風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

小澤征爾の日

2020-09-12 09:13:04 | 永遠の旅人
 忘れない内に書き留めておきたい。小澤さんの誕生日である9月1日がSeiji Ozawa Dayに制定されたという、小さなニュースが流れた。
 ボストンから西にまっすぐ車で3時間ほど走ったところに、タングルウッドという、森に囲まれた田舎町がある。東西にひょろ長いマサチューセッツ州の西部バークシャー郡レノックス市にあり、南隣ニューヨーク州アルバニー空港からだと車で1時間くらいの、この辺鄙な町に、日本人の名を冠した音楽ホール(Seiji Ozawa Hall)があって、毎年夏になると、Tanglewood Music Festivalが行われる。23年前の7月のある日、私たち家族は、このホールの庭先と言うには余りに広大な芝生にレジャーシートを広げて、ピクニックを楽しんだ。BGMは小澤征爾さん率いるボストン・フィルである。入場料は一人僅か20ドルほどだった(芝生席の場合)。真夏とは言え、ボストン郊外ではエアコンが必要な日は殆どないほど、爽やかな陽気の昼下がり、あたりを見渡せば、同じようにピクニック気分の家族連れや若者たちもいれば、簡易イスに仲良く並んで腰かけてワインを傾けながら寛ぐ老夫婦の姿もある、今、思い起こしても、なんと優雅で贅沢な時間だろうか。
 私たちはボストン近郊で生活して僅か4年目だったが、小澤征爾さんは、ここボストンで、実に1973年から2002年まで、ボストン・フィルの音楽監督を務められ、その歴史的な経歴と功績をボストン市から評価されたわけだ。
 当時は、その後に続く日本人メジャーリーガー活躍の先鞭をつけた野茂英雄投手がドジャースに移籍し、実績を築きあげつつあった頃で、日本人の海外での活躍を“密かに”誇らしく思うような時代だった。しかし、小澤征爾さんは別格で、既にボストンの地に根を張ってご活躍され、私がタングルウッドの一日を満喫したのは、その晩年だったことになる。「ボストンで過ごした時間は、僕の人生にとって本当に大切なもので、どこに居ようとも、いつも僕の心の中にあります」とのコメントを寄せ、謝意を表されたというが、この言葉は、僅か4年ながら、初めての海外生活で、第一子を授かり、子育てに奮闘した私にとっても、同じ思いで、僭越ながら一人密かに悦に入っている(笑)。日本人として誇らしいだけでなく個人的にも嬉しい出来事で、誰であろうとも素直に功績を認めるアメリカの懐の深さを尊く思いながら、その偉業を寿ぎたい。
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台湾旅情

2018-11-24 23:09:49 | 永遠の旅人
 久しぶりに台湾に出張した。入社した頃に台湾の子会社を担当し、何十回となく(ほぼ隔月で)出張させられて、対照的に自らレンタカーを駆って飛びまわるアメリカ担当の同僚を羨ましく思ったものだった(実のところ、無いものねだりで、お互いを羨んでいた)。ところが、いざ自分もアメリカ担当になってみると、ハシゴして飲んだくれてタクシーで帰る・・・というような日本や台湾の生活スタイルが、無性に懐かしくなった・・・やはりこの生活スタイルは日本人にはよく似合うということを、今回の出張でも再認識した(笑)
