風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ヒロシマ・2016

2016-05-29 23:14:31 | 時事放談
 G7サミットは、安倍首相がリーダーシップを発揮した晴れの舞台のはずだったが、世界経済がリーマンショックのような危機に陥りかねない状況だと見立てるような、明らかに消費増税回避の政治的発言があって興醒めし、やや霞んでしまった。そして何より現職アメリカ大統領の広島訪問という快挙に呑まれてしまった。
 今朝の「サンデーモーニング」では、自身も被爆者である張本勲さんが、スポーツコーナーの最後に話を振られて、アメリカを許すことは出来ないとしながらも、安倍ちゃんが首相で良かったねえ、日本を守ってくれるものねえ、とポツリと呟いた。即座に個人的なもの(意見)だけど、と苦笑いしながらMCはじめ解説の方々を気遣って“お断り”されていたが、なんだか番組の(左にヘソの曲がった)性格と張本さんの微妙な立ち位置を垣間見せて、思わず苦笑してしまった。
 全国紙の社説を見ると、アメリカに根強い反対論・慎重論はじめ様々な障害を乗り越え、原爆投下の張本人たるアメリカの現職大統領として初めて被爆地を訪れた勇気を称え、「唯一の原爆使用国と被爆国の両首脳が並んで平和を誓った意義は大きい」(読売)し、「核軍縮の機運を再び高めるべく、オバマ氏が被爆地で決意を新たにしたことを評価」(朝日)する一方で、「オバマ氏は、投下の是非に関する見解や、謝罪には言及しなかった」(読売)、「原爆を投下した責任に触れる表現は一切なかった」(朝日)等と留保をつけ、17分間の演説を(28分のプラハ演説より随分短いというのは言いがかりにしても)全面的に評価するものとは総括されなかった。朝日は、「被爆者の間では『謝罪はせずとも、核兵器を使ったのは誤りだったと認めてほしい』との意見が多かった。オバマ氏がこの点に踏み込まなかったことには失望の声も上がった」と他人の口を借りて間接的に非難するという得意の追い討ちをかけた。
 「謝罪」について、あらためて考えさせられる。
 確かに、原爆投下は、民間人を大量虐殺した明確な戦時国際法違反である。規模は違うが、ナチスによるユダヤ人虐殺を裁いた「人道に対する罪」を問われても仕方がない。そして、中国人や韓国人は日本の侵略戦争を未来永劫、許さないであろうのに対し(多分)、日本人は、もし大統領が正式に謝罪すれば、即座に歴史的和解として受け入れ、許すだろう。しかし、そもそも主権国家が過去の戦争であれ統治政策であれ国家として誤りだったとして正式に謝罪することは(日本を例外として)殆どないのが現実である。ドイツが裁かれ、またドイツ人が謝罪したのは、ドイツという国家主体の戦争犯罪ではなく、飽くまでナチスの犯罪だった。今なお執行力を欠く国際社会にあっては、主権国家の存在はなお絶対なのである。また、生物・化学兵器の使用が人道上の理由から違法とされるのに対して、原爆を含む核兵器をなお同列に論じるほど人類は進歩していない。事実上「使えない兵器」であることに変わりないのだが、政治上の理由から抑止力として保有する現実を否定するわけには行かないからだ。日本だって、日本列島に何百発ものミサイルを向ける中国や水爆実験を成功させたと豪語する北朝鮮を抱える東アジアという戦略環境にあって、アメリカの核の傘にあるからこそ平和を維持出来ている現実を否定することは出来ない。まだ機は熟していない(当分、熟さない)と言うべきなのだろう。
 私たちは、いつまで「謝罪」要求を引き摺るものかと思う。
 思い出されるのは、ブログでこれまで何度か引用したエピソードで、マレーシア・ペナン駐在の頃のことだから、かれこれ10年くらい前になる。当時の上司は中華系マレー人で、イギリスの大学教育を受け、イントネーションにクセのある英語を話すが書く英語は立派で、そのくせ漢字は書けない、読めない、恐らく東南アジアの華僑の中では典型的な成功者の部類であろう。当時、日系企業に勤めていただけあって、日本に対する親近感が強く、日本的経営について興味が昂じて働きながら大学院に通って博士論文まで書き、私たちが携わった事業を収束させることになって、それを機に本人もビジネスから引退し、家族ともどもオーストラリアに移住してしまった。その彼とは、上司・部下を離れて、日本的経営を含む文化の違いを巡っていろいろ議論するのを楽しんだものだった。あるとき彼がふと、「日本はこれだけの(経済)大国なのに、何故、国際社会でもっとリーダーシップを発揮しようとしないのか」と正論を問うてきた。答えに窮して「多くの日本人にとって、戦争という負の遺産がトラウマになって、リーダーシップをとることが憚られるのだ」と言い訳すると、彼は明快に否定した。「戦争の責任は、今の世代にはない。」 
 被爆者だけでなく私たち日本人は、原爆投下の災禍を忘れようがないし、戦争の悲惨さを語り継がなければならない。しかし、アメリカへの恨みは胸の奥深くに仕舞い、未来志向のオトナの関係を深化させる、それが戦略環境を踏まえた現実感覚であり、長い歴史を踏まえた国家間のありようなのだろう。そして、それこそが、右寄りの人からは責任が曖昧でまるで被害者が「過ち」を犯したかのようだとしばしば非難され評判が頗る悪い原爆死没者慰霊碑の言葉「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」に込められた私たち日本人の覚悟であろう。予定調和のような議論だが、そして私は東京裁判による所謂自虐史観には否定的だが、なおそう思う。
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したたかな女王

2016-05-26 01:07:43 | 時事放談
 昨年10月にイギリスを公式訪問した習近平国家主席ご一行様が「とても非礼だった」と、旧・大英帝国の女王陛下が本音を漏らされたのが話題だ。バッキンガム宮殿で行われた女王陛下の90歳を祝う園遊会で、女王が漏らした私的なコメントが、テレビマイクに拾われてしまったようだ。日本の全国紙は二週間ほど前にBBCの映像や記事を引用していたが、つい最近、ニューズウィーク日本版5-24号が再び取り上げていたので、あらためてBBCニュースの原文にあたり、そのときのやりとりを追ってみた。

