風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

大震災(7)風評被害

2011-03-26 13:56:23 | 時事放談
 先週末の三連休に、近所のドンキホーテやJマートやJohshinに寄って、米やカップ・ラーメンやトイレット・ペーパーやガス・ボンベの棚を覗いて見たところ、確かに報道されている通り、空っぽとは言わないまでも品薄状態になっており、ラジオや電池の棚には「売り切れ」の札が貼られて、入荷次第、レジ横の目に留まりやすい棚に積まれたであろう在庫も残り少ないといった有様を目の当たりにしました。かれこれ40年前の石油ショックの頃、トイレットペーパーの買い占めに走ったパニック状況を“歴史的”な現象として記憶にとどめる人は少なくないでしょうが、飽食の現代にあって、今まさに目の前に広がる現実となっていることが、俄かに信じられませんでした。
 今週になって、福島近隣で、ほうれん草などの生鮮野菜が僅かながら放射能汚染されていることが報道されると、ただちに健康被害はないと言われたところで、我々庶民にとっては出荷制限された事実が重く、すっかり需要が減退し、なんと大阪でもほうれん草が売れ残って値段が下がる事態に立ち至っているそうです。さらに雨のせいだと言われていますが、首都圏の浄水場で乳児の摂取基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたことが報道されると、いくら専門家が今のレベルでは水を飲んでも影響が出るには程遠く心配する必要はないと言ってくれたところで、乳児がダメなのに、幼児なら良いのか、小・中学生の成長期の子供は・・・と不安が増し、ペットボトルの水だけではなく、お茶やジュースまで品薄になる始末です。
 「まほうのことば」はともかくとして、仁科亜希子さんが38歳で子宮頸がんになったことやオシムさんが2007年に脳梗塞になったことは今回の震災とは余り関係がないのにさんざん流し続けて耳にタコを作ってくれたACは、最近になってようやくCMのバリエーションを増やし、「むやみに買い占めるのはやめよう」と呼びかけるようになりました。「津波を利用して『我欲』を洗い落とす必要がある。日本人の“あか”をね。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」などと放言して後で謝罪した石原都知事は、被災地で物資が不足しているというのに首都圏で買い占めを止めない日本人の『我欲』をまたしても批判しました。お説、ごもっとも、ではあります。確かに保存がきくものであればまだしも、余り日持ちしないような食品にまで殺到し、その逆に、水で放射能を四分の一とか五分の一に洗い落とせる野菜を出荷自粛して廃棄処分にしてしまうのは、福島原発が一応の小康状態である現状では過剰反応と言うべきなのでしょう。
 しかし・・・私は強がって、ガソリンスタンドを目指して長蛇の列に並ぶのが嫌で、車での外出を控えていますし、被災者でもない我々が食品の買い溜めに走るのは良くないと正論を吐いてはみても、その実、家内が密かに手持ち在庫を少し積み増している様子に気づいて、ホッとしているのが正直なところです。まだ断続的に余震が続く中で、房総沖や首都圏直下型の地震の可能性がいつもにも増して高まっていることが指摘されると、自衛のために、ある程度買いだめしたくなる心理は留めようがないというのが現実でしょう。福島原発の放射線被害が万が一顕在化すれば、すぐにでも車で逃げ出したくなる心理も、そのため普段は余り乗ることのない自家用車のガソリンを満タンにしておきたい心理も、必ずしも非難には当たらないかも知れません。
 こうした風評被害を煽ったのが、福島原発の放射能漏れに対する諸外国の反応でしょう。アメリカが、福島原発の半径80キロ圏内からの退避勧告を出して、日本政府の対応との違いが明らかになりました。東北地方にいる自国民を引き揚げさせたり、関西・九州方面や更には韓国に避難勧告を出す諸外国も後を絶ちません。およそどこの政府も、後で文句を言われないための自己防衛的な、そういう意味では科学的と言うより政治的に安全サイドの勧告を出しているであろうことは察しがつきますし、日本政府の情報開示が十分ではないためにこうした諸外国の過剰反応を招いているであろうことも頭では分かっているつもりですが、いろいろな報道に接しているとどちらが正しいのか不安になり、少しずつ日本政府への不信が芽生え、やがて自己防衛に走るというサイクルが回り始めます。
