平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
CALENDAR
2024年9月
日
月
火
水
木
金
土
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
前月
翌月
ENTRY ARCHIVE
2021年07月
2021年06月
2021年05月
2021年04月
2021年03月
2021年02月
2021年01月
2020年12月
2020年11月
2020年10月
2020年09月
2020年08月
2020年07月
2020年06月
2020年05月
2020年04月
2020年03月
2020年02月
2020年01月
2019年12月
2019年11月
2019年10月
2019年09月
2019年08月
2019年07月
2019年06月
2019年05月
2019年04月
2019年03月
2019年02月
2019年01月
2018年12月
2018年11月
2018年10月
2018年09月
2018年08月
2018年07月
2018年06月
2018年05月
2018年04月
2018年03月
2018年02月
2017年12月
2017年11月
2017年10月
2017年09月
2017年08月
2017年07月
2017年06月
2017年05月
2017年04月
2017年03月
2017年02月
2017年01月
2016年12月
2016年11月
2016年10月
2016年09月
2016年08月
2016年07月
2016年06月
2016年05月
2016年04月
2016年03月
2016年02月
2016年01月
2015年12月
2015年11月
2015年10月
2015年09月
2015年08月
2015年07月
2015年06月
2015年05月
2015年04月
2015年03月
2015年02月
2015年01月
2014年12月
2014年11月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
2014年02月
2014年01月
2013年12月
2013年11月
2013年10月
2013年09月
2013年08月
2013年07月
2013年06月
2013年05月
2013年04月
2013年03月
2013年02月
2013年01月
2012年12月
2012年11月
2012年10月
2012年09月
2012年08月
2012年07月
2012年06月
2012年05月
2012年04月
2011年03月
2011年02月
2011年01月
2010年12月
2010年11月
2010年10月
2010年09月
2010年08月
2010年07月
2010年06月
2010年05月
2010年04月
2010年03月
2010年02月
2010年01月
2009年12月
2009年11月
2009年10月
2009年09月
2009年08月
2009年07月
2009年06月
2009年05月
2009年04月
2009年03月
2009年02月
2009年01月
2008年12月
2008年11月
2008年10月
2008年09月
2008年08月
2008年07月
2008年06月
2008年05月
2008年04月
2008年03月
2008年02月
2008年01月
2007年12月
2007年11月
2007年10月
2007年09月
2007年08月
2007年07月
2007年06月
2007年05月
2007年04月
2007年03月
2007年02月
2007年01月
RECENT ENTRY
流人時代からの頼朝の側近安達盛長館跡(甘縄神明宮)
源範頼館跡(息障院)
朝日神明社(逆櫓社)
屋島出撃の際、義経が風雨の鎮護を祈願した朝日神明社跡(坂口王子伝承地)
判官松伝承地
源義経が姓を与えた鮒子多(ふじた)家の墓
お断り
判官松之跡・大和田万葉歌碑(住吉神社)
都落ちの義経を見送り咎められた渡辺番(渡辺党)
伝静なごりの橋の碑 辰巳八幡神社
RECENT COMMENT
忘れじの言の葉/
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)
サムライ鉄の道リスペクト/
屋島古戦場を歩く(景清の錣引き)
サムライ鉄の道/
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)
三河の者/
源頼朝の乳父、山内俊通の塚(都ホテル裏山)
シズカ/
京都市の三嶋神社 建春門院滋子
埼玉県の高校教員/
木曽義仲最期の地(粟津の松原・粟津の番所跡)
加藤 まさ子/
八十島祭(熊河尻)
いのこぞう/
猪俣小平六範綱の墓(高台院)
あき/
平氏六波羅邸跡(平家一門の遺構出土)
AY/
壇ノ浦合戦 潮流は勝敗に左右したのか
RECENT TRACKBACK
CATEGORY
義経逃走ルート
(2)
壇ノ浦古戦場・山口県
(25)
源義経の都落ち
(7)
東国
(23)
鎌倉
(25)
神奈川県
(18)
長野県
(3)
北陸
(6)
静岡県
(19)
愛知県
(5)
岐阜県
(3)
大阪府
(34)
三重県
(3)
滋賀県
(20)
京都市
(112)
京都府
(20)
奈良県
(9)
兵庫県
(60)
高野山
(16)
熊野三山・和歌山
(23)
岡山・広島県
(13)
四国
(14)
屋島古戦場
(16)
九州
(27)
義経奥州下り
(11)
平治の乱義朝・常盤・...
