風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

2952対1

2013-03-26 02:10:54 | 時事放談
 旧聞に属しますが、やはりブログに書き留めておきたい、なんとも不自然な投票結果でした。そのため、この1票は誰が投じたものか、話題になったようです。かつてのライバル、盧展工・政協副主席という説もあれば、昨年11月以来、かつて推進してきた諸政策が新・総書記に否定されて不満が募っているであろう前任者・胡錦濤氏という説、はたまた謙虚さを示すために選挙で自身への反対票を投じたという毛沢東氏の逸話にならった習近平氏本人という説もあるそうです。そう、言わずと知れた、中国・全人代(全国人民代表大会)で習近平氏が国家主席に選ばれたときの賛否の票です。折しもバチカンで新法王フランシスコ1世が三分の二超の票を得るまで五度の投票を繰り返さざるを得なかった枢機卿たちも羨む(呆れる)「圧勝」と報じたメディアもありました。しかし、投票行動を、西欧諸国の遅れた制度と公言して憚らない彼らにとって、この程度のイヤミは痛くも痒くもありません。
 しかし、そんな中国で、今、トクビルの「旧体制と大革命」(1856年)が広く読まれているそうです。アレクシス・ド・トクビル(1805―59。フランスの政治社会思想家、政治家、歴史家)と言えば1831年にアメリカを旅行してものした「アメリカのデモクラシー」が有名で、「旧体制と大革命」のことは知りませんでしたが、亡くなる三年前に書いたフランス革命分析の書だそうです。石平氏によると、中国で読まれるきっかけを作ったのは、共産党政治局常務委員の王岐山氏で、昨年11月末、ある会議の席上で購読を薦めて以来、俄かに脚光を浴び、新聞・雑誌は盛んにその内容を取り上げて紹介し、書店では売り切れが続出するほどの人気だそうです。1月18日付の人民日報(海外版)によると、中国国内の現状が大革命前夜のフランスのそれと類似しているため、大きな注目を集めたということです。大革命前のフランスでは、貴族たちが憎むべき特権にしがみつき、人民の苦しみには全く無関心で、自分たちの独占的な利益の維持に汲々としており、それが「旧体制」につきものの「社会的不平等」を深刻化させ、大革命の発生を招いたというわけです。今の中国でも、貧富の格差が拡大し、社会的不公平が広がり、階層間の対立が激化しており、このような状況下では「民衆の不平・不満が増大して社会が動乱の境地に陥る危険が十分にある」というわけです(以上、2月14日付産経新聞より抜粋)。
 また、相馬勝氏がSAPIO4月号に寄稿した「習近平の権力闘争」によると、習近平氏が党総書記就任直後の昨年12月に広東省を視察した際、地元の党幹部に対し、ソ連崩壊の原因について語ったそうです。曰く、「ソ連は何故崩壊したのか。ソ連共産党は何故下野してしまったのか。重要な原因の一つは、理想、信念の動揺だ。最後には、一夜の間に、城に掲げている大王の旗を変えてしまった。この教訓は我々にとって深刻だ。」「ソ連の歴史や党の歴史を全面否定し、レーニンもスターリンも否定し、全てを否定し尽くし、歴史の虚無主義に陥り、思想も混乱し、(中央や地方の)各レベルの党組織は何もしなかった。」ちょっと長くなりますが、更に引用します。「我々(中国共産党)はどのようにして『党が軍を指導する』(という大原則)を少しの動揺もなく堅持していくのか。それこそが、ソ連崩壊から汲み取る教訓だ。ソ連軍は非政治化して党から離れ、国家の軍隊となり、ソ連共産党は武装解除せざるを得なくなった。ゴルバチョフは党の危機の渦中にあって、一党独裁体制維持のために必要な武力装置を用いることが出来ず、最後に一言『ソ連共産党を解散する』と宣言した。ソ連共産党は中国共産党よりも(全人口に対する)党員の比率が高いのに、解党に抵抗する者は一人もいなかった。」
 習近平氏は、ソ連崩壊の原因が現在の中国にも通じると強調したようです。そして党幹部に対し思想的な堅固さを要求するとともに、軍に対して党への忠誠を求めるなど、共産党一党独裁体制に対する強い危機感を滲ませていたと言います。
