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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

夏のうた

2025-08-27 20:43:11 | たまに文学・歴史・芸術も

 昼の暑さは、ヨーカドーに食材を買い出しに行って外に出るとまるでサウナに入るかのようで、殺人的だが、夜には虫の声が心地よく、秋が近いことを予感させる。今年は9月以降も残暑が長引くと予想されているが、まだ暑い今の内に、思いつきながら夏の歌の思い出を・・・と言ったところで、サザンオールスターズかTUBEか、という昭和・平成の古い世代に属する。そうは言いながら、彼らと同時代の空気を吸いながら彼らの音楽を聴いたことを幸せに思う。サザンが「勝手にシンドバッド」(1978年)をひっさげて「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」にジョギング・パンツ姿で登場するのを目撃したときには衝撃を受けて、ただのコミックバンドかと思っていたら、次に「いとしのエリー」(1979年)がリリースされたことに二度目の衝撃を受けて、見事に裏切られて名誉挽回され、その後、「真夏の果実」(1990年)や「TSUNAMI」(2000年)などの夏の名曲が生まれたのを愛しんだ。TUBEは「シーズン・イン・ザ・サン」(1986年)や「あー夏休み」(1990年)といった、いかにも「らしい」賑々しいものが先ず浮かぶが、それよりも「夏を抱きしめて」(1994年)のバラード調の方が雰囲気があってよい。

 前置きはこのくらいにして、私にとって夏のイメージは、何故か南仏とアメリカ西海岸が原風景としてある。

 南仏の夏のイメージは、テレビの●曜ロードショー(●は失念)で観た、アラン・ドロン主演の映画「太陽がいっぱい」(1960年)の圧巻のラスト・シーンである。富豪の友人を殺害し、彼の財産と彼女を奪う完全犯罪に成功したと思いこんでビーチチェアに寝そべり、太陽をいっぱいに浴びて束の間の幸福に浸るところだ。映画のタイトルはこの最後の数分を描写したものであり、情緒的でなんと秀逸なことだろう(因みに原題は「Plein Soleil」、Google翻訳すると「完全な太陽」で、なんと哲学的なことだろう…フランスと日本の違いだろうか)。そしてアラン・ドロンの二枚目には陰があって、この役柄に似つかわしい。それで、このビーチは長らく南仏と思い込んでいたのだが、何十年もの後、アラン・ドロンが亡くなったときに、実はナポリ湾の西に浮かぶイスキア島で、そもそもこの映画の全編がイタリアを舞台としたものだったことを知って愕然としたが、もはやその違いなどどうでもよい。このラスト・シーンに流れる憂いのこもったテーマ曲の作曲家ニーノ・ロータもイタリア人だが、それもどうでもよい。そして何故かこのシーンに、私の中では矢沢永吉の「時間よ止まれ」が妙に重なり合うのは、曲想というよりも曲のタイトルがハマるせいだろう(微笑)。

もう一つ、必ずしも南仏(あるいはイタリア)ではないが、サーカスの「Mr.サマータイム」もフランス的な夏の音楽として忘れられない。Michel Fugain (music)とPierre Delanoë (lyrics)というフランス人コンビで1972年にリリースされた「Une Belle Histoire」(Google翻訳すると「美しい物語」)に邦訳詞をつけてカバーしたもので、Fugainはアメリカのロスとシカゴを結ぶRoute 66をイメージして曲を作ったそうだが、Delanoëはフランスの物語にしたそうだ。いかにもフランス的なアニュイな感じがよい。

 そう、サザンやTUBEは本命として、矢沢永吉の「時間よ止まれ」やサーカスの「Mr.サマータイム」も大穴として好きなのだ。

 他方、アメリカ西海岸の夏のイメージは、渡辺貞夫の「California Shower」(1978年)・・・そのものと言うより、この曲をBGMにして、アメリカとのハーフ・モデルの草刈正雄が出演した資生堂のシャワーコロン「BRAVAS」のCMのイメージだろう。話は逸れるが、アメリカ駐在時の1990年代半ば、アンティーク・ショップ巡りを趣味にしていた私は、ボストンの片田舎で、渡辺貞夫さんの絵を見つけたことがあった。恐らくアフリカ音楽に傾倒した頃のものであろう、アフリカの絵画っぽくて、誰が描いたものか確認したら、Sadao Watanabeとあって驚いたのだった。買おうか買うまいか一瞬、迷ったことを懐かしく思い出す。いずれにしても、南仏(あるいはイタリア)の陰のあるイメージとは対照的に、異文化にもオープンで、お祭りのように底抜けに明るいところが、いかにもアメリカ西海岸らしいと思う。

