風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

中国が目指すもの

2014-05-26 22:15:28 | 時事放談
 孫引きになりますが、早大の坪井善明教授によると、ベトナムの政府要人は、中国が三面方向からベトナムに圧力をかけてきていると認識しているそうです。1つ目は今回の南シナ海、2つ目は(陸路の)中越国境地域で、麻薬や武器の密輸、人身売買用にベトナム女性の誘拐等、入国管理を巡る問題だけでなく、山奥では国境ラインがいつの間にかベトナム側に入り込む形で数十メートル内側に新しく引かれたりするケースも起こっている」とのこと(同じように中国と国境を接するブータンは国土の20%近くを中国に削り取られたと報道されたことがありました)、3つ目はカンボジアからの圧力、なのだそうです。「カンボジアに巨額な政府開発援助資金や紡績業への直接投資等を集中させ」「その政財界に中国の影響力を増大させ、ベトナムの影響力を削ぐ政策をここ20年間くらい継続して取ってきている」(坪井教授)ということです。
 その結果、2012年のASEAN首脳会議で、中国に対して南シナ海での国際法を無視するような進出を非難する決議案が、議長国カンボジアのイニシアティブで拒否される結果になったのは記憶に新しい。カンボジアが中国寄りの態度をとるようになっていることに対し、ベトナム人は「カンボジアは中国にカネで買われた」と陰口を叩くわけですが、韓国のように中国依存が深まっている例を挙げるまでもなく、多くの国が中国との経済的な結びつきを強めることによって、韓国のように従来からの同盟国であるアメリカに対しても不義理するようになるのは極端にしても、表立っては言いたいことが言えない状況が生まれつつあるのは事実でしょう。
 実際に、3月下旬に日本の国際交流基金が主催し日・米・中、東南アジアそしてインドのジャーナリストや学者が参加してアジアの将来について論じた対話の中では、参加者の中から、中国の揺さぶりによって、東南アジア各国が引き裂かれつつある現状を憂うる声があがったそうです(日経新聞による)。ある識者は、中国が強大になるにつれ、東南アジアは3つの集団に分かれていくと分析しました。1つは中国の支配に抵抗しようとするベトナム、ミャンマー、フィリピンといった対米友好国、次は中国に近接し親中にならざるを得ないカンボジアやラオス、残りはその中間にあるインドネシア、タイ、マレーシア、シンガポールだというわけです。ミャンマーが、かつての中国寄りの姿勢からアメリカ陣営に取り込まれ、民主化に向けて歩き始めているのはここ1~2年のことですが、ベトナムとフィリピンは領有権争いを中心に中国と対立するためアメリカに近づきつつあり、現にアメリカは先のアジア歴訪でフィリピンとマレーシアに触手を伸ばしました。
 かつての冷戦と違って、経済がグローバル化し、世界が経済的な結びつきを強めることによって、国際政治や安全保障の中に占める経済要因の比重が増し、一筋縄では行かなくなっているとは、以前このブログにも書きました。ある人は、20世紀にはイデオロギー対立が規定する単純な世界だったが、21世紀には地政学的な対立が表面化し、ますます対応が難しくなるだろうと予測します。そのような見立てでしか理解できないような状況が、実際に次々に起こっています。ロシアにしても中国にしても、どちらかと言うと熟慮するタイプではなく、日本が熟慮の末、つまり石橋を叩いても渡らない、あるいはよくよく考えてからしか歩き始めないのに対し(韓国の三星会長は、韓国人はその中間で、歩きながら考えるのだと、その合理性を豪語していましたが)、ロシアや中国は、走り出してから考える、あるいはそれなりに考えないわけではないかもしれませんが、少なくとも周囲の反応に重きを置くことなく自分の思うところを突き進む、といったところがあります。そのあたりは、ロシアによるクリミア併合も、中国によるパラセル(中国名・西沙)諸島でのベトナムとの衝突も、また、これら渦中の両国が、欧州の反発により余剰となる天然ガスを中国に振り向けることによって歩み寄って到達した連携(長期契約)も、それぞれに対する関係諸国の反応を見れば、なるほど場当たり的で当惑させる状況であることが分かります。
 中国の場合には、何故このタイミングで?と専門家は疑問を呈し、習近平政権と江沢民などの石油閥との権力闘争に絡めて論じる人もいますが、その真偽はともかくとして、実はロシアにとっても中国にとっても、その強権政治の手法のゆえに、外交は多分に内政の影響を受けていることが、諸外国にとって分かりにくい、一方的だと、理解に苦しむところなのだろうと思います。
