風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

アリス結成50年

2022-03-26 09:51:24 | スポーツ・芸能好き
 フォーク・グループのアリスが、1972年の結成以来50年、今なお休みを挟みながらも現役を続けていて、このたび(と言っても既に10日前のことになるが)「SDGs目標10年」計画を発表した。何しろ、チンペイ(73)、ベーやん(72)、キンちゃん(73)、三人合わせて218歳の老朽バンドは10年後は248歳・・・SDGsとは、経済合理性ならぬ音楽合理性だけではやっていけない、持続可能性を求める、まことに時宜に叶ったネーミングであるw 
 何やらまた昔話になってしまうが、アリスは、サザン、ユーミン、オフコース、風(伊勢正三)とともに、私の青春時代の音楽シーンの一面を彩るミュージシャンだ。後の四者が聴くだけだったのに対して、アリスは自らコピーバンドを結成したという気恥しい過去がある。おまけに京都の某女子大(軽音サークルの相方)の学園祭で演奏したという、おぞましい過去まである。若気の至りとしか言いようがない(もっとも、その後、私はジャズに傾倒して、バンド活動は下火になって行くのだが・・・)。
 いつからアリスに注目するようになったのかは記憶にない(『冬の稲妻』でブレークするかなり前だったことは確かだが)。当時、不良中年・三人組の、肩の力が抜けた、水が流れるような生き様が何とも心地好くて羨ましかった。今や不良老人の域に達して、今なお心地好い。そんなアリス(チンペイ)にそもそも注目したエピソードは今も忘れられない。ギターを握ったキッカケを問われて、女の子にモテたかったから、と何ともあけすけな答えを返したのだった(当時は太っていてモテなかったから、というオマケがつく)。だいたい当時の男の子がギターを握り、車を乗り回したのは、カッコいいからで、その実、皆モテたかったからに他ならないのだが、気恥ずかしくて口に出せないところ、チンペイは何の気取りもなく自らの下心を晒したのだった。そんな直截的なモノの言い、直球勝負が、アリス(チンペイ)なのだ。
 昔話ついでに、4年前から、大阪MBSラジオ『ヤングタウン』でアリスのパーソナリティが復活しているらしい。中学生・高校生の頃、まがりなりにも受験勉強を続けられたのは「ながら族」のためにラジオがあったお陰だった。昭和な時代である。今の受験生はどうしているのだろう。
 ちなみに今の音楽シーンについて問われて、各人、次のように答えている。

堀内 「確かに便利になったけど、CD止まりですね。本来はアナログが好き。少なくとも形になったものがあると(うれしい)。MD(MiniDisc)はちょっと小さすぎるけど」
矢沢 「MDはもうないでしょ(笑)。時の流れだからあらがってもしょうがない。ベーやん(堀内の愛称)と同じでアナログ好き。昭和が好きだから、苦々しく受け入れてやっております」
谷村 「世界中がこの流れになって、そこから音楽に触れてくれる人が増えている。アリスも遅ればせながらデジタル配信を始めたんだけど、今の自分たちのベストを探していこうって感じですね」(*1)

 今、ベーやんと言えば演歌歌手だと思っている人が多いかも知れない。キンちゃん(矢沢透)は、アリスに参加する前、オフコースのドラマーとして声を掛けられていたそうだ。衝撃の事実。

矢沢 「関西で活躍するジローズがライブをやる時、いつも大阪に呼ばれて僕がドラムを担当していました。その時、ジローズの前座がオフコース。そこで前座とバックの日陰者同士みたいな感じで仲良くなり、『やりましょうよ』となっていたんです。だからオフコースの1枚目と3枚目のLPは僕がドラムをたたいています」(*2)

 「SDGs目標10年」の話に戻ると、彼らは次のように語っている。

谷村 「60歳のときは70歳、いけるんじゃないの? って言えたけど、70歳で80歳いけるんじゃないとは言い切りづらい。やれるところまでがんばるぞって」
矢沢 「どれくらいみっともなくないか(笑)」(*1)

谷村 「いたわりの10年ですよね。ファンの人たちも『よし、ここから10年、気合入れていかないと!』って思ってもらえたら、一緒に元気になれる」(*3)

