風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

同盟について

2021-11-30 20:40:59 | 時事放談
 前回ブログの補足として(と言うには随分時間が経ったが)、AUKUSをはじめとする同盟のあり方について、徒然なるままに・・・。
 かつての帝国・日本には「ABCD包囲網」が敷かれたというのを学生時代の歴史の授業で学んだが、今、中国を取り巻くのは「3・4・5包囲網」などと呼ぶ人がいる(ある日経記者による)。3:AUKUS、4:QUAD、5:Five Eyesというわけだ。これに「2」を加えた方がより正確かも知れない。「2」は日本や特定アジア諸国と米国との間の「ハブ&スポークス」の二国間同盟である。
 そもそも同盟、あるいは地域的・国際的な組織・機構は、参加する国の数が多いほど、それぞれの利害が対立して連携が難しくなるものだ。国連安保理はその最たるもので、バイデン氏の言う「民主主義国」(米・英・仏)と「専制主義国」(中・露)とに分かれ、北朝鮮制裁などの主要な争点で全会一致の決議が出せないなど、機能しないと言われて久しい。また、G7は欧米先進国のサロンだが、新興国の台頭に伴って、もはや世界を代表するだけの存在感がないと言われるが、だからと言ってG20では専制主義(権威主義)国を含む新興国にまで広がり、纏まるものも纏まらないことが懸念されている。帯に短し襷に長し、で悩ましいところだ。
 ヨーロッパにおいて、英国がEUを離脱したのは、大陸ヨーロッパとは一体感が乏しく、利害が必ずしも一致せず、何だかんだ言って多国間の集まりでは合意形成に時間がかかるEUを見限った側面があると思われる。その結果、「グローバル・ブリテン」が叫ばれ、今後、英国はAUKUSをはじめ旧・大英帝国圏諸国に近づいていくのだろう。因みに、同じアングロ・サクソン諸国では、ノルウェーはEUに加盟していないし、スウェーデンやデンマークはEUに加盟してもユーロを導入していないという意味では、一定の同質性があるようだ。他方、ドイツは、日本と同じような敗戦のトラウマがあって、ドイツ国民がEU軍創設に概ね賛同するのは、「自国だけの軍隊を抱える居心地の悪さをいまだに拭えずにいるのと、EUは平和を追求する存在という漠とした印象を持っていることが大きい」という分析がある。2~3年前、あるシンポジウムでドイツ人の若手研究者が、ドイツの安全保障における最大の関心を聞かれて、(ロシアでも中国でもなく)環境問題だと言い放ったのは衝撃的だったが、“第二次”冷戦の戦略正面がもはやヨーロッパではなく、東アジアに移ったことの証左であろうか。一口にヨーロッパと言っても、各国の立ち位置はいろいろである。
 それでもヨーロッパ(中でもEU)には同じキリスト教文化圏としての一体感があり、さらには地理的な近接性からお互いに相争って来た歴史に対する反省を共有することが出来る。例えばアフガニスタン問題を見れば分かるように、ドイツをはじめヨーロッパの関心は高いようで、私たち日本人にはなかなか想像できないが、地政学的に「接続性」のもつ意味合いは大きく、ヨーロッパにとって中東の安定は重大関心事であり続けるようだ。これに対し、宗教的・文化的環境がそれぞれに異なるASEAN諸国は、宗教的にも文化的に一体感に乏しく、端っからEUのような一体化を諦め、内政不干渉の緩やかな統合を目指して来た(ミャンマーを巡っては、その限界が露呈しつつあるが)。そして米国が、欧州方面ではNATOという軍事同盟で纏まることが出来る一方、アジア方面では「ハブ&スポーク」という個別の二国間の軍事同盟や連携を構築してきたのは、このような背景のせいだろうと思われる。
 今、AUKUSとして純度の高い軍事同盟を結成するのは、米・英・豪というアングロサクソン系で本家と分家と言えるほど血が濃く、海洋国家としての価値観が近く、歴史的に(それこそ100年以上も)共に戦って来た国同士だからこそ可能なのであり、軍事面で積極的になれない日本や伝統的に非同盟のインドを含むQUADでは代替できそうにない。
 こうして、それぞれに目的や狙いが微妙に異なりながらも、重層的な同盟関係や連携を構築し、束になって中国を包囲するのが、インド太平洋(西太平洋)のあり方なのだろう。
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戦略的自律性

2021-11-24 23:54:01 | 時事放談
 経済安全保障の政策課題として、前回ブログで触れた「戦略的不可欠性」に続いて、もう一つのコンセプトである「戦略的自律性」について触れたい。
