風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

リメンバー・パールハーバー(上)

2011-12-11 11:45:42 | たまに文学・歴史・芸術も
 真珠湾攻撃は、時と共に経験・記憶で語られるものから単なる歴史の一コマとなって、人々の意識から薄れていくといった事情は、アメリカでも同じようで、6日のNew York Times(電子版)に“Pearl Harbor Still a Day for the Ages, but a Memory Almost Gone”(by Adam Nagourney)というタイトルのコラムが寄せられていました。
 日本でも「ハワイ州の真珠湾では攻撃の難を逃れた元米兵約120人を含む計約3000人が参加して追悼式典が開かれた」(産経新聞)と報じられましたが、毎年この日に記念式典を行って来たPearl Harbor Survivors Associationという団体が、この12月で解散することになったそうです。1958年に発足した当初は、真珠湾攻撃の時にオアフ島にいた元軍人28,000名もの名前が名簿に載っていたそうですが、今年9月には十分の一以下の2,700名まで減り、その会員の多くは90代に突入して加齢とともに自由に動けなくなり、会員の中から会を運営するための“president, vice president, treasurer and secretary”を選出することが出来ないため、内国歳入法501Cが定める免税措置を受けることが出来る非営利団体としての地位を維持できないという現実に直面したためということです。
 真珠湾攻撃については、ルーズベルトの陰謀説が根強い人気を誇って来ました。「ルーズベルトは日本の攻撃を諜報局から知らされていたにも拘らず、あえて放置し、攻撃を許すことでアメリカの参戦を国民に認めさせた」(Wikipedia)というものですが、フーバー元大統領も、ルーズベルトのことを「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことを、米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「Freedom Betrayed(裏切られた自由)」で明らかにしたそうです(産経新聞)。これはこれで知られざる歴史の一面を探る面白いテーマですが、これに拘り過ぎるのはどうかと思います。当時の緊迫した日米関係において、諜報戦も重要な戦術だったことは間違いなく、国際政治に謀略の要素がないと思う方がナイーブなのであって、ある戦略のもとに、多かれ少なかれ、様々な情報がルーズベルト大統領のもとに集まっていたことでしょう。問題は真珠湾攻撃がどれほど確からしいと判断していたかどうか、少なくとも、フィリピンのクラーク・フィールドの可能性が高く、ハワイのパール・ハーバーの可能性も否定できないといったところだったでしょうが、実はそれすらも、歴史の流れの中では小さな淀みに過ぎません。
 SAPIOの12/28号に「日米開戦70年目の真実」と題する特集記事が載っていて、真珠湾攻撃前に、真珠湾の様子を偵察していた外務省職員のことが紹介されていました。実は山本五十六が派遣した海軍予備役少尉で、1941年3月にホノルル総領事館に着任し、現地の女性とドライブしたり派手に遊ぶフリをしたりしながら、オアフ島の地形を観察して、東西に山脈が走る島の北側は曇天が多いけれども南側は晴れているため、「(前略)北側より接敵し、ヌアヌバリを通り、急降下爆撃可能なり」などと打電したり、毎週日曜日に最も多くの艦艇が真珠湾に停泊するといった、太平洋艦隊の“習性”を掴んだりして、本国に報告していたそうです。日本側でも小さいことながらこんな具合いですから、ルーズベルトは、肝心の主力空母は真珠湾外で輸送などの任務に従事させて無傷とするも、それ以外は情報を掴んでいることを悟られないために平静を装っていたことでしょう。その結果、戦艦8隻を失いましたが、その内の6隻は後に引き揚げられて復帰したため、最終的にアメリカ軍が太平洋戦争中に失った戦艦はこの2隻のみであり、しかも、乗艦を失った乗組員は新たに建造された空母へと配置転換され、アメリカ海軍の航空主兵への転換を手助けした(Wikipedia)とされますが、結果論に過ぎません。8隻を沈められたのは、初戦での損害として小さくなかったことでしょう。
 さて、冒頭のPearl Harbor Survivors Associationの話に戻ると、日本の攻撃が始まったのは、現地時間で日曜日朝7時55分という早朝で、戦艦などの艦船と飛行場などに集中したため、乗組員はほとんど下船していて人的被害は僅少だったのは当然で、だからこそ28,000名もの名簿を作成できたのでしょうが、ルーズベルト大統領がどう考えていようと知ったこっちゃない、というところでしょう。指導者にとっては、戦争は外交の延長でしかないと割り切ることが出来ても、身体を張って国を守る軍人としては、騙し討ちのような攻撃を受けた事実が全てであり、精神的なダメージは大きかったことでしょう。戦勝国とはいえ、たまたま日曜日早朝だったから難を逃れたものの、国家が惹き起こす戦争の被害者であり、あの時代状況の中で愛国心に燃えつつも戦闘を余儀なくされ、戦争に勝ったものの、戦争という大きなトラウマにその後の人生を支配されたであろうことを思うと、何とも言えない感慨を覚えます。私たちは後知恵で多かれ少なかれ歴史的事象として真珠湾を眺めるわけですが、彼らは自らの経験という極めて限られた状況のもとで記憶の中で生きているわけです。このAssociationのモットーは、“Remember Pearl Harbor --Keep America Alert-- Eternal Vigilance is the Price of Liberty.”だそうで、アメリカという、いかにも戦闘志向の強い国であることを思わせる言葉ですが、もともと西欧社会は自由を勝ち取ってきた歴史をもつことを考えれば、自らの人生を、そうした価値に昇華して正当化したい思いが伝わってきて、ちょっと敬虔な気持ちになります。リメンバー・パールハーバーという言葉は、それぞれの立場によって、いろいろな思いがこもっている言葉だと感じます。そしてこの12月で一つの記憶体が幕を閉じようとしています。こうしたそれぞれの思いを超えて、リメンバー・パールハーバーという言葉にどのような意味づけを与えていくのかは、残された私たちの課題です。
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