 もう一つ、Herb Alpertの「Route 101」という曲も忘れられない。アメリカ駐在時に勤務していた現地会社・社長秘書に教えて貰った。アメリカ西海岸に沿ってワシントン州からオレゴン州を経てカリフォルニア州に至る南北を縦断する国道(interstate highway)を曲のタイトルにしている。当時、カリフォルニア州都サクラメントに住んでいて、この道をサンフランシスコから南下してロスのディズニー・ランドまで家族旅行したことがある。プライベート・ビーチが多いアメリカでは珍しく、海を臨む風光明媚な国道で、南仏(またはイタリア)の陰がある明るさとは対照的に、ひたすら明るいだけのイメージがある。

 以上のほか、夏と言えば松田聖子「青い珊瑚礁」(1980年)や、大瀧詠一「君は天然色」(1981年)、井上陽水「少年時代」(1990年)などが思い浮かぶが、最後に、福山雅治「Squall」(1999年)を外すわけには行かない。

 20年ほど前、高校の同窓会で二次会にカラオケに行って、かつてクラスのマドンナ的存在だった女の子が(当時は既に普通のオバサンになっていたが)「Squall」をしっとり歌ったのを聴いて衝撃を受け、別に誰のために歌ったわけでもないだろうに、不覚にも忘れられない曲になってしまったのだ。やれやれ。

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和真の一発

2025-08-23 04:31:24 | スポーツ・芸能好き

 昨晩、東京ドームで行われたDeNA戦3回に、岡本和真選手から、一軍復帰後、待望の初本塁打が飛び出した。どっしりと構え、打球がスタンドに飛び込んだところでガッツ・ポーズもなければ、顔色一つ変えることなく、淡々とダイヤモンドを回る。巨人の四番らしい振る舞い・・・などと本人は露ほども思っていないだろう、そこもまた和真らしい。阿部監督は、「いるだけでやっぱりチームが落ち着くというかね・・・」と、その存在感にしみじみと感じ入った。

 振り返れば5月6日の阪神戦(同じく東京ドーム)で打者走者と交錯して左肘靭帯損傷して戦線離脱してから、実に102日ぶりとなる8月16日に一軍復帰を果たし、そこから6試合24打席目、5月1日の広島戦(同じく東京ドーム)以来113日ぶりとなる一発だった。お立ち台では、いつものすっ呆けた和真節を炸裂することなく、「皆さん、ありがとうございます」と三度、神妙な面持ちで繰り返した。「久々のホームラン。入った瞬間は?」と聞かれて、「いやもう本当に、めちゃくちゃうれしかったです」と淀みなく答えたのは、まさに本音だろう。ケガが少なく偉丈夫な和真だけに、この100日間はファンも待ち焦がれたし、阿部監督もオーダー編成に苦慮し続けたし、何より本人がバッターボックスに立ちたくて焦ったく思っていたことだろう。

 この日は、7月31日に腰痛で離脱していた吉川尚輝も三週間振りに復帰し、不動の二塁と不動の三塁が久しぶりに揃い踏みとなった。三番・丸、四番・岡本、五番・吉川という安心の打順である。安心の、という意味は、これで打てなかったら諦めもつくということでもある。和真の本塁打は、後ろに控える五番・吉川の存在も大きかったかもしれない。

 残り試合は僅かに31。もはや遅きに失しているのだが、今日の和真の一発を狼煙として、燻る巨人ファンのフラストレーションを払拭するような巨人らしい戦いぶりを残り試合で見せて欲しいものである。この100日間は、単に失われた日々ではなく、主力を欠いた中で、その穴を埋めるために若手が試行錯誤して成長し、より選手層がぶ厚くなって強くなったはずだから。