 『敦盛』では織田信長役に「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」と言わしめたけれども、なかなかどうして、現代の50年の月日の流れは、人々をしてそれほど変わらせないものだと思う。50年前と比べれば、同じ70歳でも、心身ともに確実に10年は若返っているのではないだろうか。
 あらためてアリスについて、各人、次のように語っている。

矢沢 「アリスはかけがえのない存在。それがすべてではないけど、僕の人生の中でアリスを除くことは絶対にできない。アリスがないと僕もないのと同じ。体力があって健康だったら、これからもアリスの違う魅力も出せたらいい」(*2)

谷村 「アリスっておもしろいのは、それぞれ自分の好きな音楽があるんですよ。だけど、アリスとして何かやろうってなったら、それぞれが持ってるアリスのイメージに即したものを作ってくるんで、やっぱりアリスだよねって」
矢沢 「僕たちがダンサブルな曲を作っても仕方ないじゃない」
堀内 「やろうよ、ナイトフォーバー(笑)」(*1)

 三者三様の受け答えは、これぞアリス・・・とは、昭和なオヤジの独り言。

(*1)サンスポ 3月16日配信 「アリス結成50年インタビュー 谷村新司『ベーやんの声にひと聞き惚れ』」
(*2)ENCOUNT 3月24日配信 「デビュー50周年のアリス・矢沢透『本当はオフコースでやる予定だった』 今明かした秘話」
(*3)サンスポ 3月16日配信 「結成50年目アリス、SDGsな10年計画発表、谷村新司『途中で誰かアバターになっちゃうかも』」
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「力こそ正義」という世界

