風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

コロナ禍④中国リスク

2020-02-25 22:31:57 | 時事放談
 新型コロナウィルスは、どうやら通常のインフルエンザより感染力は強そうだが重症性は低いとの見方が出ているが、いつも言いたい放題の麻生さんがG20財務相・中央銀行総裁会議で言われたように、中国の言うことは信用ならないので、なんとも言えない(まあ、そんなことを言えば日本だって十分に検査できていないので、どこまで感染が広がっているのかよく分からないし、私自身だって既に感染しているかも知れないので、いつ発症してもおかしくないし、いずれも考えすぎかも知れない)。従い、中国を忖度するWHOは、中国で感染増加のピークが過ぎたようなことを言ったらしいが、とても信じられない。当の中国はアメリカのことを過剰反応だと批判し、日・韓のことを措置が脆弱だと批判したらしいが、感染源の中国には言われたくない(笑) まあ、彼らの報道の殆ど全ては国内向けとは言え・・・。それに日・韓は中国のような一党独裁の全体主義国家じゃあるまいし・・・(韓国はやや微妙だが 笑)。
 こうして眺めていると分からないことだらけだが、一つ、確実の言えるのは中国に対するリスクだろう。トランプ政権が中国を先端技術の開発や製造のサプライチェーンからデカップリングしようとするのは難しいほどに、もはや中国はグローバル経済に組み込まれている現実は動かしようがないが、他方で、そんな中国への過度の依存が、人口14億(あるいは少なくともネット人口8億)ものスケールのもとで行われ、しかもその国が戦後のリベラル・オーダーとは異質な秩序観をもつ一党独裁の全体主義国家であることのリスクも再認識されたことだろう。
 なんだかんだ言ってアメリカは連邦国家だが、中国は中央集権で絶大なカネと権力を握る。これほどの巨大な中央集権国家は、世界史上、初めてのことだ。しかも、貧しい地方を置き去りにしたまま、また今回の新型コロナウィルス問題で明らかなように公衆衛生や医療などの社会インフラは貧しいまま、放置する一方で、AIやロボティクスなどの先端分野では、先進の超大国アメリカに張り合おうとしているのだから、如何にもイビツだ。開発独裁として、1100万人都市の武漢封鎖だろうが、病院建設だろうが、AIへの集中投資だろうが、万機公論に決すべき自由・民主主義国よりスピーディで力強く、一帯一路に見られるように中小国を債務の罠に陥れ、AI分野ではアメリカを凌ぐ特許申請件数を記録したと報じられる通りだが(中身を見ると、質はまだアメリカには劣るようだが)、自由・民主主義国のようなエコな発展は望むべくもない。
 中国が恐れているのは、こうした中国リスクから脱・中国が加速しかねないことだろう。否、もっと恐れているのは、過去4000年の歴史でしばしば見られたように、中国共産党政権が「管理できない」「信頼に値しない」として人民に見限られることかも知れない。それだけに、習近平政権の強権発動は、初動の遅れがあったとは言え、天晴れと言えるのかも知れない。
 もう一度言うが、経済的に日本を含む多くの国が相互依存する中国は、人口14億、その内のネット人口だけ拾っても8億というのは、EU(イギリスを含め)の1.6倍、あるいはEUとアメリカを合せた規模に匹敵し、過度の依存と言うが、要は十分過ぎるほどのキャパシティがあるということに他ならない。これほどの人口超大国が日本の隣に鎮座するのだから、日本の経済も歪むわけだ。日本の「失われた20年」「30年」は、冷戦崩壊後、中国の経済発展の時期に重なる。日本の製造業が空洞化してきたのは、「世界の工場」中国の発展を抜きに考えられないし、中国から安い製品・部品が流れ込み、それがそのままデフレの要因だとは言わないが、なにがしかの貢献をしていることだろうし、日本で生き残るためには賃金を抑えるか安い非正規雇用に頼らざるを得ない現実もあることだろう。