 果たしてこうした状況がどこまで切迫しているのでしょうか。中国が内部に多くの矛盾を抱え崩壊の危機にあることは、いろいろなところでいろいろな人が語って来ましたし、私も四半世紀にわたって期待し続けて来ましたが、中国共産党は意外にしぶとく、期待は悉く裏切られて来ました。しかし、今回の全人代であらためて驚かされたのは、国防費が25年連続で二桁増(当初予算比)を記録したのはともかくとして、国内の治安維持に充てる公共安全予算が二年連続で国防費を上回ったという事実です。勿論、国防費に開発費や装備購入費が含まれず、実態は公表額の二倍から三倍あるとされますが、純粋に人にかける費用で比べてみれば、国防と同じくらい国内治安に手がかかり、政権に対する国内の脅威が大きいかを物語ります。そんな国が長くもつとは思えません。現に中国共産党の幹部は、子弟をアメリカをはじめとする外国に留学させ、財産を海外に逃がし始めているようです(それは、どうやら北朝鮮の党幹部も同様らしい)。
 少なくとも、こうした内部のアキレス腱を抱える限り、弱腰と言われないよう、外に対して強硬に出て来ることは避けられません。こうした相手だからこそ、コミュニケーションを密に、うまく危機管理して欲しいものです。
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春爛漫

2013-03-22 22:15:04 | 日々の生活
 かつて年度末になると予算消化のために如何にも意味なさげに道路を掘り返す光景があちらこちらで見られたものですが、さすがに公共事業予算が削られた昨今、目に触れることはなくなりました。しかし私は与えられた有給休暇消化のため(というのはただの枕詞で)、今日はのんびり自宅待機を決め込みました。ぐうたらだった私が、久しぶりに受験生のように集中して準備に余念のなかった東京マラソンが終わって、気の抜けたサイダーのように、ちょっとした五月病に襲われて(ブログも随分サボってしまいました)、気分転換のつもりです。春の陽気に誘われて、子供たちを連れて、近所に散歩がてら食事に出かけることにしました。
 普段は、朝、駅に急ぐだけの通勤経路も、昼間に歩みを緩めてぶらぶらすると、不思議と目に触れるもの全てが新鮮に映ります。とりわけ小学校の校庭や公園の桜が咲き誇って、春の日差しの中に眩しい。朝からつけっぱなしだったテレビによると、桜の開花が早まって、桜祭りを企画していた人たちは急に変更するわけにも行かずアテが外れたり、一週間早めて準備に大わらわだったり、人騒がせな春の到来だったようですが、そんな人間界の欲にまみれた思いなど、どこ吹く風。春風駘蕩とは、まさにこういう様子を言うのでしょう。
 一度、行ってみたいと思っていた地元のイタリアン・レストランの、パスタとサラダと飲み物とデザート込みランチ・セット950円は、お手軽でどうかと思ったら、あにはからんや、最初に出てきたサラダの、すっきり爽やかな、それでいてほんのりコクのあるドレッシングを味わうだけで、美味しいランチになりそうな予感がして、幸せな気分になりました。パスタは、譬えて言えば、普段の社食での食事がハーモニーとは程遠いただの雑音の寄せ集めであるのに比べれば、まるで多重奏を聴くかのような、しっとりと落ち着いて深みのある音に仕上がって、期待に違うことはありませんでした。
 得した気分で、帰りの足取りが軽かったのは、言うまでもありません。上の写真は、近所の小学校の校庭の桜です。熱帯地方の原色の花や刺激の強い食事に比べ、日本の花や食事のなんとも奥ゆかしくほんのりと淡い色合いであり味わいであることか・・・とは、これまでも何度かブログで触れたことではありますが。
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第三回WBC

2013-03-21 14:31:28 | スポーツ・芸能好き
 第三回ワールド・ベースボール・クラシックのベスト・ナインが発表され、日本からは投手・前健と指名打者・井端の二人が選ばれたそうです。おめでたいのは事実ですが、二人しか選ばれなかったところが低調ぶりを象徴しているようです。