 ちょっと旬を過ぎてしまったが、米・英・豪の間の安全保障協力の新たな枠組みであるAUKUSの発表には久しぶりに興奮した。とりわけ、AUKUSの当座の柱の一つが、米・英が豪州に対して原子力潜水艦の技術を供与する計画であると聞いて、感慨深いものがあった。豪州の潜水艦商談と言えば、2015~16年頃に日本がフランスやドイツと争い、日本にとって「武器輸出三原則等」から「防衛装備移転三原則」に切り替えて初めてとなる装備品輸出の大型商談になることが期待されたものだった。ところが、親日のアボット首相が退陣し、ターンブル首相に代わってから、俄かに旗色が悪くなり、最後はフランスに商談を掠め取られてしまった。そのフランスが、今度は米・英に商談を掠め取られたというのも因果な話だが、それぞれの理由は異なる。日本が敗れたのは、恐らく技術移転を渋ったからだと思われる。豪州は現地生産による現地雇用創出に大いに期待したが、潜水艦技術は日本が世界に誇る虎の子の機微技術であって、(安倍官邸は前のめりだったが)防衛省や防衛産業界には技術移転に根強い抵抗があった。当時、装備庁の関係者の話を聞いて、インド向け救難飛行艇US-2の商談が現地生産・技術移転がネックになって頓挫していたのと似たような状況にあると感じたものだ。他方、フランスの通常動力型潜水艦が米・英の原子力潜水艦に敗れたのは、豪州を取り巻く安全保障環境が変わったことに伴い豪州の戦略が変わったからだ。それにしても豪州は思い切ったものだ。そしてフランスは(かつて森村桂さんが「天国にいちばん近い島」と呼んだニューカレドニア島をはじめ)インド太平洋に領土を持つ、この地域の立派な利害関係者であり、米・英と同じ西側同盟(NATO)に属していながら、完全に蚊帳の外に置かれたことに激怒した(勿体つけた反応はやや大袈裟だったような気がするが)。
 そのフランスのマクロン大統領がかねて主張して来たのが、(NATOにおける)ヨーロッパの戦略的自律性(Strategic Autonomy)だった。トランプ前大統領から見放されかねないことを懸念し、さらにバイデン現大統領がアフガニスタンから撤退するにあたって同盟国に何の相談もなかった衝撃も加わって、ヨーロッパの自立の必要性を説くのは一理あるように思われるが、ヨーロッパ内でも賛否がある。フランスはド・ゴール大統領のときにNATOから抜けて、2009年に復帰したばかりで、プライドが高い独立心旺盛のお国柄であるのに対し、米国の安全保障に頼る東欧諸国は「自律性」には否定的だ。現実には、かつてのソ連や昨今の中国のような超大国と対峙する(パワーをバランスさせる)のに、単独では力不足で、有効な同盟関係は欠かせない。しかし今の米国に、かつてのように飛び抜けた「能力」も、世界の警察官として問題を引き受ける気前の良い「意志」も、もはやない。
 真実はその間にあるのは言うまでもない。超大国とバランスさせるのに同盟関係は欠かせないが、同盟に頼り切るのはリスクがあって、少なくとも国家の存立を維持するため、その脆弱性を衝かれることがないよう、それなりの基盤を備えるのが必要条件となるのだろう(そして前回ブログで触れた「戦略的不可欠性」を備えるのが十分条件となるのだろう)。かつての英国宰相パーマストン卿(1784~1865)が言われたように、「(大英帝国には)永遠の友も永遠の敵もいない。あるのは永遠の国益のみ」なのが、国際社会の掟なのだ。卿は、時のビクトリア女王から嫌われながらも、決断力は認められ、「大層意志の強い男」と評されて、ナポレオン戦争後、バランサーとして大陸ヨーロッパにおける力の均衡(所謂“Concert of Europe”)を演出し、大英帝国の海洋覇権に裏打ちされた「パクス・ブリタニカ」を象徴する人物(Wikipediaより)とされる。
 原則論はともかくとして、今や米社会は深く分断され、民主政治が傷つき、国内を優先する「アメリカ・ファースト」と言わざるを得ないような、外に目を向けて力を割く余裕が余りない状況では、米自身に同盟国との連携が、さらには日本やヨーロッパなどの同盟国自身に同盟関係への貢献が求められる。リーマンショック以来、格差拡大という文脈で行き過ぎたグローバル化に対する反省が沸き起こったが、このパンデミックでは、マスクや各種医療用品などが入手し辛くなる事態に直面し、サプライチェーンにおいて中国などの特定国に過度に依存する行き過ぎたグローバル化が、あらためて具体的に安全保障上のリスクとして浮き彫りになった。産業のコメと言われて久しい半導体の製造を世界中が依存する台湾は、かねて中国がOne China Policyとして統一を唱え、その統一を今や中国共産党の歴史的責務と定義するに至り、既にハイブリッド戦(中国風には超限戦あるいは情報戦や世論戦)を仕掛ける中で、独立がいよいよ危ぶまれており、台湾の半導体産業が中国共産党の手に落ちてしまうことのリスクは計り知れない。