 こうしてみると、日本の1.3億人すら中央集権でやっていくには大き過ぎる規模だと思っていた(ので地方分権が望ましいと思ってきた)が、企業(工場)経営と同じように、国家経営にも最適な規模があるような気がする。この不幸な環境を如何に凌ぐか、中国の総人口がピークアウトするとされる10年後(一説には3年早まったとも、既に2018年に人口減少社会に突入したとも言われるが)までの大きな課題だ。
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コロナ禍対応と法整備

2020-02-22 01:03:57 | 時事放談
 二週間ほど前だったか、元大阪府知事の橋下徹さんが、新型肺炎対応のために安倍首相が行った数々の政治決断について、「法律の根拠が曖昧な点は残るけれども、それらを断固支持する。そしてそのような安倍首相の決断に対してそれをしっかりとバックアップしなかった、与野党含めての政治家に対して、日本の政治はほんとダメだなと失望した」と述べておられた。というのも、「感染症対応に使えそうな法律である感染症法、検疫法、出入国管理法・・・(中略)・・・は、患者や症状のある『個人』(一部は症状がなくてもウイルスを持っている個人)に対して、政府が対応することになっている」に過ぎず、「本来、感染症対応の原理原則は、『症状の有無にかかわらず』『感染地域からの流入者全般』に対して大きく網をかける対応をすることであるのに、現在の法律はそうなっていない」からだという。
 豪華クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号における感染防止策を巡っては、英紙サンが「疫病船」と呼んで、「隔離計画にしくじって、中国本土以外で最大の感染拡大を引き起こした」と日本の対応を非難したのをはじめ、英ガーディアンや米WSJやブルームバーグ通信など、名だたる海外メディアから批判が噴出した。しかし、騒いでいるのはメディアだけで、しかも批判するばかりで解決策を示すわけではない。何より各国政府筋は沈黙を保っている(ロシアを除いて・・・そのくせロシアは自国民を保護するべくチャーター機を出すわけでもない)。というのも、ダイヤモンド・プリンセス号の船籍は英国なので英国法の管轄下にあり、公海上の船舶の保護は、旗国(船籍国)たる英国の責任で行う「旗国主義」の考え方があり、しかも運航会社はプリンセス・クルーズという米国の会社であって、本来、日本国政府に国際法上の義務があるわけではないからだ。ただ千人を超える日本人乗客を放っておくわけにはいかず、寄港国として言わば道義的な支援を申し出たのだった。かかる状況で、日本国政府としては各国政府と事前に協議していないわけがない。実際、河野防衛相のツイッターによれば、米国政府は、当初、日本政府に対し、「14日間の検疫期間を船上で過ごすことがウイルス感染の拡大を防ぐ最良の方法であるとの米衛生当局の判断に基づき、早期に下船・出国させる考えはない」と説明し、チャーター機派遣時には「日本政府の対応に感謝している」と伝えたらしい。
 こうした状況を受けてか、日経は、「政府は感染拡大の防止を最優先として、現行法の枠内でぎりぎりの政治判断を重ねている」と、必ずしも緊急事態に対処するべき法整備が十分ではない中での政府の対応を弁護するような記事を配信している。政府の対応が生ぬるいと感じるのは、国家権力を行使して個人の権利を一時的にせよ制限し全体の安全を確保する、といった根拠となる法が十分に整備されていないせいなのかも知れない。そういえば憲法改正の論議の中でも、9条改正もさることながら、普通の国の憲法にはあって然るべき「緊急事態条項」が我が国の憲法にないのはおかしいといった議論があった。野党やリベラルなマスコミの方々は「桜」を追及しても、この議論を避けているかのように見えるのは、国家権力をまるで信用せず、彼らにとって立憲主義とは、専ら権力の行使を憲法で縛るという一面的な理解でしかないことと無縁ではないのだろう。