2022-03-19 10:11:35 | 時事放談
 軍事力の裏付けのない外交など意味がないと言われる。ウクライナ情勢を見ていると、やるせない無力感に囚われてしまう。
 以前、このブログで書いたように、故・高坂正堯氏は、国家は、「力の体系」(=軍事力)、「利益の体系」(=経済力)、「価値の体系」という三つのレベルの複合物だと言われた。困ったことに、今、ウクライナでお騒がせのロシアは、帝国を志向する19世紀的な野心を抱き、力(=軍事力)こそ正義と信じて疑わない国で、軍事力でぐいぐい押しまくる(何しろ経済力は韓国やカナダやイタリア並みで非力だから)。また、アメリカと張り合うことで21世紀の国際社会の行方を左右しようとする中国も、やはり帝国を志向する19世紀的な野心を抱き、力こそ正義と信じて疑わない国で、こちらは、軍事力をちらつかせながら、経済力で威嚇する。他方、ポスト・モダンの欧米は、19世紀的な野心を打ち消すような「利益の体系」を代表し、それを守るためにハードパワーとしての経済力をバックに、ロシアや中国と対峙する。今、私たちが目撃しているのは、軍事力を行使することを厭わない(何の倫理的な後ろめたさも感じない)ロシアと、ロシア“帝国”の一部だとプーチン大統領に睨まれてしまったウクライナ、ひいては、西側の価値が侵攻を受けているとしてウクライナを後方支援し、軍事的対決を避けて経済制裁という経済力でなんとか抑止を図ろうとする日・米・欧との、非対称の、という意味では極めて現代的な戦争だ。非対称であるが故に、単純な戦力比較は難しく、我慢比べになりかねない。
 ロシアのプーチン大統領について、最近はその狂気あるいは異常ぶり(パーキンソン病説もある)を検証しようとする記事が多く出回るが、今に始まったことではないと主張する声も根強い。とりあえずは評価を避けて、開き直った独裁者と言っておこう。こうなると西側が明確に軍事的な対抗措置を取らない中で外交交渉するのは容易ではないのが見て取れる。身も蓋もない話になるが、ヨーロッパの近くにロシア(や中東)がなければ、また日本の近くに中国(や朝鮮半島)がなければ、どれだけ幸せなことだろうかとボヤきたくなるが、世の中には「力こそ正義」として「力」(狭い意味で言うと、軍事力)に頼る国があるのが厳然たる事実だ。
 以下は余談である。
 私の学生時代と言えば、所謂「進歩的知識人」が全盛で、『朝日ジャーナル』の筑紫哲也編集長など今で言うリベラル派が言論界を席巻した時代だった。しかし私は、友人の下宿の本棚に社会党・石橋書記長(当時)の『非武装中立論』が鎮座しているのを見ても違和感を覚えて食指が動かず、倉前盛道氏の『悪の論理』(=地政学の概説書)に手を伸ばすような、へそ曲がりだった。そんな私が、「力」の持つ意味合いを肌身に実感したエピソードがある。
 大学2年が終わった春休みに肉体労働のアルバイトをしたときのことだ。中学時代の幼馴染と、近所の物流倉庫の所謂「飯場」に詰めて、一日5千円でひたすら肉体を酷使していた。当時の私は家庭教師のアルバイトをしていたので小遣いに困ることはなかったのだが、大学生活にも飽きて、ちょっと外の空気を吸ってみるか・・・といったほんの気紛れだったのだろう。タバコの煙がもうもうと立ち込める飯場で達磨ストーブを囲んだのは、現場監督のおっちゃんの外に、高校時代は暴走族で鳴らしたという同い年の大学生と、校内暴力がもとで高校を中退したばかりの血気にはやるヤンキーのお兄ちゃんと、私たちとの4人の若者だった。初顔合わせで、見るからにごく普通のいでたちの私たちを見て、身分(大学名)を確認したヤンキーのお兄ちゃんは、なんでわざわざこんなところに働きに来るんや?! とボソッと呟いて、違う種類の動物でも見るような胡散臭そうな眼差しを向けたものだ。こうして、さしたる共通の話題などあろうはずはなく、殺伐とした雰囲気の中で日々を過ごしていた。あるとき、幼馴染が四方山話の中で、肘を痛めて腕相撲が弱くなった(昔は強かったのに)などとジジイのようなボヤキを始めると、ヤンキーのお兄ちゃんが即座に反応して、その場で腕相撲の挑戦を受けることになってしまった。ヤンキーのお兄ちゃんとしては、ここぞとばかりに「力」を見せつける好機と見たのだろう。自信満々で臨んだはずだが、あろうことか、ひ弱と蔑んでいたはずの私に負けてしまったのである。まさかの展開に、元暴走族の大学生は、一瞬、意外そうに一瞥をくれたものの、すぐに興味なさそうに顔を背けたが、ヤンキーのお兄ちゃんはその後、手のひらを返したように恭順の意を示すようになった。どういう風の吹き回しか、近い内に京都で飲みに連れてってえな・・・などと(彼女にスキーをねだられるならともかく)擦り寄って来るので、高校生の分際で(いや、中退していたが)馬鹿なことを言うな、と言いたいところを、ぐっと堪えて、その内にな・・・と、はぐらかし続けた。喧嘩をすれば、私の方がイチコロで負けていただろうに、ひ弱な優等生!?の腕相撲「力」を意外に思ったものだった。