 当然、日本も他人事ではない。米中対立(正確には3C政策: 経済や技術ではcompeteし、人権などの価値ではconfrontし、気候変動や軍備管理などではcooperateする)は長期戦が見込まれ、日本が持つ地理的な要衝性と、(民主)政治的な安定性と、経済・技術的な先進性といった戦略的価値を、アメリカが手放すこと(みすみす敵対者に渡すこと)は考えられない。だからと言って安全保障の自助努力を怠ってよいわけではない。
 AUKUSの話に戻すと、豪州による原子力潜水艦の運用は2040年頃と言われるほど先の長い話で、バイデン政権は「豪州を米国と英国に数世代にわたって結び付ける根本的な決定」だというような言い方をした。中国の海洋進出に対する米国の抑止力の中心は潜水艦であって、その作戦に豪州を引き入れることのメリットは大きい。私は、ある意味で米国の国際協調あるいは同盟国との連携というレトリックの底が割れたように思ったものだが、これに関して、防衛大学の神谷万丈教授は、アメリカ・バイデン政権のことを単なる「Multi-lateralism」(多国間主義つまりは国際協調主義)ではなく、「Uni-lateralなMultilateralism」だと形容された。蓋し至言だろう。同盟に頼り切ることなく、自律性と不可欠性を維持しながら、同盟というツールを(日本にしても米国にしても豪州にしても)最大限に活用して中国という懸念国との「関係を管理すること」が肝要なのだろう。
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戦略的不可欠性

2021-11-17 20:24:48 | 時事放談
 最近、話題の経済安全保障における政策課題のキーワードに、「戦略的自律性」と「戦略的不可欠性」が挙げられる。経済と安全保障において緊張する米中間で生き抜くために、日本としてしっかりとした政策の軸を定めなければならないとして、自民党・有志の研究会による政策提言に盛り込まれ、岸田首相が公約した国家安全保障戦略の見直しでも盛り込まれることだろう。
「戦略的自律性」は、パンデミックで明らかになったような(サプライチェーンなどの)過度の他国依存(=脆弱性)を排除することであり、「戦略的不可欠性」は、同志社大学の村山裕三教授が提唱されて来たコンセプトで、日本が他国から見て決定的に重要な領域において代替困難なポジションを確保すること、とされる。
 このうち、「戦略的不可欠性」は、技術について言えば、これまで培って来た技術的な強みを活かし、国際競争力を保持することであり、その例として、台湾の半導体産業を挙げることが出来る。現在、台湾企業は世界の半導体の7割強を生産し、線幅10nm以下の先端領域に限ると9割以上のシェアをもつ。かつて中国べったりで、極東の安全保障にはさほど関心を示さなかったEUの議員が、先日、中国の反発を押し切って台湾を詣でたことには驚いたが、とりもなおさず台湾が「戦略体不可欠性」を持つ所以であろう。
 これらのコンセプトは、技術領域に限らず、企業や国家レベルでも言えることではないかと思う。
 もう一つ、例を挙げたい。一週間ほど前のNewsweekに、オーストラリアと中国を巡る確執に関する記事が掲載された(*)。
(*)『中国に「ノー」と言っても無事だったオーストラリアから学ぶこと』(11/11付)https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/11/post-97443.php

 オーストラリアは、その輸出の4割を中国に依存し、中国とは言わば蜜月の関係にあったが、2018年頃から怪しくなる。華為製品を使ったネットワークからデータが抜き取られていることや、オーストラリア政界に中国共産党の息がかかった政治家を送り込もうとしていることを告発したのである。そして昨春、オーストラリアがコロナ・ウィルスの発生源について独立した調査が必要だと提案したことに反発した中国は、オーストラリアからの大麦、小麦、羊毛、ロブスター、砂糖、銅、木材、ブドウ、ワインなどの輸入を制限したのは良く知られるところだ。これら品目の多くは、幸い、汎用性の高い一次産品だったため、オーストラリアはこれらの輸出を他国・他地域に振り向けることができたようである。こうした「貿易転換」に成功したオーストラリアは、この危機を乗り切ったと、このNewsweekの記事は解説する。そして、中国との関係において、経済と政治を切り離すことは出来ないが、中国は見かけほど怖くはない、と結論づける。
 ここでは、見落とされている視点があるように思う。