 この際、防衛・安全保障と同じく、法整備状況を検証し、将来のパンデミック・リスクに備えることこそ肝要だと思う。日本人は戦後、いくら戦前の全体主義的な状況への反省に立つとは言え、また分野によっては本質的な議論が苦手とは言え、国家の安全保障を米国に頼って以来、自立的に危機を管理する力(あるいはその意識)すらも弱くなったような気がするのは私だけではないだろう・・・。
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青梅への道(5・未完)

2020-02-17 21:34:49 | スポーツ・芸能好き
 昨日の青梅マラソンは不本意ながらDNSとした。インターネット用語のDNSではなく(笑)、マラソン用語のDNSで「Did Not Start」の略だ。なお、スタートしたものの棄権等でゴールに至らなかった場合はDNF(Did Not Finish)と言うらしい。
 あっけない幕切れは、家族の反対に押されてしまったことによる(なんという根性なし・・・)。何万人もが集まるところに、のこのこ出かけて行って、わざわざウイルスを貰って来るつもり!? と。いやいや、戸外のオープン・スペースで行うマラソンと、毎朝・毎晩、密閉空間の満員電車に揺られる通勤とで、どちらがリスクが高いと思う? と。これって、福島第一原発事故の際、放射線を浴びることと、喫煙や野菜を取らないことで、どちらがガンになるリスクが高いと思うか、といった問答に似ている。ただ放射線の場合は、専門家の知見を書籍の形で入手できて、それらをもとに、自分なりに判断することが出来たが、今回はまだよく分からないところが決定的に違う。結局、論破できずに、5ヶ月間の(私なりの)苦労に報いるよりも、家庭円満を選んだ。
 実際のところ、私のようなサブ・スリーを目指す程度の鈍足ランナーは、お尻から数えた方が早いスタート地点から飛び出したところで、青梅の狭い田舎道(失礼!)を「駆け抜ける」のは至難のワザで、暫くは(5キロ30分以上)固まりになって、前後左右にぶつかりそうになりながら、集団移動せざるを得ない(それでも沿道の応援は暖かく、青梅マラソンをこよなく愛するランナーは多いのだが)。それは、電車の中で立つのと違って、走っている分、呼吸が荒くなるのが気にならないわけではない。また、給水所や給食所の混雑や混乱も気にならないわけではない。東京マラソンではバナナを切らずに一本丸ごと配布すると言って失笑を買っていたが、アンパンやクリームパンの切れ端が満載のところに、走りながら手を突っ込むのだとすれば、余り衛生的とは言えない。そして何より30キロを走り切ることによる免疫力の低下が気になっていた。さらに雨で冷え込むことになるであろう予測が追い打ちをかけた。
 結果的に、9時半スタートの10キロの部は大雨にたたられたが、11時半に30キロの部がスタートする頃には雨は止んで、気温9度の絶好のコンディションだったらしい。そして報道されている通り、東京五輪に内定している前田穂南さんが1時間38分35秒の女子・日本新記録で圧勝された。ナマで見たかったなあ・・・
 今回の実施については、2月5日時点で「新型コロナウイルス感染症に関して厚生労働省の発表に従い、現状は流行が認められる状況ではないことから、現在、開催に向けて準備を進めております」旨の発表があり、当日まで情報が更新されなかったため、決行されたものだ。状況証拠から、もはや感染経路は不明で既に「感染拡大期」にある可能性があり、水際対策に重点を置いた政策から国内での重症化やパンデミックの抑制を最優先にしたシフトチェンジを求める声が出始めているのが気になっていたら、3月1日開催予定の東京マラソンでは、一般参加者の出走を取りやめるとの発表があった。同じランナーとして残念なことだ。それでも今年の一般参加者には来年の大会への出場権が与えられるというから、私は来年も出られないことが決まった・・・
 青梅マラソンの話に戻ると、最終的にどれくらいの脱落者が出たのか、現時点で大会公式HPに掲載はないが、辞退したランナーはいつもより多かったのだろう、大会に参加できなかったランナーに対して参加賞のTシャツを着払いで発送するとの告知が出ている。確かに余ったTシャツをヤフオクに出すわけにもいかないだろうし・・・(苦笑)