 園遊会で、当時の警備担当責任者だったLucy D'Orsi女史を紹介されると、
 女王「そりゃ、お気の毒だったわね(Oh, bad luck.)」 と切り出されたという。
 D'Orsi女史「ご存知かどうか知りませんが、あの時は大変な試練でした(I was the Gold Commander so I'm not sure whether you knew, but it was quite a testing time for me.)」と話しかけると、
 女王「知ってたわ(I did.)」。
 D'Orsi女史「(中国側メンバーが、英国側との打ち合わせの際、何らかの理由で)訪問を打ち切ると言って退席したときのことったら・・・(It was at the point they walked out of Lancaster House and told me that the trip was off, that I felt...)」というエピソードを話したところ、
 女王「大使に対して失礼だわねえ(They were very rude to the ambassador.)」 注:在中国英国大使であるBarbara Woodward女史のこと
 D'Orsi女史「仰る通りで・・・とても失礼だし外交上も配慮に欠けて、あり得ないものだと思いました(They were... it was very rude and undiplomatic I thought.)」と女王に同意すると、
 女王「普通じゃないわね(extraordinary)」と呟いたようだ。

 産経新聞の特集記事では、「習氏の訪英で、英国側に約束した中国の投資額は6兆6800億円にまで膨張」し、「投資額に伴って態度も不遜の度を膨らませた」と解説する。「独立国家としての主権を侵犯しかねぬ中国側護衛官の護身用銃器携帯と反習近平政権デモ取り締まりまで平然と要求した模様だ」というのだ。いずれも拒否したらしいが、「このときも『訪英中止』を切り出して威嚇した」らしい。
 実は不遜な中国は、このときが初めてではない。同特集記事によると、2年前の2014年6月、李克強首相が訪英し、液化天然ガス(LNG)の対中輸出など2兆4000億円超を成約したときも、英ガーディアン紙は「李首相は新たな属国に気前よく金品を与える植民地総督」と報じたらしい。当時、「中国は『訪英中止』をちらつかせ」ながら「国家元首でもない李首相と女王との会見を強要した」らしいし(国家主席になる前の習近平氏が民主党政権時代に訪日して天皇陛下との面会をねじ込んだのを思い出す)、ほかにも「李首相の英国到着時に空港で用意された赤カーペットが3メートル短かったと文句を言うなど《植民地総督》を気取った」らしい。
 つまり英ガーディアン紙などのメディアは、英国=属国と揶揄し、金満国・中国におもねる卑屈な英国政府のことを腹に据えかねていたようなのだ。英国・中国双方とも当局者は、今回の習近平国家主席の訪英を(外交辞令とは言え)大成功と自画自賛し、中国政府はご丁寧にBBCニュースの女王コメントを検閲の上、いつものようにBlack-out(画面を消)して、「英中黄金時代の幕開け」などと嘯いたようだ。ニューズウィーク日本版5-24号は、女王がうっかり本音を漏らしたのではなく、意図的なメッセージを発したと見る向きもある、と報じているが、私なんぞは、魂を売った英国政府に女王陛下が苦言を呈したというストーリーにとても納得してしまう。それでこそ、英国民から愛される、痩せても枯れても旧・大英帝国の女王だ。

(参考)「お茶目な女王」4月29日付 http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20160429
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カード詐欺のはなし

2016-05-24 00:00:47 | 日々の生活
 あるクレジットカード会社から、私のカードが第三者により不正利用された可能性が高いとの連絡が入った。同社の不正利用検知システムにより判断したものだそうで、カード利用内容について至急確認したいため連絡を乞うとして、セキュリティセンターの電話番号(24時間受付)が記されていた。カードマンが免許証コピーや印鑑不要だとして手軽さを売りにするあのクレジットカード会社である。先ずは電子メールで、しかしフリーメールだったのでチェックせず気づかないでいたら、一週間後に郵便で同様の連絡が入った。
 日本でカード詐欺に遭ったのは初めてだが、20年ほど前、アメリカ滞在中に一度経験がある。当時のアメリカは(今でもそうだと思うが)小切手社会で、クレジットカード利用明細書に基づき、小切手を返送する形で決済する。あるとき、不正利用を発見したため、心当たりなしとのメモ書きとともにその分を差引いて小切手を返送したところ、差引いた金額が未払いだとして高額の延滞料をチャージされたため、抗議の電話をしたら、不正利用も含めて100%決済した上で、後から不正利用を申し立てるのがルールだと反論され、実際にカード利用明細書の裏にそのように説明書きがあるはずだと諭されてしまった。その後、カード会社から不正利用分が還付されて、一件決着と安心していたら、今度は、不正利用分が未払いだと、あるサービス会社から支払い督促の郵便が届いた。何日以内に支払わなければブラック・リストに載ることになるぞ・・・という脅しである。どうも私宛の債権が取立て会社に売却されたらしい。拙い私の英語ではラチが明かないだろうと、駐在していた会社の社内弁護士に事情を説明し、私の俄か顧問弁護士として代わりに電話してもらい、なんとか握り潰してもらったが、実に後味の悪い想い出である。
 さて日本の話に戻ると、カード会社のWebサイトを見ても、セキュリティセンターの名前も電話番号も出ていない。検索すると、同様にセキュリティセンター・メールの信憑性に疑問をもった何人かがブログに書き込みをしているのを見つけ、どうやら本物らしいと分かった。そこで、深夜ではあったが電話して事情を聞くと、連休中の2日間に13万円と30万円の利用があったとの由、勿論、心当たりがないと答えると、私の口座から引き落とされないよう処置してくれた。