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長嶋さん追悼試合に和真が復帰

2025-08-17 19:03:14 | スポーツ・芸能好き

 昨日の巨人・阪神戦は「長嶋茂雄終身名誉監督追悼試合」と銘打って大々的に行われ、岡本和真をこの日に合わせて102日ぶりに長嶋さんと同じ「四番・サード」で一軍復帰させるなど、阿部監督の、ひいては巨人軍の、並々ならぬ意気込みを感じさせたが、僅か2安打の完封負けを喫した。二塁も踏めない惨敗だった。

 ここぞという時に負けないのが本来の巨人だが、この日は本来の姿からはほど遠かった。残念ながらこれが今の巨人の実力だろう。不動の4番は何とか間に合ったが、打線は4番がいるだけでは機能しない。かつての長嶋監督のように、4番候補をズラリと並べたところで勝てるわけではないのだが(微笑)、打線と言う以上、前後を固める3番や5番、更に1番や2番がしっかり機能して繋がりが出来ないことには4番は活かされない。折角、岡本が戻っても、吉川尚輝は腰痛のため登録を抹消されたままだ。そして何より、昨年の菅野のような絶対エースがいない。

 それにしても、和真がいない巨人は、以前にも書いたように、クリープを入れないコーヒーなんて・・・という(年寄りにしか分からない形容の!?)味気なさであった。私のようなファンより、岡本・本人こそ、長くて辛い道のりだったことだろう。5月6日の同じ阪神戦、同じ東京ドームでの一塁守備で走者と交錯し、左肘を負傷して戦線を離脱してからというもの、慎重なリハビリを経て、今月3日に2軍で実戦復帰したばかりだ。そこからは、私自身もこれほど二軍の試合をウォッチしたことはないほどの二週間だった(笑)。二軍で8試合、一軍昇格の目安とされた20打席をクリアする21度の打席に立ち、二塁打2本を含む5安打2打点を挙げたが、ホームランは出ていない。

 その間、大黒柱を欠いた巨人の4番は、吉川(15試合)、キャベッジ(39試合)、大城卓(1試合)、丸(7試合)、増田陸(7試合)、坂本(5試合)と6人が代役を務める苦しい台所事情で、迫力を欠いた。不動の4番の存在感をこれほど感じたことはない。結果、昨日の試合にも負けて、勝率5割に逆戻りし、首位・阪神とは12ゲーム差に戻してしまった(既に今日の結果も出ていて、岡本には復帰後の初安打が出たが、1-3で敗れた)。不動の4番とエースを欠いて、それでも2位につけていたのは、若手が穴埋めして健闘した結果であり、巨人の選手層の厚さを思わせるが、12ゲーム差はいただけない。

 昨日は、二軍と三軍でも、監督、コーチ、全選手が永久欠番となっている長嶋さんの栄光の背番号「3」のユニフォームを着用して戦い、二軍は西武に完封勝ちし、三軍は慶大とのプロ・アマ交流戦で完封負けした。二軍は選手層の厚さを思わせるが、三軍はご愛嬌か。ペナントレースは残り36試合、逆転優勝は至難でも、せめて来年以降に繋がるような巨人らしさを見せて、ぽっかりと空いた心の空白を埋めて欲しいものだと切に思う。

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戦後80年

2025-08-15 12:08:16 | 日々の生活

 戦後80年の今年は昭和100年の節目でもある。明治維新以来、不平等条約解消のために一等国を目指した日本は、第一次世界大戦が終われば世界の五大国に昇り詰めた。昇り詰めたのは良いが、昭和という時代は、増長したのか、世間(国際社会)知らずでナイーブだったのか、周回遅れの帝国主義的「暴挙」(「中央公論」の名編集長だった粕谷一希氏は、先の戦争を「暴挙」だったが「愚挙」ではなかったと、さらっと総括された)により欧米諸国に頭を押さえつけられ、一挙に転落して敗戦の廃墟となった前半と、再び力強く立ち上がり、経済大国へと昇り詰めた後半との、ジェットコースターのような激動の時代だった。それは短い20世紀とでも言うべきもので、左翼史観が言う15年戦争と冷戦(という名のThe Long Peace by John Lewis Gaddis)という「戦争の世紀」でもあった(実際に日本人にとって「戦争の世紀」は長い20世紀とすべきであって、明治維新さらにはペリー来航に遡るべきだと思うが)。

