平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




千手の前は手越(現、静岡市)の長者が千手寺に祀られている
千手観音に祈願して生まれ、千手と名付けられたと
伝えています。

一の谷合戦で捕虜となった平重衡が鎌倉へ護送されてくると、
頼朝は重衡の堂々とした態度が気に入り、囚人ながら手厚くもてなします。
頼朝だけでなく鎌倉幕府の人々が重衡を好感をもって迎えたことが
『吾妻鏡』からも窺えます。重衡の世話を命じられた千手の前は、
「眉目容姿(みめかたち)・心様、優にわりなき者」と平家物語にあるように、
聡明で容姿気質ともに優れた女性でした。
刻々と死が迫る重衡を包み込むようにやさしく接する千手は、
重衡にとってかけがえのない存在になっていったと思われます。

平家が壇ノ浦で全滅すると、南都の衆徒たちから、重衡の身柄引渡しを求める
強い要請があり、頼朝はそれを抗しきれず、重衡の処分を南都の僧に任せます。
重衡は東海道を西へ、大津から東海道をはずれ奈良に送られました。

南都が重衡を要求したのは、重衡が南都に焼き討ちをかけて東大寺大仏殿、
興福寺などの伽藍を全焼させたことによるもので、平氏に衰運の
きざしが見えはじめた頃、反平氏の拠点となった南都を抑えるために
清盛が本三位中将重衡を大将軍として攻めさせたのでした。

その後の千手について『吾妻鏡』は、重衡が処刑された3年後、
政子に仕える千手前が重衡への思いのためか御前で気を失い、間もなく息を
吹き返しましたが、3日後に24歳で死去したという記事を載せています。
(文治4年4月22日、同月25日条)
ところが『平家物語』によると、重衡の死を聞いた千手前は髪をおろし、
墨染の衣に身をやつし信濃の善光寺で修業し重衡の後世を弔い自らも
極楽往生の願いを遂げたと伝え、『吾妻鏡』とかなり違います。
『平家物語』は、合戦の敗者重衡に好意的で、重衡の罪は罪として認めながらも、
何とか重衡を救済させたいと「戒文の事」の章段に法然を登場させ
説法を受けさせています。
次いで重衡を浄土に救済する役割を千手に与え、
「千手前の事」の末尾に出家して重衡の菩提を祈る
千手の姿を書き加えたと考えられます。

重衡が法然の教義を聞くさまは、後世の『法然上人行状絵図』には見えますが、
古い系統のものにはなく、実際に重衡が法然によって受戒したかどうかは
明らかでなく、『平家物語』の創作かも知れないとも言われています。
物語は鎌倉新仏教の開祖の中でも最も民衆的で、
その教えに多くの人々が耳を傾けた法然を
重罪に苦しむ重衡の戒師として登場させたのかも知れません。

なぜ千手は善光寺で出家したのでしょうか。
これについて『新潮日本古典集成』の頭注には、「善光寺は平安時代末期より
中世以降に全国的に信仰が広まった。千手の入寺もこの宗教的機運と関連して
語られたものであろう。」と記され、千手と善光寺信仰とを結びつけた伝承のようです。

静岡県磐田市残る伝説によると、平重衡が処刑されてのち、
千手の前は髪をおろして尼となり、熊野(ゆや)御前を頼って
白拍子村に庵を結び、24歳で亡くなるまで重衡の菩提を弔ったという事です。
千手の前と熊野御前の間をとりもったのは、謡曲『熊野』の中で
熊野を京都に迎えに行ったという侍女の朝顔です。
前野の松尾八王子神社東側には、朝顔の塚がありこの物語を伝えています。

江戸時代の遠江国中泉村(磐田市)の医師山下熈庵(きあん)が著した
『古老物語』には、「豊田郡池田庄野箱村に白拍子千寿の前の廟所あり。
千寿の前は駿州手越の長者が娘なり。平重衡刑死後は尼となり当国に
蟄居の故此処を白拍子村と呼ぶ。葬る所の墓印に松を植え、
世人傾城の松と言へり。」とし、
野箱村の傾城塚が千手の前の墓と伝えています。
『磐田市誌』には、「この塚は寛文4年(1664)雷火のため焼失し、
その8年後白拍子の供養のため戒名と「白拍子之古廟」を意味する碑文を
刻んだ石碑が建立された。」とあります。




千手堂バス停の西方に建つ案内板







野箱の傾城塚

『静岡県の地名』によると、「千手寺の本尊十一面観音は千手前の念持仏と
伝えているが、後世、千手と千手観音の両者が結びつけられたらしい。」とあり、
地元に伝わる話がどこまでが本当なのかわかりませんが、
歴史的な事柄が脚色され、
能や郷土芸能(浪曲・千寿の詩・千寿てまり歌)などに
語り継がれて広まり、
伝説化していったのではないでしょうか。
なお、この地方ではいつからか千手を千寿と呼ぶようになったといいます。
平重衡と千手の前1(少将井神社)  
平重衡と千手の前2  
熊野御前と平重衡 (行興寺・池田の渡し)  
『アクセス』
「千手堂」静岡県磐田市千手堂637 
JR磐田駅よりバス掛塚線「千手堂」下車徒歩約10分
バス停北の道を西へ進み案内板から南へ
バスの本数は、日中は2時間に1本、ラッシュ時は1時間に1本程度です。

「傾城塚(千手の墓)」磐田市野箱 「朝顔の塚」磐田市前野
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
「静岡県の地名」平凡社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書
 安田元久「平家の群像」塙新書 現代語訳「吾妻鏡」(奥州合戦)吉川弘文館
梅原猛「法然の哀しみ」(上)小学館文庫



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