 ただでさえ、心理的に動揺している時を狙って、コスモ石油千葉製油所のLPGタンク火災によって千葉県内に有害物質の雨が降るといったデマが流れたり、誰とは言いませんが原発反対派の中からここぞとばかりにありもしない「最悪のシナリオ」をことさらに強調し危機感を煽る輩が出て来て、ネット上で論争になったりもしました。危機的状況下で情報開示・情報展開は簡単ではありません。実際にどの週刊誌を開いても、菅政権の不手際に触れないものはありません。こうして報道や情報をめぐる混乱を見ていると、お上に依存しがちな日本人自身の問題もあぶり出されます。情報開示・展開する側も、国民にどのように受け止められるかに思いを致しながら、正確な表現を心掛けるべきですし、私たちも冷静な判断力と、かつて安っぽく手垢にまみれてしまった自己責任を涵養すべきだと、敢えて言いたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大震災(6)ニッポンの意地

2011-03-21 13:07:09 | 時事放談
 地震発生当初、揺れだけでなく、大規模の津波が襲い掛かり、更に原子力事故まで誘発し、三重苦の中で、被害が拡大しないのは、日本の高い科学技術力と厳しい品質基準があるからだという賛辞が諸外国から寄せられたものでした。世界を席巻する日本のものづくりの品質の高さは誰しも認めるところであり、原爆を唯一経験し、原子力エネルギーに対する拒絶反応とそれ故に安全性に対する厳しい要求がある日本だからこそという暗黙の了解が前提にあったものと思われます。実際に、多くの家屋が倒壊を免れたことに対してあらためて驚異の目が向けられ、日本の耐震技術の面目躍如たるものがありましたが、時の経過とともに被害実態が明らかになるにつれ、「想定外」という言葉で語られることが多くなり、日本に寄せられてきた多大の信頼が徐々に崩れつつあります。岩手・宮城・福島三県の海岸にある堤防の延長約300kmの内、190kmが全・半壊し、「想定外」の規模の津波を防ぎ切れませんでしたし、五重の壁の防護を誇る原発も、停電に加えて津波で非常用電源が使用不能となり、「運転を止める」ところまでは良かったのですが、「炉心を冷やす」機能を失い、「放射能を閉じ込める」ことが出来るかどうかに不安を呼ぶことになりました。
 ただ、「想定外」の事態に直面した困難さに対して、見極めの甘さを今さらとやかく言っても仕方ありません。むしろ、日本の信頼感を揺さ振ったのは、危機が発生した後の対処の仕方、いわゆる危機管理のありようだったと思われます。いずれこのあたりの問題点の詳細や反省は明らかになるでしょうし、それを教訓として更に対策を施して将来に備えればよいのですが、政権交代を実現して1年半にしかならず、政権与党としてただでさえ未熟なのに、政治主導を唱えて省庁との連携がぎくしゃくしている民主党政権の性格が混乱に拍車をかけている側面は否めません。欧州連合のエネルギー担当委員は、原発事故への日本の対応について「信じられないほど場当たり的」だと批判したそうですが、避難地域を段階的に拡大しただけでなく、炉心の冷却手段一つとっても、当初、東電が海水を使用するのに消極的だったために対応が遅れたとか、素人目にも思いつきであれこれ手を出すばかりでなく、救援物資の輸送が困難など何か他の要望が上がってくれば何でも自衛隊に仕事を振って現場を徒に混乱させるというように、コントロール出来ていない様子が漏れ伝わって来ます。被災地で救援活動を行っていたドイツの民間団体「フメディカ」の救援チームは、日本政府が事実を隠蔽し、過小評価しているとして、早々に帰国してしまいました。もっとも、阪神大震災ともまた違う、これほどの広域にわたる大規模災害に直面して、正常に機能する危機管理を期待するのは酷と言えますし、評論家諸氏がとやかく言うほど簡単ではないはずで、半分は同情すべきだと思います。