 実はこれで一件落着とはならず、ふと、電話した際に本人確認のために生年月日を答えさせられたことが気になって、翌日、今度はクレジットカードに記載されたコールセンターに電話し、セキュリティセンターの一件を再確認した次第である(最初からそうすれば良かったのだが)。疑い出せばキリがない。個人情報への社会的関心が高まるにつれ、何かと疑心暗鬼になる、実に面倒な時代になったものだと思う。
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ジャパネットたかた

2016-05-20 23:57:35 | ビジネスパーソンとして
 先日、高田明さんの講演を聴いた。ジャパネットたかた創業者で、昨年1月に代表取締役社長を長男に譲ったのはどこかで聞いていたが、TVショッピングへの出演からも引退されていたとは知らなかった。どうりで暫くお見かけしない。
 講演冒頭で驚いたのは、いつもの上ずった・・・と言えば失礼だが、独特の甲高い声ではなく、実は低音のなかなか渋い声だったということだ。普段はこうなんです・・・と笑いをとる。しかし生まれ故郷(長崎県平戸市)の肥筑方言訛りは健在で、この朴訥としたイントネーションが独特の熱(テンション)を帯びて、えも言われぬ雰囲気を醸し出すのである。そしてこの日も、だんだん興が乗るとだんだん声が上ずって、ではなくて甲高くなって、その一途で一所懸命な様がこの方の魅力なのだとあらためて感じ入った次第である。
 話す内容も、長崎の田舎町のカメラ屋「カメラのたかた」を一代で年商1500億円を越える大企業(エコポイントがついて地デジがバカ売れした2010年には年商1789億円!)に育て上げたカリスマ経営者にしては、決して大風呂敷を広げることなく、むしろ朴訥な声の調子そのままに、着実で地に足がついて堅実である。
 例えば、成長の秘訣は、身の丈に合った経営をすることだと言う。自分のペースを守って、着実な成長を心掛ける。無理に背伸びをすると、急成長の歪みが生じて、サービスの質が低下し、お客さまに迷惑をかけることになりかねないから。だから、無理に株式上場を目指さない。もし上場したら、株主から短期間で高い成果を出すことを求められてしまうから。同じ理由で、創業以来、あえて売上目標を掲げて来なかった。高い売上目標を掲げ、社員に厳しいノルマを課せば、社内に歪みが生まれ、お客さまに迷惑をかけることになりかねないから。さらに競合他社のことも意識しない。競合他社に勝つことばかり考えていたら、例えば、お客さまが望まないような機能競争に巻き込まれかねず、従い商売の本質を見失ってしまいかねないから。大事なのは、お客さまの声を知ることであって、お客さまに喜んでもらうにはどうすればいいのか、日々考え、実行していけば、会社は自然と伸びていくと考える。
 そのために、シンプルに考える生き方を勧めておられる。我々は過去でも未来でもなく、「今」を生きている。「今」を生きていると考えると、課題が見えてくる。課題は、常に目の前にあるものだ。目の前にある現状と課題をキチンと受け入れ、先々の理想を追い求めることなく、「今」の成功に一極集中し、「今」に向き合って全力で行動すれば、課題を一つ一つクリアしていくことが出来る。出来ることが1割でもあれば、それを膨らませることが出来るように考え続ける。ジャパネットたかたも、会社を大きくするという大いなる野心を抱いて「今」に至ったわけではなく、与えられた課題を一つひとつクリアする中で、少しずつ成長して来たのだと言う。未来を変えていくのは「今」しかないのだ。
 原点は学生時代にあるように思われる。私も学生時代は勉強しなかったクチだが、高田明さんも(年代から想像できるように)ご多分に漏れず勉強しなかったらしい。しかし英語だけは別で、好きで一所懸命勉強し、卒業後も機械メーカーでヨーロッパを回りながら英語で商談する中で、本当に大切な英単語は1000くらいしかないと気が付いたと言う。大切なことは、ごく僅かな基本的な単語だけで話した方が伝わりやすく、上達すればするほど簡単な単語だけで喋るようになる、という事実だ。この原理・原則は英語でも日本語でも同じであり、TVショッピングのMCでも同じだと言う。仮にある商品の魅力がたくさんあっても、それらを全て喋るのではなく、大切な一つを選んできちんと伝える、その他の特徴もせいぜい5項目以内に絞って、専門用語を避け、簡単な言葉を使う、これらを英語から学んだのだと言う。
 もう少し個人に引きつけて言えば・・・「今」の課題をコツコツこなしていけば、語学学習のように、いつか大きく飛躍する瞬間が訪れる。所詮、人は基本的に一歩ずつしか登れない。一日一段登れば、十日で十段、そこまで根気強く努力を続け、夢を持ち続けられるかどうかが成功するかしないかの分かれ道だ。人の成長は、突然訪れ、次の一歩は十段になるかも知れない。元ソニーの出井伸之さんが創業された会社の社名に使われている「クオンタム・リープ(飛躍的進歩、Quantum Leap)」という考え方だ。やってみなければ分からず、やり続けた人にしか起こらない。でもそんな過程を踏むと、毎日やり続けることが楽しくて仕方なくなるのだと言う。
 まるで高田教の教祖のような、その朴訥ながら熱の籠った言葉につい惹き込まれる。未来への野心を消し、常に「今」に向き合い、目の前の課題に愚直に対処するところは、実に清々しいが、なかなか出来るものではない。実のところ上記内容は、ネットで拾った雑誌記事を講演内容に絡めて再構成したもので、実際の講演ではここまで明確に語られたわけではない。しかし、雑誌のように数百万人の目に触れる可能性がある厳密な言葉や文章と違って、講演会ではせいぜい数百人レベルで、ざっくばらんで気楽な言葉の多くは虚空に空しく消えてしまい、間合いを伴う雰囲気や気分の余韻とともに、幾ばくかのキーワードが記憶に残るだけだ。言ってみれば、タキシードの雑誌記事ではなく普段着の講演会にあって、高田明さんに大いに共鳴したことが二つある。