 オーストラリアは、中国が輸入制限の例外扱いとした鉄鉱石について、中国の脅しへの対抗策として、中国への輸出を取り止めることが出来たはずだが、輸出を続けている。記事でも触れられているように、鉄鉱石は中国の鉄鋼産業に欠かせない鉱物である。と言うことは、オーストラリアにとって、中国との関係では「戦略的不可欠性」を持つものである。ところがオーストラリアは報復に訴えることなく、従い、経済面での決定的な決裂を避け、中国に逃げ道(貿易復活の余地)を残しているように思われる(他方で、安全保障面ではQuadのほかAUKUSに加盟し、原子力潜水艦の導入を決めた)。「戦略的不可欠性」は、外交上の武器になり得るのであって、今回は、明瞭なサインを送るものとして利用したことになる。中国は、中国経済に依存する中小国に対する見せしめのように、オーストラリアを苛めたつもりだったが、オーストラリアは中小国と言えども国家の威信・矜持があり、ぐっと堪えて、経済的な報復の連鎖を回避した(しかし繰り返すが、安全保障面では強かに手を打った)。結果として、オーストラリアに同情や共感が集まる一方、中国は関係国の不信を招き外交的評価を落とすことになった。
 さらに言うと、中国は独裁国とは言え何でも習近平国家主席一人で決めるわけではなく、当然、日常業務遂行においては部下たちが意思決定するはずだが、独裁者・習近平氏への忖度が蔓延ることによって、個別の決定に歪みが生じ、結果として中国の国益を損ねているのではないかと思われる。戦狼外交はその最たるもので、個別の外交案件をいちいち習近平氏が承知しているとは限らないだろう。周囲が忖度して、良かれと思って、強い中国を演出するべく戦狼を装って、結果として評判を落としているのではないかと思われる。最近、中国で計画停電が起こって、産業界に影響を与えたのも、習近平氏の「脱・炭素」の掛け声に応じて、その意図を忖度して、各州が石炭生産を落としたばかりに、電力供給不足を招いたからだった。オーストラリアからの輸入制限も、そんな外交的な拙さのニオイを感じる。
 習近平氏に権力が集中するにつれ、言わば「裸の王様」になる一方、同調圧力が強まり、忖度が蔓延って、実務面でその弊害が大きくなるのではないかと、他所様のことながら気になる。
 他所様のことはともかく、オーストラリアを見倣って、日本も、いろいろ「戦略的不可欠性」があるはずだから、先ずはそれを明確に認識し、あるいはそうなるように育てる作業が必要だろう。
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寂聴さん大往生

2021-11-14 14:53:02 | 日々の生活
 瀬戸内寂聴さんが9日、亡くなった。享年99。
 普段は意識しないのに、いざ亡くなると、胸の奥にぽっかり穴が開いたような喪失感に襲われて無性に恋しくなる方がいる。寂聴さんの本は、最近では数年前、近所の古本屋で見つけた「古都旅情」(装画本・・・端正な毛筆の署名&落款入りだったが、保存状態が良くなくて、店頭で段ボール箱に詰めて叩き売られていた)のほかに、数冊しか読んだことがないが、なにしろ存在感があるお方なので、ごく自然にその立ち居振る舞いは気になっていた。
 人間の業のようなものと向き合って、鋼(はがね)のように頑ななわけではなく、鎧を纏って内を守るでもなく、素のままで柳のようにしなやかに(結構、わがままに!? 笑)生きて来られた方だったように思う。波乱万丈の半生を経て、51歳のときに出家されたが、「売れっ子と呼ばれ、恋愛をしてもむなしかった。良い小説を書くため、文学の背骨になる思想が必要だった」と後に語られたように、一本筋を通した方だった。生命のみずみずしさを失わず、70歳の時に、『源氏物語』の現代語訳を始め、76歳で仕上げられた。『源氏物語』のことを、「日本の文化遺産としては唯一最高のものだと思います。世界最古のこの傑作小説が、1000年も昔の日本で、紫式部という子持ちで寡婦のキャリアウーマンによって書かれたというのですから驚かされます」と痛快に語っておられる。「出家とは生きながら死ぬこと」 そう言って、剃髪後も酒を飲み、肉を食すことを公言されながら、生臭坊主ではない、庵を結んで超然とされるわけでもない、いつも隣に座ってニコニコ話を聞いてくれ、あるいは問わず語りに語ってくれる、そんな風情を思わせる(本当かどうか知らないが)方だった。
 日経ビジネスが4年前に、当時の新刊『95歳まで生きるのは幸せですか?』出版記念に行ったインタビュー記事を、追悼し再掲していた。
「自分が生きている世界に起こるあらゆることに、無関心ではいられません。テレビや新聞を通じて知るトランプさんの言うことはなんだかむちゃくちゃで、戦争がおきたら困るなあ、と思っているんです。」 政治的主張は合わないが、失礼を顧みずに申し上げれば、いつまでも精神の若さを失わない、かわいらしいおばあちゃんだった。3年前、96歳の誕生日を前にInstagramを開設し、「日本最高齢のインスタグラマー」として話題になった。