 この季節になると関連書籍を読み、静かに来し方・行く末を振り返る。最近、通勤電車の中で辻田真佐憲著『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)を読了した。

 辻田氏は、「あの戦争をどのように把握するかは、事実関係だけの問題ではない。史料を無視することはできないが、最終的には解釈の問題に行き着く。問題は、どこに絶対的な事実があるかではなく、どのような解釈を取るかなのである」(P56)と言い、続けて「歴史を振り返る意義は、過去を美化することでも、糾弾することでもない。重要なのは、なぜ当時の日本がそのような選択をしたのかを深く理解し、わがこととして捉え直し、現在につなげることにある。そのためにも、われわれはあの戦争を解釈しつづけ、適切な物語を模索しつづけなければならない」(P59)とも述べる。本書の趣旨はここに明らかであろう。そして、本書では、左・右で交わることのない国内の議論(歴史観)を整理するとともに、東条英機が大東亜会議の年(1943年)に外遊した南京、上海、新京(長春)、奉天(瀋陽)、マニラ、サイゴン(ホーチミン)、バンコク、シンガポール、パレンバン、ジャカルタ、クチン、ラブアンにある多くの歴史博物館や記念碑を実地に訪ね、「大東亜」という大義は後付けではあったが、それへの彼らの評価を読み解こうとする、なかなかユニークな取り組みである。

 「歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈にほかならない」(P5)とまで言い切ってしまうと、歴史学の先生方は戸惑うであろうが、客観性は歴史学に任せるとして、私たちに必要なのは、客観性を踏まえながら、過度に卑下することなく、そうかと言って美化する必要もなく、日本と日本人のありようを素直に指し示し、国民に共有される、「国民の物語」であろう。私もかねて、私たちは「先の戦争」を総括していない、できていないことを嘆いてきた。それなしには、関係諸国、とりわけ歴史を直視せよと、歴史問題を外交カード化し、ことあるごとに日本の出過ぎた行動(往々にして中国に不都合なもの)に釘を刺そうとする、毛沢東の大躍進や天安門事件などの自らの不都合な歴史は揉み消すような中国と、対等に渡り合うことは出来ない。

 そして辻田氏は小林秀雄を引用する。「歴史を貫く筋金は、僕等の哀惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではない。」 そして小林秀雄は「子供に死なれた母親」を引き合いに、次のように述べたそうだ。

 

(引用はじめ)

 母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという、感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。

(引用おわり)

 

 これこそ「国民の物語」と私が思い抱いてきたものの本質だろうと、はたと膝を打った。行き過ぎて失敗したことばかりでなく、さりとてその陰で成し遂げた小さな成功にも目をつぶることなく、「哀惜の念」を込めて日本および日本人なるものの来し方を振り返り、行く末に思いを馳せることであろう。

 それで、東条英機の「大東亜外交」の足跡を訪ねる著者の旅はどうだったか。その結論だけ言ってしまえば、勿論、それぞれの国の「国民の物語」と密接に関わり、場合によっては発展途上で国威発揚に利用されながら、受け止め方はさまざまであるが、「許そう、だが忘れない」と総括できそうだ。あの南京大虐殺記念館の展示にも「歴史をしっかり銘記しなければならないが、恨みは記憶すべきではない」と記されているそうだ(と、きれいごとを言ったところで、彼の国では歴史を外交に利用することはまた別の議論となる)。私たちも、これら近隣諸国の記憶を逆撫でしたり、ないがしろにしたりすべきではないだろう。これはまさに、安倍元総理が70年談話で、先の大戦に関わりのない子孫やその先の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とする一方、「謙虚な気持ちで過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある」と述べたこととも符号する。