 一つは、ビジネス・マンとしての基本姿勢だ。もとより零細自営業あがりのカリスマ経営者と、しがないサラリーマンの私とでは、所詮は月とスッポン、高田明さんは「今」を一所懸命生き、着実に目の前の課題(Bottle-neck)を克服してきただけと謙遜しつつ飽くまでポジティブなのに対して、そもそもサラリーマンになりたくなくて、今は世を忍ぶ仮の姿と諦観する私は常々、サラリーマン人生は流れに逆らうことなく、まさにテレサテンよろしく「時の流れに身をまかせ」、「貴方の色」ならぬ「会社の色に染められ」る人生だと揶揄して如何にもネガティブだ。そんな私は、売り手市場の異常な就職戦線で、様々な会社から(「うん」と言えば)すぐに内定を出すと迫られる、今思えば幸運で異常ですらある状況に戸惑いながら、将来性豊かと見られたハイテク企業を選び、それでも20年もてばいいと斜に構えて(つまり大いに期待したわけではなく)入社したからこそ、その後の冷戦崩壊とグローバル化の中で、ハイテクはほどなくコモディティ化し、無限の成長は単なる幻想に過ぎないことも分かって、社内失業の憂き目も一度ならず、その時々で恨めしくも思い、状況に腐ったこともあったが、その時々の仕事に対しては、私なりのプロとしての結果を求め続けて来られたのだと思う。今話題の舛添さん?だけでなく野心に溢れた多くの人たちを周囲に見て来たが、むしろ私は「私」を消して、全体最適を意識しながら会社や事業体として何がベストかを追及して来たのが、ささやかな私のプライドである。良くも悪くも事業環境が激変する中で常に「今」を生き、目の前の課題に挑戦して来たという意味で、高田明さんの生き方に親近感を覚えたのである。表現や夢の方向は違うけれども。
 もう一つは、世阿弥の「風姿花伝」を愛読されていることだ。必ずしも原書でなくても、簡単な解説本でもいいから、最低10回は読んで欲しい、年齢とともに味わいも変わる、そんな読書経験を述べられて、能のことは知らないけれども世阿弥の言葉を愛する私との距離感は一気に縮まった。
 それにしても高田明さんのポジティブさには畏れ入る。静かなエネルギーの源泉はどこにあるのだろう。人それぞれの生き方の違いと言ってしまえばそれまでだ。それでも誰にも多かれ少なかれ夢にかける思いがあり、そこに少し火を点けてもらったような気がする。そして、それを人は「元気を貰った」と称するのだろう。高田教の教祖たる所以だ。
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東京都知事のプライド

2016-05-16 01:05:07 | 時事放談
 遅ればせながら、歯切れの悪い舛添都知事の釈明会見には、呆れてしまった。
 舛添さんのことは、私は学生時代から、「フランス人と日本人」(1982年)というカッパ・ブックスの本で知っている。今でも押入れ奥深く段ボール箱の中に、捨てずに放ったらかしにしているのは、内容はともかく、卒業後すぐに助手に就任、パリやジュネーブに留学、東京大学教養学部助教授というピカピカの経歴に目がくらんだ部分もあるが、どちらかと言うと保守的な雰囲気に見える東京大学という肩書にも係らず時代を感じさせる長髪で颯爽と見えたのに好感し、新進気鋭の政治学者として注目したからだった。ついでに、高市早苗女史のことも、20代の頃から、アメリカ下院議員の政策秘書(と思っていたら、Wikipediaによると今はコングレッショナル・フェローと呼ぶらしい)経験を書いた「アズ・ア・タックスペイヤー」(1989年)という(カッパ・ブックスと同類の)祥伝社の本で知っていた。こちらの方がまだ中身があって、今でも押入れ奥深く段ボール箱の中に、捨てずに放ったらかしにしてあるはずだ。しかし、人は年齢とともに変わるものだと思う。
 公私混同との批判がなされている。国会議員や都知事でなくとも、私たちサラリーマンでも、「時間」については公と私を截然と分けられるものではない。パソコンや携帯で四六時中追いかけられる時代なのだからなおさらである。そのときの「金(コスト)」を公と私のいずれに区分けするかという、言ってみれば小さな問題だ。しかし、小さな問題であっても価値観の問題に帰着するから厄介だ。もとより経費処理を間違えるといった手続きレベルの話ではなく、会計責任者の任命責任といった問題でもなく、会計処理方針あるいはその指導を行うマネジメント・レベルの話である。いまどき出張で大名行列のようにお共を大勢連れるのはどういう料簡だろう。わざわざ極上のスイートルームに宿泊するのではなく、やんごとなき人と面会するとすれば、短期間とは言え着替えを散らかして生活感が覗く宿泊ルームではなく、別の会議室か部屋を使うのが常識だろう。家族旅行中に割り込みがあって電話会議をしたとしても、如何に大事な会議であろうとも、家族旅行の宿泊費そのものを会社につけるようなサラリーマンはいないだろう。どんな目的で誰と誰が参加したか、その事実関係を問う記者がいたが、そんな事実認識が問題なのではない。街頭インタビューで、街のおばちゃんが「普通の人なら・・・」などと語っていたが、「普通の人」の良識を問う場面でもない。「公人」であり、しかもその「リーダー」なのだから、ことさらに高い倫理観が問われるべき筋合いのものだ。
 フランス語では「ノブレス・オブリージュ:noblesse oblige」と言い、高い社会的地位(あるいは権力や財産)の保持には責任が伴うという意味で、最近もフォークランド紛争で(それが最近のことかどうかは争いがあろうが)アンドルー王子がイギリス軍に従軍したのを記憶するし、大東亜戦争では皇族が軍務についた。古来、中国では「李下に冠を正さず」と言い、君子たるもの、自分の行動は常に用心深くし、疑われるようなことをしてはならない、といった処世訓が言い伝えられて来た。あらためて調べてみると、「古楽府」の中の「君子行」で「君子防未然、不處嫌疑間。瓜田不納履、李下不正冠。」(君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に處(お)らず。瓜田に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を正さず)と、民間のはやり歌の一部だったようだ。一般庶民の期待のあわられであり、警告でもあろう。東京都知事のプライドはどこへ行ったのか。