 この30年弱で、さすがに台湾の街並みもちょっとは変わったようだ。なにしろ当時、台湾は、韓国、香港、シンガポールと並び四匹の(昇)龍などと呼ばれてアジアの経済成長を牽引し、当初NICs、その後NIEs(台湾はCountryではないとクレームされてNewly Industrializing Economiesと言い換えられた)と、もてはやされた。街は薄汚れて猥雑だったけれども、妙に油断ならない活気があった。ところが30年の年月を経て、当時はなかった地下鉄が東西南北に走って便利になった。街行く台湾の人々の身なりも随分垢抜けたように思う。今回、一泊二日の短い出張で、街をうろつく時間がなかったが、見覚えのあるデザインの時計をロゴ抜きで安く売っている店の奥には鍵がかかる小部屋があって、そこでは店頭でロゴ抜きだった時計に有名ブランドのロゴをつけたマガイモノを売る・・・といった怪しげな商売は、もはや見当たらないのだろう。路地裏の本屋は、宮沢りえちゃんの写真集発売から間を置かずしてコピー本を当たり前のように並べていたが、それもないのだろう。怪しげな、という意味ではマッサージもやる床屋が街のあちらこちらにあったものだが、すっかり見かけなくなった。リヤカーの屋台も減って、レストラン、中でも日本食レストランが随分増えて、益々、日台は近くなった。そして(10数年前のことになるが)台北101なる高層ビルも登場した。屋台の姿を見かけない分、かつて排気ガスに油っ気を含んだまったりとした空気は今は澄んでいるが、肌にまとわりつく湿気と温かさ(いずれも物理的のみならず、甚だ心理的な意味合いをも含んでいる)は変わらない。
 それと言うのも・・・僅かな時間の合い間を縫って、台北101とやらに初めて登ってみたときのことだ。「おのぼりさん」とは、かつて京都に行くことを「のぼる」(上京する)と言い、今、東京駅に向かう電車を「上り」と言うように、都会に出る(向かう)人のことを言うのだが、高いところに「登って」見渡したくなる心境をも併せ表現しているようで、実に優れた言葉だ(笑)。入場料は600台湾元(日本円で約2200円)と高いので一瞬迷っていると、チケット売り場のおねえさんが、今日は曇りでよく見えないけどいいですか?と優しく声をかけてくれて、二度と来ないかもしれないからと、踏ん切りがついた(笑)。お隣の大陸国ではついぞ聞けないような、おもてなしの声掛けだ。
 東芝製エレベーターで89階までスムーズに運ばれる(因みにビルの施工は熊谷組を中心としたJ/V)。確かに雲に覆われてよく見えないが、雲が思いのほか速く流れて、その切れ間に、遠く山並みや河も見える。382mの高さは、なかなかの絶景だった。
 夜は、昔、よくお世話になった「梅子」という、日本人駐在員や出張者ご用達の台湾料理レストランに行ってみた。今なお「1965年創始店」を謳い文句に(ということは当時既に20年以上も操業していたのか・・・)健在である。先ずは、しじみの醤油漬け(蚋仔)でビールを飲む。生のしじみだけど腹をこわさないだろうかと恐る恐る口に運んだ当時のことを思い出す(今は平気だけど)。日本人慣れした商売上手なおばちゃんが、高めの紹興酒を勧めて来る。紹興酒は温めて、ザラメ糖か梅干しを入れるのが一般的だと思っていたら、台湾ではそうじゃない、生姜の千切りを漬けると美味いのだという。お勧め通りに頼んでみたら、確かにアルコール臭さが抜けて、まろやかになって美味い(その分、飲みやすくて、飲み過ぎてしまう)。それから、空芯菜の炒め物や、イカダンゴと通称していた炸花枝丸(イカボールのから揚げ)は外せない。メインは、広東風に胡麻油で蒸した魚料理を頼んでみる。片手に収まる大きさのカップ(Bowl)に入った担仔麺で締める。至福のときだ。
 なお、昼は街に出て・・・と言いたいところだが、都合によりホテルのレストランで、それでも庶民的な牛肉麺を食べた。今回の出張で、何をさし措いても口にしたかったものだ。日本にはない味付けだが、クセになる美味さだ。それから、日本の職場へのお土産は、定番のパイナップルケーキ(鳳梨酥)。東アジアの戦略環境厳しい折りから(とは唐突で大袈裟ながら)、日本人として台湾は大事にしなきゃ、と思うのだった。
 上の写真は、おばちゃんに勧められた10年モノ紹興酒と、生姜を漬け込んだところ。
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時差ぼけ