 これに対し、自衛隊、警察、消防をはじめ、それが役割とは言え、危険に晒されながら現場で復旧作業に従事されている方々には頭がさがります。福島原発では、日立グループの社員100名も電源復旧のため防護服に身を固めて作業していると聞きました。東京都のハイパーレスキュー隊だったと記憶しますが、その隊長の記者会見で、隊員の活動を労い、目に涙を浮かべて隊員の家族を思い遣る姿に、胸を打たれました。日本の底力は、こうした現場での頑張り、現場力にあることを痛切に感じます。何事にも忍耐強く規律正しい、科学技術立国であり高品質の国ニッポン(漢字圏でしか通じない日本ではなく、世界に誇るブランドであるニッポンまたはJapan)の意地に賭けて、一日も早い復旧と復興を応援したいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大震災(5)復興に向けて

2011-03-20 15:11:17 | 時事放談
 木・金曜日と、厳しい寒さに見舞われ、電力需要が高まったため、大規模停電を避けるために鉄道各社が帰宅ラッシュ時の運行本数を減らすと言うので、木曜日は5時に(他の企業では4時のところも)、金曜日は5時半に帰宅するよう、会社から指示が出ました。地震があった当日も、無理して帰宅しないよう指示があったのは、恐らく政府の指導を受けてのことだったのでしょう。非常事態で官民の連携はそれなりに取れているように思われますが、いつまで続くのかという不安がよぎります。
 そんな中、金曜夜は、会社の先輩が近々海外駐在で出発するというので、新橋に飲みに出ました。週刊誌を読むと、夜の街はあがったりのような印象を受けていたのですが、金曜夜ともなれば、人気の店は満席で、それ以外もそこそこに混んでいて、驚かされました。一週間経って、事態に慣れてきたこと(実際にちょっとやそっとの余震は、またか・・・と遣り過ごせるようになりました)に加え、暫く行動を自粛して来たことの反動もあることでしょう。
 徐々にではありますが、活気を取り戻しつつあるのは良いことだと思います。被災地の苦労を思えば、首都圏に住まう我々の「無計画」停電による不自由や間引き運転による混雑はものの数にも入らないのは事実ですが、いつまでも必要以上に行動を慎んで、被災地を支えるべき首都圏をはじめとする周辺地域が沈んで共倒れになっては、元も子もありません。
 そういう意味で、春の高校野球開催を決めたのは良かったと思います。高校野球を徒に美化する風潮は好きではありませんが、そうは言っても先ずは職業野球ではないこと、都道府県対抗であること、そして何より東京・東北電力管内ではないということで、こういうご時世でもイベントとして受け入れられやすく、被災地の出場校は、結果は別にして健闘することが被災者を大いに元気付けることでしょう。他方、プロ野球はセ・パ分裂開催になったのが解せません。このあたりは、まだ死者や行方不明者の数が増えている中で不謹慎だという見方と、いつまでも謹慎していても仕方が無くてアスリートにはその道で日本に元気を与えるべきという見方との間で、揺れたことは理解します。3月25日なら早すぎて、29日なら良いのか、更にパ・リーグの4月12日なら安心なのか、いろいろ意見はあったことでしょう。延長戦をなくすなどの節電対策を採るようですが、開催地を絞ったり、日程を縮小するなど、もっとやりようがあって、プロ野球と言っても所詮は職業人としての自覚をもって、プロ野球機構として合理的な統一見解とセ・パ足並みを揃えた行動を示すべきだったという気がします。
 そういった(日本プロ野球機構や官邸や東電も含む)マネジメント層の体たらくとは別に、プロ野球の選手会をはじめ各方面のアスリートの間で、草の根の支援の輪が広がっていることは、心強く感じます。私のような庶民は、城島が真っ先に1000万円の義援金を決めて感心していたところに、東北高校出身のダルビッシュは5000万円をはずみ、イチローに至っては1億円にまで跳ね上がって、これまでのところ募金箱を抱えるだけの松坂や拙い英語で募金を呼びかけるだけの松井はどうするのかと気になってしまう小心者ですが、もとより義援金競争を煽るべきではありませんし、高額所得者がプレッシャーを感じるような全体主義的風潮が蔓延るとすればちょっと気になります。
 こうした支援の輪はアスリートに限ったことではなく、私の会社も含め各方面で募金活動が活発化し、ボランティアの応募に列をなし、救援物資が集まり、また国家関係が必ずしも良好とは言えない中国や韓国を含む諸外国からも日本を応援する声や義援金や支援の手が次々に寄せられるのを聞くと、近ごろとみに涙腺が緩くなった私はニュースを見て涙が止まりません。日本が多くの国に支えられ、そして日本国を支えるのは私たちであり、その私たちが思いと力を合わせて復興に向けて力強く歩き始めていることの幸せを感じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大震災(4)諸外国の目

