平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






二十三歳で出家した佐藤義清(のりきよ)は法名を西行とし、
三十歳近くまで鞍馬・東山・小倉山麓などに庵を結んでいました。
その間、高雄に文覚上人を訪ねるなどしています。

当時、小倉山一帯は西行のような数寄者が好んで住んだ地域でした。
♪小倉山麓の里に木の葉散れば梢に晴るる月を見るかな (『新古今集』冬歌)など
小倉山隠棲中に詠んだ歌が多くあり、
この一帯が西行と深い関係があったことを示しています。



西行井戸は今も保存されています。



碑の側面には「西行定家去来あはれあはれ侘のうた人はひとり住みたり」と
刻まれています。

落柿舎近く、天龍寺塔頭の弘源寺境外墓地の東側に「西行井戸」と称する遺蹟があり、
二尊院附近に庵を結んだ西行が使っていた井戸と伝えています。


井戸左横には西行の歌碑がありますが、風化し文字が読み取りにくくなっています。
牡鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな 
『アクセス』
「西行井戸」京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町19
落柿舎の北にある弘源寺の墓苑の東側
市バス「嵯峨小学校前」下車徒歩約10分  「嵯峨嵐山」駅下車徒歩約20分
「参考資料」
佐藤和彦・樋口州男 「西行のすべて」新人物往来社
竹村俊則 「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂
 


コメント ( 3 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
素晴らしい写真と記事をありがとうございます! (yukariko)
2008-02-16 10:24:29
弘源寺小倉山墓地に西行法師ゆかりの井戸や向井去来の墓があったのですね。
弘源寺は紅葉時に天竜寺や宝厳院を訪ねた折、二度も拝観しましたが全く知りませんでした。

東山の西行庵の写真もこの記事用にお出掛けになられたのでは?
大変だったでしょうが、雪の積もった屋根がとても風情がありますね。
吉野山の西行庵の写真と共に見せて頂けて感激しています。

何度も吉野水分神社迄は歩きましたが、奥千本の桜は蕾で神社から約40分の西行庵までは脚が届きませんでした。

中に西行の等身大の像が安置されているのですね。それも初めて知りました。

「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住居かな」と西行が詠み、芭蕉が句に詠じた「苔清水」も近くですね。

世俗を離れ歌の道に大成したからこそ、一品経の勧進や大仏殿勧進にも院や上皇・貴族・藤原氏にも逢え、その協力も得られたのでしょう。
出家していなかったらとても無理ですね(笑)
現存する大仏殿は1709年再建されたものですが、一度目の再建(1195年)に関わっていたのですね。

西行と平泉藤原氏との関係を始め、新しい知識がとても嬉しいです。
ありがとうございました。
 
 
 
新しい知識が増えて嬉しいのは私も同じです! (sakura)
2008-02-17 10:24:03
嵯峨野は観光スポットが多いし友人と
お喋りしながらの散策は、
標識があっても中々気づきにくいですね。
西行井戸は昨年の春嵯峨野を歩いた時、
ついでに撮影した写真が役立ちました。

吉野山の西行庵へは退職してゆっくりされてから、
桜満開の季節に訪ねてみてください。
庵の周囲はちょっとした広場になっていて、お弁当も広げられます。
西行さんも桜のお好きなyukarikoさんを
待ってらっしゃると思います。

東山は京都に用事があって出た帰りに
東山辺りの雪景色と思ったのですが、用事を済ます間に雪も溶けてしまいました。

大仏殿一回目の再建は東大寺の僧・重源が仕上げに貼る金箔が足りなくて、平泉の藤原氏と縁のある西行に
頼みに来ました。
コメント頂いたようにこの陸奥行きも出家していてこそ出来たことです。
再建には源頼朝も協力しています。

二回目の再建についてもコメント頂いたので、
戦国時代に焼失した大仏殿は江戸時代、
将軍綱吉の支援を得て
再建にかかりましたが、この頃大火、大地震、
富士山大爆発と天災が続き幕府の出費が重なり
再建は難航しました。

この時勧進行脚したのが、私と同じ丹後国宮津出身の、東大寺の僧公慶(こうけい)です。
その距離は気が遠くなる行程で、
「生死の運は知りがたく候云々」と死を覚悟した書き物を残して行脚しています。
現在の東大寺はコメント頂いたようにこの時のもので、再建に25年もかかりました。

東大寺には二本の杖が残っています。
一本は重源のもの、もう一本は公慶のものと歩き続けた二人の杖です。
公慶は同郷出身なのでちょっと自慢してしまいました。

昨夜はお世話になりました。
近いうちに今月の課題の写真送らせていただきます。

 
 
 
それぞれの間を繋ぐキーポイントですね! (yukariko)
2008-02-17 17:01:19
西行は以前にsakuraさんが書かれていたように、時代の重要な人々を繋ぐ目に見えないキーポイント(要石)ですね。

…東大寺の僧・重源が仕上げに貼る金箔が足りなくて、平泉の藤原氏と縁のある西行に頼みに来ました。…と書いて下さったので、
事典には再建に関して重源と源頼朝・政子の名があるだけですが、平泉の藤原氏なども関係も詳しく書いて頂いたお陰で良く分かります。

江戸時代も5代になると幕府や大名も借金がかさみ、遠い奈良の東大寺再建など果たして必要だろうか?と言われたでしょうから、勧進に全国を回られた公慶さんはものすごいご苦労をなさったことでしょう。
 
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