2017-11-24 21:40:20 | 永遠の旅人
 日曜日の夜に戻ってきて、最初の夜こそ旅の疲れがあってぐっすり眠れたが、翌日以降は狂った体内時計に従って苦悩の日々が続いている。一週間もあれば昼夜逆転でも現地の生活リズムに慣れてしまうと言われる通り、私のような老体でもそれは例外ではない。
 一般には西回りよりも東回りの時差ボケの方がキツイと言われる。西回りでは時間の流れ(地球の自転)と逆行するので「夜が長く」なり、夜更かし(=朝寝)することで調整出来るのに対し、東回りでは逆に「夜が短く」なり、早めに(眠くならなくても)寝て、その分、朝も早く起きなければならないのが辛いからだ。これは、アジアなどでの近距離移動を考えると分かりやすい。例えば日本→シンガポール→タイというように西に移動していくと、1時間ずつ夜が遅くなり、その分、朝も1時間余計に寝ていられて楽ちんなので、出張のときはよくこのパターンを使った。しかしアメリカ東海岸となると、14時間の差は言わば昼夜が引っくり返るので、東回りも西回りも大して変わらない・・・というのが実感だ。
 昼夜逆転して、昼間、当然ながら英語の会議に出ることになるので、なおさら睡魔と戦うのが辛くなる(苦笑)。現地に向かう機内では早速、現地時間に合わせるのがいいと言われるが、昼飯も食いたいし、ビールやワインをしこたま飲んで昼寝と決め込むが、昼寝程度ですぐに目が覚めてしまうし、そう簡単なことではない。そこで今回は現地で寝酒を(睡眠薬代わりに)使った(笑)。毎晩、ワインをハーフボトル開けて、無理矢理眠くさせ、なかなか寝付けないので夜遅くなるが、それでも短いながらも熟睡できる(が、朝5時過ぎには目覚めてしまうのだが)。
 ついでながら、米国滞在中、最近は滅多に使わなくなった英語に耳慣れるため、ホテルの部屋では起きているときも寝ているときも(言わば睡眠学習!)CNNやFOX Newsを流しっぱなしにしていた。
 その内、何度も流れるニュースに辟易することになる。そのひとつは民主党のフランケン上院議員のセクハラ・ニュースだ。Bloombergによると「ロサンゼルスのラジオ局KABCのアンカー、リアン・トゥイーデン氏がフランケン氏からわいせつ行為をされたと訴えていた。2006年の駐留米軍を慰問する中東ツアー中、フランケン氏から強引にキスされたほか、寝ている時に胸をつかまれ写真を撮られたとトゥイーデン氏は主張した。これに対し、フランケン氏は強引にキスした記憶はないとしたが、トゥイーデン氏が眠っている時に胸に触っている写真を撮ったことについては謝罪した」というもので、この中東ツアーで軍服を着て寝ている女性に忍び寄って胸に手を伸ばす、見るからに悪戯っ子そのもののフランケン氏の写真を何度も見せつけられ、目に焼き付いて離れない(笑)。因みにフランケン氏は元コメディアンで、2009年に上院議員になる以前の言わば冗談っぽい話なので、多少は弁解の余地があるようにも思う。実際、そのフランケン上院議員をヒラリー・クリントン女史が弁護したものだから、クリントン元・大統領の不倫話まで持ち出して、今なら大統領を辞任しなければならかっただろう、などとまくしたてる女性も出て来て、えらい騒動になっていた(アメリカはもはやプラグマティック、つまり大統領職とプライベートはそれなりに区別する・・・ことはなくなったのか)。と言っても、これはFOXニュースで繰り返されていたものなので、恐らくトランプ大統領のかつてのセクハラ疑惑の反動で民主党への反撃の一環だったのだろう。
 上の写真は、ワシントンDCでの訪問先の近くにあった、トランプ・インターナショナル・ホテルである。かつて米国の中央郵便局として使われた「オールド・ポスト・オフィス」で、ちょっとした城のような威容がある。トランプ側(トランプ・インターナショナル)は、19世紀に建設されたこの歴史的な建物の改修工事を米国政府から受託し、60年間のリース契約を結んで、晴れて昨年9月12日にオープンした。大統領選に立候補する以前から進んでいた計画だったが、2年以上前倒ししてオープンに漕ぎ着けたのは、大統領になってから話題になるのを避けたかったのだろうか。実際、大統領に当選してからというもの、マスコミから利益相反を批判されたものだったが、今やそれ以上の問題(!?)で世間を翻弄し続け、利益相反のことはすっかり忘れ去られている。