 歴史というものは厄介である。知人の元・自衛隊幹部と、昨日も大いに議論になったところで、軍人(と敢えて昔の呼び方をさせて頂く)にとって帝国陸・海軍の戦略性のなさや愚行を許せないのは分からないではないが、私は先人の判断を先ずは尊重し、その結果の良し悪しに関わらず先ずは敬意を払うべきだと思っている。そもそも戦後80年の間、敗戦の反省に立つとは言え、謙虚で真面目な日本人が、戦前は謙虚じゃなかった、真面目ではなかったとは到底、考えられないからだ。勿論、いつの時代にも、いけ好かない野郎はいる。今もいる。でもそれが世の中というものであろう。いけ好かない野郎だけを捉えて、全体の評価を下すのはフェアではない。

 辻田氏も、歴史は現在地を起点とする解釈だと言う以上、昨今の中国の増長ぶりを見て、戦前・戦中の歴史の見直しが進むであろうことを示唆される。日本及び日本人が先に述べた通りであるように、戦前・戦中の中国及び中国人が、左翼史観が言うように、残虐な日本のなすがまま、虐げられるままの可哀そうな存在だったとは到底、考えられない。実際、神田の古本屋街に行けば、当時の大陸の残酷物語を難なく見つけることが出来る。

 だからと言って、それで溜飲を下げて済むものではない。辻田氏は、本書で歴史を簡単に振り返りながら、日本の対外政策が一環した指導のもとで進められていたわけではなかったという構造上の問題、すなわち「司令塔の不在」を指摘される。確かにドイツ人は、ナチスやヒトラーのせいにすれば先の戦争を「総括」できる。イタリアもムッソリーニのせいに出来るかもしれない。知人の元・自衛隊幹部は東条英機はどうだと批判されるが、天皇陛下をこの上なく尊敬する忠臣で、極めて優秀な官僚に過ぎない彼が、戦争を止められなかったからと言って、ヒトラー並みに責めを負う存在とは到底、考えられない。GHQは軍部独裁の歴史をラジオ放送して、戦後の私たちは、ニュルンベルク国際軍事裁判でナチスが裁かれたように、極東国際軍事裁判(東京裁判)で軍部が裁かれたのだと信じ込まされて来たが、日本の憲政がそれほどヤワだったとは思えない。確かに、首相は今でこそPrime Ministerだが、当時は閣僚の一人に過ぎず、軍部が海軍大臣や陸軍大臣を出さなければ内閣は成立しなかった。陸軍と海軍の確執があったのも事実だし、それぞれの軍の中には派閥闘争もあったし、外務官僚もいたし、当然ながら国会もまがりなりに機能していた。「総括」する難しさは、このあたりにあって、現代に繋がる問題として、これからの難しい時代を前に、日本人は今一度考えてみる必要があるのではないかと思う。

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外国人と共生する社会

2025-08-12 20:56:23 | 時事放談

 日本人ではない日本在住者が増えている。首都圏のコンビニでは、日本人店員に出合う方がむしろ少なくなった。宴会予約の電話を入れると、こんなところまで・・・と思うくらい、たどたどしい日本語で、しかし、キャンセルは二日前まで、前日は50%、当日は100%かかると、しっかり教えてくれる。

 参政党の梅村みずほ参院議員が東京・新宿で行われた参政党の街頭演説の動画をXに投稿し、「大きくバツをつけた日章旗を振り『差別をやめろ!』と叫びを上げる。発煙筒で威嚇しながら中指を立て『差別をやめろ!』と叫びを上げる。純粋に演説を聴きに来た人の頭に大音量スピーカーを向け『差別をやめろ!』と叫びを上げる。」「悲しき日本の異常な現状。#参政党は絶対負けない。日本を守る」とあらためて主張したそうだ(8日)。

 確かに異様な光景である。リベラルと称される方は、数の割りに声が大きいものだが(これは私の偏見ではなく、SNSなどのデータ解析で、拡散することが実証されている)、今どき日章旗に×をつけるのは、リベラルの中でも全共闘世代のゴリゴリの左翼か、はたまた日本を荒らそうと企図する国(党)の息のかかった反日の方々であろう。