 幼稚な、まさに幼児体験だが、寓話として成り立たないわけではないだろう。爾来、「力」を信じる世界があって、とりわけお互いを知り尽くさない余所行きの関係にあっては、たとえハッタリでも、ある種の「力」が威力を発揮し得ること、それがないと足元を見られて突っ込んだ会話にはならないだろうこと(国家間であれば外交交渉に繋がらないこと)、そして、それは「力」以外の「利益」や「価値」に引け目があるせいでもあろうことを、幼児体験として植え付けられたのだった。
 あらためて言うまでもないことだが、重要な前提条件を確認したい。それは「力」を信奉する相手にこそ「力」を見せつけることに一定の効果があるということだ。逆に、西欧や日本のように、近代的な戦争はもうこりごりだと思うポスト・モダンの世界で、核廃絶や非武装中立を心から信じて、憲法9条をノーベル平和賞に推薦するような人たちに、「力」を見せつけたところで、暖簾に腕押しで、むしろ嫌悪されて、何の役にも立たないのは論を俟たない。しかし、世界を見渡せば、大国になるほどに大国らしく振舞い、大国らしくもてなされることを望む威信の大国(=中国共産党に乗っ取られた国)もあれば、北極海を背に南方の国境を包囲されているかのような被害妄想に囚われて、「力」で押し返そうとするミドルの国(=プーチンというマフィアに乗っ取られた国)もあり、さらに人民が極貧に喘ごうがお構いなしに虎の子の核武装に突き進んで、王朝存続に汲々とする小国(=正統性にこだわる金王朝三代目が継承する国)もある。これら三国では、いずれも人々は「国民」ではなく「人民」と呼ばれ(但しロシアでは形ばかりの選挙があるから、一応、国民の負託を受けた形になっている)、人民の自由意思は尊重されない代わりに、何らかの統治の正統性を問われ続ける宿命にあるという、決定的な弱点を抱える。何より、これら三国が東アジアの(日本と目と鼻の先の)地で国境を接するとは、なんという不幸であろう。
 安倍元首相が、ニュークリア・シェアリング(核共有)の議論を否定すべきではないと主張されたことが物議を醸した。政治家のセンセー方は、せめてニュークリア・シェアリングのお勉強はして、非核三原則(とりわけ三つ目の「持ち込ませない」)の虚妄を論じて、あらためて東アジアの「力こそ正義」とする厳しい現実について認識合わせをしてもらいたいものだと思う(必ずしもニュークリア・シェアリングを勧めるわけではないが)。
 日本共産党の志位委員長は、「プーチン氏のようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにするための条項が、憲法9条なのです」とツイッターで訴えて物議を醸した。今なお近隣諸国より自国の暴走を案じることには違和感を禁じ得ないが、維新の松井代表が「共産党はこれまで9条で他国から侵略されないと仰ってたのでは?」と疑問を呈されたように、志位さんはここに来てようやく真実を語られたと言うべきだろう。日本国憲法第9条が日本を守るのではない。占領期に制定され、だからといって無効とは言わないが、立法趣旨として日本の無力化を目指したものであったことは疑うべくもない。「力こそ正義」とする三国に囲まれ、75年の時を経てなお、この憲法が改められることがない現実に思いを致すべきだろう。
 ウクライナ危機の教訓は、「力こそ正義」という世界があることをも認め、それに対抗するために、先ずは自分の国は自分で守るという覚悟を持って弛まず努力すること(決して軍事大国を目指すのではなく、最低限の防衛力を備えるという意味では、何が最低限かが問題となる)と、次いで単独では非力であることも自覚し、「価値の体系」の連帯を飽くまで追求することだろう。西側が束になってかかれば、ロシアなどちっぽけなものだし、中国にだって十分に対抗し得るのである。
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青梅への道はなお遠く