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写真で振り返るNY・続

2017-11-23 17:08:53 | 永遠の旅人
 もう一つオマケに、こちらもタイムズ・スクウェアのあたり。
 アメリカは今日、Thanksgiving Day(感謝祭)で、今週は里帰りした人も多かったことだろう。休暇が明けると、街はクリスマス一色になる。冬本番だ。
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写真で振り返るNY

2017-11-23 17:07:49 | 永遠の旅人
 上の写真は、タイムズ・スクウェアのあたり。
 行政都市ワシントンDCが(ある意味で自分が余所者と疎外されるような冷たさをも感じさせる)落ち着いた佇まいを見せていたのと比べると、建物の高さや密度、そしてその合い間を行き交う人の密度や速さの点で、ニューヨークの喧騒は格別だった。言わば霞ヶ関あたりから渋谷や新宿に来たようなものだろう。当然、買い物にも食事にも便利であり、つい気持ちはうきうき昂ぶるし、似たようなものを求めてそぞろ歩いているせいだろうか、そんな人の集まりに身を置くとなんだかホッとする。
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写真で振り返るDC・続

2017-11-22 01:52:43 | 永遠の旅人
 もう一つオマケ。こちらはモールから見た週末の国会議事堂。冬空が広がって、寒々としていた。
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写真で振り返るDC

2017-11-22 01:20:36 | 永遠の旅人
 上の写真は、今回の訪問先の弁護士事務所があるビルから撮ったもので、ホワイトハウスとワシントンモニュメントが綺麗に(薄曇りで見通しは良くないが)一枚におさまる。この写真からは分からないが、左手、玄関前の庭園の外では、アラブ人がデモをやっていた。お騒がせトランプ大統領は、このときはいなかったのだが・・・
 そう言えば、シドニーのある弁護士事務所も、オペラハウスとハーバーブリッジの両方が拝めるロケーションにあった。世界中、どこにあっても、弁護士事務所は絶景が拝めるものだ。さぞ儲かっているのだろう(貧乏人の僻み)。
 アメリカ東海岸は、特に冬場は空気が乾燥することをすっかり忘れていた。冷たい風に晒されて、いつの間にかお肌がカサカサになってしまった。顔だけではない。手も足も背中も、全てである。日本人がここで暮らすには加湿器とニベアが手放せない。
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そしてアメリカ~経済

2017-11-15 16:23:08 | 永遠の旅人
 海外に出ると、経済のことを考えさせられる。
 先ずは物価だ。誰しもスーパーやコンビニに足を運んで、つい価格比較をしてしまう(笑)。20年ほど前に駐在していた頃は、日本と比べてアメリカの物価は格段に安く、その分、品質も悪いという生活実感があったが、最近はそうでもない(品質が良くなったという意味ではない 笑)。とりわけ今回は大都会にいるせいか、ホテルの宿泊費もレストランも高く、近所のセブンイレブンに行っても、CVSのようなファーマシーに行っても、安いとは思わなくなった。