 いや、正直なところ、走れなかったからと言って、5ヶ月間のトレーニングが無駄になったとは思わない。ただ、また一つ齢を重ねて、これだけの練習をして、どこまで出来るか「試したかった」気持ちが、もやもやっと残っているだけである。一年先の自分にそれほど自信があるわけでなし・・・
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青梅への道(4)

2020-02-14 23:35:36 | スポーツ・芸能好き
 先週末の土曜日、うっかり(昼)寝過ごして、十分な走り込みが出来なかったので、翌・日曜日も、私にしては珍しく二日続けて1時間コースにチャレンジした。どうせ疲れが残っているだろうから、のんびり行こうと走り始めたところ、豈図らんや、久しぶりに軽快に走ることが出来て、驚いた。所要時間も普段より10%程度速く、12月の皇居周遊大会並みのランナーズ・ハイ状態だった。これで、本番では気分が高揚してドーパミンがドクドク出て普段以上の実力を発揮するという個人的な仮説は崩れてしまった。たかが練習のジョギングだが、一体どうしたことだろう。
 秘密のカギは、どうやら食事にありそうだ。
 だいたい週末は、朝・昼ともに年齢相応に枯れた食事が習慣になっている。そのため、夕方、シャワーを浴びる前にささっと走りに出る頃には、すっかり腹が減って、時に意識が朦朧とした状態(恐らく糖分不足)で走ることもある。ところがこの日曜日は違った。昼に外出し、サン・マルクのランチをとった。焼き立てのパン食べ放題なので、美味しさにつられて腹一杯いただき・・・とは単に食い意地が張っていただけのことだが、そのお陰で、夕方のジョギングのときでも、12月の皇居周遊大会と同様、それなりにエネルギーが残ったままの状態だったと考えられる。
 走るというのは、ある意味で脳との闘いだ(と思う)。その昔、筋肉疲労は乳酸が溜まるせいだと習ったものだが、どうもそうではないらしい。その当否はともかく、腹が減ってくると、脳は、生存本能に従って、「余計な運動をせずに休め」「エネルギーを補給しろ」と指令を出す(と思う)。逆にランナーズ・ハイは、エネルギーが十分に余裕がある状態だからこそ、脳は運動を制御しない・・・などと思っているのは私だけかも知れないが、実際に、井村屋がマラソン用の羊羹を販売しているのを見かけたとき、噛むことで脳が刺激され、エネルギーが補給されたと思い込んで元気が出ることから、適度に歯応えがあるのは良いことなのだと、店員さんから聞いたことがある。
 ここ1~2年、練習のスピードが目に見えて落ちたのは、年齢とともに食が細って、走るだけのエネルギーが十分ではないせいでもあると思う。とりわけ私は空腹に弱い。腹が減り過ぎて寝付けなかったことも一度や二度ではない。市民ランナー・レベルのマラソンは、4~5時間もの間、運動し続け、途中で腹が減るので、栄養補給が課題だと、これまでさんざん言って来たし、普段の練習でも調子が出ないのはエネルギー(食事)が足りなくなる時間帯に運動するせいだと嘯いて来た。それは多分に言い訳がましいところがあったが、実際に、数年前から、加齢に抗うように、練習前にも120円の栄養ジェルを取るようにして来た。
 そこで火曜日の祝日には、意図的に昼食の量を増やして2時間コースを走ってみた。目に見えて変わったかと言うと微妙だが(笑)、それなりに元気に頑張ることが出来たので、まあ間違いないところだろう。これで練習は打ち止めで、あとは本番を待つのみ。
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時代相

2020-02-09 21:09:54 | 時事放談
 前回、言ったことに続けて、あらためて指摘したいのは、日本、米国、欧州、中国、ロシアという主要プレイヤーにおける時代相の違いである。