 そんな中、21日に上海で開催されたアジア信頼醸成措置会議(CICA)の首脳会議で、「議長国・中国の習近平国家主席は『アジアの安全はアジアの人民が守らなければならない』と演説し」「米国の影響力を排して自国主導の安全保障体制づくりを進める『新アジア安全観』を提唱した」(産経Web)ことが報じられました。かねてより習近平国家主席は、「新型大国関係」を米国に提案し、昨年夏のオバマ大統領との会談では、「核心的利益」の相互尊重と米中による太平洋分割を求めました。中国は世界の覇権を求めるのではない、ただアジアの覇権が欲しいだけなのは明らかです。そのために、例えば2005年、日本が安保理・常任理事国の座を求めたときには猛烈に反発し、中国全土で反日暴動を煽ったように、アジアの覇権を求めるにあたって、日本は目障りでしょうがないから、力を誇示して(しかし日本の自衛隊は侮れないし日米同盟も控えているので)反日暴動や、最近では国際世論に訴える情報戦という間接的手法によって日本を貶め、また東南アジア諸国は直接的に抑えつけようとしています。他方で、リバランスという名の「封じ込め」としか中国の目には映らない「関与」政策によってアジアへの傾斜を強めるアメリカも、鬱陶しくてしょうがない。しかし今は軍事力で盾突くことが出来ないため、アメリカ(やヨーロッパ)には笑顔で太平洋分割を申し入れる、というように、硬軟織り交ぜて、世界を攪乱しようとしているのが現状です。そして、中国が最終的に目指すのは、170年前に遡り、阿片戦争以来、虐げられた歴史を取り戻すことだろうと思われます。そこでは、近代的な法の支配や自由・民主主義とはおよそ無縁の、露骨な力の支配を背景とした華夷秩序となる空恐ろしさがあります。
 日中、日韓といった二国間関係だけで読み解こうとしても、無理があります。私自身もまだまだ描き切れませんが、米中、米韓、これらを取り巻くアジア、ロシア、さらにはヨーロッパと、複雑な方程式を読み解き、戦略をたて、合従連衡をさばいていく器量が問われるのでしょう。詮無いとしりつつも、このブログで私なりの途中経過を綴ります。
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ベトナム一触即発

2014-05-21 01:53:50 | 時事放談
 ベトナムと中国の双方が権利を主張する南シナ海のパラセル(中国名・西沙)諸島周辺で、中国が海底資源の掘削作業を始めると通告したのは5月3日のことでしたが、7日には中国海警の船舶とベトナム海上警察の船舶が衝突する事態に至りました。1974年に中国が同諸島の実効支配を開始してから初めてのことです。可愛い顔をして平気できついことを言う中国外務省の華春瑩副報道局長は、9日の記者会見で、日・米などが中国側の行動に懸念を示したことに対して「いかなる国も妨害したり、あれこれ言ったりする権利はない」と反発しましたが、まだ外国人記者を目の前にして慎みがあります。中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報は、同じ日の社説で、「南シナ海でのベトナム、フィリピンとの対立について『中国はグローバルな舞台に立つ大国だ』とした上で『小国が勝手に中国の権利を侵害するならこの舞台に立ち続けることができない』」(産経Web)などと、大国意識を露わにして威嚇しました。もはや南シナ海を確保するためには実力行使を辞さない、いわば牙を剥いた中国の姿がいよいよ白日のもとに晒されたわけです。
 中国と国境を接するベトナムでは、古来、中国との紛争が絶えず、ベトナム戦争以後も何度か武力衝突が発生しました。ベトナムの戦略は「民族の誇りと国土を守るために侵略軍に対して徹底抗戦し、自らの血と引き換えに侵略軍にも多大の出血を強いてやがては撤退させるという捨て身の徹底抗戦戦略に特徴がある」(サン・ディエゴ在住、戦争平和社会学者を自称する北村淳氏)とされ、実際にこの戦略によってベトナム戦争では米軍を撃退しましたし、中越戦争でも、ベトナム軍は、兵力数や戦車などの火力数で中国・人民解放軍に圧倒的に劣勢にありながら、ベトナム戦争で米軍相手に戦った百戦錬磨の民兵軍を中心として極めて屈強な上に国土防衛意識に燃えて士気が高く、中国軍を見事に撃退しました。
 このあたり、まさに韓国同様、中国と地続きで、「丁(Dinh)王朝が966年に初めて独立王朝を成立させるまで、ベトナムは約1000年にわたり中国の支配下にあり」(ベトナム在住、コンサルタント細野恭平氏)、「19世紀後半にフランスの植民地支配が始まるまで、中国との戦いの歴史であった」(同)地理的な特性によるのでしょう。「フランスや日本の支配はせいぜい数十年だが、中国は1000年居座る」と言って、ベトナム人は中国への警戒感を表現するように、反中国感情は格別のようです。
 従い、ベトナムとしては、パラセル諸島などを巡る中国との領有権紛争が武力衝突に発展した際には、「強大な中国軍にある程度は反撃を加えて手痛い損害を与えるだけの海洋戦力を保持することによって、対中抑止効果を期待し」(北村淳氏)、国防費予算では日本の18分の1程度の規模にも係らず、「第4.5世代戦闘機と言われているロシア製スホイ30MK2を36機(日本はF-2を88機)装備し、高性能潜水艦であるロシア製キロ636型潜水艦を6隻(日本は16隻)保有」(同)するなど、数年前から軍事力とりわけ海洋戦力の強化に取り組んで来たわけです。先に述べたように肝の座ったベトナムですから、いくら中国と言えども、小競り合いはしても、おいそれと全面衝突は出来ない。