2011-03-16 23:57:33 | 時事放談
 諸外国の反応を見ていると、日本で当たり前のことが世界では当たり前ではないことに気づかされます。
 一つは、日本の建築物の耐震構造に関するもので、日本では学校が避難所になりますが、たとえば中国・四川大地震のとき、彼の地の建築物は安全基準どおりに建設されない手抜き工事が多いために、7000棟以上の学校の校舎が倒壊し、5000人以上の子供たちが犠牲になったそうです。こうしたことは中国人だけではなく、日本の被災地界隈に留学している韓国人の口からも、「日本だからこそ被害の拡大を食い止められた」というようなコメントが、韓国人の間に広まりつつあるようです。
 二つ目は、これだけ大きな地震と津波に見舞われても、日本人が冷静沈着に行動し、秩序が守られているということで、それは被災地で我慢強く給水や食料の配給を待ち、小売店でも待ち行列を乱さないということばかりでなく、被災地と比べるべくもない首都圏でも事情は同じで、一昨日・昨日の通勤時間帯の混雑はひどいものでしたが、そこまでして皆さん、駅の入場制限にも辛抱強く待ち、すし詰めの社内で文句一つ言わず、黙々と、よくぞオフィスに向かおうとするものだと褒めてあげたいくらいでした。アメリカのハリケーン災害や、中国の地震やデモですらも、暴動が起きていたのとは対照的と言えます。韓国でも、これほどの地震が発生していたら、地震そのものよりも、パニックになった人が起こす二次災害による被害の方が大きいだろうという声が挙がっているようです。
 狭い日本列島で肩寄せ合って生きてきて、自然災害は他人事ではないことを身にしみているからこその、身の処し方なのでしょう。計画停電のような乱暴なことでも(私はそもそも呼称が気に入りませんが)、なんとか受け入れて、やりくりしようとしています。従順だと、太平洋戦争の当時も今も、個人主義のアメリカでは思うところでしょうが、従順というより、他人を思いやる心なのだろうと思います。勿論、被災者の苦労は私たちにはわからない。でも苦労しているだろうな・・・ということを、少し我が身のことに引き寄せて、慮ることができる。素晴らしい素養だと思います。
 三つ目は、しかし有難い評価ではなく、福島原発の放射線漏れに関して、日本政府の発表が信じられないという指摘です。今なおチェルノブイリ原発事故の被害の実態を隠し続けるロシアには言われたくありませんが、韓国や中国のほか、オーストラリアあたりからも言われるのは、危機管理をも科学の対象にしてしまう欧米的な発想との違いでしょうか。日本政府としては、徒に不安を煽らないように情報コントロールしているつもりかも知れませんが、土曜の午後に帰宅してから日曜日にかけて、半ば放心状態でテレビをぼんやり見続けた私にも、官房長官や原子力安全・保安院による情報展開のタイミングは遅く、説明も私たちが期待する内容から程遠く、的確性に欠いたものだったように思われます。テレビのスイッチをひねれば、各局で寄ってたかって大学教授や原子力発電や放射線科の専門家のセンセイ方をスタジオに呼び、発表内容を更に解説させているところからも、発表内容のお粗末さが窺えます。
 今朝の日経新聞は、ここにきてようやく政府と東京電力との間で統合連絡本部が設置されたことを伝えていましたが、事故発生から既に5日が経過しており、東電任せにしてきた政府の危機管理対応が後手に回った感が否めないと指摘するばかりでなく、「法的根拠はない。形だけつくったということだろう」と打ち明ける政府関係者の声まで紹介し、更に、これまでの対応の遅れを全て東電に責任転嫁するためのアリバイづくりだとの穿った見方もある、ということまで述べています。これらは、ゴシップ系の週刊誌ではなく、一般紙である日経の記事においての話です。
 福島原発の問題は、福島方面ばかりでなく首都圏への健康被害の波及も懸念され、適時・正確な情報開示が望まれます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大震災(3)計画停電の混乱