(29)
保元の乱・崇徳天皇ゆかりの地
(24)
Weblog
(49)
BOOKMARK
goo
最初はgoo
MY PROFILE
goo ID
mitsue172
性別
都道府県
自己紹介
SEARCH
このブログ内で
ウェブ全て
URLをメールで送信する
(for PC & MOBILE)
西行井戸
京都市
/
2008-02-14
二十三歳で出家した佐藤義清(のりきよ)は法名を西行とし、
三十歳近くまで鞍馬・東山・小倉山麓などに庵を結んでいました。
その間、高雄に文覚上人を訪ねるなどしています。
当時、小倉山一帯は西行のような数寄者が好んで住んだ地域でした。
♪小倉山麓の里に木の葉散れば梢に晴るる月を見るかな (『新古今集』冬歌)など
小倉山隠棲中に詠んだ歌が多くあり、
この一帯が西行と深い関係があったことを示しています。
西行井戸は今も保存されています。
碑の側面には「西行定家去来あはれあはれ侘のうた人はひとり住みたり」と
刻まれています。
落柿舎近く、天龍寺塔頭の弘源寺境外墓地の東側に「西行井戸」と称する遺蹟があり、
二尊院附近に庵を結んだ西行が使っていた井戸と伝えています。
井戸左横には西行の歌碑がありますが、風化し
文字が読み取りにくくなっています。
牡鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな
『アクセス』
「西行井戸」京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町19
落柿舎の北にある弘源寺の墓苑の東側
市バス「嵯峨小学校前」下車徒歩約10分 「嵯峨嵐山」駅下車徒歩約20分
「参考資料」
佐藤和彦・樋口州男 「西行のすべて」新人物往来社
竹村俊則 「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂
コメント (
3
)
|
Trackback ( )
«
西行寺址・観...
勝持寺(西行)
»
コメント
素晴らしい写真と記事をありがとうございます!
(
yukariko
)
2008-02-16 10:24:29
弘源寺小倉山墓地に西行法師ゆかりの井戸や向井去来の墓があったのですね。
弘源寺は紅葉時に天竜寺や宝厳院を訪ねた折、二度も拝観しましたが全く知りませんでした。
東山の西行庵の写真もこの記事用にお出掛けになられたのでは?
大変だったでしょうが、雪の積もった屋根がとても風情がありますね。
吉野山の西行庵の写真と共に見せて頂けて感激しています。
何度も吉野水分神社迄は歩きましたが、奥千本の桜は蕾で神社から約40分の西行庵までは脚が届きませんでした。
中に西行の等身大の像が安置されているのですね。それも初めて知りました。
「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住居かな」と西行が詠み、芭蕉が句に詠じた「苔清水」も近くですね。
世俗を離れ歌の道に大成したからこそ、一品経の勧進や大仏殿勧進にも院や上皇・貴族・藤原氏にも逢え、その協力も得られたのでしょう。
出家していなかったらとても無理ですね(笑)
現存する大仏殿は1709年再建されたものですが、一度目の再建(1195年)に関わっていたのですね。
西行と平泉藤原氏との関係を始め、新しい知識がとても嬉しいです。
ありがとうございました。
新しい知識が増えて嬉しいのは私も同じです!
(
sakura
)
2008-02-17 10:24:03
嵯峨野は観光スポットが多いし友人と
お喋りしながらの散策は、
標識があっても中々気づきにくいですね。
西行井戸は昨年の春嵯峨野を歩いた時、
ついでに撮影した写真が役立ちました。
吉野山の西行庵へは退職してゆっくりされてから、
桜満開の季節に訪ねてみてください。
庵の周囲はちょっとした広場になっていて、お弁当も広げられます。
西行さんも桜のお好きなyukarikoさんを
待ってらっしゃると思います。
東山は京都に用事があって出た帰りに
東山辺りの雪景色と思ったのですが、用事を済ます間に雪も溶けてしまいました。
大仏殿一回目の再建は東大寺の僧・重源が仕上げに貼る金箔が足りなくて、平泉の藤原氏と縁のある西行に
頼みに来ました。
コメント頂いたようにこの陸奥行きも出家していてこそ出来たことです。
再建には源頼朝も協力しています。
二回目の再建についてもコメント頂いたので、
戦国時代に焼失した大仏殿は江戸時代、
将軍綱吉の支援を得て
再建にかかりましたが、この頃大火、大地震、
富士山大爆発と天災が続き幕府の出費が重なり
再建は難航しました。
この時勧進行脚したのが、私と同じ丹後国宮津出身の、東大寺の僧公慶(こうけい)です。
その距離は気が遠くなる行程で、
「生死の運は知りがたく候云々」と死を覚悟した書き物を残して行脚しています。
現在の東大寺はコメント頂いたようにこの時のもので、再建に25年もかかりました。
東大寺には二本の杖が残っています。
一本は重源のもの、もう一本は公慶のものと歩き続けた二人の杖です。
公慶は同郷出身なのでちょっと自慢してしまいました。
昨夜はお世話になりました。
近いうちに今月の課題の写真送らせていただきます。
それぞれの間を繋ぐキーポイントですね!