 最近、ヨーロッパのことが気になって仕方がない(笑)。18世紀までは中国が先進国と言われていた(結果として眠れる獅子だった)が、ルネッサンスや宗教改革を経て、ヨーロッパ(と言っても西欧)に近代科学や近代思想・哲学が起こり、啓蒙思想とそれに基づく市民革命を経て、19世紀にはその地位が逆転する。挙句に、EUという形で主権国家の主権の一部を放棄する地域連合までが現出し、更にそこから主権を回復するべくイギリスが離脱するという、常に時代の最先端(?)を切り開き続けている。
 そもそもヨーロッパが、ルネッサンスという形で古代ギリシャやローマの文明に目覚めた(復興した)のは、イスラーム世界を経由してのことであった。その意味では、ある時期までイスラーム世界が文化的に古代ギリシアやローマを継承し、ヨーロッパ(西欧)より進んでいたと言えなくはない。ところがイスラーム世界は、古代ヨーロッパと近世ヨーロッパの単なる架け橋となっただけで、自らは停滞(という言い方が正しいのかどうか疑問ではあるが)したままなのが、謎である。
 恐らく、古代、中世、近世、近・現代と、世界は直線的に「進化」するものだという古い観念に囚われて歴史を眺めているせいだろう。そもそも中世を暗黒時代と思い込んでいること自体が古臭い(笑)。こうした囚われの心を少し虫干しして、ちょっと新鮮な目でイスラーム世界を眺めれば、象徴的なのは、ISという異形のテロ組織が現出したことで、その発想自体はイスラームの一種の原理主義であって、理解できないわけではないし、それだけに脅威が高まった。中東地域では、近世から近代へと、西欧の帝国主義に蹂躙され、まがりなりにも西欧的な主権国家体制を既得権益として維持している国が多いから誤解を招きやすいが、トルコやイラクやシリアや更にはイランの混迷を見るにつけ、本来あるべきイスラーム法の世界に外形的な西欧主権国家体制が持ち込まれ、無理をしているだけのことではないかと感じる。アラブの春がうまく行かなかったのも、民主化という歴史的な経験が乏しいせいだ。他方、中国を眺めてみても、中国共産党という言わば王朝による支配は、古代のまま、変わらずに健在だという感覚をあらたにする。ここでも、その本質は古代か、せいぜい中世のままで、それが良いとか悪いとかいう価値判断は留保しなければならないのだろう。さらにプーチンが独裁的な権勢を誇る(しかし、さすがに最近は翳りが見える)ロシアを眺めてみても、共産主義・ソ連が崩壊したときこそ、民主化する期待が高まったが、その本質は古代かせいぜい中世的な世界のまま健在なのだと思わざるを得ない。
 逆に言うと、歴史的に自由・民主主義の革命的な変化を経験したヨーロッパ世界(米国と日本を含む)だけが特別なのであって、世界は必ずしも一直線に「進化」しているわけではないのだ。
 日本は、その地理的な特性・・・すなわち東洋的専制の大陸から適度な距離をおき、山がちで統一権力が支配しにくいという西欧に似た特性により、徳川270年の安定政権と言っても、所詮は列藩連合の頭(カシラ)の支配に過ぎず、東洋でもなければ西洋でもない、独特の歴史を歩んできた。実際に藩主は「キング」であり徳川政権は「エンペラー」だと、当時、西欧からは呼ばれていたのだ。そして幕末の動乱期にあっても、徳川を中心とする軍事政権が支配してきたお陰で、帝国主義の時代を植民地に堕することなく生き抜き、東洋で唯一、西欧的な自由・民主主義体制「もどき」を築き上げた。「もどき」と言ったのは、1980~90年代の日米構造協議に見られるように、西欧社会とは異なる体質を残しているからで、東洋でもなければ西洋でもない、しかしOECDやG7メンバーとして、極東と言うより極西とでも言うべき特殊な地位を保持している。ちょっと大目に見て、米国や西欧とともに、近代あるいはポスト近代に向かっていると言えなくはない。
 こうして、現状維持を当然と見做す近代あるいはポスト近代の西欧や米国や日本と、現状変更を厭わない古代政権のままのロシアや中国が対峙する世界構造が見て取れる。近代とは、広く世界を眺めれば、必ずしも「進化」した時代相ではなく、単に特殊な発展を遂げただけだという見方をすれば、昨今の米・中における体制を巡る争い、秩序を巡る争いという言い方こそ、本質的なものであることが分かるのである。難しい時代になったものだが、これこそ、冷戦時代というイデオロギー支配を脱し、しかも「世界」がせいぜい西欧と米国を中心としたものから、ロシアや中国を含めた全世界的なものへと拡大した時代の実相なのだろう。