 アメリカでは健全なインフレが続いているからだろう。スタバのコーヒー(グランデサイズ)は、駐在から帰国した前後の17~18年前は1.5ドル程度だったが、今は2.7ドル、年々2%強上がっている計算になる。一方、日本ではこの20年間、デフレが続き、日米の物価は逆転してしまったような気がする。
 アメリカで、ナショナル・ギャラリーやスミソニアン博物館のように高品質な展示が無料で提供されるのは、国家の補助と寄付の文化があるからだろう。結果として(極端な話だが)借金漬けの国家運営が続くわけだが、健全なインフレのおかげで、言ってみれば20年前の借金は半額になる計算だ。アベノミクスがインフレ~投資~成長の好循環を目指す所以でもあろう。
 こうしてインフレについても考えさせられ、世界広しと言えども日本だけがデフレに苦しむ異常な状況にあることに気づかされる。そのメカニズムはよく分らない。もともと多くを求めない、モノを大切にする国民性で、リサイクルの考え方が普及し、人口減少と相俟って消費全体が伸び悩んでいること、そんな中、冷戦崩壊以降は中国や東側諸国を巻き込んだ真のグローバリゼーションが進展し、ものづくりが労働力の安い場所に移転し、製品・サービスを低価格で提供する企業努力が続けられていること、他方、規制緩和は進展せず既存領域に拘わっていること、金融危機をきっかけに韓国で断行されたようなドラスティックな業界再編が日本では見られず、相変わらず一つの業界に複数企業がひしめき合って体力勝負が続いていること、業績が悪くなっても表立って雇用整理できないために、賃金水準を切り詰めてでもボトムラインを守ろうと頑張り過ぎること・・・等々、日本に特殊な要因が複雑に絡み合っていることだろう。相変わらず開かれた労働市場がないために、同一職種で(政府が期待するようには)同一賃金が成り立たず、雇用逼迫のときでも賃金水準が上がることはない(雇用のミスマッチがあるとする見方もある)。
 こうして経済のダイナミズムに思いを馳せる。移民の国アメリカは今もなお人口が増え続け、経済成長が続く一方、日本は人口が減り続け、経済成長も低レベルだ。しかし、GDPの規模は、もちろん人口に影響を受けるが、むしろイノベーションとの相関、つまり生産性の向上が重要だとも言われる。実際のところ、アメリカの製造業は廃れたと言われ、確かに家電や繊維などかつての面影はないが、化学・薬品や宇宙工学などの付加価値が高い分野は伸びており、全体のパイも増えていて、案外、底堅いし、所謂AGFA(Apple、Google、Facebook、Amazon)をはじめとしてイノベーションを牽引する企業群が多いのは周知の通りだ。
 かつてアメリカ人の同僚は、アメリカの強さは、移民の国として世界中から英知を集めて活用できることだと豪語したものだが、今となっては否定できない。世界共通言語である英語によって敷居を下げ、自由競争を基盤として人や技術や企業や業種・業態の変革のダイナミズムが巻き起こり、基軸通貨ドルがグローバルな経済活動を支え(ときにその利便性を逆手にとって経済制裁に利用され)、こうした普遍性のゲームのルールが変わらない限り、アメリカの強さが続くことは間違いない。日本は独自の強さを発揮し続けるしかないのだが。
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さらにアメリカ~技術神話

2017-11-13 11:50:23 | 永遠の旅人
 出張で週末を過ごすのは実に久しぶり・・・10数年振りだろうか。ワシントンDCといえば、上の子が生まれたときに(米国産!)、両親が遊びに来て以来だから20年振りで、せっかくなので同僚と散策に出た。観光スポットが目白押しとは言え、一日歩き回る元気はなく(苦笑)、土曜日は、ナショナル・ギャラリーのフェルメール展(ナショナルなので無料である)とスミソニアンのAir & Space博物館(こちらも驚くなかれ無料である)に絞った(スパイ博物館には20ドル払ったが、コスパの酷さは話にならない)。そして今日は、スミソニアンのAir & Space博物館の別館(もちろん無料!)が空港傍にあるというので出かけてみた。本館は手狭なので、エノラゲイやスペースシャトル・ディスカバリーの実機展示があるという。時間があって行かない手はない。