 南シナ海と東シナ海という、中国にとっての「核心的利益」の戦略性の違いがあるにせよ、また日本は、日本海に阻まれ、歴史上、中国と仲良くした時期の方が稀で、極めて恵まれた環境にあったにせよ、ベトナム、また同じようにスプラトリー(中国名・南沙)諸島で領有権を争うフィリピンの大統領はNY Timesで中国をナチスに譬えて非難し、領有権を巡って国際司法裁判所への提訴を準備するなど、緊張感をもって対決姿勢を強めるのと対照的で、日本及び日本国民の「ゆるさ」が気になります。
 かねて「サンデーモーニング」の偏向振りには眉を顰めてきましたが、日曜日の朝、寝ぼけまなこで張本さんの言いたい放題のスポーツ・コーナーを楽しんだ後、ぼんやりチャネルを変えないでいると、ここ数週間、憲法改正特集「考・憲法」のコーナーが始まります。先週・先々週と、現・日本国憲法は「押しつけ?」「古い・・・?」といった批判を検証していたときにも、批判を展開するのが学者であるのに対して、反対派には何故か映画監督を起用し、論理を超えたところの情に訴えることに違和感を覚えていました。日本国の国策を検証しようとしている時に、孫を戦争に行かせたくないと訴える、戦争を経験したと自信満々のおばあちゃんの論理と言うよりは情、あるいは平和がいいとしみじみ語るおばちゃんの気分で、世論を誘導し、押し切ってしまおうとする勢いなのです。今週は「中国・北朝鮮の脅威?」というテーマで、かつて「抑止力」は理解できていなかったと白状した総理大臣がいてたまげたものでしたが、さすがに番組では、さぞ建設的な議論が展開されるであろうと期待したところ、「抑止力」の中身の検証が必要と指摘するところまでは良かったものの、耳に心地よいから要注意などと捨て台詞のように言い出す始末で、現実の危機として海洋進出を図る中国との紛争で苦悩するベトナムやフィリピンのことはまるで他人事、北朝鮮の核開発もどこ吹く風・・・といった浮世離れした風情なのです。
 最近、脚光を浴びている個別的自衛権のグレーゾーン対応の問題や、集団的自衛権は、勿論、憲法解釈という小手先の閣議決定だけで良いのかという批判はあり、なるほどその通りではありますが、既に憲法解釈が何度か変わって来た現実とどう折り合いをつけるのか。そもそも憲法解釈というシロモノが不思議で、憲法はそんなに曖昧なものなのか。それなら憲法が許す範囲で、解釈は政府による運用の方針と言えなくもないのではないか。その場合、政権交代毎に運用が変わって困ったことになりはしないかと懸念する声がありますが、国家の安全保障が政権交代の度にひっくり返る方こそ困りモノであって、その意味ではどうも日本固有の特殊な事情、端的に異常な状況にあるのではないかと思ってしまいます。やはり「備え」(法的整備だけでなく防衛上の装備も)がなければ「安全保障」にはならない以上、「備え」はしなければならない。でも平和な日本にあって好んで戦争を仕掛けたい人は殆どいないわけで、実際の「運用」は別に法で厳格に定める、というのが法治国家のあるべき姿であり、国民が選ぶ政治家に最終判断させることがシビリアン・コントロールであって、普通の国家のありようなわけで、そちらの方の議論を尽くすことがより重要だと思うのですが、どうして「備え」もないまま、入口のところでつっかえてしまって平気なのか、不思議でなりません。
 武力をもたないと憲法で謳いながら自衛隊という立派な軍隊をもち、それでも専守防衛と宣言したものだから空母は持つことが出来ず(だけどイージス艦にヘリを搭載するくらいならいいだろう)、それでまともに日本を救えるのでしょうか? 迎撃ミサイルの実効性は甚だ怪しい。急迫不正な攻撃を受けない限り武力反撃ができない状況で、自衛官を海外派遣しながら手枷・足枷を強いたままで良いのでしょうか。いくら平和を叫び、憲法改正に反対しようと、そこに痛みを感じない日本人を、私はどうも信用できません。こういった歪みはさっさと解消した方が良いし、もっと冷静に大人の議論をするべきではないかと思うのですが、どうでしょうか。逆に、個別的・集団的自衛権なしに、どうやったらこの国を、つまり国の領土と国民の生命や財産を守れるのか、説得力のある説明を聞きたいくらいです。
 さて、日本の置かれた安全保障環境に戻りますと、「欧米の大国にはおもねりながら、近隣の小国には見下した恫喝を行う。外から見える中国は実に卑屈な存在なのだが、不思議なことにご本人は決してそうは思っていない」という、元・外交官の宮家邦彦氏の言葉をかみしめたいと思います(次回以降につづく)。
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錦織圭の快挙

2014-05-17 20:42:12 | スポーツ・芸能好き