 参政党の神谷代表も、長崎で開催された被爆80年の平和祈念式典に出席した後、福岡市内で街頭演説を行っている際、「人種差別をやめろ」という趣旨の怒声が飛んだことに反応して、振り向きざまに「してねぇっつってんだろ!!」と怒鳴り返したそうだ(9日)。リベラルと称される方はレッテルを貼るのがうまい。ウソも100回言えば真実になると言うが、うっかり聞き流している内に、そういうものだと思い込みかねない。最近、facebookの動画で参政党の神谷代表の演説を見かけて、何とはなしにいくつか眺めていたら、いつの間にかfacebookで参政党の露出がやたら増えてしまった(苦笑)。確かに、参政党は差別を助長するわけではなさそうだし、戦争をけしかけるわけでもなさそうだ。

 先の参議院選で参政党が躍進したのを、ロイターは、「『極右の参政党』が日本の政治の主流に浸透し、『最大の勝者』として台頭した」と解説した。寄稿しているのはリベラル系の日本人ジャーナリストか学者だろうか。左側から見ればニュートラルな人も右に見えるし、同じく左側から見れば右の人は極右に見えるだろう(苦笑)。ロイター(または寄稿した人)の軸が左にずれている証左であろう。警戒したいのは分かるが、先の参議院選では、これまで投票に行かなかったような、声が大きくない、サイレント・マジョリティの中道あるいは中道保守が投票に行ったと考えられ、風向きが変わりつつあるのは確かだろう。そして、そのきっかけの一つが外国人労働者問題である・・・遠回りしたがようやく話が元に戻った。やれやれ。

 私は通算10年近く、アメリカやマレーシアやオーストラリアといった多民族国家に駐在したので、異国の人たちが共生する社会に違和感はないが、難しさもまた実感している。アメリカに滞在したのは90年代後半で、同時多発テロが起こる前だから、伝統的な人種差別(例えば蔑まれたり、接触を忌避されたりすること)は特に東海岸には顕著に残っていたが、暴動などの実力行使が目立つことはなかった。今はアジア系には住み辛くなっているかもしれない。マレーシアに滞在したのは2000年代後半で、マレー系が三分の二、中国系2割、インド系が1割という人口構成で、大雑把に言えば、役所などの公共部門はマレー系、ビジネスは中国系、弁護士や医者などの技術者はインド系と、棲み分けられている社会だ。ブミプトラ政策(マレー系優遇政策)はまだ生きているはずで、放っておけば生存競争に強い中国系が社会を牛耳ってしまいかねない(とは、かなりの偏見だが真実、笑)。オーストラリアに滞在したのは08年から09年にかけての一年だけだったが、インド系アジア人が襲われる事件が頻発し、共生社会の難しさを垣間見た。中国系移民が問題を起こすことも度々ニュースになった。アメリカで海外生まれの人口はせいぜい10数%だが、オーストラリアは30%にも達するほど、今もなお移民が増え続ける国であり、対決も生々しい。当時のシドニーでは、ナビのお蔭で土地勘がなくてもタクシーの運転手が務まるので、中東系が増えて、私もつい大丈夫かいなと身構えることが多く、最短距離であれば渋滞だろうがお構いなしに突っ込むので閉口したものだ。安い労働力として外国人を招き入れているわけではないと日本国政府は言うかもしれないが、現実問題として外国人は日本人が避けるような仕事に就くことが多く、その場合には、どこかでヒズミが出てくるのは避けがたく、そのコストは多少は甘受しなければならない。問題はどこまで許容できるかだ。

 参政党が争点化したお蔭で、外国人政策に関する司令塔組織「外国人との秩序ある共生社会推進室」が内閣官房に新設された。ごく当たり前に外国人にも暮らしやすい街づくりが必要だと主張されるようになった。現実問題として、外国人に来て貰っている以上、ある程度は受け入れる側の義務であろう。他方で、例えば私はオーストラリアに駐在するべく、就業ビザを取得するとき、彼の国の価値(詳細は失念したが、例えば言論・出版・信教などの諸々の自由や民主主義や法の支配など)を尊重するよう宣誓させられたものだった。それは受け入れて貰う側の義務であろう。先ずは日本でもオーストラリア同様に外国人労働者に対して日本の価値を認識させ、法以前の彼らの行動基準とさせるべきだろう。参政党が正確にどのように主張しているかは知らないが、所謂「郷に入っては郷に従わせるべき」だと私は思う。それは差別でも何でもない、お互いに譲り合う共生社会の掟(一種のマナー)であろう。