 フェルメールももちろん素晴らしかったが、スミソニアンの展示は圧倒的だった。
 ダウンタウン本館にも、ライト兄弟の飛行機や、ゼロ戦をはじめ、第二次大戦中、ドイツ空軍の主力戦闘機だったメッサーシュミットBf109、そのドイツ空軍の侵略からイギリスを守ったスピットファイアといった、航空オンチの私でも知っている名機が展示されている。冷戦時代、ソ連やキューバ危機のときに撃墜されたロッキードの偵察機U-2もある。こうした飛行機だけでなく冷戦時代のソ連の中距離弾道ミサイルSS-20もある。それからSpaceといわれるだけあって、月の石に触れられるのも、なんとも大らかなアメリカらしい・・・と言っても、テーブルに埋め込まれていて、触れるのは人差し指の先でなぞるくらいのごく小さな部分で、しかも既に多くの人に可愛がられて表面はツルツルだ(苦笑)。
 空港傍の別館には、本館どころではない、巨大倉庫にところ狭しと歴史的名機が実物展示され、これでもかと迫ってくる。タクシーの運ちゃんに帰りも迎えに来てもらうことにしたため、3時間限定としたが、まだもの足りない、それでもお腹いっぱい・・・といったところだった。
 入り口で、係りのおじさんに何に注目しているのかと聞かれ、エノラゲイとは言い出せず、ついスペースシャトルと答えてしまった。かつて私がボストンに駐在していた頃、本館でエノラゲイ展が企画されたが、退役軍人の団体から反発があり、規模を大幅に縮小することを余儀なくされた、いわくつきの実機である。Wikipediaによると、「重要な常用展示機体であり、その歴史的背景から破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、不用意に機体に近づく不審者に対しては監視カメラが自動追尾し、同時に警報が発生するシステムを採用。2005年には映像解析装置も組み込まれるなど、厳重な管理の元で公開されている」とあるが、そんなことは今、ブログを書くまで知らなかった。当時の原爆はまだ小型化できず大きかったとは聞いていたが、余計な装備を削り落とした機体そのものは巨大である。広島に原子爆弾、所謂「リトルボーイ」を投下したB-29そのものであり、これで多大な(日本への上陸作戦になれば百万人もの犠牲者が出るといった)戦争被害を食い止めるためとの名目で正当化され、その実、長崎に投下されたプルトニウム型の所謂「ファットマン」と並ぶウラン型の「実験」とされたのが実相であろうことを思うと、日本人としては複雑な思いに囚われる。
 そのほかハイライトとしてガイドマップにはエールフランスのコンコルドや、朝鮮戦争やベトナム戦争で活躍し今も日本の陸上自衛隊などで現役で活躍する軍用ヘリUH-1などもあるが、やはりスペースシャトル・ディスカバリーの実機は感慨深い。表面は無数の耐熱タイルに覆われ、傷だらけであるのが、大気圏突入の凄まじさを伝えている。ディスカバリーだったかどうか定かではないが、静岡の企業のセラミック技術が使われたと聞いたことがある。
 こうした技術は、アポロ計画のように、冷戦時代に国家の威信をかけた軍事対立を支え、スペースシャトルのように超大国の威信と人々の夢を叶える、大いなる無駄と言ってもよいものであるが、第一次大戦に登場した軍用機がその後の民間航空産業を生み、ミサイル=ロケット技術がその後の宇宙産業を育てたという意味で、人々の豊かな生活を支える基盤技術であり(コンピュータやインターネットやGPSもそうだった)、一概に無駄と切り捨てるわけにはもちろん行かない。古くは、空を飛ぶことに夢を馳せ、今は当たり前に宇宙を探索したいという情熱が原動力となって、絶えず技術革新が続いている。実のところ、技術革新や研究そのものに「軍事」も「民事」もない。この展示には、多少、戦勝国としての鼻持ちならないニオイを感じなくもないが、軍事研究に背を向けるという極めてイデオロギーに囚われた日本の大学などのアカデミアには、是非、爪の垢でも煎じて飲ませたいほどの圧倒的迫力である。日本でも、子供たちや若い人たちに技術の素晴らしさを伝える技術展示を、是非、進めてもらいたいと心から思う。
