空寂座主の法徳を慕って登臨され、
文治六年二月十六日七十三歳当寺において入寂されました。(現地駒札より)
2月16日は現行暦でいうと、3月23日にあたります。
春には桜の花が供えられ、この辺一帯似雲の植えた桜で埋め尽くされます。

似雲法師が亡くなると遺言により弘川寺に遺骨が送られました。
その墓が西行の墓を見守るように向き合ってあります。
似雲は江戸中期広島に生まれましたが、やがて出家し京都で和歌を学び、
各地を彷徨した後、60歳のころ弘川寺にやって来ました。
ここから続く周遊路にも多数の桜が植えてあります。

広場からの桜山への周遊路を辿ると、西行庵の跡があります。
♪麓まで唐紅に見ゆるかな さかりしぐるる葛城の峰
♪訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて  煙を立つる弘川の里  西行 

似雲法師の庵址 
♪ 須磨明石窓より見えて住む庵の うしろにつづく葛城の峯  似雲
当時は空気が澄んでいたのでしょうか。ここから須磨明石まで見渡せたようです。

西行の墓を見つけたのは歌僧似雲です。『円位上人古墳記』を綴って
弘川寺に納め、
西行のお墓の周囲に桜を千本植え、
西行庵のあった裏山に「花の庵」を結んで住んでいました。


♪いくたびの春の思い出西行忌 青波野青畝句碑

周遊路を辿り西行堂に戻ってきました。
お賽銭でしょうか。茅葺屋根の上には硬貨が沢山置かれています。



北面の武士として共に鳥羽上皇に仕えた同年の清盛が64歳で亡くなり、
1185年に壇ノ浦で平家が滅亡、1187年には東大寺再建のため沙金の勧進を
頼んだ奥州の藤原秀衛が亡くなり、翌年には源義経が藤原泰衛に衣川で襲われ、
その泰衛も源頼朝の追討軍に破れ、西行の一族であった
奥州藤原氏三代の栄華もあえなく滅び去ってしまいました。


空寂上人を慕って来山し、生涯最後の日々を弘川寺で過ごした西行は、
それらを見届けるように
安らかに亡くなりました。
♪願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ
(私の望みは咲き誇る桜の下春に死ぬこと
2月釈迦の亡くなったあの満月のころに)
この歌は西行が辞世の句として詠んだものでなく
以前に詠んだ桜の歌の中の一首ですが、
西行が亡くなったという
知らせに人々が即座にこの歌を思い浮かべ
感動し評判になったものです。
あまり知られていませんが、西行は
♪仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば
(死んで仏になった自分を弔ってくれる人は桜の花を供えてくれ)
とも詠んでいます。そして西行の死後、15年経た後、
『新古今和歌集』が完成し、
西行の歌が94首も選ばれています。

西行の終焉地(平成28年10月3日追記)
五味文彦氏は『西行と清盛』の中で、藤原俊成の私家集
長秋詠藻(ちょうしゅうえいそう』に収められている♪願はくは…の歌にある
詞書から「弘川寺で病を得た西行は、少しよくなったので年末に京に上ってきて、
やがて先年に詠んだ歌の通り翌文治六年二月十六日に亡くなった。
京へ上ったとあっても河内に戻ったとは記されてないので、
弘川寺で終焉を向かえたのではなく、
京で亡くなったことになる。」と述べておられます。

この詞書を抜粋してご紹介させていただきます。
「河内の弘川という山寺にてわずらふ事ありと聞きて、
いそぎつかはしたりしかば、かぎりなく喜びつかはして後、
少しよろしくなりて、年の果てのころ京に上りたりと
申ししほどに、二月十六日になんかくれ侍りける。
彼の上人先年に桜の歌多く詠みけるなかに、」

西行記念館(開館期間)
春季4月1日~5月10日 秋季10月10日~11月20日
開館時間午前10時~午後5時

吉野山西行庵 苔清水   勝持寺(西行)   
西行と崇徳天皇(白峯) 崇徳院ゆかりの地(西行法師の道)  
西行(高野山蓮華乗院・三昧堂・西行桜)  
西行井戸     西行寺址・観音寺(西行)  
江口の君と西行  
『アクセス』
「弘川寺」大阪府南河内郡河南町弘川
近鉄電車「富田林」駅より「金剛バス」河内行終点「弘川」下車
バス停から案内に従って徒歩約5分。
(桜のシーズンはバスの本数が増えますが、
通常は少ないのでご注意ください。)

『参考資料』
桑子敏雄「西行の風景」NHKブックス、1999年 「西行のすべて」新人物往来社、1999年
白洲正子「西行」新潮文庫、昭和63年 五味文彦「西行と清盛」新潮社、2011年
 


 





コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
やまあいだと桜の時期は少し遅いでしょうか? (yukariko)
2008-03-17 22:01:21
江戸時代にも熱烈な西行フリークのお坊さんがいたのですね。
その生き方を慕って草庵を構え、桜を植え、西行の歌の研究に生涯を奉げた…
こういう方がいてこそ、その庵跡や遺稿などがきちんと体系的に保存されて今の時代にも伝えられているのでしょう。

ありがたいことだと思います。

今年は全体に桜が遅いでしょうが、花の雲になった満開の桜の弘川寺を見たいものですね。

記事を期待してお待ちします
 
 
 
西行に姿ばかりは似たれども心は雪と墨染めの袖(似雲) (sakura)
2008-03-19 16:57:44
似雲法師は石山寺に籠り、阿弥陀如来に通夜祈念して
弘川寺に古墳があると告げられ、西行の命日に古墳を発見、81歳の生涯を閉じるまで西行の顕彰につくした歌僧です。
西行記念館に似雲法師の資料も残っています。

弘川寺は桜の他、4月中旬には樹齢350年の天然記念物のかいどうが花盛りになるそうです。

少し交通の便が悪い所にありますが、一度たずねてみてください。
お返事遅くなってすみませんでした。

 
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