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日本女子プロゴルフの快挙

2025-08-07 01:19:12 | スポーツ・芸能好き

 先週末のAIG全英女子オープンで、山下美夢有選手が優勝した。賞金はなんと146万2500ドル(2億円超)。

 賞金はともかくとして、日本勢の全英女子オープン制覇は、2019年の渋野日向子以来6年ぶりとなる快挙だが、当時と違うのは、この大会で初日から首位を日本人がキープして譲らなかった上、最終的に優勝のほか、勝みなみが2位タイ、竹田麗央が4位タイと、トップ5人の中に日本女子三人が名を連ねたことだ。

 中でも初日から3日続けて、山下美夢有と竹田麗央という、国内女王経験者で、今季から米女子ツアーに参戦して新人王争いを繰り広げる二人がラウンドした。因みにこの二人が昨季、国内ツアーでマークした平均ストローク数は年間69台前半と突出していたらしい。竹田の(計測ホールでの)ティーショット平均飛距離263.19ヤードはツアー1位、山下はパーセーブ率で歴代1位の91.85%をマークしている。最も旬で、最強の二人なのである。

 ゴルフにおいても、海外のツアーで活躍するにはパワー(ゴルフ)が必要と言われる。しかし、山下美夢有は身長150センチと小柄で、飛距離は出ないが精密機械のようなショットとパットを連発する。球筋も、高さを出したいとか、フェードで止めようとは思わず、日本にいた時と同じようにドローだけで攻め、コースによって球質を変えることはないらしい。そうやって自分のスタイルを貫いて、究極まで精度を高めることで、海外メジャーで優勝をかっさらってしまった。

 松山英樹は、「やっぱり自分の武器を分かっているから、こういう結果が出せる。勝つ人というのは、そういうものを持っているんじゃないですかね」と、体格的なハンデをものともしない芯の強さに感心したそうだ(Golf Digest Onlineより)。

 羽川豊は、本大会最終日の戦略に驚いていた(日刊ゲンダイDIGITALより)。560ヤードの6番パー5で、バンカーを避けるため、飛距離が出ない選手であるにもかかわらず、第1打にアイアンを使ったのだという。リンクスでポットバンカーに入れることは「1罰打と同じ」と言われるようにボギー以上になりやすいとは言え、無理をしてバーディーを取りに行き、ミスを繰り返すのがゴルフなのに、と(私の)耳に痛いことを言う(笑)。

 これで日本人女子のメジャー制覇は、4月のシェブロ ン選手権の西郷真央に次いで6人目(7度目)となる。さすがに48年前の樋口久子さんは除くとして、2019年以来のこの6年間で5人のメジャー・チャンピオンを生んだことになる。西郷真央と、全米女子オープンを2度制覇した笹生優花は山下とプロ同期であり、昨年のメジャー、エビアン選手権を勝った古江彩佳のプロ転向は2019年で、いずれも日本中が「スマイリング・シンデレラ」ブームに沸いた渋野日向子の全英女子オープン優勝が大いなる刺激になったようだ。私が期待した渋野日向子はその後、ぱっとしないが、よい循環になっていて、それは大リーグでの野茂の活躍を見て、日本人メジャーリーガーが続々と後に続いたのに似ている。山下美夢有のプレースタイルは、さながらイチローの日本人らしい職人芸のようでもあり、見るのが楽しみになる。