「そもそも、人間、歳をとったら、だいたいうつ状態になりやすくなります。なぜかというと人生に面白いことがどんどんなくなるから。そしていったん、うつになっちゃうとそこから逃げ出すのはとっても大変です。(中略)うつになるってことは、自信を失っている。だからひたすら一生懸命褒めてあげる。(中略)古沢先生に教わった「うつの人は褒めてあげよう」は、その後の私の人生の指針のひとつになりました。(中略)こうやってお話しすると「バカみたい」って思うかもしれないけど、大人になると、ましてや50歳以上にもなると、人に褒められることってほとんどなくなります。褒められるのって、ほんとうに元気が出るの。元気がなくなっていたり、鬱っぽくなっている人が周りにいたら、ぜひ褒めてあげてくださいな。」 ただでさえ経済成長から遠ざかり、給料も上がらないギスギスした世知辛い世の中なのに、パンデミックで巣籠もりすることが多くて、世間は多かれ少なかれ心を病んでいると思う。「褒める」・・・シンプルで、人間の本質を捉えた、なんと奥深い処方箋だろう。
「法話を聞きにきたその世代の男の人たち、多いですよ。男は、女みたいに自分の悩みを口に出して私に伝えたりしません。でも、悩みは伝わってきます。(中略)つくづく男は純情だと思います。歳を取っても変わりません。(中略)女のほうがすぐに諦めて、今日と明日のことを考えますね。男は昔を振り返って泣いてばかり。男のひとたち、もっと楽しいこと、やりたいことを考えなさいな。」 自戒するところだ(苦笑)。
 他にも、あちらこちらの追悼記事が寂聴さんのさまざまな言葉を懐かしがる。
「『青春は恋と革命』が私の信条です。本は大事だけど、100冊読むより本気の恋愛を一つした方がずっと成長する。人を愛することは幸せです。」
「好きな言葉は『情熱』。情熱がなければ生きていてもつまらない。『青春は恋と革命』。その情熱を失わないまま死にたいのよ」 
「生きることは愛すること。愛しなさいといって私たちはこの世に送り出される。そして愛することは許すこと。それは私がまさに死のうとする今、得た悟りなのね。どんなに仲が良くても必ず嫌になるの。最後はあきらめね、嫌なことも許すようになる。誰かを好きになるのは雷に当たるようなもので、別れることになっても雷に当たった方がいいの。つらいけど、そのつらさを味わったら人間ができて優しくなれる。」
「仏教の最も大切なことは『忘己利他(もうこりた)』。自分の利益を忘れ、他者の幸せのために奉仕することです」
「出家したとき、こだわりを捨てることができた。お金も地位もほしくない。ただ一つ残っている煩悩が、ものを書くこと」
「生きることは愛すること。世の中をよくするとか戦争をしないとか、その根底には愛がある。それを書くのが小説」
 そうやって世の悩める子羊たちを(勿論そこにはアバターとしてのご本人も含まれていたのかも知れない)慰めて来られたのだろう。墓碑銘は、「愛した、書いた、祈った」と決めていたそうだ。スタンダールの場合は、「書いた 恋した 生きた」だった。それぞれ三つのことの選択と順番に妙を感じる。私ならどんな墓碑銘にしようか・・・そんなことを思ったりする。寂聴さんにあやかって、気持ちだけでもその墓碑銘に従って、これから生きて行こうか、と。
 ご冥福をお祈りし、合掌。
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眞子さまと白鵬が背負うもの

2021-11-06 12:09:50 | 日々の生活
 秋篠宮家の長女・眞子さまが小室圭さんと結婚され、皇室を離れて小室家の眞子さんと、普通に「さん」付けで呼ばれるようになった。本来、おめでたい場であるはずの結婚会見だったが、一種異様な印象は、今なお小骨のように喉に、と言うより心に突き刺さって、その薄っすらとした痛みがわだかまっている。
 TVのワイドショーなどは、質問を受け付けない、従い、これまで騒がれてきた小室家の金銭トラブルの疑惑に対して納得のいく説明がなく、ただ自分たちが言いたいことを一方的に主張するだけに終わった頑なな態度を、批判的に報じていたようだが、私はただ寂しく切なかった。ノンフィクションライターの窪田順生氏によると、会見で「誤った情報」という表現が8回、「いわれのない物語」という表現が3回、「誹謗中傷」が2回、繰り返され、自分たちに批判的な人たちを、言い方こそ皇族らしく婉曲的だったが、結局は故なく「フェイク」と決めつけるような言わば「トランプ話法」を駆使された・・・とは言い得て妙だが、私には、それが国民への決別会見のように見えて寂しかった。早速、ニューヨークの弁護士試験に合格しなかったとか、眞子さんの恐らく最大の理解者だったであろう祖父・川嶋辰彦さんが亡くなるという、幸先悪いニュースが流れたが、準備が整い次第、予定通り日本を捨ててアメリカに旅立たれるのだろうか。