2011-03-15 00:07:19 | 時事放談
 今朝、いつもの時間に家を出たら、最寄駅で入場制限が行われ、15分ほど待たされた挙句、すし詰めの、まさに立錐の余地もない満員電車にいつも以上に長い時間揺られ、1時間20分くらいの通勤時間が1.5倍の2時間かかりました。
 それでも朝は、時間帯が早かったため(いつも混雑を避けるために始業時間の1時間前にはオフィスに到着するようにしています)、まだマシだったようで、帰りはもっとひどい混雑に巻き込まれました。結局、25%くらいの節電のために間引き運転をするばかりに、私たち通勤客の時間やエネルギーの50%から100%を浪費し、疲れとストレスが募るばかりでした。過去50年で初めてのこととは言え、これでは効率が悪過ぎます。今日の混乱の教訓を活かして、明日以降は是非改善して頂きたい。
 それにしても、計画停電などと、上から目線の計画経済的(もっと言うとサヨク的)なものの言いは、一体、誰の発想なのでしょうか。東京電力の試算によると、4100万キロ・ワットの総需要に対して3100万キロ・ワットしか供給出来ない(しかし東北電力から融通を受けて3300万キロ・ワットまで上積み可能だった)というのであれば、部分的に停電にするというような乱暴な策ではなく、全体を80%のオペレーションに抑える策を考えるべきです。Jリーグは3月中の公式戦60試合を中止にしたそうですが、誰もが痛みを分かち合うという意味で、例えば鉄道を20%間引くのであれば、産業界は自主的に週休三日にして80%のオペレーションを実践してはどうかと思います。80%のリソースで、節電を心がけ、普段の業務のムダを省けば、案外、それほど重大な影響なく乗り切れるのではないかと言う気がします。
 いずれにしても4月一杯という長期にわたることであれば、抜本的対策を考える必要があります。今日のような混乱は、私のような軟弱者にはとても肉体的・心理的に持ちません・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大震災(2)帰宅難民のその後

2011-03-14 00:22:07 | 時事放談
 今日一日、テレビに釘付けになっておりました。日本の建築物の多くはそれなりの耐震構造になっていると思われますが、山がちの地形の扇状地に開けた東北地方のリアス式海岸に沿った町がことごとく津波の被害に遭って、個々のそれなりの耐震構造の家が全く違う力によって、場合によっては街ごと濁流に呑み込まれ、さらわれて、すっかり姿を変えてしまったのが痛々しく、あらためて自然災害の恐ろしさを感じました。
 私は、朝から両足に筋肉痛を感じています。昨日の昼、エレベーターが止まったままの36階のオフィスから階段を降りた時のダメージを、今頃、感じているという、情けない状況です。更に言うと、昨晩、二日ぶりに湯船に浸かって目を閉じたとき、地震で揺れているような感覚に囚われました。揺れを覚えている三半規管が、700段以上の階段を降りる間に、更に揺れを感じ続けて、ちょっと麻痺しているのではないかと思ったほど、過敏な状況でした。東京にいてもこれほどですから、被災地に近いほど、心理的な影響も大きいだろうことが察せられます。
 テレビを見ていて、いろいろな解説の声を聞いた中から、印象に残るものを挙げます。
 ワンセグでのニュース視聴や、ドコモのサービスで地震情報や鉄道の運行情報が伝えられる携帯電話は便利だと思う反面、携帯電話自体はなかなか通じなくて、携帯電話より固定電話、あるいは携帯電話より携帯メール、また当初は携帯メールよりもパソコン・メールの方が通じたところからすると、現代の私たちは携帯電話に余りに頼り過ぎていることを感じると同時に、ここまで普及してしまった以上、ライフラインとしての携帯電話ネットワークをもっと頑丈にすることを考えるべきだろうと思います。
 今回は、阪神大震災の1000倍とも言われるM9.0の地震エネルギーもさることながら、阪神大震災の時とは比べものにならないほど被災地が広域にわたり、しかも市町村レベルの自治体も被害に遭って、次に大きい自治体の県に情報が集まりにくい現実に直面しているようです。数日前に規模の経済のことをこのブログに書きましたが、経済性という価値規準ではない、情報ネットワークを含むある種の完結した災害対応システムとそれらを相互に結ぶネットワークを構築する必要があるのだろうと感じます。