 しかし、政治は民度を反映するものだともいう。
 私の知人の会社では、200円とか300円の立替交通費の精算にも不正が散見されるものだから、管理職ですら自己承認ではなくその直属上司の承認を求めるプロセスに変わったという。なんだか情けない話だが、サラリーマンとてその調子だから、政治家のことは(金額の多寡はあれ)とやかく言えないのかも知れない。
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米大統領の広島訪問

2016-05-14 22:02:47 | 時事放談
 遅ればせながら、オバマ大統領が、伊勢志摩サミット出席のために訪日する機会を捉えて、安倍首相と共に広島を訪問することを正式に発表したことに注目したい。原爆投下の張本人である米国の現職大統領が被爆地を訪れるのは初めてであり、既にいろいろなところで報じられている通り、オバマ氏だからこそ成し得た快挙だろう。が、いろいろな伏線があり、幸運ながらある種の必然であることも窺われる。
 先ずはオバマ氏のレガシー(政治的遺産)として、キューバやイランに対する経済制裁解除が知られるが、その原点は、2009年4月5日プラハ・フラチャニ広場で、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として米国が先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する決意を明言した」(Wikipedia)、所謂「プラハ演説」への執着である。同年10月、オバマ大統領はノーベル平和賞を、何ら具体的な実績があるわけでもないのに、ただ超大国アメリカ大統領が発したメッセージという事実だけで授与されることに、私なんぞはノーベル平和賞の政治性に驚いたものだったが、その実質を埋める動きの一つが、イランの核開発を10年遅らせたと評価されると同時にイランやサウジアラビアとの関係が疎遠になりサウジの核武装すら懸念されて中東政策の観点からは物議を醸すイランとの核開発協議であり、また今回の広島訪問であろう。
 さらに、散々報じられている通り、今回の訪問はアメリカによる「謝罪」とは無縁なものとなるようだ。アメリカの保守派は、今なお原爆投下で「数百万人の命が救われ」「戦争終結を早めるに至った」正当化論を信じ、広島訪問を通じて「真珠湾攻撃や大東亜共栄圏に関する集団的健忘症にかけようとしているのではないか」(フーバー研究所の戦史家)などと警戒する声さえある。アメリカという国柄故にさまざまな意見があり、ケリー国務長官が米国の現職閣僚として初めて平和記念公園を訪問したのを一つの試金石に、オバマ大統領は慎重にその世論の反応を見極めたと言われる。キャロライン・ケネディ駐日大使の助言・貢献も大きかったようだ。トランプ氏が内向きで孤立主義的な発言を繰り返し快進撃を続ける大統領予備選の動きにも配慮したとされる。そのため、オバマ大統領の広島訪問では、IS台頭や、ロシア・中国・北朝鮮などの脅威を念頭に、飽くまで道半ばの核軍縮と核不拡散を後押しし、世界秩序を守る責任を再確認する将来に向けたメッセージを発することになりそうだ。
 そうは言っても、大東亜戦争中のアメリカによる原爆投下も絨緞爆撃も明確な戦争犯罪であって、如何なる名目(目的)があろうとも、いやしくも文明国として手段を正当化するものではない。
 その意味で、原爆死没者を慰霊し世界の恒久平和を祈念することにとどめるのは、日米双方の国民感情に配慮したぎりぎりの選択だったと言うべきだろう。戦後70年を経てなお、広島・長崎への原爆投下は、中国や韓国とは逆の意味ながら同様に日米間の「歴史問題」として、喉の奥に突き刺さったトゲのように、時に日米関係をぎくしゃくさせて来た。オバマ大統領の広島訪問は、言わば昨年4月の安倍首相によるアメリカ連邦議会上下両院合同会議における演説に呼応するものとして、また慰安婦問題をきっかけに歴史問題を蒸し返さない日韓政府間合意をも受けて、不幸な過去は過去として、日米関係が国際社会とりわけアジアにおける平和と安定の基軸であることを再確認し、日米関係を深化させる、飽くまで将来に向けたオトナの対応として容認・歓迎すべきものなのだろう。
 中国や韓国のメディアは、産経などの報道によると、「反省」と「謝罪」が終わっておらず、韓国や中国などの被害国から完全に許しを受けたわけでもないにも関わらず、アジアの「加害国」の事実を隠して「被害者ヅラ」する日本に免罪符を与えかねないと難癖をつけたらしい。その相変わらずの卑屈な対日観と偏狭な歴史観から抜けられない、東アジアに特有の奇妙な世界観(華夷秩序)に裏打ちされた歪んだ心理状態は、さぞ窮屈だろうと気の毒になる。しかし叫び続ける彼らの声を諸外国は無視するわけにも行かず、真実はいずれ勝つのだからと言い訳がましいことを避ける性向が強い日本人は黙っていて良いことはない。甚だ不本意ではあるが、オトナの対応として、中国や韓国の政府レベルのプロパガンダやファンタジーとしての歴史認識を、中韓政府の面子を失うことがないよう、露骨に否定するのではなく真実を以てしてさりげなく無力化してさしあげるのが、両国との国民レベルの経済・文化交流に、ひいては友好に資するであろう。
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追悼・サイコロキャラメル

2016-05-10 00:07:36 | 日々の生活
 明治製菓のロングセラー菓子「サイコロキャラメル」が3月末で販売終了になっていたことが判明し、「悲報」がネットを駆け巡っている。そのせいかどうか、アマゾンで販売されていた「明治 サイコロキャラメル 10粒×10個」(価格:¥1,619〔¥162/個〕)には、「一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定」とのメッセージが出ている。