 今回のWBCは、先ずは日本プロ野球選手会が出場辞退を表明する混乱に始まり、日本人(だけではないですが)メジャー・リーガーの出場辞退が相次いで、これまでの二度の大会以上に、「野球世界一決定戦」のキャッチコピーが白々しく感じられ、やや盛り上がりに欠ける大会となりました。WBC公式球は滑りやすくて手に馴染まないとか、アメリカでは空気が乾燥しているとか、マウンドが硬いとか、制球を気にする日本人ピッチャーに不利な条件を論う声があがるのは毎度のことですが、日本が目指す野球とは違うと言いたいのか、多くのメジャー・リーガーを欠く大会では真の世界一とは言えない、それでも勝ちたい、でも勝てないかも知れない予防線を張っているのか、晴れの舞台を前に、これまで以上に日本人のアンビバレントな感情が溢れていたように感じました。それでも一野球ファンとしては期待し、侍ジャパンはその期待に応えて善戦したものの、残念ながら準決勝で敗退して三連覇は成らず、多くの人が心の片隅に抱き続けた不安あるいは恐れていた予感が的中する結果となりました。
 確かに当初は、メジャー・リーガー抜きの純国産チームで負けたと言われたくないという選手たちの意気込みとは裏腹に、どこまで行けるか不安を抱えていたがための予感でした。しかし、いざ蓋を開けてみれば、本家のアメリカをはじめ、強豪キューバや、前回準優勝の韓国までもが相次いで敗れ去るほど、その韓国やキューバを破ったオランダ(実態はカリブ海の島国キュラソー)や、メキシコを破ったイタリア(実態はイタリア系アメリカ人)といった欧州勢のほか、アメリカを抑えて決勝に勝ち進んだドミニカやプエルトルコなどのカリブ海諸国の躍進目覚ましく、彼らの本気度にすっかりお株を奪われてしまった恰好です。そういう意味では、アメリカ大リーグ機構が進める国際化推進戦略が見事に実を結んで、野球界の底上げが図られ、成功裡に終わった大会だったと言えます。
 日本でも、なんだかんだ言いつつ、第二ラウンドまで行くと、台湾に対して薄氷を踏む逆転劇を成し遂げ、一転してオランダ戦では大勝するなど、大いに魅せてくれ、期待も高まりました。それだけに、準決勝の戦いぶりは、当たりが出て来た阿部や、調子が出て来た前健をはじめとする、それまでの良い流れがウソのようにぎくしゃくして、「らしくない」戦いぶりで自滅し、後味の悪い展開となりました。その象徴となったのが、2点を追う八回一死一・二塁で重盗も可とのサインが出て、一塁走者の内川が飛び出してアウトになった場面で、それを悔やむ涙目の内川のインタビューとともに、各局のスポーツ・ニュースが、これでもかとしつこく放映して、気の毒なほどでした。あの場面であのスタートが出来るのは凄いと、その思い切りの良さをイチローは冷静に評価したそうですが、WBCという特異な大会で、三連覇を目指す高揚と重圧があろうと、また、日本を離れたアウェイで、慣れ親しんだ国内のドーム球場を離れて勝手の違う天然芝の球場であろうと、始まってしまえば、これが勝負というものです。TBS系で中継されたこの準決勝・プエルトリコ戦の平均視聴率は、関東地区で20.3%(ビデオリサーチ調べ)だったそうですし、瞬間最高視聴率は、9回裏、日本の攻撃で中田翔が三振に倒れて2アウトになった直後に25.0%に達したそうです。
 そして、終わってみれば、賞金総額1500万ドルの内、優勝したドミニカ共和国には340万ドル、準決勝で負けた日本にも160万ドルのご褒美が贈られるそうです。ご存じの通りWBCは、IBAF(国際野球連盟)が公認する国際大会であることは事実ですが、FIFA(国際サッカー連盟)のワールドカップや、IOC(国際オリンピック委員会)のオリンピックのように、国際統括組織がマネージするものではなく、飽くまでMLBとMLB選手会がつくったWBC, Inc.という言わばローカル組織が主催する世界大会であり、その成り立ちからして野球という競技のデモンストレーションの舞台でありプロモーションの場でもあることは明らかであり、同時にメジャー入りを目指す個人にとってはメジャーに対するデモンストレーションの好機であり、野球を祖国でメジャーにしたい組織や個人にとってもその好機となるわけです。とりあえずは、サッカーほどの世界的な拡がりがまだない野球界の現実と受け止め、今後の展開に期待したいと思います。
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ミュシャ再び