 テニス界で、記録を残した日本人として記憶に残る選手として、世界ランク1位のグラフを破った伊達公子が先ず浮かびます。調べてみると、今から18年前、1996年のフェドカップのことでした。当時、ボストンに滞在していて、NHK衛星すら見ることが出来ず、現地の番組表を見ながら“Date”(デートじゃありません)の名前を見つけて、喜び勇んでテレビ観戦したのを思い出します。その翌年の同じ大会だったと思いますが、ボストン郊外のテニス・コートまで観戦に行きました。その時の日本人トップ選手は杉山愛で、ほかに沢松奈生子がいて、相手コーチにナブラチロワを見かけた記憶があります。ボストン日本人会の活動をしていた知人は、かいがいしくお握りなどの差し入れをして選手からサインを貰ったりしていたものですが、我が家は1歳の乳飲み子を抱えて、退屈する子供をあやしながら、子守り半分、観戦半分、疲れて会場を後にするところで、同じく会場を後にする杉山愛の乗った車にばったり出会いました。アメリカの片田舎で、ちぎれるほど手を振る日本人の私に気が付いて、手を振り返してくれて、と~っても感動していたら、家内が、あら、手を振っていたのは子供に対してよ、と・・・。
 伊達公子が世界ランク4位まで駆け上ったのは1995年のことであり、杉山愛が8位になったのは2004年のことでした。男子は、熱血・松岡修造が、ウィンブルドンで日本人男子として62年振りにベスト8に進出したのが、伊達公子の世界ランク4位と同じ年で、話題を呼びましたが、世界ランクは46位(1992年)に留まりました。
 先週、錦織圭は、マドリッド・オープン決勝でナダルと対戦し、第一セットを6-2で奪い、第二セットも後2ゲーム奪えば頂点を狙えるところまで追いつめながら結果として4-6で落とし、迎えた第3セットを0-3とリードされたところで、臀部等の痛みのため惜しくも棄権し、準優勝に終わりましたが、決勝進出が決まった12日に発表された世界ランキングで、ついに9位に浮上しました。昨年6月に11位と迫っていて、時間の問題とされていたものですが、日本人男子プロとして初のトップ10入りには感慨深いものがあります。
 錦織圭の場合、身長178センチ、体重74キロと、一般よりは十分に大きいですがテニス選手としては小柄のため、無理をするせいか常にケガの心配があるわけですが、今季は「ストロークの安定感」と「サーブの向上」の点で成長したと、本人自身が語っているようです。「ストロークは単に安定しているだけでなく、早いタイミングで捕えて強打を鋭角に打ち分けてなお、ミスを犯さぬ安定感がある」(内田暁氏)ようですし、サーブ改善の最大功労者として、錦織圭自身、新たにコーチに迎えた元全仏王者のマイケル・チャンを挙げ、実際に「戦術の幅」が広がったと評判のようです。また、「バウンド後に大きくサイドに逃げていくスライス・サーブも、今季は錦織圭の危機を何度も救ってきた生命線。錦織の関係者が『チャンも錦織と似た身長なので、打点や打つコースの指摘が合っているのだろう』と語っている」そうです(内田暁氏)。
 こう見えて(どう見える?)小学生の頃はリトルリーグ相手に、自分たちだけでコーチを互選しながら手造り野球チームでしのぎを削り、中学生の頃は軟式でしたがテニス部に所属し、高校生の頃は有り余る若いエネルギーを(結果として余計なところに向かうことなく)中距離を専門とする陸上に注ぎ、大学では同好会でしたがゴルフに興じていた私としては、二番目に目覚めた(?)スポーツであり、今なお、その経験した順番通りにスポーツに興味があって、最近の錦織圭の活躍には目を奪われますし目を見張ります。2週間前のバルセロナ・オープンでは優勝しましたし、3月のソニー・オープンではフェデラーを破りベスト4に進出したのが記憶に新しい。そして今回は、12日に発表された世界ランク1位のナダルとも互角にわたりあい、そのナダルをして「今季はこれまでのキャリアで最高のレベルにいるように思う。けがが深刻ではなく、全仏オープンに出られることを祈っている」と言わしめました。本人は「(トップ10は)目標だったのでうれしいけど、1週入っただけでは意味がない。1年通して、いられるようにしたい」と語り、今後ますます体力をつけ、世界を舞台に活躍する姿をワクワク見続けたいものです。
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広重ブルー

2014-05-13 01:40:28 | たまに文学・歴史・芸術も
 ゴールデン・ウィークは飛び石でしたが、私の会社は通しで休みでしたので、世間が働いている日を利用して、また学校も暦通りに動いているので家族からも後ろ指さされることなく(!)、ゴルフや美術館巡りなど、ちまちま遊んでおりました。今日はその内の美術館巡りの話です。