 今後三日間でM7以上の地震が発生する可能性は70%もあるそうです。津波の注意報は解除されましたが、まだ油断できません。明日からは関東一円で輪番停電も始まります。私たちの備えはまだまだ続きます。
 上の写真は、オフィスで配給された乾パンと水です。乾パンと言いつつスティック菓子ですが、一袋で一日の栄養補給ができる優れものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大震災(1)帰宅難民

2011-03-12 16:24:56 | 時事放談
 かれこれ25時間前、私は36階のオフィスにいて、デスクトップ・パソコンが倒れないよう手で押さえながら仁王立ちになっていました。同僚の多くは机の下に身を隠し、主のいなくなった椅子があちらこちらで床の上をごろごろ動き回るのが、人々の狼狽ぶりを象徴するようでした。震度5強ということでしたが、兎に角ゆらゆらとよく揺れて、しかもそれが長く続いたものですから、気分を悪くしてオフィスの廊下に横たわる女性も出る始末です。柔構造なのでよく揺れるが、外に出るよりは安全だと、パニックになるのを抑えるような落ち着いた声の放送が流れたのは、しかし、ずっと後のことでした。その後も何度か余震が続いて、そのたびに、既に私たちはインターネットやワンセグで状況を把握しているのに、ずっと遅れて館内放送がもっともらしく解説するのがなんとも間抜けでしらじらしく感じられました。
 その間、意外に冷静な気持ちでいられたように自分では感じていましたが、今から思うと、何故か「日本沈没」のことが頭をよぎり、首都が崩壊するかもしれない、しかしここで死んでたまるか・・・と、支離滅裂なことを考えていたところからすると、かなり動揺していたのかも知れないと思います。その後も断続的に引いては寄せる波のような余震の中でとても仕事をする気になれず、窓の外に広がる暗い雲や、遥かレインボー・ブリッジの上を這う青虫のような車や、お台場あたりから煙があがるのを、ただぼんやり眺めたり、インターネットのニュースを目で追ったりしていました。
 暗くなる頃、館内放送に従い、歩いて帰宅できる同僚を見送ると、残った半分くらいの同僚は、会社から乾パン二個と500mlの水二本の配給を受けて、不安な夜を殺風景なオフィスで過ごす覚悟を思い思いに決めているようでした。いつまでもパソコンをぼんやり見つめる者、机にうつぶせになる者、部長席の椅子に深々と身を沈める者、会議室の椅子を並べて横になる者・・・。
 なかなか寝付かれず、どんよりと鈍い意識のまま、夜が明けて、窓際に近づくと、抜けるような青空の下に、いつもの街並みが無傷に広がっているのが見えて、一体、僕たちはどこにいるのか、何をしていたのかと、奇妙な錯覚に囚われました。その先には富士山が、まるで何もなかったかのような、静かな佇まいを見せて、昨晩の不安がまるで夢だったかのようです(上の写真)。
 昼過ぎに帰宅してテレビで見る、宮城県を中心に東北地方の太平洋岸で広がる自然災害の凄まじさに、東京で起こったことなど何でもないことだったのだと、あらためて目を見張りました。一刻も早い救援と回復をお祈りいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

規模の経済

2011-03-10 00:58:12 | 時事放談
 適正規模というものがあります。たとえば工場経営で、大きければ大きいほど効率的かと言うとそんなことはなくて、1000人からせいぜいい2000人が最適なのだというようなことを聞いたことがあります。一人のリーダー、一つの管理組織が掌握できる規模には自ずから限界があって、もしそれを超える場合には、更に別次元の管理体系が必要になるであろうことは、なんとなく想像できます。こうした規模の話をする時に典型例として引き合いに出されるのは、軍隊の組織でしょう。機能的集団の最たるものであるからこそ、軍事組織は最も効率的・効果的な編成を求めて、洗練されて来たのだろうと思います。
 そういう目で見ると、今の日本の官僚組織はイビツです。明治以来の中央集権体制を、150年にわたって持続し、その間、人口では2倍以上、GDPでは何十倍か何百倍に拡大したかわかりませんが、それをマネージできなくなっているのは明らかなのに、それでも基本的に変わらない構造を保持しているというのは、不誠実だと言うべきです。