 「遊べるお菓子」をコンセプトに、一辺25mmの立方体のサイコロ柄の個性的なパッケージで、1927年(なんと昭和2年!)10月から製造・販売されていたというので、実に88.5年もの長きにわたって親しまれて来た商品ということになる(どうでもいいことだが、毛沢東が井崗山にソビエト政権を樹立し、またソビエト共産党がトロツキーらを除名した頃のことである)。長きに・・・と言うよりも、昭和2年に発売開始された当初はさぞ斬新なデザインで注目されたことだろう。販売終了の理由について同社は、より強いカテゴリーの商品に注力する流れの中で、キャラメル市場の縮小や、売上の減少があったと説明しており、現に「サイコロキャラメル」のほか「ヨーグルトキャラメル」や「クリームキャラメル」もともに生産終了した結果、同社の代表的な菓子で戦前から販売されているものは、1926年発売開始の「ミルクチョコレート」を残すのみとなったらしい(以上、J-CASTユースほか)。まさにこれも時代の流れなのだろう。
 私ごとながら、小学生の頃のことだから40年以上前の話になるが、大学卒業まで20年間暮らした町の国道沿いに明治製菓の工場があり、町内会対抗運動会のスポンサーになってくれていたのだろう、景品として明治のお菓子が貰えて、「サイコロキャラメル」も含まれ、歯に粘りつくのを気にもせず、くっちゃくっちゃ頬張ったものだ。なんとも長閑な当時が偲ばれる。
 明治製菓のサイトを検索すると、今回の販売終了ではなく、2008年12月5月のプレスリリースが引っ掛かった。ポッカコーポレーションとの共同開発商品第三弾登場と称して、「『ポッカコーヒー』の主な購買層である30~50代の“大人の男”をターゲットに」との謳い文句のもと、「ポッカコーヒーチョコレート」「ポッカコーヒーキャンデー」「ポッカコーヒータブレット」「ポッカコーヒーガム」と並んで「ポッカコーヒーキャラメル」(サイコロキャラメル類似のパッケージで、サイコロの目がコーヒー豆になっている)が売り出されたというものだ。果たしてこの年代の“大人の男”が購入したのか甚だ疑問だが、今となっては何だか物悲しい。
 北海道のローカル番組「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)の人気企画「サイコロの旅」で、俳優の大泉洋さんらが旅程を決める小道具(サイコロ)として使っていたため、ツイッターには「水曜どうでしょうのサイコロの旅が一番困るんじゃないか」、「『水曜どうでしょう』ごっこができなくなる」といった呟きもあったようだが、もとよりそんな番組のことは知らない。しかし、この番組のためかどうか、「サイコロキャラメル」のブランドは明治製菓のグループ会社に移管され、6月に北海道限定の「おみやげ品」として発売予定という。それが朗報と言えるのかどうか・・・とりあえずこの追悼ブログを書いた以上、「白い恋人」の向こうを張って頑張って欲しいとエールを送ることにしよう(そのためには「面白い恋人」のような大阪の援軍が必要かも)。
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台湾の行方

2016-05-08 22:03:23 | 時事放談
 今朝の日経によると、「台湾当局は6日夜、世界保健機関(WHO)が23日にスイスのジュネーブで開く総会への招待状を台湾に向け送付したことを確認した」が、「台湾の中央通信によると、招待状には例年と異なり、中国大陸と台湾が不可分であるとする『一つの中国』の原則を強調する特記事項が記されている」そうだ。「20日に総統に就任する民進党の蔡英文主席に対し、この原則を認めるよう迫る中国側からの圧力との見方がある」という(以上が全文の小さい記事だ)が、その通りだろう。懸念されていたことが現実化したと言うべきだ。
 大陸・中国と台湾は、かねてより「一つの中国」問題で合意した通称「92年コンセンサス(九二共識)」で、お互いに「一つの中国」は堅持しつつ、その意味するところはお互いに異なる(中国は中国共産党が代表すると考え、台湾は中華民国政府〔国民党あるいはその代替たる野党〕が代表すると考える)、つまりコンセンサスがないことがコンセンサスという(いわゆる「一中各表」と呼ばれる)、同床異夢の曖昧な外交決着を暗黙の裡に認めてきた。実際に国民党・馬英九総統も、「92年コンセンサス」を基礎に中台関係を促進する方針を述べていたものだ。
 しかし、その後の8年間で国民党・馬英九総統の中国寄りの政策はかねてより台湾で批判され、一昨年には立法院(日本の国会議事堂に相当)を占拠した「ひまわり学生運動」が記憶に新しいように、「台湾独立」でも「中国との統一」でもない、台湾の人々の「現状維持」への希求は不可逆的なうねりとなり、1月の台湾総統選で、国民党に代わり再び民進党の総統が誕生するに至った。単に国民党がずっこけただけと言った方が正しいかも知れない。中国に呑み込まれることには警戒しつつ、しかし(韓国と同様に)中国市場への輸出頼みの台湾経済は中国抜きにはあり得ないことも認識する台湾の人々の現実感覚を反映したものだ。
 この背景には、国民党・李登輝総統の時代に始まった、言わば台湾人としての歴史教育が影響しているとの分析がある。台湾でも私の世代に属するような年配の人々は、学校では、かつての国民党による歴史教育に基づき、日本統治時代を苛烈な暗黒の時代と教えられる一方、家に戻ると、戦後の国民党統治よりよほど戦前の日本統治を懐かしむ両親や祖父母の話を聞かされるという、アンビバレントな感覚のもとで育ったらしいが、「ひまわり学生運動」を担う若者たちは、もはや中国でも日本でもない「台湾人」としてのアイデンティティが確立されているという。先ほど台湾の人々の「現状維持」の希求を「不可逆的」と表現したのはそのためだ。世代論は社会現象を読み解く有力な一つの視点だと思う(今の中国共産党も世代論から読み解くと面白そう)。