 若気の至りだろうと思う。しかし、そんな眞子さんを、誰が責めることが出来ようか。
 今回に限って矮小化して見れば、何十頁にも及ぶ、よく分からない文書で逃げるのではなく、小室さんご本人がしっかり問題に向き合うべきだったと思う。しかし、真相はうやむやなまま、眞子さんが力づくでカバーアップすることでケリをつけてしまった後味の悪さばかりが残る。
 そして、この不幸な、言わば国民との物別れは、この先、皇室という日本で最も由緒ある旧家の「伝統」を、国民一人ひとりがどのように受け止めるかという根本問題を突き付けている。
 かつて結婚は「家」と「家」が親戚づきあいの縁を結ぶものだった。今も結婚式場では「~家」と「~家」の挙式場との看板が立つ。50年前なら、天皇家ではなくて一般家庭であっても、今回のように親に問題がある人との結婚には、一応のいちゃもんがついたことだろう。
 戦後、共同体的な「家」同士の問題だった結婚が、少なくとも一般家庭においては「両性の合意」によって成り立つとする近代的なタテマエが実質を帯びるようになった。今では「長男の嫁」という特別な地位はほぼ認められない。それを、伝統ある皇室にどこまで認めるかどうかは、立場によっていろいろな考え方があり得る。ロイヤルファミリーを持たない共和制の自由・民主主義諸国の識者や、日本でも人権弁護士のようなリベラル派や、時代の先端を行く若者たちの鋭利な(しかし未成熟な)感覚からすれば、個人としての愛や一人の女性としての幸せを貫くことに拍手喝采を送っていることだろう。また、私のごく身近にも皇室は無駄だと広言する人がいて驚かされるが(無駄の中にこそ文化が宿るものだと思うが 笑)、皇室利用という言葉に見られるように、皇室の「権威」を見せつけられて嫌悪する人もいることだろう。そして恐らく多くの国民は、伝統ある皇室を素朴に敬う余り、お相手が皇室に「相応しい」か否かという意味での「家格」に拘り、此度のご結婚を物足りなく思っていることだろう。何と言っても、殆ど民主化した日本にあって皇室は殆ど唯一と言ってもいい「アイドル」家系なのだ。
 それが、近所のお節介なおっちゃん・おばちゃんが井戸端で噂するレベルであれば他愛ないところだが、SNSの匿名の時代に、しかもこのコロナ禍で荒んだ心が吐け口を求めて口汚くネット空間を暴れまわるだけでなく、リアルな世界にも漏れ出して、誹謗中傷と受け止められて、当事者が精神的に病む事態に至ったのは、不幸なことだった。。悪意ある場合は除いて、「裏切られた」という思いがあったのだろうか。
 宗教改革以来、歴史的に「個人」の確立に一日の長があるヨーロッパでは、最近は英国のほか、ノルウェーのホーコン皇太子やスウェーデンのヴィクトリア王太子のように、物議を醸しながらも「普通」の結婚を貫き、周囲の理解を得るに至る例が増えて来た。しかし、日本では「個人」の確立が遅れている上、ヨーロッパのように国境を越えて王室同士の血が混ざって、EUという地域で束ねられても抵抗がないほど一体感がある(その分、純潔は薄れた)土地柄と違って、大陸から程よく離れた島国で、征服の歴史がなく、純粋培養された皇室が1000年、1500年という単位で続く尊さは、世界に類を見ない奇跡であるだけに、「普通」であることへの軋轢は今なお小さくない。女性皇族でこの騒ぎになるということは(これだけではなく、かつて皇室に入られた一般女性は失語症を患われ、適応障害を患われた)、男性皇族のときは如何ばかりかと、先が思い遣られる。逆に、皇族のお立場からすれば、一応は民間人となられる女性皇族ですらこの有様では、一生、逃れられない運命を背負った男性皇族のご苦悩は如何ばかりかと、心底、慮られる。
 レベル感は違うが、大相撲という「伝統」芸能の世界にも通じるものがある。
 白鵬関が引退された。凋落する大相撲界を牽引して来られた功労者だが、角界ではおよそ「横綱らしくない」という、モンゴル人にとってみれば甚だ理不尽とも映るであろう評価が根強く、その功績を素直に受け入れられない一定層が存在する(斯く言う私もその一人だ 溜息)。朝青龍関ほど「やんちゃ」ではないと思われていた白鵬関でも、寄る年波に勝てず、余裕がなくなって行くに従い、勝ちにこだわる余り、「横綱らしくない」言動が目立つようになった。所詮、モンゴル相撲は伝統芸能ではなくて格闘技なのだ。その本性が隠しおおせなくなったということだろうか。あるいは、「横綱らしさ」に拘る妙な日本人を挑発し続けたのだろうか。しかし、「伝統」に拘る日本人には、横綱は英語表記されるSumo Championを超えるもの、ただ勝って、強ければよしとするのではなく、勝ちっぷりや普段の立ち居振る舞いに至る「品格」が重視される存在である、とする考え方が今なお根強い。
 皇室に見る「家格」と、大相撲に見る横綱の「品格」。