 今朝の日経・社説は、4月から全面実施になる小学校の新しい指導要領が、地球儀ブームを巻き起こしている・・・という書き出しで、成熟した社会の担い手には独創性や自主性が一段と重要になっていると環境分析した上で、今、必要なのは指導要領を大綱化、簡素化し、授業の組み立てやその中身を思い切って地域や学校現場に任せることだと、教育の分権化を主張してます。中央省庁は、いちいち地方のことや細部にかかずらわっていないで、本来の意味での日本国としてのグランド・デザインやグランド・ストラテジーを考えるべきでしょう。かつての市町村合併は最適規模を求めたものだったのでしょうし、最近の大阪府や名古屋市の反乱とも言うべき中央に対する挑発的な動きもまた同じ文脈で理解すべきものだろうと思います。
 経営学の泰斗ピーター・ドラッカー氏は、組織にとって最適の規模とは、組織の機能や仕事に必要な情報を最も有効に扱うことのできる規模であると、彼独特の言い回しで述べています。 「多くの企業が適切な規模を知らない。規模にふさわしい戦略や構造についてはさらに知らない」とも。肝に銘ずるべきでしょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亡国の悲劇

2011-03-09 00:44:55 | 時事放談
 今の日本の政治に関して、何か喋るとボヤキになってしまうので、もう何も言うまいと思っていましたが、やはり一言、言いたいと思います。
 前原外相が、子供の頃からお世話になっていたとかいう在日韓国人から献金を受けていたことが発覚し、それが政治資金規正法が禁止している外国人からの献金にあたるというので、問題の責任を取って、あっさり辞任しました。昨年9月に外相に就任して僅かに半年、ポスト菅としても期待され、実際に菅内閣の中では最も(殆ど唯一)好感が持てる閣僚だと思っていただけに、民主党を支持しない私でも残念に思います。それはおよそ諸外国に対する日本の顔としての外相が、そう頻繁に交替するような不安定な状況では、誰もまともに相手にしてくれないであろうからですが、「政治と金」の問題を自ら厳しく追及してきた手前、本人の一本気な性格と、イラ菅さんが野党に対して譲ることなく、与・野党の関係を冷え込ませたため、今後の国会運営を気遣わざるを得なかった結果であり、民主党としては大いなる損失ですが、身から出た錆と言えそうです。
 人材はそれほど多いとは思えない今の日本の政界で、これほど人材を使い捨てにして、いったいどうする気でしょうか。年に一巻ずつ15年間に亘って「ローマ人の物語」を刊行し続けた塩野七生さんは、ローマの歴史を振り返りつつ、「亡国の悲劇とは、人材が欠乏するから起こるのではなく、人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが機能しなくなるから起こるのだ」と言われます。何を隠そう私の会社も業績悪化して人事が硬直化しており、塩野さんの言葉は、腹に落ちます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都大学入試問題漏洩

2011-03-05 20:04:48 | 時事放談
 こういうのを大山鳴動鼠一匹・・・とでも呼ぶのでしょう。京都大学の入試問題が、まさに入試が行われている時間帯にヤフー知恵袋に投稿された事件は、一人の浪人生がつい出来心で犯したカンニングに過ぎなかったことが明らかになりつつあります。そのため、「京大が騒いで未成年者を逮捕させた」「京大の監督態勢こそ問題があったのではないか」といった抗議や苦情が京都大学に寄せられているようですが、確かに京都大学の今回の対応に問題がなかったとは言いませんが、同情すべきところもあり、上のような非難は結果論に過ぎないところもあります。
 もし犯人が、掲示板にハンドルネームで投稿してもIPアドレスによって足がつく、といった初歩的なことすら知らないような純朴な浪人生ではなかったとしたら、どうだったか。ある愉快犯が、不特定多数の受験生に入試の時間帯にヤフー知恵袋を参照せよと予告し、受験生に扮して試験会場に潜り込ませた仲間を通じて問題を投稿させ、何等かの形で解答も投稿させた結果、掲示板に載った解答そっくの答案が続出していたとしたら、どうだったでしょうか。いやしくも京都大学の受験生ともあろう者がそんな危険を冒して同調するとも思えませんが、場合によっては入学試験やり直しの事態にもなりかねず、今回の罪状である「偽計業務妨害」にあたるような新手のサイバー犯罪だった可能性は否定できなかったわけです。特に、私も英語の問題の一つを見ましたが、機械翻訳にかけたような拙い英訳で、愉快犯に相応しい。