 冒頭の中国による圧力の話に戻ると、中国が主張する「一つの中国」は、当然のことながら中国共産党による統治を意味する。せこい話になるが、中南米等の大統領就任式への招待状が台湾・新政権に届かないよう、陰で圧力をかけるのではないかとも噂されている。中国の圧力は、こうした各国政府や国際機関に直接働きかけるものから、アメリカのメディアを買収するものや、ハーバードをはじめとするアメリカの大学への寄付を通してアカデミズムを間接的に取り込むもの、さらには孔子学院と称する「海外の大学などの教育機関と提携し、中国語や中国文化の教育及び宣伝、中国との友好関係醸成を目的に設立した公的機関」(Wikipedia)まで、実に巧妙で広範に及ぶ。今さらではあるが、平時の三戦(世論戦(輿論戦)、心理戦、法律戦)は常態であり、性善説に立ち人の好い日本は外交当局としても我々一般庶民レベルが世界を見る上でも留意すべきなのだろう(別に中国に限らないのだけど)。
 また、先月、香港で中国からの「独立」をめざす政党が相次いで旗揚げされ、中国当局が神経を尖らせているとの記事があった。台湾で「ひまわり学生運動」が立法院を占拠したあと、香港で街頭占拠デモ「雨傘運動」を主導した学生団体のリーダー(黄之鋒氏)らが「香港衆志」を設立したらしいし、別の学生グループは3月に「香港民族党」を立ち上げ、いずれも9月の立法会選挙に候補を擁立する方針のようだ。そのほか香港を自らの本土と主張し、「本土派」と呼ばれる急進的な若者の反中組織も台頭しているらしい。香港は既に中国に取り込まれながらも「一国二制度」の下で中国共産党に抵抗を続ける真逆の立場ではあるが、香港と台湾が共鳴する現象もなかなか興味深い。

(参考)「香港の行方」(2016年1月16日付) http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20160116
    ついでに「爆買い中国の行方」(2016年3月18日付) http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20160318
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最後の零戦乗り

2016-05-06 00:39:21 | 日々の生活
 くまモンが三週間ぶりに復活したので、是非その活躍を称えたいところだが、今日は、それよりもある老人の死を悼みたい。長野在住の原田要さん。享年99。
 終戦時に飛行記録を焼却したため証拠は残っていないらしいが滞空時間8000時間と言われ、世界に誇る「零戦」を駆った歴戦の戦闘機パイロットとして、「自分の命は差し出して働く覚悟」「やらなければやられる極限の戦い」で、撃墜した敵機は19機に及ぶ。1933年に17歳で海軍に志願し、1937年、日中戦争の南京攻略で海軍航空隊の一員として初陣を飾った。1941年9月、空母「蒼龍」の乗組員になると、真珠湾攻撃作戦では上空援護の任務のため敵機と対峙しなかったが(当然真っ先に自分が行くと思っていたので、悔しかったらしい)、その後、ウェーク島の戦い、ポートダーウィン空襲、セイロン沖海戦に参加。ミッドウェー海戦では、帝国海軍が虎の子と誇った空母「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻が米軍爆撃機の空襲により次々と被弾・炎上・沈没し、母艦を失った原田さんは、唯一残った「飛龍」に着艦、短時間で整備を受けて発艦し(このとき滑走路は着艦した航空機で埋まり、わずか50メートルの滑走距離で奇跡的に飛び立つことができたそうだ)、連合艦隊機動部隊を最後の一機として護衛したが、「飛龍」も被弾し大爆発を起こしたため、燃料が切れて海面に不時着し、4時間の漂流の末、駆逐艦「巻雲」に救助された。ガダルカナル島の空中戦ではグラマンF4Fワイルドキャットと対戦し、撃退するも、自らも左腕に被弾し、零戦ごと密林に突っ込み、ジャングルを数日さまよって、海軍の特殊潜航艇基地に辿り着く。同基地で治療を受けたものの傷は悪化し、マラリア、デング熱も併発し、生死の境を彷徨ったという。内地送還後は飛曹長に昇進し霞ヶ浦航空隊教官を務め、戦場に戻ることはなかった(以上、朝日、産経、Wikipediaより)。
 日本が降伏すると、米占領軍による報復を恐れて隠れ、公職追放にも遭ったという。そして農業などをした後、1964年に自治会長になったことを機縁に託児所を開設、続いて幼稚園を経営し、園長として穏やかな日々を送った。その実、「零戦パイロットは人殺しロボット」などと言われて罪悪感に囚われ、長らく「零戦乗り」の過去については口を閉ざしてきたという。
 撃墜すると、一瞬だが間近で相手の様子が確認できるのだそうだ。敵機に致命傷を与える20ミリ機銃の弾丸は、両翼に60発ずつしかなく、確実に当てるためには、100メートル以内に接近し、時には5メートルほどの至近距離になることもあり、時速500キロ以上のスピードですれ違いながら、いかに米軍の後部銃手の攻撃をすり抜けて敵機に感知されないよう接近するか、機体を傾け、敵機の一方にすっと入り込む、熟練した操縦の腕が求められたという。そんな当時の様子が脳裏に浮かび、「撃墜すると安堵感と高揚感があって、その後、嫌な気分になりました。『あの男にも家族がいただろう』と想像したから…」(産経Web)
 転機となったのは1991年の湾岸戦争で、ニュース映像を見た若者が漏らした「テレビゲームみたい」という感想に衝撃を受け、何度も生死の境をさまよった自らの悲惨な体験を伝える決心をする。 「次世代が(戦争の)苦しみを味わうことのないように、私の体で感じたことを死ぬまで伝えていきたい」。
 壮絶な人生だったと言うべきだろう。右の産経も左の朝日も、その死を悼んだ。どちらかと言うと、産経は若き日々を国に捧げた零戦乗りの「誇り」に焦点を当てながら、朝日は「罪悪」という言葉を繰り返す原田さんが70年間苦しんできた「罪の意識」を強調しながら。しかし、いずれも尊いと思う。そんな中、朝日は伝えないが、産経が最後まで産経抄(朝日の天声人語に相当するもの)で拘ったメッセージがある。南京大虐殺は信用できないというものだ。1937年に日本軍が中国・南京を攻略した際、原田さんは海軍航空隊の一員として現地にいて、記憶にあるのは、露店が立ち、日本兵相手に商売を始めた住民の姿なのだそうだ。「南京大虐殺は信用できない。もしあれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」。こうした現実感覚は、とかく観念論が先立つこの問題を冷静に捉え直すために(もっと言うと、プロパガンダと化した歴史認識を垂れ流す中国の悪意を抑えるため)、もっと広く声高に宣伝してもよいように思う。