2013-03-15 23:39:21 | たまに文学・歴史・芸術も
 先日、平日の午後をさぼって(なんて言いながら、ちゃんと半日休暇を取りました)六本木ヒルズ52階にある森アーツセンターギャラリーで開催中のミュシャ展を見に行きました。水曜日の午後とあって、サラリーマンの姿はなく、若い女性がほとんどという独特の雰囲気で、しかも混んでいたので、ちょっと戸惑うほどでした。ミュシャは、日本人、とりわけ若い女性には人気があるのでしょう。
 ミュシャは、いつ見てもいい。そこはかとなく惹かれるのは、アールヌーボーという西欧の芸術のムーブメントを代表するデザイナーであり画家でありながら、彼の絵はオリエンタルな神秘に包まれているからでしょう。それでいて日本人にはとてもマネできない色彩感覚と意匠があります。実は彼はオーストリア帝国領モラヴィア(今のチェコ共和国東部)生まれのスラブ人で、今回の展覧会に並行展示されている、彼のコレクションとされる、レースをあしらった女性用の民族衣装を見ていると、なるほど、彼の優しくも妖しい画風の原点はここにあったのかと納得いくほどの、可愛い花柄や華麗な曲線や豊かな色彩に溢れていました。それから、もう一つ、特に彼の絵の形のヒントになっているのは、教会のステンドグラスでしょう。
 そんな彼も、若いときは、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成したポスターで名を馳せ、ほかに煙草用巻紙(JOB社)やシャンパン(モエ・シャンドン社)や自転車(ウェイバリー社)などのデザインを請け負って稼ぎまったのですが、後半生では、スラブ民族の歴史や復興・独立といった民族主義的な絵ばかり手掛けるようになります。人の思いは、年齢とともに、その時代背景を映して、移ろい行くものなのですね。
 この展覧会は5月19日まで。是非、今なお新鮮なアールヌーボーの作品の数々を堪能してください。
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達観

2013-03-10 15:53:33 | 日々の生活
 先日、日下公人さんの講演を聞くチャンスがありました。深い見識に裏付けられ、「達観」して、噺家のような軽妙洒脱な喋りに魅了されました。講演のテーマはあって、無きが如し。テーマに直截斬り込むでなく、その周辺を、話は縦横無尽に駆け巡りつつ、終わってみれば、なんとなくテーマについて考えさせられる、不思議な魅力がありました。ここでは、いくつか氏らしさを感じさせる話題を紹介します。
 例えば日本は、国際会議に弱い、特に国連に弱い、国連は日本から金を巻き上げるための仕掛けなのに・・・と言いにくいことにずけずけと踏み込みます。しかし、金を出す以上、国連のそこがオカシイ、ここがオカシイと、日本ははっきり言うべきだ、反対されれば、日本が第二の国連を作る(脱退するのではなく)とケツまくればいい、恐らく192ヶ国中、150ヶ国はついて来るであろう、アメリカだってついて来るのではないか、などと、一見、極端に見えながら、至極まっとうに、これまでの日本のありように自信をもってよいこと、そして自信をもって進むべき今後の日本のありようを説かれます。
 また、交渉事において、ビジネスマンなら、止める!と言って席を蹴ることができる、自分の経験でも、中国人ですら、翌日朝、帰国する空港で待っていたことがあった、つまり交渉では彼らは芝居をしていることが分かる、売った・買ったという商売にこそ本音が出るわけだ、そして角が立たない、ところがこうした経験は政治家にも官僚にも学者にもないのが問題だ、などと、ばっさり切り捨てます。