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高校生アスリートの活躍

2025-08-02 22:25:43 | スポーツ・芸能好き

 高校生スポーツの夏の祭典と言えば先ずは甲子園が思い浮かぶが、他にも30の種目で、このクソ暑い夏に全国大会(所謂インターハイ、全国高等学校総合体育大会)が繰り広げられる(今年は7月23日~8月20日)。私は高校時代に陸上部(中・長距離)で、インターハイを目指していたと言うのもおこがましく、全国大会の手前の近畿大会の、そのまた手前の大阪地区予選であっさり敗退して、全国大会など夢のまた夢だった。当時は、走る前は(お腹が痛くなるから)水を飲んではいけないとか、夏休み中も毎日練習するのに、水分を取ると身体を冷やすから控えるように、などと殺人的(!)とも言える指導を受けて、よくもまあ、くたばらなかったな・・・と振り返るが、何を隠そう、そう言われながらも毎日3~4リットルもの水分を補給していた。脳は、いくら耳が(屁がつくような)理屈の声を拾ったところで、身体の生理現象に素直に耳を傾けるものだ(微笑)。

 かかる次第で、インターハイに出場するだけで大いなる敬意を表する私は、今年の大会では傑出した活躍があって瞠目した。

 一人は久保凛さん(東大阪大学敬愛高等学校3年)で、私のスマホのYouTubeには既に頻繁に登場する有名人の一人である。つい先だって、日本選手権の女子800mで自らの日本記録を更新し、今年の世界陸上への出場を狙う逸材なので、今さらインターハイでもないのだが、インターハイのこの種目では史上初めてとなる3連覇を達成した。いとこのサッカー日本代表・久保建英の影響がなかったとは言えないだろう、小学校6年間はサッカーをし、中学に入ってから本格的に陸上を始め、私の感覚で推し量っても仕方ないのだが、中学を卒業して僅か半年もたたない内に、体力的には格段の差がある高校三年生の並みいる強敵を打ち破ったのは驚異的だ。さながら強豪PL学園で一年生から四番を務め、一年の夏の甲子園で優勝した清原和博を彷彿とさせる。今やシニアを含めて追う者はない独走状態である。足が速い人の走る姿は、ムダを排し究極の効率を追求して、ほぼ間違いなく美しいものだが、彼女の場合は美しいだけでなく、やや怒り肩で、男顔負けの、という表現は今どきセクハラであろうが、線が細いことを除けば堂々とした、惚れ惚れとする走りっぷりである。

 もう一人は清水空跳さん(そらと、と読むらしい、石川県星稜高等学校2年)で、実は今回、初めて知った。7月26日の男子100mで、2013年に桐生祥秀(京都府洛南高等学校、当時)が出した高校記録を0秒01更新する10秒00で初優勝した。これはU18世界新記録であり、世界陸上参加標準記録を同タイムでクリアする。1000分の1まで計測したタイムは9.995(しかし公式には小数点以下第三位を切上げて10.00)で、9秒台まで距離にして僅か5cm強、届かなかった計算になる(秒速10mとして、0.005秒×10m/秒)。さらに28日の男子200mでは、追い風参考ながらサニブラウン・ハキームが持つ高校記録(非公式)に0秒05差に迫る高校歴代2位に相当する20秒39で初優勝した。弱冠16歳でインターハイ男子100m/200mの二冠を達成したのだ。身長164センチ、体重56キロと小柄ながら、家族揃って陸上一家で(空跳という名前から分かるように、お父ちゃんは息子に跳躍種目を期待したらしい)、まるで高性能のターボエンジンを搭載しているかのようなスピード感には目を見張る。

 今年のインターハイは、暑さ対策のため、急遽、3ラウンド制(予選・準決勝・決勝)から2ラウンド制(予選・決勝)のタイムレース(決勝は全3組)に切り替わった。気候変動はこういうところにも影響している。特に100m走では追い風・向かい風など、いっせーのせ、という一発勝負ではない不公平感が残るものの、「例年通りの3ラウンド制だと、決勝はタイムより勝負というかたちになってしまいます。2ラウンド制だったからこそ、ハイレベルのレースになって、これだけのタイムが出たかなと思います」と、清水空跳さんは語っている。確かに時代は変わって、おじさん・おばさんが考えたのであろう大会スローガン「輝け君の青春、刻め努力の軌跡」は些か気恥ずかしくもあるが、勝負や記録に賭ける思いは変わらないだろう。彼女・彼らの成長を見守りたい。

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