(
yukariko
)
2008-02-17 17:01:19
西行は以前にsakuraさんが書かれていたように、時代の重要な人々を繋ぐ目に見えないキーポイント(要石)ですね。
…東大寺の僧・重源が仕上げに貼る金箔が足りなくて、平泉の藤原氏と縁のある西行に頼みに来ました。…と書いて下さったので、
事典には再建に関して重源と源頼朝・政子の名があるだけですが、平泉の藤原氏なども関係も詳しく書いて頂いたお陰で良く分かります。
江戸時代も5代になると幕府や大名も借金がかさみ、遠い奈良の東大寺再建など果たして必要だろうか?と言われたでしょうから、勧進に全国を回られた公慶さんはものすごいご苦労をなさったことでしょう。
コメントを投稿する
名前
タイトル
URL
コメント
※絵文字はjavascriptが有効な環境でのみご利用いただけます。
▼ 絵文字を表示
携帯絵文字
リスト1
リスト2
リスト3
リスト4
リスト5
ユーザー作品
▲ 閉じる
コメント利用規約
に同意の上コメント投稿を行ってください。
コメント利用規約に同意する
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
goo ブログ
編集画面にログイン
ブログの作成・編集
gooおすすめリンク
おすすめブログ
【コメント募集中】スタッフの気になったニュース
@goo_blog
【お知らせ】
ブログを読むだけ。毎月の訪問日数に応じてポイント進呈
【コメント募集中】goo blogスタッフの気になったニュース
gooブロガーの今日のひとこと
訪問者数に応じてdポイント最大1,000pt当たる!
弘源寺は紅葉時に天竜寺や宝厳院を訪ねた折、二度も拝観しましたが全く知りませんでした。
東山の西行庵の写真もこの記事用にお出掛けになられたのでは?
大変だったでしょうが、雪の積もった屋根がとても風情がありますね。
吉野山の西行庵の写真と共に見せて頂けて感激しています。
何度も吉野水分神社迄は歩きましたが、奥千本の桜は蕾で神社から約40分の西行庵までは脚が届きませんでした。
中に西行の等身大の像が安置されているのですね。それも初めて知りました。
「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住居かな」と西行が詠み、芭蕉が句に詠じた「苔清水」も近くですね。
世俗を離れ歌の道に大成したからこそ、一品経の勧進や大仏殿勧進にも院や上皇・貴族・藤原氏にも逢え、その協力も得られたのでしょう。
出家していなかったらとても無理ですね(笑)
現存する大仏殿は1709年再建されたものですが、一度目の再建(1195年)に関わっていたのですね。
西行と平泉藤原氏との関係を始め、新しい知識がとても嬉しいです。
ありがとうございました。
お喋りしながらの散策は、
標識があっても中々気づきにくいですね。
西行井戸は昨年の春嵯峨野を歩いた時、
ついでに撮影した写真が役立ちました。
吉野山の西行庵へは退職してゆっくりされてから、
桜満開の季節に訪ねてみてください。
庵の周囲はちょっとした広場になっていて、お弁当も広げられます。
西行さんも桜のお好きなyukarikoさんを
待ってらっしゃると思います。
東山は京都に用事があって出た帰りに
東山辺りの雪景色と思ったのですが、用事を済ます間に雪も溶けてしまいました。
大仏殿一回目の再建は東大寺の僧・重源が仕上げに貼る金箔が足りなくて、平泉の藤原氏と縁のある西行に
頼みに来ました。
コメント頂いたようにこの陸奥行きも出家していてこそ出来たことです。
再建には源頼朝も協力しています。
二回目の再建についてもコメント頂いたので、
戦国時代に焼失した大仏殿は江戸時代、
将軍綱吉の支援を得て
再建にかかりましたが、この頃大火、大地震、
富士山大爆発と天災が続き幕府の出費が重なり
再建は難航しました。
この時勧進行脚したのが、私と同じ丹後国宮津出身の、東大寺の僧公慶(こうけい)です。
その距離は気が遠くなる行程で、
「生死の運は知りがたく候云々」と死を覚悟した書き物を残して行脚しています。
現在の東大寺はコメント頂いたようにこの時のもので、再建に25年もかかりました。
東大寺には二本の杖が残っています。
一本は重源のもの、もう一本は公慶のものと歩き続けた二人の杖です。
公慶は同郷出身なのでちょっと自慢してしまいました。
昨夜はお世話になりました。
近いうちに今月の課題の写真送らせていただきます。
…東大寺の僧・重源が仕上げに貼る金箔が足りなくて、平泉の藤原氏と縁のある西行に頼みに来ました。…と書いて下さったので、
事典には再建に関して重源と源頼朝・政子の名があるだけですが、平泉の藤原氏なども関係も詳しく書いて頂いたお陰で良く分かります。
江戸時代も5代になると幕府や大名も借金がかさみ、遠い奈良の東大寺再建など果たして必要だろうか?と言われたでしょうから、勧進に全国を回られた公慶さんはものすごいご苦労をなさったことでしょう。