 もう一つ、氏がものしたある本では、産業革命が始まったとき、人々が何と言ったかは、殆どが歴史の中から消えてしまって、いま残っているのはアダム・スミスが書いた「国富論」(1776年)が有名である、と説きおこし、彼は「経済学の父」と呼ばれるように、経済学はアダム・スミス以降に誕生したとされるから、アダム・スミスもこの本を書くまでは経済学者ではなかった、道徳哲学者で倫理学および論理学の教授だった、と、私のような経済素人はおや!?と思うようなウンチクを続けます。同書の中で、有名な一節「見えざる手が働いて、市場では君主の規制がなくても均衡が実現する。均衡実現への推進力は市場参加者の営利精神でそれしかないが、それでも社会に貢献する働きをするのが市場の不思議なところだ」と書き、それは「強欲なのはいいことだ」へと発展したが、彼はそんなことまで言っていない、彼はその前に「道徳感情論」(1759年)という道徳の本を書いて、社会と経済の全般にわたる君主の規制を承認して、当時の社会から信用を得ていた、つまり、当時、市場の縛りには君主の規制やキリスト教の厳然とした力があったが、「市場では自己愛の集まりにもプラスが生じる」と認めたことが新鮮で、時代は産業革命前夜で、勢力を得つつあった商工業者はこの説を喜び、産業革命が進行すると、後に続く人たちはこの考えを、「見えざる手が全てを解決してくれる」といったイデオロギーにしてしまった、当時は社会のベースに道徳や倫理があり、人間は道徳的でなければならないという大前提の下で暮らしており、そうした縛りがあった上で「営利精神はあってもいい」ということであって、アダム・スミスは野放図な強欲を肯定したわけではない、と言います。なるほど、本は「書かれたことが全て」ですが、本そのものもまた歴史の一コマであることを思えば、歴史を解釈するのと同様、時代背景とセットにして読まないと、誤解しかねないことを指摘しつつ、同時に、現代という時代状況を皮肉っておられます。
 論理は、あらゆる可能性を孕みます。そのため、若い人は、得てして様々な可能性を追求したくなりますが、人は経験によって、Practicalではないロジックを排除することにより、真理へとストレートにワープすることができるようになります。“勘”が侮れないのはそのためであり、また長老の知恵とは、そういうものであることを、ようやくこの歳にして知りました。些事を切り捨て、重要なことにしか興味をもたないのは、単に短気になったり、面倒臭がったりしているわけではなく、枯れて脂肪が取り払われた末の本質を露わにしているに過ぎない。その枯れた姿に至る、長い年月の試練に思いを致すとき、簡潔な言葉の余韻に限りない味わいを覚えます。
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マラソン足

2013-03-02 12:05:02 | スポーツ・芸能好き
 東京マラソンが終わって、ああ終わった・・・と解放感に充ち満ちていたのですが、いつの間にかぽっかり(喪黒福造が忍び寄りそうな!?)心の中に空洞が広がって、一週間を過ごして初めての週末を迎えて、なんだか五月病にかかったような気分です。マラソンと、実はもう一つ、二日違いで実施されたある資格試験に向けて勉強もして来て(どうしてもマラソンに集中せざるを得なかったので勉強不足でしたが、でも好きな読書は控えて来ました)、一気に目標がなくなって、一種の喪失感に見舞われてしまったようです。それだけマラソンに賭けてきた証拠でもあるのですが、この歳になって、なんだかばかばかしい話です。週末、特に何もすることがない時間は、以前と全く変わらないはずなのに、妙に戸惑っています。
 それはともかくとして、この一週間、知人から、マラソンどうだった?と声をかけられた中で、一番印象に残ったのが、(Qちゃんを育てた)小出監督が、毎日5キロや10キロ走っているだけではマラソンのトレーニングにならない、週に一回20キロ走るとマラソン足が出来る、というようなことを言っていたけど、本当だったね、という言葉でした。「マラソン足」と言われても、恐らく以前ならピンと来なかったでしょうが、今はよく分かります。週に1日は脚に過負荷をかけて、強い脚を作ることで、私の場合、1キロ6分程度なので全く速くありませんが、42キロは走り抜くことが出来るわけです。足が速いのではなく、足が強いということであり、最近、地頭などと言われますが、地足、みたいな感覚です。