 個人は尊く、自由・民主主義をあまねく貫徹すべし、とする考え方には、基本的に誰も否定できない。他方で、妙な拘りとも言える「伝統」を拭い去った世界がのっぺらぼうで、ひだひだのある潤いや味わいが失われてしまうのは余りに惜しいと感じることもまた、私には否定することができない。
 ここに来て、これまで大っぴらに論じられることはなかった皇室の存在意義を問い直す発言が堂々と登場するようになった(たとえばプレジデント・オンライン11月4月付、弁護士の堀新氏コラム『「すべての公務を廃止しても問題はない」 皇族に残る佳子さまのために考えるべきこと』など。因みにプレジデントは、人権派弁護士のコラムやアメリカ人の王室ジャーナリストへのインタビューを通して、民主化キャンペーンを張っているかのようだ 笑)。これまで曖昧にされて来たが、皇統の問題に向き合うにあたり、主権者たる国民が、あらため考えなければならない課題だろう。
 私は、皇室は神道的な清らかさを体現する、日本人らしい精神性そのものであると思うし、西欧の王室のように革命の対象になることなく、仁徳天皇の「かまどの煙」伝説以来、国民の安寧と繁栄を祈り、ひいては世界の平和を祈られるという(歴史的には奇麗ごとばかりではなかったのだが)、日本らしい国のありようのバックボーンを形成していると思う(こうした崇高な理念があってこそ、現実政治における権力政治的な対処が重要になる)。もとより常に身近に感じる存在ではなく、普段はむしろ気にすることなく生活する私たちが、たまに行われる儀礼を通して、日本人の来し方を振返り、そのありようを確認することができる、曰く言い難い有難い存在だ。天皇陛下が海外の要人と面会されるときの皇室内の部屋の、贅を尽くした華美とは対極にある、洗練された質素な趣はつとに知られるところで、中東・アラブの王室から寄せられる敬意は、(歴史的に対立して来たキリスト教ではないこともあって)絶大なものがあると言われるし、お隣の中国や韓国にとっては、悔しくてもどう逆立ちしても持ち得ない、永遠の憧憬(と嫉妬)の対象であろう。皇室が持ち得る外交的な価値は計り知れない。皇室や、また大相撲の世界くらいには、それぞれなにがしかの(全てとは言わないが合理的だけではない神秘的な!?)「らしさ」をそれなりに残して欲しいものだと思う。
 こうした、1000年、1500年という単位で続く「伝統」を守るのは、皇室と私たち国民との共同作業である。そして、その変容をどこまで許容するかは、持続可能性との兼ね合いで、私たち国民に突き付けられた覚悟の問題であり、煎じ詰めれば美意識あるいは美学の問題に行きつく。そこが何やら難しいところで、近代的な価値と対立する中で、均衡点を見出すまでには時間がかかるだろう。時間をかけて、じっくり馴染ませて行ければよいが、それが許される状況なのか、むしろ持続可能な形へと誘導する努力が必要なのではないか・・・なかなか悩ましい問題だ。少なくともその間の軋轢は余り荒立てたくはないものだと思うのだが・・・。
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ハロウィン選挙

2021-11-03 00:26:23 | 時事放談
 ハロウィン当日に衆院選があった。日経新聞朝刊は一面で「自民、単独で安定多数」と書きたてる一方、小さく「立民はふるわず」と撥ねつけたが、私は、自民も立民も維新もそれなりの勝者だったと思う。奇を衒うわけではない。
 それにしても予想外のことが続出した選挙だった。
 先ず、自民党が261議席という絶対安定多数を獲得するとは誰も予想しなかった。メディアは、12年前の「政権交代。」とまでは行かないまでも、ある種の地殻変動を予想して浮かれていた(私は白けた目で眺めていた)と言わざるを得ない。開票が始まる31日20時ちょうどの各テレビ局の予想議席数ですら以下の通りで(村上和彦氏による)、皆さん見事に外した(フジはこの時点でも自民党は過半数割れすると見ていた)。出口調査ではサイレント・マジョリティ(隠れトランプ支持者のように、あるいは日本のリベラルのように声をあげるでなし、出口調査を受け付けないが、自民党を静かに支持する層)を見誤ったとする見方がある。
   日テレ   自民 238    立民 114  
   テレ朝   自民 243    立民 113
   TBS     自民 239    立民 115
   テレ東京  自民 240    立民 110
   フジ     自民 230    立民 130
   NHK     自民 212~253 立民 99~141
   結果     自民 261    立民  96