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現状変更と現状維持

2020-02-08 01:17:49 | 時事放談
 昨晩、ああは言ったものの、ずっと心に引っかかっていて、一晩、よく眠った上で(笑)、訂正の意味を込めて、中国の何が脅威かと言って、パワー・バランスの観点からすれば「現状変更」そのものが脅威なのだろうと、あらためて言いたい。
 例えば中国にしてもロシアにしても、日本や韓国がミサイル防衛システムを導入すると言うだけで過敏に反応し、いちいち文句をつけるのは、自らの攻撃態勢が探知されるという懸念もさることながら、そもそも相手(日本や韓国)が攻撃力じゃなく防衛力を増すだけで、相手の加点にはならなくても、自ら(中国やロシア)の攻撃力が減殺されるという意味で自らの減点になり、相対的に相手が軍拡するのと同等の効果がある。従い、過去20年以上、最低6%以上の経済成長を遂げてきた(それに合わせて軍事力を強化して来た)中国は、それだけで(すなわち軍事費の対GDP比率は変わらなくても、絶対額が増えている限りにおいて)脅威には違いないのだ。その中国が、南シナ海で「現状変更」中なのは周知の通りだし、東シナ海で海域侵入を既成事実化しつつあると言う意味では「現状変更」を企図しているのは間違いないし、一帯一路で周辺環境を「現状変更」しつつあるのも、もはや疑いようがない。これこそがそもそも「パワーが台頭する」ことの意味なのだろうと、恥ずかしながら再認識した次第である。中央アジアやアフリカや太平洋島嶼国や中南米には弱小国が多く、中国がその経済力によって簡単に影響力を行使し得る国々であるが、国連総会では一国一票の発言権を持つ「主権国家」であり、それを援助によるにせよ恐喝によるにせよ債務の罠によるにせよ、味方につける意味は決して小さくはない。
 「現状変更」しないこと、すなわち「現状維持=status quo」することに価値があるという、何でもないことの重要性に気がつくと、たとえば北朝鮮を巡って米・中・露が対峙する朝鮮半島が現状のまま凍結されてきたこと、今なおそれに変わりがないこと、今後どうするかまともな議論がなされていそうにないことのもつ意味がよく分かる。また、核不拡散(NPT)体制を巡っても、持てる者(P5)の地位が固定化するという大きな欠点はあるものの、持てる者の義務として削減努力も謳われており、現状で凍結する、これ以上悪化させない、ということのもつ意味がよく分かる。
 そんな不安定な東アジア環境にあって、日本は国のありようとして基本的にソフトパワーをこそ強化し、世界を味方につけるべきだと、あらためて感じた。これなら文句の言われようがない?であろう。その内実は、圧倒的な技術力と文化力である。日米同盟は、残念ながら不動産王のトランプ大統領には評価されていないようだが、有識者の間では、アメリカにもたらされる重要な価値の一つとして、技術力をもつ日本を引き留める、すなわち敵方に渡さないという隠されたコンセンサスがあり、日本人はそれを自らの価値として肝に銘じるべきだろう(が、今日のブログでは余談である)。
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新型コロナウィルス

2020-02-07 00:17:57 | 時事放談
 日本では、新型コロナウィルス対策のおかげなのか、在来型インフルエンザの患者数は例年になく低調に推移しているらしい。新型に対する日本政府の対応は、どう贔屓目に見ても他国に比べて生ぬるい感じがするが、新型も在来型も含めて、国民はもともとマスク着用に慣れているし、潔癖症だし、街は概ね清潔だし、一致団結していると言うべきか、うつさないでねとお互いに牽制し合っているのか、現場レベルでは整然と対処しているように見える。権威主義国家・中国による隠蔽疑惑は拭えないが、新型の重症度は在来型とそれほど変わらないのではないかという観測も出てきた。それもあってか、緊急事態条項を盛り込む憲法改正といった本質的な議論は今なお全くと言ってよいほど盛り上がらない。