2022-03-12 13:41:17 | スポーツ・芸能好き
 ウクライナでは惨劇が続いているが、日本では何事もなかったかのように、春らしい穏やかな陽気で、ネットの世界と現実との食い違いには愕然とする。私も、一歩離れると呑気なものだ(自責)。しかし、東日本大震災のときのように「共感疲労」を覚えては元も子もないので、続けたい。
 この季節は、花粉症で辛くなるはずだが、巣籠もり状態で、しかも加齢で体力が落ちて反応が鈍っている(!?)せいか、さほどでもない。他方、一年で心身ともに最も研ぎ澄まされているはず・・・というのは、普段、ダレ切った私にしては、というほどの意味だが、ダレ切ったままである。なんとも情けないが、今年も青梅マラソンはヴァーチャル開催になったからだ(と、他人のせいにする)。選手が集うのではなく、スマホ・アプリを使って、一定期間(2/11~28)に、各人、好きな時間に好きな場所で思い思いに走って、記録をアップし、順位を競ったらしい。これでは、現場主義の私はその気になれない(言い訳)。
 なお、東京マラソンの方は、エリートランナーだけでなく一般参加者も含めて、先週末(3/6)に開催された。これは昨年10/17に予定されながら見送られた2021年大会が後れて開催されたもので、2022年大会としては中止になったそうだ。もとはパンデミックが始まった2020年大会(2020年3月1日)がエリートだけの大会になったため、一般参加者は2021年大会と2022年大会に振り向けられていたもので、今般、2022年大会が中止になったため、さらに2023年大会と2024年大会に振り向けられるという、ややこしい展開になっている。ぼやぼやしていた私は、当分、参加できそうにない。そうこうしている内に、フルマラソンのみならず青梅30キロですら走れない身体になってしまうのではないかと恐れている(涙目)。
 なお、この東京マラソンでは、鈴木健吾選手と一山麻緒選手が夫婦で男女の日本人選手トップをかっさらって、夫妻合算での世界ギネス記録を塗り替えたそうだ。いろいろなギネス記録があるものだ。夫婦になってからもトップ・クラスを維持しているのは立派で、是非、このままオシドリ夫婦で頑張って欲しいものだと思う。
 ただ、鈴木選手の記録について一言、水をさすようなことを言いたい。2時間5分28秒は立派で、自らの日本記録に及ばなかったものの、日本歴代2位の記録だったという。日本陸連の瀬古利彦ロードランニングコミッションリーダー(←長ったらしいなあ)は、昨年のびわ湖での日本記録がフロックではなかったことを証明したと喜んだように、まさに日本人選手で実力No.1と言ってもよいのだろう。しかし、ナイキの厚底シューズによって、記録も底上げされて、他社製と比べて走行効率4%向上、記録にして4~5分は速くなると言われる。瀬古さんの時代(かれこれ40年前)と比べても仕方ないのだが、確かに世界記録は5分速くなった。もしそうだとすると、鈴木選手の記録は実質的には瀬古さんの8分台に見劣りすることになってしまう。今大会優勝したキプチョゲは、瀬古さんが「神のような人だ。よくぞ地球上に現れた」と絶賛するような選手であるにしても、鈴木選手とは今大会の記録にしてもベスト(世界記録、日本記録)にしても3分の差がある(因みに瀬古さんは世界記録と2分差)。あれから日本人選手だけが置き去りにされているような一抹の寂しさがある。
 ナイキの厚底シューズは、「アフリカ人選手の使用を想定し、『マラソン2時間切り』をターゲットに開発されたためか、踵ではなく前足部から接地するスピードランナーに適している」と言われ、「独特の履き心地から多少の慣れも必要で、疲れてフォームが乱れてくると反発力をうまく推進力に変換できず、脚が『空回り』する」といった指摘もあり、「これを防ぐために、厚底シューズをいち早く取り入れた東洋大などは、体幹や股関節などの筋力強化を重点的に行った」と言われる(月刊陸上競技2020年2月24日記事)。だからこそ箱根でも区間新の記録ラッシュが続いているが、マラソンにおいても、もうひと踏ん張り、奮起を期待したい。
 他人様のことはともかく、私自身も奮起しなければならないので、運動不足解消のため、一日一時間の散歩では、ジョギングできる格好で家を出て、歩くだけではなく適当にジョギングを挟むようにしている。不織布マスクでは息苦しいので、布製に切り替えたが、やはり息苦しい(あるいは年のせいで心肺機能が衰えたのだろうか 寂)。
 東京マラソンの話に戻ると、一般参加は3年振りだった。感染予防対策は万全としつつも、高齢者を中心に自粛を呼び掛けて、例年の半分ほどの参加だった。パンデミックから平常に戻るにはまだ時間がかかりそうだが、それでも開催されたことを喜びたい。出来れば来年こそは青梅も・・・
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プーチンの戦争