 何より、開戦の前年に誕生した零戦は、当初、世界一の戦闘機としての呼び声が高く、原田さんも「操作が楽で、微妙なところで舵が利くいい飛行機だった」と振り返ると同時に、「零戦が誕生しなければ、日本も真珠湾攻撃を考えなかった」だろうし、「真珠湾での勝利、零戦への過剰評価が、自信ではなく慢心につながった」とも冷静に振り返っておられる。至言であろう。そして、「私たちが命がけで守ったこの国の行く末が心配です」と呟かれる。アンビバレントに揺れる原田さんだからこそ、その言葉の重さに、私は深く心を揺さぶられるのである。私たちはあの戦争をまだ総括できていない。
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中国の四つのお願い

2016-05-03 11:09:07 | 時事放談
 その昔、ちあきなみの「四つのお願い」という歌があった。何事も「2」では偏って不安定な感じがするため、「3」という鼎の安定感ある数字がよく使われるものだが、「4」というのは珍しい。「お願い」だからもう一つオマケに、といったところか。曲後半のサビのところでその四つのお願いが列挙される。
  一つ「優しく愛して」
  二つ「ワガママ言わせて」
  三つ「寂しくさせないで」
  四つ「誰にも秘密にしてね」
という何とも艶やかな(しかしワガママな)ものだ。Wikipediaで調べると、彼女の「4」枚目のシングルで1970年「4」月リリースだという(わざわざ4をカッコ書きにしたが、偶然だろう)。大阪万博の頃のことで、アメリカ館の「月の石」にワクワク胸を躍らせながら、こんな曲を口ずさんでいたのだから、何ともマセたガキだったものだし、今でも諳んじるのだから、どうでもいいことをいつまでもよく記憶しているものだと呆れてしまう。
 昨日の日経によると、中国の王毅外相も岸田外相に対して「四つのお願い」をしたらしい。もっとも日経では「四つの“要求”」としていて、実際に王毅外相は会談冒頭で「誠心誠意で来たのであれば歓迎する」などと不遜な態度で吠えたというから、文脈としては“要求”が正しいのだろう。しかし中身を見れば、ちあきなおみの「四つのお願い」レベルである。
  一つ「歴史を直視・反省し、(中国と台湾が不可分とする)『一つの中国』政策を守る」
  二つ「中国脅威論や中国経済衰退論をまき散らさない」
  三つ「経済面で中国を対等に扱い協力を推進する」
  四つ「地域や国際社会の問題で中国への対抗心を捨てる」
 まさに、台湾と中国の二股かけずに私だけ見て(優しく愛して)、南シナ海への海洋進出は大目に見て(ワガママ言わせて)、もはや低賃金労働が売りの世界の工場ではなく、産業高度化を進めているのだから、労賃(物価)が上がったとか情報漏えいが懸念されるなどチャイナ・リスクがあるとソデにしないで(寂しくさせないで)、AIIBなど地域や国際社会のためとは大義名分で、実は自国の過剰在庫処分や成長のための投資先を求めているだけだとか、だから出資比率の高い中国が牛耳るなどと本音のところは詮索しないで(誰にも秘密にしてね)、という感じだ。
 今回の会談で、にこやかな(時に愛想笑いが鼻につく)岸田外相に対して、苦虫を噛み潰したような渋い表情で握手に応じた王毅外相が印象的だった。日中関係停滞の原因を一方的に日本に押しつけ、歴史認識にしても中国脅威論や衰退論にしても、心掛けがよろしくないと、華夷秩序の「中華」が周辺の「蛮族」たる日本を上から目線で指導するかのような高飛車な態度を、わざわざカメラの入った場面で行うのだから、そもそも外交上、非礼であるし、やられた我々としては甚だ不愉快である。四つの“要求”は、むしろ中国に当てはまるものであり、そのまま熨斗をつけて返してやりたいくらいだ。が、翻って、そのときの中国の真意を忖度すると、そのカメラの先に意識していた視線は、日本国民でも国際社会でもなく、中国の民衆なのだろう(毎度のことながら)。だから産経Webが社説(「主張」)で、「岸田文雄外相は、冒頭の王毅発言に、直ちに反論すべきだった(中略)そこで黙すれば相手の言い分を認めたとみなされ、国益を損ないかねない」と怒りたくなるのも無理はないが、逆に、中国は相当焦っているし追い詰められていると考えるべきだろう。エドワード・ルトワック氏が「中国4.0」の中で述べたように、小平氏が「韜光養晦」と称した平和的台頭をかなぐり捨て、2009年以降、対外強硬政策に転じると、安倍政権の地球儀俯瞰外交が成功したところに典型的に見られるように、周辺国は中国への警戒から結束し、ことごとく裏目に出て、何も良いことがないのである。リーマンショックで打ちひしがれた世界を救った英雄気取りでいたら、中国経済は注射(投資)漬けの重症患者になってしまった。
 しかも、こうしたオメデタイ(?)場がもたれている間も、中国海警局の船は尖閣諸島周辺の領海外側の接続水域を航行し、海上保安庁の巡視船に警告され続けたのである。過去10日間も・・・。まあ、習近平国家主席が昨年、インドのモディ首相を訪問していた時にも、人民解放軍がカシミールの実効支配線を越えてインド側に侵入していたから、毎度のことと言ってしまえばそれまでであるが。
 因みに、件のちあきなおみの曲の三番で、「四つのお願い」は次のように表現される。
  一つ「優しくいつでも」
  二つ「二人は幸せ」
  三つ「いつしか結ばれて」
  四つ「貴方と私はひとつ」
 中国と日本がこれでは、なんだか気持ち悪いが、いやいや中国にしてみれば、日本を完全な属国としてハイクオリティの技術から人材まで全て征服したい(もっと言えば日本など呑み込んで消し去ってしまいたい=貴方と私はひとつ)といったあたりに、本音があるのかも知れない。冗談ではないが・・・
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