 「42.195kmの科学」(NHKスペシャル取材班)という本を読みました。NHKの特番を書籍化したもので、運動生理学(最大酸素摂取量、乳酸性作業閾値など)、血液学(血液の性質や特徴、特に赤血球の酸素運搬能力など)、心臓MRI(心臓の大きさや機能)、バイオメカニクス(生体工学、ランニング・エコノミー、フォームや着地の仕方)、形態と身体組成/筋肉と腱の研究(足、特に膝から下の形態など)、神経・筋機能/走行中の筋肉と腱の使い方などといった科学的観点から、マラソンの世界最高記録を叩き出したアフリカ人のトップランナーの速さの秘訣を探るもので、市民ランナーとは違う次元の話ではあるものの、マラソンという一種の極限状態に挑む人間の身体のメカニズムを追うという意味では極めて示唆に富む内容でした。
 次元が違うという意味では、運動生理学や血液学や心臓MRIについては、ははあ、マラソンとはそういうものかという程度の感動でしたが、バイオメカニクス(生体工学)については、我々市民ランナーでも関心が高いところでしょう。所謂ランニング・エコノミー(走りの経済性)と言われるものです。高校時代に中距離をやっていた時には、ストライドを伸ばし飛び跳ねるように走っていたものですが、今は地を這うような地味なピッチ走法に変わりました。本書でも、あるトップ・ランナーは、上下動の無駄な動きをなくし、重心がスムーズに前に進んで行く動きになっている、などと言われると、納得します。もう一つは、つま先着地の話で、興味深いので本書の表現を抜粋します。

(前略)マカウ選手に特徴的なのは、通常、短距離走者などがスピードを出すために行い、足への負担が大きいとされる、つま先着地をしていることで、足の小指から着地し、つま先全体で地面を捉えて蹴り出しており、かかと(踵骨)には殆ど体重が載っていない。・・・ハイスピード・カメラで見ると、マカウ選手は、あと数センチで地面につま先が着くというタイミングで、足底の面をいったん地面すれすれに平行にしてから、つま先をスッと進行方向とは逆向きに引き戻して着地をしていることが分かった。・・・通常、着地する時の足の速度と地面が流れる速度が違う場合、足は地面にぶつかるため、大きな衝撃を受けやすくなるが、彼の場合、つま先を絶妙にコントロールすることで、地面の動きに逆らわないよう、言い換えれば、地面に対して足の速度差がなくなるよう、調節していたのである。地面をうまくつかまえに行く走りだと言える。・・・通常、着地の瞬間にガツンと大きな力を受けるため、太ももの筋肉が非常に緊張し、地面に着いた瞬間、足が一瞬止められ、同時に、その衝撃を膝で受け止めるため、膝周りの筋肉に過度に力が入ってしまい、結果として、重心が下がって、所謂“ブレーキ”に繋がる動作になってしまう。ところがマカウ選手の場合、足に無駄な力が入るようなことが起きず、膝も過度な衝撃を受け止める必要がないので、適度に曲げる程度で、地面を蹴る時も膝の角度は大きく変化しない。所謂“ブレーキ”がかかっていない。(後略)

 今回、私の走りが以前と比べて変わったことを象徴しているのが、靴のかかとの擦り減り度合いが減ったことでした。靴の擦り減り方が少ないということは、地面との摩擦が少ない、つまり地面に接する時の衝撃力さらにはブレーキがかかることが抑えられていると言えるわけで、恐らく、スピードを抑えて、スムーズに足が回転するような重心移動を心掛けているせいだろうと思われます。以前よりも足(靴)底が斜めではなく水平に近い形で着地し、かつての自分の走りに比べて、エネルギー効率が良くなっているのではないか。
 因みに、5時間近くも同じ動作を続けるわけですから、普段何気ないことでも、肉体へのダメージは甚大なものになります。足腰の筋肉痛はもとより、肩が凝るのは、5時間近くも腕振りを続けるからですし、股ずれは言うに及ばず、乳首もTシャツに触れて、シャワーを浴びる時にはひりひりします(以前、出血してゼッケンが血だらけになったことがありました)。5時間近くぴょんぴょん跳ねているわけですから、内臓もさぞびっくりしていることでしょう。世界のトップ・ランナーの中には、腎臓などの内臓を悪くしている人が多いと聞きますが、我々市民ランナーとは比べものにならないくらい負荷は大きいでしょうから、さもありなん。
 闇雲に走るのではなく、科学的な知見を頭の隅に置きながら、走りに工夫を施せば、ただの練習でも興味が湧くのではないでしょうか。
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