 アメリカやイギリスをはじめとする旧・大英帝国圏のファイブ・アイズは、リスク管理は最悪を想定するという基本に沿って粛々と断固たる対応をとっており、さすがだ。それに引き換えお隣の韓国では、大統領府ホームページに設けられた国民請願掲示板に、中国人の出入り禁止を求める請願が既に67万も寄せられたそうで、地続きの恐怖という歴史的な記憶と、激しやすい国民性から、分からなくはないが、文在寅政権と与党は中国を忖度し、あらぬことか日本の原発の汚染水放出を連日のように問題視している始末だ。この期に及んで現実感覚がなく、なお日本を政治利用することには呆れてしまう。さすがに保守系の朝鮮日報は社説で次のように批判した: 「金正恩氏の総選挙前の訪韓が水の泡と消えると、今度は習近平主席の訪韓にしがみついている。そのため、中国から来る(外国人の)入国制限を拡大すべきだという専門家らの要求を『政治的』と非難する。国民の健康より(選挙で)票を得ることを優先している人たちは果たして誰なのか」(李正宣氏」コラムによる)。
 問題はやはり中国だ。以前のブログでは、国内における一党独裁の強権とは対照的に統治の脆弱性から被害が拡大するリスクと、権威主義的性格による情報隠蔽や対外的なシャープパワー発動によりWHO公表を含め情報空間が歪められ適切な対策を誤らせるリスクについて触れた。話は脱線するが、実は最近、知り合いの元・自衛隊幹部から、(安全保障上の)中国リスクってなんや? と真顔で聞かれた(その方は関西出身ではないが、くだけた調子を表現するために敢えて関西弁にしてみた 笑)。世間は皆、分かっているようで分かってないんとちゃうか、てな調子である。実際にある共通の知人にこの疑問をぶつけると、はたと困って、中国と対立するアメリカに右に倣えしているのかなあと苦し紛れに呟くしかなかった。元・自衛隊幹部は軍事的脅威を意識しているはずなので、その点から検証してみる。中国は多数の中距離ミサイルを日本にも向けているが、実際にそれを使うことは俄かに想像できない。海洋進出が盛んで、南シナ海を軍事基地化しつつあるが、だからと言って中国の艦艇が他国船舶の航行を邪魔するとか通行税をとるとか空母打撃群で威嚇するとかいった実害は出ていない。東シナ海の尖閣海域では既成事実を積み重ねることに精を出しているが、今のところ強奪する覚悟はなさそうだ。せいぜい沖縄独立を煽ったり、台湾を陥れたりする可能性はあるが、じゃあそれで第一列島線が破られて、中国の艦艇が太平洋に自由に出ていくことに、どんなリスクがあるのだろうか。中国の空母打撃群が練度をあげるには、恐らくまだ20年から30年はかかるだろう。いや、そもそも軍事費が増大していることが脅威だと言いたい人がいるかも知れないが、そんな抗議を見越したかのように、過去20年以上、対GDP比率は増えておらず、見事に一定である(SIPRIなどの統計によると)。一人っ子政策をやめたとは言え、人民解放軍の若者たちを損耗するとすれば、社会問題を惹き起こす(端的に、老後の面倒を見てもらおうと思っている親御さんたちが黙っていない)。結局、今回の新型コロナウィルスへの対応に見られるように、内政の脆弱性からパンデミックや環境問題ひいてはグローバルなサプライチェーンが分断されて世界経済にネガティブな影響を与えかねない不安定要因か、あるいは共産党の統治を護るがための社会監視やシャープパワーによる言論空間の歪みによる不自由や窮屈さくらいではないだろうか。香港の若者たちを引き合いに出すまでもなく、それはそれでリスクであり大いなる憂鬱であるが・・・。いや、もしかしたら14億の民が5Gひいては全ての技術を独占し、経済的な繁栄まで独占するかも知れない・・・