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これもアメリカ~合理性

2017-11-11 12:29:30 | 永遠の旅人
 ダラス・フォートワース空港で乗ったタクシーは、ナビがないだけでなく、メーターもクレジットカード決済端末もない普通の車だったが、スマホにアダプターをつけると簡単にクレジットカード決済が出来た。画面が小さいから地図を表示しなかっただけのことだったようだ。領収書が欲しいと頼むと、おもむろにスマホを差し出し、携帯電話にSMSで送るから電話番号を入力しろと言う。日本だけど大丈夫か?と聞いても頓着しない。とにかく仕事を早く終えたい一心・・・これがアメリカ人だ。国際電話アクセスのための「プラス」記号が必要だったことを思い出し、「0」を長押しすると確かに「プラス」記号が出て来て、+81・・・で確認ボタンを押して、なんとか完了した。携帯電話が圏外になってしまっていて、まだ確認出来ていないが・・・。
 ワシントンDCのロナルド・レーガン空港で乗ったタクシーも、やはりメーターもクレジットカード決済端末もない普通の車で、i-Padが掲げられ、地図と走行ルートと値段が表示されていた。領収書が欲しいと頼むと、メールアドレスを入力しろと言う。なんとか完了したようで、ホテルに戻ってメールをチェックすると、確かに領収書が届いていた。
 ところが・・・
 この歳になって、署名に代わってメールアドレスの入力などという、七面倒な新たなステップが入ると、そのことに夢中になって、うっかりクレジットカードを受け取るのを忘れてしまった。相手が気が回らなかっただけだと言いたいところだが、私も注意散漫だった。いずれにしても、タクシーを降りて、ホテル・ロビーに一歩、足を踏み入れたところで気がついたが、後の祭り。仕方なく日本のオフィスに電話して、クレジットカードの失効手続きをとってもらった。出張初日にして、なんたる失態・・・。
 ところが程なくして、タクシーの運ちゃんから電話が入った。降ろしたホテル名とクレジットカード記載の名前を頼りに、追いかけてくれたようで、どうする? と。ホテルまで届けてもいいけど、運賃を払ってね、と。勿論、支払うから待っていると答えると、運ちゃん自身の電話番号を教えてくれて、ちょっとアメリカ人を見直した瞬間だった。
 そこまでされると、カードが戻ってくることが確信できたので、早速、東京に電話して失効手続きを止めようとしたが、一歩、間に合わなかった。
 そして何も知らないその運ちゃんは、失効したクレジットカードをホテルまで届けてくれた。最初にホテルに到着したときにはチップ込みで25ドル支払ったが、15ドルでいいと言う。サバを読んでいるかも知れないし、もはや失効したカードだったけれども、気持ちが嬉しかったので20ドル札を渡した。運ちゃんも心なしか嬉しそうにトイレに向かった・・・。
 というわけで、アメリカはペーパーレス社会で、スマホがないと生活できそうにない。アメリカ担当営業の知人に聞くと、タクシーを拾った!?と馬鹿にされた。今どき、当然の如くUberらしい。私は・・・と言うか、日本は・・・間違いなく遅れている。
 上の写真、ワシントンDCの通りにも(中国ほどの規模ではないが)貸し自転車がある。
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