2022-03-05 15:57:46 | 時事放談
 戦争は誤算から起こると言われるが、2月24日以来のこの10日間は、プーチン氏にしても我々にしても、「まさか」の誤算続きだったと思う。
 そもそもドンバス地域はともかくとして、ロシアがキエフをはじめウクライナに全面攻勢をかけるとは、「まさか」思ってもいなかった。ここまで見え透いた偽情報をロシアがばら撒くことも、非核国のウクライナに対して核で恫喝することも、またあっさり原発を攻撃することも、「まさか」思ってもいなかった。このロシアの暴挙に対して、ウクライナ軍や国民の士気は高く、とりわけ喜劇役者出身で44歳の若さのゼレンスキー大統領が、アメリカの亡命提案を振り切って、先頭に立ってナショナリズムを高揚し指導力を発揮するとは、「まさか」思ってもいなかった。これを見た西側は結束し、ドル取引どころかSWIFTからの排除(一部の銀行とは言え)やロシアの外貨準備凍結まで決断するとは、そしてドイツが戦後の殻を破って防衛方針を転換するとは、さらに永世中立のスイスが資産凍結で西側に同調するとは、「まさか」思ってもいなかった。これにビジネス界が続き、ロシアで事業展開する多くのグローバル企業がこれほど速やかにロシアからの撤退や事業停止を表明するとは、「まさか」思ってもいなかった。
 現地では膠着状態が伝えられる。キエフまで約30キロに迫った地点で、ロシア軍の64キロにも及ぶ車列が3日以上ほとんど動いていないと、BBCが伝えた。その理由について、兵站(食料や燃料の不足)や機械的な問題(劣化して整備不良のタイヤなど軍用車の故障)や渋滞(気温が上がって泥に嵌っている?)や指令と伝達の問題(通信システムの不良や公衆回線で連絡をとりあっていることなど)に加え、ウクライナ軍による予想外の抵抗や、ロシア兵の士気の低さ(多くは徴兵で、自分たちが戦闘現場に送られるとは「まさか」思っていなかった兵士もいた)などが憶測されている。いったん進軍は止めて、ミサイルによる無差別攻撃に切り替えたのではないかとも観測されている。
 そうは言っても、この巨大な縦隊はいずれ首都キエフを包囲し、陥落させるのもそう遠くないのだろう。これに対して、戦略家のエドワード・ルトワック氏は、「迅速でほとんど努力を要しない勝利が約束されていた」プーチン氏は「突然窮地に立たされた」と指摘し、デビッド・ペトレイアス退役陸軍大将(南カリフォルニア大学教授)に至っては、「これはロシアとプーチン大統領が最終的に勝てる戦争とは思えない」と語ったそうだ。「彼ら(ロシア軍)は、おそらく首都を攻略できる。だが、それを維持することはできない。…ロシア軍は(必要な)兵の数を持っていない。…ウクライナの人々は、みな彼らを憎んでいる。成人の大部分は『人間の盾』であれ『どんな武器』であれ、手にして喜んで戦うつもりなのだ。…彼らにはチャーチルのような大統領もいる。人々の士気は挫けていないし、ウクライナ軍には『自分たちの国』という地の利もある」、と。
 楽観などできない。最大の変数は言うまでもなくプーチン氏の狂気だ。別に今に始まったことではなく、コロナ禍の孤独の中で多少は増幅されたかもしれないが、既にクリミア併合のときにも、また政敵の殺害のときにも、示されていたと言うべきかもしれない。もはや「ロシアの」と言うよりも「プーチンの戦争」と言ってもよいのだろう。旧・ソ連崩壊を「20世紀最悪の地政学的惨事」と記憶し、そのルサンチマンに囚われ、それ以前の旧・ソ連あるいは旧・ロシア帝国の栄光へのノスタルジーに囚われている・・・。
 ロシア対ウクライナの戦争に欧米諸国が軍を派遣しないのは、世界大戦を避ける理性だが、経済合理性だけではなくESGまで求められるポリティカル・コレクトネスの時代精神が、前時代的な狂気に立ち向かうという、すなわち「武力」対「(武力+)経済制裁」という非対称な戦争という、歴史的な瞬間を私たちは目撃している。バイデン氏は早々に軍を派遣しないと言って、プーチン氏の狂気を「抑止」出来なかったが、果たして経済的な制裁(とウクライナへの装備品支援)で「制止」出来るのだろうか。ロシア(プーチン氏)や中国(習近平氏)といった前時代的な狂気と、21世紀の現代を生きる私たちの時代精神との間の言わば時代相の違いが悲劇を生む世界の不条理を思わざるを得ない。
 「プーチンの戦争」が行われるのをよそに、中国では平和の祭典であるパラリンピックが始まった。もとよりロシアとベラルーシは排除されているが、前時代の狂気が演じる好対照は、もはや戯画としか言いようがない。
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