 自民党は、序盤の劣勢予想を受けて、関係者のお尻に火が付いて、終盤で追い上げたと言われる。甘利さんは小選挙区で落選(比例で復活当選)したものの、最後の数日は他候補の応援を止めて地元に貼りついたそうだ。その必死さを、選挙活動だけでなく、日頃の政治活動でも維持して欲しいものだ(笑)。いずれにしても、公示前の276議席から261議席まで減らしたとは言え、二か月前のスガ政権末期の世論調査からは大敗が予想されただけに、その後の岸田さんが頼りなげに見えても見事に復活したという意味では、スガさんが身を引いた潔さは特筆すべきかも知れない。あるいは最大の勝因はコロナ禍が落ち着いていたことかも知れない(笑)。岸田さんご本人は一応の「信任」を受けたと言われるが、政権発足後、まだ何もしておらず、ただ岸田政権の布陣に、人事刷新による出直しを認めるか否かという、よく分からない「信任」選挙だった。
 次に、立憲民主党と共産党をはじめとする選挙協力は、メディアでは「不発」に終わったと評判が悪いが、メディアが予想を外した責任逃れか恨みつらみであって、枝野さんが一定の評価を下されたのは負け惜しみでも何でもなく、それなりに機能したと言うべきだろう(しかし、これは小学生でも分かる算術の論理であって、大義はない)。その証拠に、共同通信の集計によると289選挙区中、2割を超える64選挙区で当選者と次点の差が1万票未満の接戦だったそうだ。そして、神奈川13区で立民の新人候補が甘利明・幹事長を破り、東京8区では石原伸晃・元幹事長を落選に追い込んだ(選挙の元締めである自民党の幹事長が小選挙区で敗北するのは初めて)。そもそも公示前の110議席が(希望の党解体を受けて)水膨れしていたのであって、野党第1党は旧・民主党から立民に至るまで、その時々の野党の分裂度合いにもよるが50台から70台で推移したことからすれば、96議席はよく健闘したと言うべきだろう。選挙協力なかりせば・・・弱小政党が理念は別にして徒党を組んで一丸にならなければ、ここまで持たなかったのではないか。
 そして維新は公示前の11議席から41議席へと4倍近く増やして第三党にまで躍進したことには、正直なところ驚いた。2012年当時の勢いを取り戻しつつあるということだろう。此度の選挙の最大の勝利者であるのは間違いない。大坂の19の選挙区では15人が立候補して全勝し、私が長年住み慣れた高槻市を地盤とする立民候補者・辻本清美さんを落選させた。大阪はコロナ第五波で医療崩壊の苦労があったとはいえ、大阪の人は吉村知事の頑張りはしっかりと見極めていたのだと感心する。もっとも、大阪在住の知人によれば、「橋下さんの脅しにも似た強引さと、松井さんののらりくらりとした胡散臭さがあったからこそ、コロナ禍の吉村さんの一所懸命さにくすぐられた」ということらしい(笑)
 個別に見て行くと、さらに驚くことが多々あった。甘利明さんについては「金銭授受」を巡る問題が逆風になったと言われるが、前回(2017年)選挙前に発覚してなお当選していたことからすれば、安倍さんの安定政権を支えた功労者一人から、岸田政権が人心一新する中で旧態依然を引き摺る3Aの一人へと、選挙民の印象が変わったとしか言いようがない。アメリカが抜けた後のTPPをまとめあげた剛腕ぶりを評価するだけに、複雑な思いだ。石原伸晃さんは危ないと言われていたが、まさか落選するとは思ってもみなかった。自民党の実力者であり、惜しい人材である。旧・民主党首脳の一人・イラ菅さんが長島昭久さんを下したのは、個人的には納得できない。選挙民は何と忘れっぽいのだろう(苦笑)。小沢一郎さんが小選挙区で敗北したのは感慨深い。時代の風はもはや小沢さんには吹かなくなって久しい。
 終わってみれば、投票率は前回を上回ったとは言え、小選挙区55.93%、比例代表55.92%と、戦後3番目に低いものだった。全ての衆議院議員に「喝」を入れたい。野党共闘の立民(110→96)・共産党(12→10)ともに議席を減らし、共産党との共闘に消極的だった国民民主党は8→11へと3議席増やしたことからすれば(そして、維新が自民と立民への不満の受け皿となったことは言うまでもない)、単なる数合わせで、理念なき野合に将来はないことを、当該野党の方々は肝に銘じて欲しい。英米のように二大政党による政権交代を常態化して多少なりとも緊張感のある政治を実現するには、今の勢力分布で見果てぬ夢を追うより、ヌエのように右から左まで翼を広げる自民党を穏健保守と穏健リベラルで二つに割って、維新や国民民主や一部の立民を糾合してガラガラポンして大同団結させる(立民、共産、社民の極端なリベラルは泡沫化させる)しかないと、個人的には思っているが、どうだろうか。実際のところ、私の中では、自民党総裁選での政策論争の方が、衆議院議員選挙よりも余程盛り上がったのだ。既得権益を失う自民党や、泡沫化する極端なリベラルの方々には受け入れられないのかも知れないが、これこそ見果てぬ夢なのだろうか。
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