 標題にある「広重ブルー」は、原宿にある太田美術館の企画展です。「広重が活躍した当時、既存の藍色とは異なる、オランダ舶載のベロ藍(ベルリンブルー、プルシアンブルーとも)が中国で安価に生産されるようになり」、「浮世絵にもベロ藍がさかんに使用され」、「その人気は浮世絵界を席巻し」、「溪斎英泉や葛飾北斎など多くの絵師が次々とこの新しい青色を用いた作品を世に送り出し」ました。「なかでも広重は空や水辺の情景を表現する際、時には大胆に、時には繊細に青色を用いることで作品に豊かな叙情性を盛り込み」ました。今回の展示は、「国内外で人々を魅了し続ける広重の青色」、「その美しさの秘密に迫る展覧会」だということです(以上は太田美術館のHPより)。
 この展示を見るまでは、ブルーと言えば、フェルメールか北斎だとばかり思っていました。10年ほど前、新宿の百貨店で開催されていた北斎展で見た「富嶽三十六景」の青が余りに鮮烈だったからですが、言われてみれば「東海道五十三次」でも青は鮮烈であり、実際に印象派やアール・ヌーヴォーの芸術家に影響を与えた「ジャパン・ブルー」は「ヒロシゲ・ブルー」とも呼ばれるようです。しかし私の思いこみはそれほど間違っていたわけではなく、北斎の「富嶽三十六景」は1823年頃から作製が始まり、1831年から35年にかけて刊行された(Wikipedia)一方、広重が初めて江戸から京都まで東海道を旅したのは1832年で、その往復路に描いたスケッチをもとに翌33年~34年にかけて「東海道五十三次」が作製されたと言われますので、時期はほぼ重なります。そして、40歳近い年の差を越えて、広重は、教えを乞うため、尊敬していた北斎老人のもとをよく訪ねたと言われますので、恐らく北斎老人から「ブルー」の着想も学んでいたことでしょう。
 この「ヒロシゲ・ブルー」についてググっている内に、「藍色工房」という、「自社農園で藍を育て、藍の石鹸や藍染め雑貨を製造販売」し、「日本製の藍顔料を、ある一定量を超えて定期的に精製しているのは、おそらく日本で私たちだけ」と自負される方のブログに辿りつきました。以下は、暫くはその方のブログ(http://aiiro.ashita-sanuki.jp/e544463.html)からの引用です。
 「ベルリン藍」がなまったとされる「ベロ藍」が日本にやってきた最初の記録は1807年(ドイツで発見されてから100年後)で、浮世絵の絵具として一躍有名にしたのは、北斎の「富嶽三十六景」なのだそうです(企画展でも、天保年間の1830年頃と説明されていました)。当時、青色顔料には、植物の藍・露草や、鉱物由来の群青が存在しましたが、植物顔料は退色が速いことが難点でしたし(現に今に残る浮世絵の色の退潮が激しいのはそのせいです)、鉱物顔料の群青(銅が地中で化学変化を起こして青く発色したもの)は僅か60gが米一俵と同じ値段!と高価なため、浮世絵に使用されることは滅多になかったようです。だからと言って、安いからベロ藍に飛びついたわけでもない、と「藍色工房」さんは主張されます。日本人が慣れ親しんできた藍染めの藍色は、藍染めの布でこそ「鮮やか」な色合いが表現されますが、紙にうつされる顔料の藍は「鮮やか」と言うよりは「重厚な」もしくは「しっとりと落ち着いた」青色になり、濃淡を表現しようと、濃い色の部分を塗り重ねると、どうしても重く黒っぽい色になってしまうのだそうです。それは恐らく顔料そのものに含まれる植物由来の灰汁などが特有の濁りとなり、布に染まっているものなら水に通して洗い流して色の鮮やかさを演出することが出来るのに対し、紙ではうなくいかないせいではないかと解説されます。つまり、慣れ親しんできた理想の藍色を紙の上で表現することが困難だったところに、合成故の色鮮やかな青い顔料が持ち込まれたというわけです。
 それからもう一点、「藍色工房」さんのブログでは、ベロ藍が再認識されたのが、ドイツで発見されてから150年以上経ったパリ万博(1867年)の、よりによって日本の浮世絵だったのは何故か、という問いについても解説されています。ヨーロッパの絵画は「油」性で、顔料を油に溶き、布のキャンバスの上に盛って行くという描き方で、絵の具に固着剤として含まれる膠などが酸化して若干の色彩の変化を促してしまうことも珍しいことではない一方、日本の絵画は「水」性で、顔料を水にとき、肉筆や版画で紙に色素をしみこませる描き方で、当然、水以外の不純物を多く含まず、顔料そのものの色合いが紙に再現されるというわけです。
 さらにもう一点、「藍色工房」さんのブログで、当時の日本は、身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代だ、と形容されているのに、大いに合点しました。実際に、当時、来日したイギリス人(後の小泉八雲)が「青があふれている国」と書き記した手紙が今でも残っているそうです。そんな生活をしていたからこそ、絵師が求める青色は、慣れ親しんできた藍染めのさまざまな藍色のバリエーションだったことだろうとも言われますが、まさにその通りでしょう。浮世絵は、絵師と彫り師と刷り師との合作と言われますが、刷り師の技量が藍色のバリエーションを紙の上で見事に再現しているではありませんか。
 かつて、銀塩カメラ全盛の頃、富士フイルムは青を美しく見せるのが特徴であるのに対し、コダック・フイルムは黄色が強いと言われたもので、カメラ小僧としてもその印象を強くしますが、それは日本が四方を(青い)海に囲まれ(その青を映す)川や湖など水資源豊富な島国で(ロンドンの鉛色の空と比べるまでもなく)青空が澄み渡り、日本人が(青い)富士山を自然遺産としてのみならず文化遺産としても主張できるほど崇拝や文芸の対象にしてきた面目、というのは考え過ぎでしょうか(とすると、アメリカは砂漠の大地である黄色への思い入れ?というのも考え過ぎですね)。現に富士フィルムの技術者へのインタビューによると、同社は「人が見たときに心地良い色」を目指し、「撮影した人のみならず、その場にいなかった人が、その写真を見て心地良く見えるような写真をイメージ」していると言います。また、「色再現には3つの項目」があり、「一つめは階調性、二つめは忠実な表現、三つめがその記憶色の再現」で、「これらに加えて安定したオートホワイトバランス」、どれも重要ですが、「特に記憶色と呼ばれる部分を大事にしているのは確か」だとし、「記憶色といってもいろいろな色があるのですが、富士フイルムではマリンブルーやスカイブルーといった青、それから緑、そして肌。この3点に重きを置いて」おり、「青や緑は一般的に彩度が高い色が好まれますから、やや鮮やか目に」していると言います(http://camera.itmedia.co.jp/dc/articles/1308/19/news040.html)。
 今回の企画展では、ベロ藍導入の前・後の色の発展をも示す展示になっており、幕末・明治の頃には、舶来の赤色の顔料が登場し、それまでの浮世絵ではどちらかと言うとワンポイントだった赤系統の色合いが、明治以降は多用されて途端に色鮮やかになることも分かります。その鮮やかさは、現代の私たちのみならず、当時の人々にとっても、ある意味で文明開化の象徴のようにも映ったことでしょうが、見ている内に、ちょっと食傷気味にも感じ、青色中心の世界を懐かしく思うのは気のせいでしょうか。古伊万里の世界でも、浮世絵と時間差はありますが、呉須(コバルトが使われます)で下絵を描き釉をかけた染付の青から、やがて色絵が登場し、華やかになりますが、日本人に馴染みの青の、単調に見えて、実はグラデーションによって深みが増す、いわば幽玄の世界にこそ、つい惹きこまれます。
 藍は、「シルクロードを通って、インドから中国、そして日本へ」と伝わったとされ、「正倉院の宝物の中には、藍染めされた布や糸がいくつも納められ」ており、「奈良時代には既に栽培されていた」ことが文書で確認されるそうです。平安時代に編纂された延喜式には、「藍色が、濃淡の違うたくさんの呼び名で紹介され」、「(濃く青く染めつけることが出来ない)生の葉を用いたとする表記と、『乾葉』すなわち乾燥した葉を用いたとする表記」があるそうです。しかも、「乾葉を用いて『深縹(こきはなだ)』を染めた、とあることから考えれば、すでに(濃く染めるために、現在行われているような)『建て染め』がされていたと考えるのが自然」なのだそうです(http://www.blue-edge.jp/01_history_2.html)。
 先に紹介した「藍色工房」さんのブログで、「当時の日本は、身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代だ」、というのは、あながち誇張ではないのかも知れません。鎌倉時代には藍の濃紺のかち色(勝ち色)として武家に愛好されていた藍染めが庶民に普及したのは、江戸時代の初め頃のことだそうで、野良着やもんぺなどの仕事着で木綿の着物を着るようになったのがきっかけと言われます。「広重ブルー」は、墨ひとつで無限のバリエーションを水墨画に表現したほどの繊細な日本人が、また、藍でもグラデーションを楽しんだ、日本人のモノトーン(今回は青)に対する思い入れの、いわば集大成(あるいは日本人にとっては些細なごく当たり前の選択?)と言えるのではないでしょうか。日本人の色に対する美意識の原点を見つめ直すのもよいと思いました。
 太田美術館「広重ブルー ~世界を魅了した青」、実は既に後期に入りましたが、今月一杯、5月28日までの開催です(なお、前期は4月1日~27日でしたが、見逃しました)。
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事故と再発防止

2014-05-09 00:13:09 | 時事放談
 前回のブログでは、メディアを巡る、功罪のうちの主に罪に近い方の話でしたが、最後にもう一度、旅客船事故の話に戻ります。一連の報道を見ていて、感覚的にではありますが、海難救助に不慣れな韓国は、安全管理以前の問題として、海洋国ではなく大陸国なのかもしれないとの印象をもちました(あくまで日本と対比しての話です)。それは恐らく中国においてはなおのことで、海洋大国として台頭しようとしていますが、伝統的な大陸国から方向転換するのは並大抵ではないだろうと想像されます。国境を14の国と接し、その膨大な国境線を守るだけでも大変な労力が必要であり、軍事費も(それから治安維持費も)並大抵ではないはずですが、このあたりは余談で、稿を改めたいと思います。
 いずれにしても、こうした大事故の後は、日本にあっては(そして普通の先進国でも)、事故の経緯を検証し、原因を究明し、再発防止策を練り上げ、「仕組み」として取り込むものです。何故なら、事故の「記憶」そのものは時とともに薄れていくからです。日本の安全は、そうした「仕組み」の積み重ねによって担保され、日本人の安心は、そうした人々の取り組みの上に、ひいてはそんな人々の信頼の上に成り立っていると言ってもよいでしょう。
 ところで、年末のことでしたが、創業357年の飴店「桂飴本家 養老亭」(京都市西京区)が閉店するとのニュースが報道されました。(売上減などの)金銭的な問題というより、力のいる作業ができなくなった当主の体力の限界が理由だと説明されていましたが、これは極端にしても、日本には創業100年以上の長寿企業(個人・各種法人を含む)が2万6千社に達するそうです(帝国データバンク調べ)。この内、従業員10人未満が62%、年商10億円未満が82%と、比較的小規模な企業が多いようで、なんとなく納得します。また、6年ほど前、韓国銀行が発表した「日本企業の長寿要因および示唆点」と題する報告書によると、世界で創業200年を超える企業は、当時41ヶ国5,586社に及び、実に日本に3,146社(56.3%)が集中し、続いてドイツに837社(15.0%)、オランダに222社(4.0%)、フランスに196社(3.5%)の順となっているそうです。世界最古の企業は、ご存知、金剛組で、創業は西暦578年(!)、2位は甲州西山温泉慶雲館(創業705年)、3位は1千年の湯古まん(創業717年)と、日本企業の独擅場です。因みに韓国に創業200年を超える企業はなく、創業100年を超える企業は辛うじて2社(斗山、東洋薬品工業)あるに留まります。
 何故、日本にはこんなに長寿企業が多いのか。いろいろな理由が考えられることでしょう。私が見たその「環境会議」「人間会議」編集部の記事では、「植民地化や長期にわたる内戦などで人や産業が壊滅的な状態にまで追い込まれることがなかった」ことが挙げられていましたが、確かに日本という国体が続き、戦後の一時期を除いて他国・多民族から侵略・支配を受けたことがないのは重要な要件と思います。そのほか、日本の伝統的な中小企業は、目先の利益や浮利を追わず、本業に専念して手堅い経営を行うことが多いように思いますし、地域密着型で、どちらかと言うと儲けを求めるよりも顧客と持ちつ持たれつで永続的な関係を重視することが多いようにも思いますし、競合他社とも何等かの棲み分けを行い共存共栄する知恵もありそうですし、家族経営の企業では、切れ者の番頭さんが仕切っていたり婿に迎えたりして、血縁関係がなくても優秀な人に後を継がせる仕組みがあって、意外にしぶといようにも思います。私がここで言いたいのは、日本の長寿企業は、ただ古いだけではなく、たゆまぬカイゼンによって進化しているのではないかという想定です。代を経るごとに、一ヶ所にとどまることなく、と言うのは、多角化を意味するのではなく、専門とする領域でワザを磨き、あるいは工夫して専門の幅を少しずつ広げるなりして、強くなり(ダーウィンに言わせれば、変化によく対応し)、常にお客様の期待を上回り、驚かせ、感動をお届けする、そんな心掛けをもつ経営者が多いのではないか、それこそが長寿の秘訣ではないかと思う次第です。つまり、小さな成功を積み重ね、あるいは隠し立てすることなく失敗からも学んで、次には失敗しない工夫を凝らし・・・と言った、多かれ少なかれトヨタに見られるような小さなカイゼンの積み重ね、あるいはそれを着実に行う生真面目さや謙虚さや潔さと、東日本大震災で世界に見せつけた譲り合いや相手を思いやる気持ちこそ、日本人のサガでありDNAとでも言うべきものだと思うわけです。
 閑話休題。今回の韓国の旅客船事故で、乗客にその場に留まるようアナウンスが繰り返されたのは、救命ボートがワイヤーで固定されたままで(ということもビデオ映像から明らかになりました)、転覆しても機能しないことを知っていたからではないか、といった穿った報道もあるようですが、なんだか悲しい話です。韓国にあっても、死亡や行方不明で302人に達する犠牲者を弔うためにも、隠し立てされることなく、謙虚に真実が詳らかにされ、再発防止の取り組みが真摯に行われることを、ただ祈念するものです。
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メディアの功罪

2014-05-05 09:51:00 | 時事放談
 再び韓国ネタですが、事故後の報道を見ていて、一口に韓国と言いますが、その実体は何なのか、所詮はメディアを通して語られる韓国なのではないかと、ふと考えさせられます(韓国のメディアしかり、日本のメディアもしかり、ですが)。
 三日前、ソウルの地下鉄で追突事故があり、約240人が負傷したことが報じられました。旅客船事故が収束しない中で、公共交通機関の事故が相次いで、市民から怒りと嘆きの声が噴出しているそうですが、気持ちはわかります。同じ日、鬱陵島からあの竹島に向かっていた旅客船のエンジンが故障し、竹島行きを断念して鬱陵島に引き返したのは、点検が手抜きだったのではないかとの指摘が出ているようです。通報を受けた海洋警察が警備艦2隻を現場に派遣し、万一の事態に備え護送したのは、ちょっと大袈裟に見えますが、韓国のこのご時勢ならやむを得ないのでしょう。
 それはともかくとして、あの韓国の旅客船事故では、携帯電話で撮影されたビデオ映像が新たに公開されるなどして船舶会社の安全管理の杜撰さや、船長ら乗務員の無責任な行動や、海洋警察の初動対応の遅れや不手際が、あらためて明らかになり、非難の声はとどまるところを知りません。首相が初動の遅れの責任を取って辞意表明したのは27日でしたが、メディアの批判は、責任を認めず謝罪もしない朴槿恵大統領に向かい、政権支持率は50%を割り込んでしまいました(それでも50%近い支持率がある方が私には驚きですが)。そのような雰囲気の中で、メディアからは自己批判の声も上がっています。「日常的に信号無視が横行」し、「バスが定員超過で猛スピードで疾走」し、「タクシーの運転が乱暴」な韓国社会の安全意識が希薄であることを警告する報道や(因みに日本の外務省ウェブサイトでも「運転者、歩行者とも交通ルールを守らない場合が多く、運転も乱暴」として注意を呼び掛けているそうです)、日本が国民の安全に高い意識を持ち、コストと時間をかけている点が注目され、日・韓の救難体制の差が盛んに論じられ、日本を見習え、との指摘まで飛び出す始末です。
 反日の国にあって、ここまで豹変するのか!?と思うかも知れませんし、「憎まれ役の日本からも学ぼうとする謙虚な姿勢は評価されこそすれ、非難されるべきではない」(産経)などと報じるメディアもありましたが、いつかどこかで見たような・・・そう、室谷克実さんの「悪韓論」(新潮新書)で紹介されていた韓国メディアそのものです。韓国メディアは「主観的、感情的で批判精神が旺盛」(産経・黒田氏)、つまり自己批判もまた激しい。それは、読後の印象ですが、一般国民(今回の場合で言えば被害者)の声を代弁し政府を批判することにメディアとしての大義を感じ、その実、自己陶酔し、批判を政府に向ける時の常套手段で、日本を比較の対象にしながら、あの日本ですら、というように、日本に対する優越感の裏返しで政府を貶めるところがあり、もっと言えば、先進国・日本になかなか追いつけない苛立ちも背景にあるのではないかと察せられます。そして、これらのことはムードに流されやすい。
 儒教の国と言うより科挙の伝統のなせるわざなのか、韓国では、一般にエリート意識が強く、メディアにも、(無知蒙昧な)民を優しく教え諭し導く存在であることを自負するところが強いと伝え聞きます。メディアは、一般に社会の公器、ひいては第四の権力などとも言われたものです。日本ではさすがに「社会の公器」と自称する程度ですが(それすらもおこがましいことを感じますが、ここでは触れません)、韓国にあっては、自他ともに認める立派な権力機構と言うべきではないか。そんなメディア報道を、まるで韓国民の意識を映す鏡であるかのように私たちは日々受け止めているわけですが、どうも怪しい。ソウル駐在歴30年になる前述の産経特別記者・黒田勝弘氏によると、今ほど韓国民の反日レベルが下がっていることはないと、ほんの数週間前、テレビの座談会で述べておられました。これを聞いて、驚かない日本人の方が少ないだろうと思います。韓国民がこんな状況だから、メディアは却って反日を煽っているのではないか、とも述べておられたのが印象的でした。
 韓国の司法や政治の動きを見ていると、同じ民主主義と言っても日本とは違う印象を持つのは、いろいろな事実が伝えられるからこそですが、一般国民のことになると、なかなか理解しにくい。だからこそ世論調査があるのですが、それすらも質問の設定の仕方などによって意図的に偏向され得る。メディアが「主観的、感情的で批判精神が旺盛」であるのは日本も似たようなもので、それでも自国のことであれば、感覚的にズレていることは分かりますが、他国のことになると、そういった感覚が、自分の目で確かめない限り、働きません。報道される国の姿は、当たり前のことですが、あくまでメディアを通した姿であることを認識すべきなのでしょう。中国でも韓国でも、反日が官製であることでは同じですが、メディアも官製の中国とは違う意味で、韓国にあっても政治とメディアによって反日が形成されていることを思わざるを得ません。
コメント (2)
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