 閑話休題。習近平指導部はパンデミック阻止に向け強権的な手法を強め、やおら病院を建設したのは異様だったし、指導部への批判の矛先を逸らすために、公表されているだけで400人以上の地方政府幹部らを処分したのも、異形の大国の面目である(習近平国家主席の足を引っ張るために意図的にコロナウィルスをばら撒いたという陰謀説があるが、権力闘争の色彩を帯びてくると、図星だったのかと思いたくなる 笑)。習近平国家主席としては、最近、アメリカが仕掛けているような、技術開発や生産のサプライチェーンにおける中国外し(デカップリング)あるいは中国離れが、アメリカによらずして、このパンデミック・リスクによって起こることを警戒しているのかも知れないが、この異様な対応によって異形の大国ぶりが際立つことに、果たして意識は働かないのだろうか・・・
 そんな中、日本の姉妹都市などからの支援に対して、中国で感謝の声が上がっているのを聞くと、ほっとする。日本も勿論パンデミックを警戒しなければならないが、ガバナンスの弱い国々への影響がなお心配だ。
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青梅への道(3)

2020-02-02 21:26:44 | スポーツ・芸能好き
 青梅マラソンまであと二週間となった。私の身体もそれなりに戦闘モードに入って来た・・・などと、この程度で自画自賛していては笑われてしまうが、50半ばを過ぎた身で、我が家のオムロンのヘルスメーター(予め登録した身長のもとで体重・体脂肪・内臓脂肪を計測し、基礎代謝と推定年齢を算出する)で41歳を記録して、自分なりに手応えを感じているのは事実だ。秋口から比べると体重を3キロ弱絞っただけ、年齢も3歳若返っただけだが、脂肪を落とすとともに筋肉がつくので、その間、多少の葛藤がある。何と言ってもお腹回りがスッキリして来たし(この頃になるとスーツのパンツがだぶだぶになる)、身体の動きにキレが戻る(背中や腹筋も鍛えられるので、歩く姿すら、ピ~ンと一本、筋が通ったような凛々しさがある・・・気がする 笑)。一年の半分のこととは言え、ストイックに走る(深酒も避ける)ことに、やや自己陶酔を覚える(笑)。一口にスポーツマンと言っても程度の差はあるが、多かれ少なかれナルシストでないと務まらないものだ(笑)。
 もっとも私の場合には、健康維持という切実な要請もある。9月という、一年で最も身体が緩み切ったときに(というのも春~夏は走らないので)会社の定期健康診断を受けることにしているが、今回は久しぶりにコレステロール値が閾値ピッタリにかかってしまった。父親もコレステロールのせいで心臓のどちらかを人工弁に代える手術をしたので、血は争えない。会社の産業医にラーメン(玉子麺)を食うよりウドンを食えと言われてから、普段はなるべくそのように心掛けているが、たまには日本の旨いラーメンが食いたくなる。回数制限はしていないが、身体が求めるものを抑えるつもりはなく、そんな身体との対話を続けたいがための運動なのである。若い頃には考えられなかったことだ。
 しかし、体力の衰えには抗いようがない。いつものジョギング・コースは、ほんの数年前まで一周7キロ42分が当たり前だったのに、最近は45分を切れない。加齢だけではなく、走り方を変えたことも一因だと思うようにしている。靴底の減り方からも分かる通り、かかとではなく足裏全面着地、できれば爪先着地を心掛け始めて、なんとなく歩幅が狭まったような気がする。それが長時間にわたってどのような影響があるのか、果たして予期したように、かかと着地でブレーキをかけるような走り方の無駄を省くことになっているのか、よく分からない。結果で判断するしかない。
 昨年は、不覚にも一月にインフルエンザに罹って、二週間ほど練習の穴を開けて、ただでさえ練習量が少ない私にとって直前の走り込み不足で不本意な結果に終わった。今年はインフルエンザに加えて、目に見えない新型肺炎の脅威もある。手洗い・うがいと、やることは変わらないが、穏やかにその日を迎えたいものである。
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