 敢えて問題視するとすれば、石原都知事が指摘されていたように、世の中のメディア・リテラシーは進んでおり、韓国では組織的なカンニング事件を機に携帯電話を持ち込み禁止にしたように、「携帯の持ち込みを制限するなどの措置を講じなかった大学当事者の方が時代に遅れている」ということ、つまり京都大学の先生方をはじめとする私たちオトナの意識の後れが問題なのでしょう。監視の目がある試験会場で試験開始後5~11分という早さで投稿されたのは、カメラで試験問題の映像を外に待機している者に送ったからではないかと、さも複数犯説がまことしやかに解説されていましたが、どうやら本人は「机の下の股間に携帯電話を隠し、机に体を寄せて左手ですべて入力した」と、一人でやったことを供述しているようなのです。
 今回、いろいろインターネットを探索していると「京大対策」というWikibooksのサイトを見つけました。これによると、

・・・(前略)・・・京大の問題は本学の学者・研究者養成という目的を反映してか、どの科目においても、簡単な問題を短時間で効率よく処理する力ではなく、比較的長い時間の中で、難解な課題をじっくり解く力・発想力・表現力・思考力といったものが求められていると言える。このような問題に対抗するには小手先のテクニックは通用しない。例えば国語なら安易な読解法に頼るのではなく、文章をじっくり読み理解するのみならず、本文に基づいて、作者の裏の考えまでも理解し、それに自らの理解を補ってわかりやすく表現する力、数学なら暗記した解法を組み合わせて解くのではなく、新しい視点で問題を見つめ数式の意味を多面的に見る発想力、誘導の無い問題を最初から最後まで自力で計画を立て解ききるという構想力、そしてそれらをわかりやすく採点者に伝える表現力、英語なら型どおりに語句や構文をとって訳すのではなく素材文の著者の全体主張を深く把握し自ら思考しつつ訳す力が求められる。・・・(中略)・・・京大の入試問題は、カリキュラムによって線引きされた、いわゆる“科目”の個別の学力だけでない教養や素養が広く求められる。すなわち京大の入試問題に対抗するには、多様な事象に興味を持ち文系・理系に関わらない広い教養を備え、付け焼刃の学習ではなく、日々の学習を地道に行い主体的にじっくり思考することを繰り返すという学問の王道を行くことが、遠回りであり、長い時間を要するが、もっとも確実な方法なのである。また、そのような学びの姿勢こそが京大入学後の学問の糧となろう。(後略)

と、長い引用になりましたが、京都大学の先生方は極めて真摯に入学試験を作成されていることが察せられます。そして殆どの受験生もまたこうした入試問題に対処するために極めて真摯に切磋琢磨しているわけで、こうした先生方と受験生との間の信頼関係を裏切るようなカンニング行為は、受験生を怒らせただけでなく、善意の先生方をも落胆させたことでしょう。それを、脇が甘いと言うのは勝手です。良くも悪くもそれが日本を代表する象牙の塔の実態なのではないかと思うわけです。私が同情すべきと言ったのは、この点です。
 こうして、今回の一連の報道を見ていて思うのは、日本では飽くまで性善説に基づく受験制度への信任が厚いということでした。ご承知の通り、アメリカなどでは在学中のカリキュラムが盛り沢山で卒業を難しくしています。それが本来の大学教育の姿だと言われれば、その通りなのでしょう。それに対して日本の「入り」を難しくする大学受験制度を批判する声が多いわけですが、それにしても「いっせいのせ」で全国一斉にやらないと、秋田の国際教養大学のように所期の目的に反して、結局、人気を博して入学のための競争を煽るということになりかねません。受験制度を含む教育の問題は、将来の日本を背負う子供たちの問題、ひいては将来の日本の問題であり、十年一日どころか五十年、百年一日の現状を、しっかり議論すべきだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする