風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ミレイユ・ダルク

2017-08-29 02:00:28 | スポーツ・芸能好き
 フランスの女優ミレイユ・ダルクさんがパリの自宅で亡くなったという。享年79。
 私は何故か中学二年の頃から突然、洋画に目覚め、と言っても劇場に通うほどの金銭的余裕はなく、毎月なけなしの小遣いは「スクリーン」という月刊誌に消えるので、TVで放映された映画を観るしかなく、好きが昂じて中学三年のときには受験勉強中にもかかわらず「水曜ロードショー」や「ゴールデン洋画劇場」など年間50本以上観た記憶がある(ということは毎週一本観ていた)。よく親は黙って許してくれたもので、志望校に合格できてなにより、である。のどかな時代だった。
 当時は今ほどハリウッド映画一辺倒ではなく、1960年代から70年代にかけてフランス映画の名作も多く、アニュイな雰囲気と情感たっぷりの映画音楽が子供心にも不思議と気に入っていた。さすがにブリジット・バルドーの時代ではなく、またソフィー・マルソーやジャン・レノが出てくる以前のことで、辛うじてカトリーヌ・ドヌーヴや、イザベル・アジャーニ、マリー・ラフォレ、アニセー・アルヴィナなどのいい感じの女優さんがいたし、男優でも、アラン・ドロンはもとより、ジャン=ポール・ベルモンドやジャン・ギャバンなどの渋~い方がいた。
 では、ミレイユ・ダルクのファンだったのかと言うと、実は彼女の映画は一本も見ていない。それにもかかわらず、美女と言うよりボーイッシュな感じの、美人というより可愛いタイプの女優さんとして印象に残っているのは、ひとえに、アラン・ドロンが、ロミー・シュナイダー、続いてナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)との破局のあとに、愛人関係にあったからだ。アラン・ドロンと言えば、最近で言えばトム・クルーズやジョニーデップやレオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットやジョージ・クルーニーなんて目じゃないくらいの人気者で、当時の世のおばさまたちを虜にした。如何にもベタな二枚目なのだが、生い立ちが不幸で、「太陽がいっぱい」や「地下室のメロディ」のような陰のあるちょいワルの役柄がよく似合う。
 後にコケティッシュという言葉を覚えたとき、何故かミレイユ・ダルクのことだと思い込み、パリジャンと言えばカトリーヌ・ドヌーヴ(のような正統派美人)ではなくミレイユ・ダルク(のような小悪魔的美女)をイメージするようになって、今に至る。映画を一本も観ないで、これほど強烈な印象を残しているのは、アラン・ドロンの存在感の故か、はたまた出会ったのがお年頃だったせいか・・・私にとってあの時代の輝きを身にまとった方が故人となられて、ついメランコリックになってしまったのだった。謹んでご冥福をお祈りしつつ、合掌。
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甲子園の夢・番外

2017-08-26 12:58:29 | スポーツ・芸能好き
 今から40年以上前の大阪の片田舎のベッドタウンに、「ホワイト・スネークス」なるバタ臭い名前の野球チームがあった。クラス替えがなかった小学5~6年の仲が良いクラスメイト5人が結成したものだが、いつ始まっていつ終わったかは定かではない。習いたてのローマ字を使って頭文字のH.S.のステッカーをユニフォームの胸に貼りつけて喜んでいた頃に始まり、中学に入って英語を習い始める内に、W.S.の間違いではないかと指摘してお互いに苦笑いした記憶があるから、中学生になってからも暫く続いていたことになる。
 当初、小学生のくせに、監督はなく、コーチは互選し、守備も打順も皆で話し合って決めるという、生意気なほど民主的な運営は、むしろ牧歌的ですらある。しかし、ひとたび試合になると連戦連勝で負け知らずの、伝説的なチームだった。
 メンバーがなかなかの個性派揃いだ。ピッチャー兼投手コーチのカネやんは、後に高校時代に駅伝で活躍するスポーツマンで、左投げ左打ち、上背があってストレートに伸びがあった。キャッチャーのシゲは、幼稚園の頃はいつも黄色っ洟をたらしていたものだが、でっぷり太った存在感は名実ともにチームの要であり、当たればホームラン、当たらなければ三振と、打撃の思いきりの良さといい体格といい、当時、阪神のキャッチャー田淵そのままだった。ファースト兼打撃コーチのサイセンは、背丈こそクラスで一番低いものの野球センスは抜群で、左投げ左打ちと、当時、巨人のファースト王さんを気取った。セカンドのウラシマは、一つ年下だが、地元の名士のドラ息子で、キャッチャーミットやキャッチャーマスクやファーストミットなど、当時、誰ももっていない珍しい道具を買い与えられていて、重宝するので仲間に入れられた。サード兼守備コーチのヒラメは、勉強ができない連中の中にあって異色の、児童会・会長もこなす優等生で、当時、巨人のサード長嶋ばりの守備上手。ショートのフクイは、カッコつけのマセガキながら、やるべきときにはやる男で、誰も褒めてくれないものだから「鉄壁の三遊間」などと吹聴しまくった。以上の6人をコア・メンバーとして、試合のときにはその都度、近所のガキを借り集めて外野に立たせることになるから、内野の守備こそ固くて惚れ惚れするほどだったが、外野に打球が飛ぶと長打になるのが玉にキズだった。
 当時は、週休二日制なる言葉が辞書に載る遥か以前で、虎の子の安息日である日曜日に、雨の日も風の日も、毎週欠かさず集まっては和気藹々、小学校のグラウンドや近所の某社宅のグラウンドに忍び込んで、練習しているのか遊んでいるのか、とにかく野球と遊びが大好きな少年たちだった。李下に冠を正さず、と言うが、あるときファール・ボールが柵を越えてイチゴ畑に飛び込むと、球探しをするフリをして、しこたまイチゴを頬張ったものだし、またあるときには小学校の給食室の前までボールが転がり、給食の余りの牛乳が栓を開けられないまま残っているのを見つけて失敬したら、ヨーグルトのようにドロンと固まっていて、びっくらこいたものだ(いずれも時効成立)。時々、練習が終わって、ウラシマの家の前でたむろしていると、「いつも遊んでくれてありがとう」と、当時はまだ珍しいクーラー(今で言うところのエアコン)がある部屋に通されて、いつもは賑やかな彼らも、カルピスをご馳走になる頃には、借りて来た猫のようにおとなしくなった。
 練習はもちろん、試合のためにある。その相手として、リトルリーグのチームが恰好の餌食になった。ホーム・ベースなどの各種備品が揃っている上、監督サンが審判になってくれるし、そもそもプライドが高い連中のこと、貧相な彼らに対して野球を教えてやろうと言わんばかりのノリで相手をしてくれる。それで逆にやっつけてしまうのだから、痛快この上ない。また、同じ小学校や中学校の他クラスの知人に試合を挑むこともあったし、あるときには近所の悪ガキ・チームと、あちらからとこちらから、狭いグラウンドで入り乱れている内に、乱闘ならぬ果たし合いに至ったこともある。そのときは、偶々散歩中の同級生のお父ちゃんを見つけて審判を頼みこみ、プレイボール。隣のクラスのヌマ公と崇められていたガキ大将がピッチャーで、ガキ大将と言えばだいたい成長がちょっと早くて大人並みの体格なものだから、多少はノーコンでもスピードがあって、さすがの彼らも打ちあぐねていた。ところが、取り巻き連中がヘナチョコで、ボテボテの内野ゴロがヒットになったのを機に畳みかけ、サイセンの一振りで絵に描いたような劇的なサヨナラ勝ちをおさめて、不敗伝説を守った。
 彼らにとっては、「フィールド・オブ・ドリームス」。大阪という土地柄、野球帽には巨人のマークと阪神のマークが半々、ユニフォームもばらばらで、最後まで私服のままの者もいて、バットとボールとグローブを持っている者が持ち寄るだけの、あるがままの雑草のようなチームだったが、練習するたびに野球が上手くなった。そして、それぞれに守備と打順が割り振られ、期待された役割をこなすことに誇りをもち、勝利することに喜びを感じ、組織だったリトルリーグのチームを倒すことには快感を覚えた。家に帰ると、今のように一人ひとりに勉強部屋があてがわれているわけではなかったが、グラウンドには間違いなく彼らの居場所があった。
 そんな彼らに、甲子園は夢のまた夢。皆、地元の公立中学に進学したが、気が弱い彼らは、野球部が札付きの不良の巣窟と知ると、入部の扉を叩く勇気がある者はなかった(笑)。その後、母子家庭のカネやんはお母ちゃんのたこ焼屋を継ぎ、シゲは自動車修理工に、フクイはスナック経営と、風の便りに聞いたが、残り3人の行方は杳として知れない。いつか「ホワイト・スネークス」を再結成して、ガキを相手に試合を挑んで、大人げなく本気で、と言うか、童心に返って勝ちを目指して欲しいというのが、ごっこ遊びに興じる彼らを傍で見ていた私の夢なのだが。
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甲子園の夢・清原超え

2017-08-25 00:23:54 | スポーツ・芸能好き
 記録はやはり破られるためにあるものだ。今夏の甲子園で、中村奨成(広陵)が6本塁打をマークした。やんちゃな清原(PL学園)の野球小僧ぶりを愛する私には、彼の一大会での最多本塁打記録(5本)が塗り替えられたことがちょっぴり寂しく、やや突き放したところで、ほおぉと感心する。実に32年振りのことだ。
 小学生の頃、野球少年だった私は、以来、高校野球をよく見たものだった。時代はONを擁する巨人の黄金時代だし、子供にはなにしろ暇がある。そんな小学生の頃の私にとって最初のヒーローは、江川卓(作新学院)という規格外の大投手だった。打者の手元でホップする剛速球に全国中が瞠目し、高三の夏の二回戦、延長12回裏1死満塁のピンチで、雨の中、押し出しの四球でサヨナラ負けしてガックリ肩を落とすシーンは今も瞼に焼きついている。翌年の夏もまた悲劇的なシーンが記憶に残っていて、生まれ故郷の定岡正二(鹿児島実業)が、準決勝でホームに滑り込んだ時に投手として大切な右手首を負傷して交替し、あれよあれよとサヨナラ負けしたシーンも忘れられない。その後、高校時代には、隣町に牛島和彦・香川伸行(浪商)という人気のバッテリーがいて、地元として応援したものだったし、大学時代には、KKコンビと言われた桑田真澄・清原和博(PL学園)に注目した。ところが、いつしか自分が年上になり、更に齢が離れるに従い、見る目も変わって、徐々に離れて行ったのは、仕方のないことなのだろう。つまりは子供の頃のヒーローほど思い入れが強いということで、冒頭のような発言になる。
 その後も、甲子園は、松井秀喜(星稜/1992年)、松坂大輔(横浜/1998年)、斎藤佑樹(早実)と田中将大(駒大苫小牧)が投げ合った2006年、藤波晋太郎(大阪桐蔭)と大谷翔平(花巻東)と松井裕樹(桐光学園2年)の2012年など、5~8年毎に怪物が出没する恐ろしいところだ。甲子園に出られなかった清宮幸太郎(早実)はU18ワールドカップには出場する。最近はサッカーやテニスやゴルフと、楽しむスポーツはいろいろあるからこそ、是非、野球を盛り立てて行って欲しい・・・といったオジサンの発想になる(笑)。
 思い出すだに子供の頃に与えられた感動はかけがえのないものだった。プロではない技術を補うひたむきさや不安定故に壊れやすい緊張が見る者を惹きつける。偽善的なところを衝く見方もあるが、野球をやっている一瞬一瞬が面白ければいいと思う。是非、子供達に感動と将来の夢を。
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したたかなイギリス

2017-08-22 23:17:56 | 時事放談
 イギリス・ケンブリッジ大学出版局は、先週末、中国当局にとってsensitiveな(つまり都合が悪い)論文300点以上(天安門事件やチベット関連など)について、中国当局の要請を受けて中国国内からのアクセスを遮断する措置をとったとの声明を発表して、私のような気の弱い人間はやれやれと悲嘆したものだった。ところが、舌の根も乾かない月曜日、同出版局はその措置を撤回することを決めたという。世界中の学術研究者から、「学問の自由を守るべきだ」とか「自分たちが好む文脈に合わない内容を検閲する中国政府が検閲を輸出しようとしている」などと批判の声が上がったことに意を強くして、「学問の自由」という大義のために立ち上がった構図だ。
 同出版局としては、当初、中国と直接対峙する道を選ばず、いったんは中国の圧力に屈した形にして(=自らの肉を切らせて)、その苦渋の決断を世界中に公表し(これは一種の恥さらしでもあるが、他の論文を引き続き中国国内で利用し続けられるようにするためと弁明はした)、世界中から非難(同出版局にとっては同情であり強力な援軍である)を集めることによって、結局、目的を達した(=つまり中国の骨を斬った)ように見える。もしや計算通りに事が運んで、ほくそ笑んでいるのではないかと勘繰るほどの、スピーディな対応だった。
 イギリスは老いたりと言えどもただの老いぼれではなく、その老練さに感心した次第なのだが、もしそうだとすると、このままでは済まないだろう。世界を敵に回した中国は、この件で深追いすることは出来ないかも知れないが、面子を失って、さて、どんな反撃(あるいは嫌がらせ)に打って出るのか・・・他人事ながら私のような気の弱い人間は気になってしまう。
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72度目の夏

2017-08-20 16:45:52 | 日々の生活
 毎年、この時期になると、蝉の声が胸に沁みる。きっと72年前の夏も、同じように喧しい蝉の鳴き声を聞きながら、日本国民は厳粛な気持ちで敗戦を受けとめようとした(でもなかなか受け入れられなかった)ことだろう。
 15日の全国戦没者追悼式で安倍首相が「反省」を言葉にしなかったことが、今年もメディアで話題になった。確かにそういった批判は私たちにはお馴染みで分かりやすい理屈だが、それが(今なお侵略者呼ばわりする中国や韓国を意識した)「懺悔」を意味するとすれば、安倍首相ではなくてもちょっと違和感を禁じ得ない。戦没者を追悼する式典である。日本国並びに日本国民のために(その中には当時の韓国(人)や台湾(人)も含まれる)前線あるいは銃後で戦って散った人たちを追悼するとともに、開戦から敗戦を通して日本国民(繰り返すがその中には当時の韓国人や台湾人も含まれる)に多大なる苦難(生死を問わず)をもたらしたことを「反省」し、「不戦の誓い」を新たにするのが自然だろう、などと思ったりするのだが、どうもそうではないらしい。勿論、自存自衛のためだったとか(事実、追い詰められて無謀を承知で産業大国アメリカに挑んだくらいだから、そうだったのだろう)、陰謀論など(も国際場裏では当然あっただろう)、政治的な言説を弄んだところで、戦争や事変と呼ばれる災禍が戦場となった中国をはじめアジア諸国の多くの人々を巻き込み苦しめた事実は消えることはない。彼らの心の底で恨み辛みが消えることは未来永劫ないだろうし(世代を経るに従って多少記憶が薄れることはあっても)、日本人は(必ずしも日本人だけではないのだが)十字架を背負い続ける(もう一度、戦争して勝たない限り敗戦国であり続けると嘆く保守派もいるが、その通りだろう)。そこをお互いに乗り越えて、信頼回復に努めてきたのが戦後72年だったと思う。そして少なくとも東南アジアや太平洋諸国との関係は目に見えて改善してきた。それが歴史的にも国際的(と言っても西欧的になってしまうが)にもごく当たり前の対応であり結果だろうと思う。
 振り返れば大東亜戦争も含めて20世紀の二度の大戦は、それ以前のどちらかと言うと戦争のプロが担った限定された戦争と比べて、一般人をも巻き込んだ総力戦の様相を呈して異常だった。そのため、一度目は1928年のパリ不戦条約第1条(締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを・・・宣言する)において、二度目は国連憲章第2条4項(すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない)において、戦争放棄を宣言する形で結実した(いろいろな国がいろいろと留保をつけたにせよ)。そして日本国憲法9条1項はまさにその流れにある(というのが篠田英朗氏の説くところ)。
 さらに西欧にあっては戦争を行う単位としての国家の権能を部分的に縛ってまで相互に安全を保障し経済的な繁栄を目指すEUという制度的な取組みも行われてきた。民主国家は他の民主国家とみなす相手に対しては戦争を避ける傾向があるとするカント以来の「民主的平和論」は、その後の歴史によって裏切られて来たし、戦争に民主国家も非民主国家もないのは事実だが、理念としての「民主的平和論」であればこそ、戦争も平和もまとめて歴史的記憶を共有しほぼ等しく高度な民主制を発展させて来た現代の西欧諸国間でこそ、それなりに妥当するようになったと言えるように思う(小さな様々な反目があるにせよ)。
 しかし東アジアの戦略環境は様相を異にする。共産党(王朝)による権威主義的な統治を核心的利益の第一とする中国は、改革開放の中で生まれつつあった自由と民主などの西欧的価値観が自らの立ち位置を掘り崩すことを知って圧殺し、(共産主義イデオロギーに代えて)反日プロパガンダを利用した愛国主義イデオロギーへと舵を切り、経済成長を続ける中で、韜光養晦をかなぐり捨て、軍事力を背景に現状変更をも厭わない地理的拡大を試み、「中華民族の偉大なる復興」を旗印に、かつての華夷秩序を押し広めるかのように台頭する意図をあからさまにしつつある。北朝鮮は相変わらず深いベールに包まれているが、中国の軛を離れ米帝国主義(と彼らは決めつける)の脅威から金王朝の存立を守るために核武装を試みることはもとより、若くして権力を承継しカリスマ性に欠ける金正恩は、自らの指導者としての権威を高めるべく、父や祖父以上にミサイル発射実験などの対外的挑発を繰り返し、その能力と実績を誇示しようとする。民主化からまだ30年しか経っていない韓国は、直近の日本を含め1000年にわたる中国への隷属の歴史の呪縛のもとに、異常なほど根強い民族意識を形成し、ファンタジーとしての民族の歴史を語ることに執心し、国家よりも(朝鮮)民族に対する忠誠を誓い、民族に対する忠誠の程度によって政治的正統性(legitimacy)が担保されるような有り様であり、現実との矛盾を解消するための方便として反日を利用する。つまり、三ヶ国とも(西欧のような)民主制の議論をする以前に、国内統治における正統性の問題を抱え、国内問題の延長として対外関係を弄し(古今東西、多少なりとも国家にはこうした側面はあるが)、その中で日本を敵国扱いし、露骨に反日を煽る。それに対して日本は、講和条約によって正式に戦争を終結し晴れて国際社会に復帰しながら、今なお中韓からは侵略国呼ばわりされて、ことあるごとに反省を促され(と言うことは、日本を畏怖することの裏返しでもあるのだが)、自衛隊を名乗りながら米軍を補完する形でしか自国の安全を保障できず、国民はあの8月15日以来(と象徴的に言うが、より正確にはGHQの占領支配を通して)、「国家」と名のつく言葉は無条件に嫌悪し、「戦争」と名のつくものは全て忌避し、自らの「安全保障」について思考停止したままである・・・とはちょっと言い過ぎか。
 などと、つらつら、いつになく過激に思いを馳せながら、この夏は、平和構築を中心とする国際関係論を専門とされる篠田英朗氏の本を読んでいる。日本国憲法を、起草された当時の国際環境や国際法の文脈の中で捉え直すという、言われてみれば当たり前の、歴史実証主義的な取組みには目に鱗・・・ながらも、考え方は私の皮膚に馴染む上、安保法制をはじめ日本の憲法学者の象牙の塔ぶり(国内に閉じた世界で理屈をこねくり回すことを皮肉っているのだが、篠田氏は端的に「訓詁学」呼ばわりされたのは蓋し名言)には辟易していたこともあり、東大法学部の所謂「通説」を挑発するのがなかなかスリリングで小気味いい。憲法解釈が変容(私は憲法が許す枠内での政策論の変容だと思っているが)したことに拘るのも結構だが、やはり原点回帰し、では今の現実に対処するに、日本には何が必要かを虚心坦懐に考えることが重要だとあらためて思い直した次第である。
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慎ちゃん2000安打

2017-08-16 12:01:02 | スポーツ・芸能好き
 巨人の阿部慎之助選手が、13日の広島戦で、通算2000安打をマークした。日本プロ野球史上49人目の快挙である(なんとなく最近は試合数も増えたし指名打者制もあって、投手に比して打者が有利で多い気がすると思って調べてみたら、投手26人に対して打者53人らしい、但しこれは名球会在籍者数とは異なり、日米通算を含む数字)。
 巨人の生え抜き選手では、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、柴田勲に次いで5人目だという。この大先輩4人は全て監督まで経験した名選手であり、その域に達したのかと思うと感慨深い(実に37年振りということだが、確かに4人は巨人のV9を支えた監督と選手たちだ)。また、駒田や松井のように野球人生の半分を巨人で過ごして他球団に移籍してから達成した選手や、落合や清原や小笠原のように他球団出身で巨人に在籍中に達成した選手もいる中で、モノは考えようだが巨人一筋、生え抜き達成は幸せなことだとしみじみ思う。
 阿部慎之助と言えば、巨人の第18代主将(2007年~2014年)であり、日本プロ野球史上3位の年俸6億円プレーヤー(2014年)であって、2000安打以前に既に押しも押されぬ大選手なのだが、彼らしい弾丸ライナーの鋭さや野球技術的なところは言うまでもなく、何より野球に向かうひたむきさや(今では珍しいかも知れない)体育会系ならではのケジメある明るさや(勝負強さとも結びつく)頼りがいある存在であるところには、大いに人を惹きつけるものがある。そんな印象を形成した足跡を辿ってみた。
 父・東司氏はあの掛布雅之と習志野高校で同期で、掛布とクリーンナップを組み、掛布が3番、父上が4番を打ち、甲子園出場経験があるそうである。そんな血をひく彼の安田学園3年時から中央大学の4年間を含めて計5年間を追いかけたという、阿部の担当スカウトだった中村和久氏は、初めて阿部を見た高校3年春を振り返って、「前年の夏から2年生捕手として注目されていた。スイングがとにかく速くて、右中間、左中間にライナーで運ぶ姿が印象に残っている。捕手としても肩が強くて、様になっているなと。そういう印象でしたね」と言うのは、まさに今のイメージと重なり感慨深い。大学時代、「慎之助は野球道具をきっちり並べて、グラウンドでは常に先頭で全力疾走。野球への取り組みも素晴らしかった。中大での4年間、ずっと変わらなかった」と回想するのも、彼らしさが伝わって来る。長嶋茂雄監督(当時)は野手を獲得する際、「プロでタイトルを獲れるか?」と上位指名の基準は高かったというが、中村氏は球団幹部に「プロでクリーンアップを打てる。打撃タイトルも獲る」と進言したという(以上はスポニチ記事から、以下はWikipediaから)。
 2000年のドラフト1位(逆指名)で巨人入りし、2001年3月30日の阪神との開幕戦、巨人では山倉和博以来23年ぶりとなる「新人捕手開幕スタメン」として先発出場(8番・捕手)し、初打席・初安打・初打点を含む4打点を挙げる活躍を見せて、いきなり勝負強さを発揮した。翌2002年、シーズン後半から高橋由伸の故障に伴い3番打者に起用され、8月の3度を含む4度のサヨナラ打を記録して、「サヨナラ慎ちゃん」と呼ばれるようになる(懐かしい・・・)。
 2004年は当たり年で、4月9日から16日にかけて6試合連続本塁打、4月28日には3本塁打を放ち、4月に放った16本塁打は王貞治の球団記録を更新した(1981年の門田博光、1994年の江藤智と並ぶ日本タイ記録)。5月12日にはマーク・マグワイアが1998年に記録した従来の世界記録である「開幕35試合目での20本塁打」を2試合更新する「開幕33試合目での20本塁打」なる珍記録?まで生まれた。残念ながらこの後ペースは失速し、シーズン33本塁打に終わったが、巨人所属捕手として球団史上初の30本塁打、規定打席到達で自身初の打率3割を記録した。
 2007年にはチームの主将に任命されるとともに、6月9日の楽天戦では「球団史上第72代目4番打者」となり(この日、2本塁打5打点と活躍)、名実ともにチームの柱となる記念すべき年となった。
 記録については、2010年に44本の本塁打を放ち、捕手として野村克也・田淵幸一に次ぐ史上3人目のシーズン40本塁打を記録したのをはじめ、2012年には初のタイトルである首位打者(.3404は、1991年に古田敦也が記録した.3398を上回る捕手としての最高記録)と打点王(両リーグで唯一100を超える104打点)の「2冠」に輝き、更に最高出塁率(.429は両リーグでトップ)のタイトルも獲って、セ・リーグ最優秀選手に選ばれた。ベストナインやゴールデングラブ賞には2014年まで選ばれているが、成績はこの年(33歳)がピークだったようで、実際、月間MVPに三度選ばれ、三振数は規定打席到達者の中でリーグ最少、また、264塁打、8犠飛、6敬遠、OPS.994はリーグ・トップ、そして長打率.565は両リーグ・トップと、記録づくめだった。総合評価指標WARにおいて、2012年、2013年にはそれぞれ9.7、8.4といずれも両リーグNo.1の数値を記録している。
 2014年以後は、怪我や不振に泣かされる。一塁手として出場することもあり、この年オフに捕手から一塁手へコンバートされ、2015年開幕から一塁手として出場した(が、相川亮二が故障で離脱したこともあり急遽4月3日には捕手に復帰)。2016年に就任した高橋由伸監督の方針で再び捕手登録に戻るが、オープン戦で肩に違和感を感じて登録抹消され、開幕は二軍で迎えた。7月8日から8月10日まで23試合連続安打という、自己最長を記録したりもしたが、この年は一塁手または指名打者として試合に出場し続け、最終的にプロ入り後初めて捕手としての出場を果たせなかったシーズンとなった(以上Wikipedia)。
 入団当時の巨人編成部長だった末次利光氏は、「活躍は予想していた。アマチュア時代から、攻守両方を兼ね備えた選手だったが、なにより、精神的に強かった。いい意味で図太い。プレッシャーを楽しむことができる心の強さが、巨人軍の生え抜きの選手としてこれだけ活躍できる理由ではないか」と分析している(読売新聞)。
 長嶋終身名誉監督は、「バッティングは大学時代からの評判通り、非凡なものを持っていました。一方で捕手としてのリード面は、プロとして経験を積む必要があると判断し、1年目から少々の失敗には目をつぶって起用し続けました。本人が努力を重ねた結果、みなさんご存じのように打者としても捕手としても、巨人軍の歴史、そしてプロ野球を代表するような選手に成長しました。それだけに今回の記録の達成は、私としても大変感慨深いものがあります」と語っている(スポニチ)。本人も捕手というポジションへのこだわりがあったようで、2005年オフに原辰徳監督から一塁手へのコンバートを勧められたが、捕手として勝負したいと辞退したという(Wikipedia)。2000安打達成後のインタビューでは、これまでの17年間で苦しかったことを問われて、「たくさんありすぎて分かりませんが、首、肩がダメでキャッチャーをできなくなったことですかね。キャッチャーをやりながら打ちたかったですが、こういう道を僕と考えてくれたおやじと原監督には、すごく感謝しています」と答えている(日刊スポーツ)。
 守備への負担が大きい捕手というポジションをもっと早くに離れていれば打者としての記録はもっと伸ばしていたかも知れないが、捕手じゃない阿部慎之助というのは考えにくいのも事実だ。もう捕手の守備につくことはないと思うが、もう少し彼の雄姿を眺めていたい。
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ボルトのラスト・ラン(後)

2017-08-14 00:15:09 | スポーツ・芸能好き
 あっけない幕切れだった。誰がこんな結末を予想しただろうか。陸上の世界選手権男子4x100mリレー決勝で、現役最後のレースに臨んだウサイン・ボルトは、ジャマイカ・チームのアンカーとして5連覇を目指したが、左脚を痛めて途中棄権した。
 かつて北京五輪の陸上男子4x100mリレーで朝原宣治を手ぶらで帰らせるわけには行かない(そして銅メダルを獲得、8年後に金メダルのジャマイカ・チームがドーピング違反のため失格となり、銀メダルに繰り上げ)と言っていたのを皮切りに、ロンドン五輪の競泳男子4x100mリレーでは北島康介を手ぶらで帰らせるわけには行かないとの名言を残した(そして銀メダルを獲得した)松田丈志を、リオ五輪の競泳男子4x200mリレーでは手ぶらで帰らせるわけには行かないというのを合言葉にして結束した(そして銅メダルを獲得した)。今回、ジャマイカ・チームにはボルトを手ぶらで帰らせるわけには行かないとの思いがあったことだろう(実際に、第一走者オマール・マクロードは『ウサインには金メダルとともに引退して欲しかった』と語っている)。
 第三走者ヨアン・ブレイクは、レース後に怒りをぶちまけたという。「彼らはあまりに長く僕らを招集所で待たせ続けた。ウサインは本当に冷え切っていた。実際に僕にこう言ったんだ。『ヨアン、これはクレイジーだと思うよ。40分間も待たされて、(その間に)自分たちの出番の前に2回のメダル授与式が行われているなんて』とね」(The Answer)。ジャマイカ生まれのボルトは寒さに弱いと言われてきたが、寒さには弱くない私たち日本人のしかも陸上部の高校生ですら身体を冷やさないように気を付けたものだった。走りの技術が高い分、意外性も高かった、と振り返る専門家がいたが、ぎりぎりのところで戦うボルトのような選手は、微妙なところで均衡を崩すようなことがあるのかも知れない。
 その結果、日本チームに銅メダルが転がり込んだ。
 さきほど北京五輪では銅が銀に繰り上げになったと書いたが、あのときは予選で優勝候補のアメリカやイギリスがバトンミスで失格となる幸運があった。ロンドン五輪では5位に終わった(後にアメリカは、タイソン・ゲイのドーピング違反が発覚したため銀メダル剥奪、日本は繰り上げで4位)。ところがリオ五輪ではアメリカを抑えてジャマイカに次ぐ堂々の銀メダルを獲得した(その後、三位のアメリカは、バトン・パスのミスで失格)。誰一人10秒を切れていない中で、バトン・パスの高い技術に支えられたチーム力の勝利だった。今回の銅メダルは実質4位とは言え、ケガのため大事をとったサニブラウン・ハキーム、本調子ではないケンブリッジ飛鳥、さらには故障のため代表落ちしたリオ五輪代表の山縣亮太を外してのそれであり、それなりに評価されるものとは思う。しかしイギリスやアメリカ、さらに中国やフランスは確実にバトン技術を向上させており、二年後の世界陸上、その翌年の東京五輪では、10秒を切る選手が複数いない限り、日本がお家芸とも言えるバトン技術だけでメダルを獲るのは難しいだろう。やはり日本人の9秒台(続出!)に期待したい。
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日中外相の鞘当て

2017-08-11 21:48:35 | 時事放談
 数日前の話になるが、河野太郎外相は、東アジアサミット(EAS)外相会議のため訪問していたフィリピン・マニラで中国の王毅外相ほかと会談した。就任したばかりの河野外相にとっては所謂外交デビューと言われる緊張する場面であり、このときの王毅外相との初顔合わせがなかなか興味深い。
 王毅外相は、2013年3月、李克強国務院総理の下で外交部長(=外相)に就任して4年になるベテランである。もともと、1989年から94年まで駐日中国大使館・参事官を、さらに2004年から07年まで駐日中国大使を務めた外交官であり、知日派である(だからと言って親日であるとは限らない)。日本語、英語に堪能で、日本では日本人相手の会見や講演を、しばしば日本語で行う、とWikipediaにはある。日本で外務大臣と言えば主要閣僚になるが、旧ソ連や中国のような一党独裁国家で外務大臣というポストは必ずしも高いものではないようで、彼の上に外交担当国務委員(副首相級)の楊潔篪氏(先代外交部長)がおり、その楊氏ですら党の中では中央政治局常務委員および委員の25名に入っていない。
 それはともかく、王毅外相は50分の会談の冒頭、父・河野洋平元外相を引き合いに出し、「正直な政治家で、中国を含む周辺国との友好関係を望む外交官だった。彼は当時、歴史の話をすれば(自らの)心の態度を表明した。慰安婦問題で発表した談話も日本の誠意を代表し、国際的にも日本の良いイメージを打ち立てた」と昔語り、「あなたが外相になると知って以降、私たちの多くの人が期待を抱いた」と持ち上げながら、「あなたが国際的なデビューを果たし、初めて東アジアサミット(外相会議)で発言した。だが、発言を聞いて、率直に言って失望した」とこき下ろした。河野外相が中国の海洋進出を批判した発言をとらえたものらしい。さらに「EASでの発言をうかがったが、完全に米国があなたに与えた任務のような感じがした」とまで言い切った。
 これに対して産経新聞は社説で、「一国の外交の責任者に対し、礼を失するにもほどがある」と憤ったのに対し、朝日新聞は社説では取り上げず(因みに社説で取り上げたのは韓国外相との会談の方で、「慰安婦問題 救済の努力を」と呼びかけている)、一般記事で「王氏が洋平氏を引き合いに出しつつ、河野氏の発言を批判したのは『奇手』といえる」と受け流した。同じ日本の日刊紙でありながらこうも受け止め方が違うものかと感心するが、まあ、真実はその中間あたりにあるのだろう。中国が、韓国を含めて、今回の外相人事に期待したのは事実だろうし、西側の友好国ならともかく中国の外交責任者との初顔合わせでこの程度の牽制は当然予想されるところだろうし、なにしろ中国共産党(あるいは国務院の外交部・部長)はこの秋の党大会を控えて、いかなる外交失点も許されない状況にあるのだ。
 実際に、中国共産党の機関紙・人民日報系の環球時報は1面で、王毅外相が河野外相と会談した際、河野外相が頭を下げて握手した瞬間の写真を掲載したらしい(産経新聞電子版)。絶妙なタイミングと言えよう。
 王毅外相の発言に戻ると、続けて「今日は良い機会なので、直接あなたの考え方を聞きたい。お父さんの長年にわたる外交努力を重視することを望んでいる。彼(洋平氏)が経験した歴史の教訓と、正確な意見を大切にすることを望む。あなたは外交の重い責任を担っている。日本が今後進む道は、河野大臣の世代にかかっている。中国は長期的な友好関係をつくりたいと思っている。しかし、それは互いの努力が必要だ。だから私はあなたの考え方を聞きたい」と結んだ。これは「結んだ」と言うより、字面から察するに「凄んだ」と言った方が適切かも知れない。もともと表情が表に出ない王毅外相は、だからこそ外交部長の任についたのか、外交部長だからこそ党幹部の手前、ポーカーフェイスを気取らざるを得ないのか、いずれにしても、これこそ伝統的な中華帝国の面目であろう。
 これに対し、河野外相は「王毅外相とこういう形でお目にかかれて光栄だ」と切り出し(中略)「今回のASEAN関連外相会合に来て、私のおやじを知っている方が大変多い。いろんな方からおやじの話をされ、その息子ということで、いろんな方から笑顔を向けていただいた。親というのはありがたいもんだなと改めて思った次第だ」と話を合わせた上で、「北朝鮮の問題もあるし、海洋をめぐる問題もあり、安全保障をめぐる環境が東アジアの中で急速に変わっていく。大変難しい時代に外相になったが、それだけにやりがいがある時期にこの仕事をやれることになったことに半面、喜んでいる」と自身の決意を述べるとともに、「日本は戦後一貫して平和外交を進めてきた。戦後、一度も日本の自衛隊が戦火をまみえることなく、日本の平和がずっと維持されてきた」と、戦前の日本ではなく戦後70年以上を経た日本の立場を強調し、「中国は戦後さまざまあったが、経済的に発展していこうとしている。中国には大国としての振る舞い方というのを、やはり身につけていただく必要があるだろうなと思っている」と牽制し、「こういう形で、これから何度も率直な意見交換をさせていただきたいと思う。よろしくお願いします」と締め括った(このやりとりの全文は産経新聞電子版から)。正直なところ、外交デビューにしては無難に良く出来たメッセージだったと思う(冒頭部分のやりとりしか見ていないが)。何より(当たり前だが)安倍政権の外交方針に則って毅然と対応したことと、さらに今後も何かと比較されるであろう(とりわけ日本の保守派からは毛嫌いされる親中派の代表格だった)父・河野洋平元外相とは違う一個の人格としての河野太郎外相を売り込んだ、という意味において。
 惜しむらくは、河野外相に対して、ブリーフィングだけでなく、握手のときの仕草まで徹底するべきだった。まあ、緊張すると人はつい地である日本人(の慇懃さ)が出てしまうものだ。王毅外相に、とりあえず言うべきことは言ったので、この程度の姿勢(写真)はサービスとして差し上げてもよかったのかも知れない。朝日新聞デジタルが伝えるところによれば、「王氏は会談後、中国メディアに対し『河野氏の本当の考え方や外交理念、父親から学んだことを知りたかった。話を聞くうちに、本当に付き合える人だと感じた』とも語った。南シナ海問題では厳しく日本側を牽制しながら、河野氏の外相就任を両国の関係改善への弾みにしたいとの立場をにじませた」ということである。
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ポピュリズム?

2017-08-08 23:50:32 | 時事放談
 トランプ大統領が誕生した昨年末あたりまでは、トランプやルペンのことをポピュリストと呼び、既存政党が政策面で明らかに失敗していることに対する反発あるいは幻滅としてポピュリズムが台頭していると説明し、その危うさを憂慮したものだった。その後、ルペンもトランプも失速したために、お粗末な見かけ倒しの事態になって、ポピュリストと呼ぶこともなくなってしまったが、その間、他人事のように、さも距離を置いてきた日本は、果たしてポピュリズムとは無縁なのか!?引っ掛かっている。
 Wikipediaを引くと、「ポピュリズムとは、一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のこと」とある。そして「ここ数世紀の学術的定義は大きく揺れ動いており、『人民』、デマゴーギー、『超党派的政策』へアピールする政策、もしくは新しいタイプの政党へのレッテルなど、しばしば広く一貫性の無い考えや政策に使われた。英米の政治家はしばしばポピュリズムを政敵を非難する言葉として使い、この様な使い方ではポピュリズムを単に民衆の為の立場の考えではなく人気取りの為の迎合的考えと見ている」(同)とある。さらに「近年では、『複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始し、真の政治的解決を回避するもの』として、ポピュリズムを『大衆迎合(主義)』と訳したり、『衆愚政治』の意味で使用する例が増加している」(同)ともある。日本の政界で言えば、小泉パパや橋下さん、最近では小池都知事あたりが本来の意味でのポピュリストに近い存在なのだろう。今のところ日本にトランプやルペンは現れていないが、現象だけ見れば、日本の政治はこの崩れた意味でのポピュリズムと呼びたくなってくる。勿論、明確に主役としてのポピュリストがいるわけではなく、野党は単に言いがかりをつけて騒いでいるだけで、一部メディアが共犯者となって、ポピュリズム(=人気取りのための迎合的考え)的なものを扇動しているだけだ。もとより主体もなく、単純化された主張もない、なんだかイビツな、また、崩れた、といった感じではあるのだが。
 何故、そんなことを思うかと言うと、最近の政界はとにかく摩訶不思議だからだ。
 共同通信社が3、4両日に実施した全国電話世論調査によると、安倍内閣の支持率は44.4%で、前回7月の調査より8.6ポイント上昇する一方、不支持は9.9ポイント減の43.2%で、ほぼ拮抗したという。何ということであろうか。この一ヶ月間、(都議選での敗北に続き)閉会中審査でも野党や一部メディアに叩かれ続け、政策面では当然のことながら何の進展もないまま、8月3日に内閣改造を発表しただけで、支持率が9%前後戻るとは・・・。
 実際、元環境相の小池都知事は、今回の内閣改造を「スキャンダルをリデュース(削減)する、もう一回閣僚経験者に頑張ってもらうリユース(再使用)、ちょっとリフレッシュする、ということで『3R』かな」などと(なかなか上手に)揶揄し、日本維新の会の松井代表は「内閣改造だけでは森友学園や加計学園の疑惑に関する説明責任を果たしたことにはならない。首相自らが説明責任を丁寧に果たすことが必要だ」と厳しく糾弾する一方、東アジア情勢が緊迫する中、河野洋平氏のご子息の河野太郎氏の起用は、タカ派の安倍に対するハト派の河野として国内外にバランスをアピールする効果は高いとか、小野寺五典氏の防衛相への起用は安定感があるとか、野田聖子氏は小池百合子都知事との関係も悪くなく、東京五輪に向けた都との関係づくり、都民ファースト対策などの面で期待されるとか、党四役を主要派閥で分けあうなど党内的にはバランス重視の挙党態勢を印象づけた、などと多少は評価する声もある。その上で、安倍首相は内閣改造の会見で、「加計学園問題に加え、森友学園や南スーダン国連平和維持活動(PKO)日報問題を挙げ、『国民の不信を招く結果となった。改めて深く反省し、国民の皆さまにお詫びしたい』と述べ、7秒にわたり頭を深々と下げた」(産経電子版)というのは何とも異様だ。こうして禊が済んだと感じた人が9%ほどいたということだろうか。分かっていることだけれど、世論調査は所詮は人気投票だ。庶民感覚は大事だと思うが、いかにも軽い。そんな世論調査に、これほど一喜一憂するようになったのはいつの頃からだろう。支持率30%を切ったら危険水域だと、いつの間に誰が決めたのだろう。ポピュリズムと呼ぶのは本来の意味からは邪道かも知れないが、では何と呼べばよいのだろう。
 かたや民進党では、4月の長島昭久氏に続き、細野豪志氏も離党を表明した。まともな人(だと私が勝手に思い込んでいるだけだが)が次々に抜けて行って、いよいよ民進党は泥船になりつつあるが、細野氏だって、「自民党に代わる保守の受け皿となる新党の結成をめざす」と言うが、政局の中に位置づけられる限り、これまでとは変わらずとても期待できそうにない。民進党の代表選では、辛うじて前原氏が、共産党との連携に関して「政策、理念が一致しない政党と協力したり、連立を組んだりすることは野合でしかない」と述べ、慎重な姿勢を改めて示したというのはもっともだが、目指す国家像を示すこともなく、ただ「自民、公明両党に代わる受け皿をつくらなければいけない。次の衆院選で政権交代を目指す」と相変わらずお題目を唱えるだけでは、これも2009年と同じで政権交代そのものが目的と見られても仕方なく、やはり期待できそうにない。
 小池都知事は、「他の国がかなり混乱している中で、日本の政治の安定は重要。この政権でまずは安定してもらうことが必要だ」と、なかなかいいことを言うが、どう見ても野党はおろか自民党支持でもない「支持ナシ層」が最大勢力となるのも止む無しのテイタラクで、ここしばらくは不安定な状況が続くのだろう。やれやれ・・・
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ボルトのラスト・ラン(前)

2017-08-06 17:13:56 | スポーツ・芸能好き
 あのボルトが胸を衝き出しつつゴールする姿を見ることになろうとは思わなかった。よほど余裕がなかったのだろう。最後も当然のように勝利で飾りたかったはずだが、陸上の第16回世界選手権の第2日、男子100m決勝で3位に終わった。記録も今シーズン自己ベストながら9秒95と彼にしては平凡だった。2位に入ったのは米国の新星クリスチャン・コールマン(21)というのはまだしも、優勝したのは、リオ五輪でボルトの後塵を拝した銀メダリスト、30歳の大台に乗ったボルトより5つ年長のジャスティン・ガトリン(35)とは、何たる天の配剤だろうか。ガトリンの名前は勿論知っているが、優勝は12年ぶりというから、調べてみると、2004年アテネ五輪の100m金メダリストで、2005年の世界陸上ヘルシンキ大会100m・200mの二冠以来である。2010年夏まで4年ほどドーピングで出場停止となり、復帰したときにはボルトがいて、ボルトと同時代に(4年半の微妙な年齢差をもって)生まれ合わせたばかりに優勝から遠ざかり、それでもこの歳になるまで我慢して頑張って、久しぶりに手にした金メダルだ。ガトリンの今回の、と言うより、ここまでの頑張りに天晴れ、かも。
 さて、ボルトの方は、予選からスタートブロックへの不満を口にし、「スタートが私を殺した。ラウンドを重ねれば良くなると思ったが駄目だった」と、首を振ったといい(デイリースポーツ)、確かにリアクションタイムは決勝出場8名中7番目だったが、長身の彼のスタートが悪いのはいつものことで、中盤から加速して一気に他を引き離すレース後半の圧倒的強さが彼の持ち味だ。レース後、「全力を尽くしたが、納得いく走りができなかった」と語ったというが、これが最後の個人種目ともなれば、さすがの彼も微妙に狂っていつもの調子を出せなかったのか。彼には最後までレジェンドであって欲しかったのだが・・・。
 金曜深夜のTBSで、織田裕二と中井美穂が前夜祭としてボルトの足跡を振り返っていて、あらためて彼の凄さを思った。ピークは2008年(北京五輪)から2012年(ロンドン五輪)あたりだろうか。オリンピックの男子100m・200mで三連覇の偉業を成し遂げたのは2008年の北京五輪からで、このとき100m・200mともに世界新記録での優勝は、オリンピック・世界選手権を通じて史上初めてのことだった。そして翌2009年の世界陸上ベルリン大会(9秒58)にかけて100mで同一人物が三度、世界記録を更新したのも史上初めてのことだった。とにかく男子100mについてボルトは規格外だったと言えよう。2012年のロンドン五輪100m決勝では、自身が持つ9秒69のオリンピック記録を9秒63に更新し、この時の最高時速45.39kmは世界記録時のそれを上回っていたという。規格外ゆえにその後も活躍したが、2013年の世界陸上モスクワ大会では9秒77、2015年の世界陸上北京大会では9秒79、2016年のリオ五輪では9秒81と、優勝したものの徐々に記録を落としていった。
 よく知られるように、持病の脊椎側彎症によって、不安定に揺れる背骨と肩とのバランスをとろうと骨盤が互いに大きく揺れ動いて身体を支えるため、肩を大きく上下させる独特なフォームに特徴がある。こうした脊椎側彎症によるハムストリングスなどの身体への影響を考え、当初、100mの走りを希望したボルトに対し、コーチは200m専門で戦わせてきたという。そんなハンディあったればこその偉業と言えなくもないし、それを克服した彼の精神力も素晴らしいと思う。
 時代を画したヒーローの雄姿は、いよいよ来週土曜日の400Mリレーが最後となる。今回、三人揃って準決勝に駒を進めた(でも揃って決勝に進めなかった)日本人選手の活躍にも期待したい。
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