風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

昨日のサイゴン、今日のカブール

2021-08-22 13:38:42 | 時事放談
 アメリカがアフガニスタンから荷物を放り投げて逃げ出すように撤退するのは無責任だとして、国内外から批判を浴びている。撤退自体はトランプ政権からの既定方針であって、その実行戦略が問われているわけだ。古来、撤退戦は難しいと言われ、殿(しんがり)は、味方の援護を期待できない中、限られた兵力で勢いづく敵を迎え撃たなければならない損な役回りながら、人格・兵法ともに優れた武将でなければ務まらないという意味では誉れ高い、複雑な仕事とされる。
 タリバンが予想外に速く国内を制圧してしまったことには、大いなる誤算があったようだ(いや、誤算なのか、諜報の不手際と言うべきなのか、分からない)。過去何世紀にもわたって部族支配という地方自治を続けてきたアフガニスタンに強力な中央政府を確立するべく、アメリカをはじめ西側諸国はその能力構築を支援してきた。しかし、いざ、米軍の後ろ盾がなくなり、タリバンが制圧に動き出すと、アフガニスタン政府軍・警察は蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。そもそもガニ大統領はじめ指導層が逃げ出したのだから、指揮官なしに戦えないのは道理だが、アレクサンドロス大王の東征以来、外来勢力によって入れ代わり立ち代わり支配されて、そうした外来の支配者との付き合い方に慣れている、すなわち支援を引き出して私腹を肥すことに余念がなく、寝返って勝ち馬に乗ることに長けた人たちだと評する声がある。ちょっと差別的と捉えられかねない言いようだが、「文明の交差点」における「生き様」であって、私たち島国の日本人には肌感覚で分かり辛い。例えばタリバン6万人に対峙する政府軍30万人は、「幽霊兵士」と言われるように、給与をくすねるために虚偽申告されて40~50%も水増しされているのではないかと報じられる。なお、アフガン人を弁護するために付け加えると、この5年間に約5万5千のアフガン兵が、バイデン政権になってからでも2千6百の兵が、タリバンとの戦闘で戦死しているらしい(島田洋一教授による)。決して、西側世界の支援に胡坐をかいていたわけではないようだが、部族的あるいは家族的なるものへの執着が強い彼らの士気は必ずしも高くないとも言われ、なかなか難しい土地柄である。
 さらにバイデン氏の性格を懸念する見方もある。トランプ政権がタリバンとの暫定和平合意に至ったのは2020年2月で、イランのソレイマニ司令官をドローンで殺害した直後のことだった。トランプ政権には予測不可能なある種の蛮勇があって、北朝鮮に対するのと同様、それが脅しになっていた可能性があるが、それを国際法違反と断じた人権派のバイデン氏は、足元を見られているのかも知れない。
 いずれにしても、結局、中央政府は街や道路など点や線でしか支配できていなかったのではないかと総括される。このあたりはシナ事変にも似て、ゲリラ戦に相対する大国は個々の戦闘や戦場では圧倒的な強さを見せても、最終的に戦争で勝つとは限らない、ということだ。その意味ではベトナムの二の舞いでもある。
 こうして思い至るのは、統治の難しさだろう。
 民主主義は最悪の体制だと、チャーチルは言った(歴史上のどの体制も除けば、との条件付きで)。私たちは自由・民主主義をつい歴史の必然と思いがちだが、そうではなさそうだ。古くは梅棹忠夫さんは『文明の生態史観』で、ユーラシア大陸において東・西端にある日本と西欧の生活様式が高度の近代文明にある第一地域として、その他の第二地域と区別された。近代文明とは、今となっては大時代的で苔むした言葉だが、大雑把に経済における資本主義と政治における自由・民主主義を両輪となして繁栄する体制と言ってよいだろう。広大な大陸の端っこにある飛び地のような日本と西欧だけが、歴史的に封建体制を経験し、そこで養成されたブルジョア(これもまた苔むす言葉だ)が革命によって支配権を握るという平行現象が見られたというわけだ(他方、第二地域において革命で支配権を握ったのは独裁者体制)。歴史は一本道のように進化するというマルクス的な進歩史観への反駁として、道はいくつもあり、主体と環境との相互作用によって遷移(サクセッション)なる現象が起こるとする生態学からのアナロジーである。すなわち優劣を超えた問題だということだ。アフガニスタンの地に自由・民主主義を確立できなかったのは、巷間言われるようにアメリカの失敗には違いないが、櫻田淳教授は、「『民主主義』という政治体制や『自由』を筆頭とする諸々の価値は、それに合う文明上、社会上の『土壌』にしか根付かない『植物』である。『カブール陥落』が暗示するのは、そのような『土壌』がアフガニスタンにはなかったという事実に過ぎない」と言われた。
 このように「カブール陥落」は、自由・民主主義という価値観そのものの後退とは必ずしも言えないように思う。同様に、超大国アメリカの凋落を象徴するというのも、言い古されたことではあるが、言い過ぎのように思う。
 本ブログのタイトルは、中国・国営メディアのグローバルタイムズが、ネットユーザーの間で人気を集める表現だとして紹介しているものだ。「サイゴンの昨日、カブールの今日」には、当然のことながら「台北の明日」という言葉が続く。台湾の人々への体の良い恫喝であり、アメリカの介入への揶揄である。
 まさにアメリカという国は、自由・民主主義を奉じる理念の国、一種の原理主義の国でもあって、傍から見ているとハラハラするほどお節介で、ベトナムで失敗してなお、懲りない性格だが、昨今の混乱を見ていると、アメリカの失敗への恨みつらみは、詰まるところ、アメリカ抜きには成り立たない国際社会(とりわけ西側世界)の現実をまざまざと見せつけるものでもある。アフガニスタン駐留は、米軍が主体だった。良い意味でノブレス・オブリージュとして負担を進んで引き受けるアメリカの良さと言えるだろう。実際に、いくつかの面で成功を収めたことは否定できないと同情的に見る報道もあった。世界最貧国の一つであるアフガニスタンで無数の人々の生活改善を支え、女性の人権を向上させ、独立したメディアの設立や学校、病院、道路の建設を支援してきた・・・と。
 他方、ロシアや中国は、アメリカの失敗をほくそ笑んで見ていると報じられるが、話半分だろう。この地域がテロの温床となって再び不安定化する事態は、イスラム教徒の中央アジア諸国という緩衝地帯を控えるロシアにしても、新彊ウイグル自治区を内に抱える中国にしても、とても他人事とは言っていられないからだ。ロシアにしても中国にしても、西側諸国のように狼狽することなく、カブールで外交使節を動かさないのは、タリバンがロシアや中国へのテロ組織や過激派の流入を抑える(引き換えにロシアと中国は経済・軍事支援を行う)という裏取引があるからだと噂される。所詮、ロシアにしても中国にしても、自らの統治の安定を最重視する対症療法しか策はなく、根本的に地域秩序を確立するといったような大義は望むべくもない。せいぜい地域大国を目指すものではあっても、世界の覇権を狙う意思があるようには見えない(そんなことは誰も期待しないが)。
 これからアフガニスタンはどうなるのだろうか。
 部族制を基本とし、多様な民族や宗派を抱えるアフガニスタンを中央統治するのは、タリバンと言えども簡単ではなさそうだ。「アラブの春」を思い起こすまでもなく、地域の安定のために強権統治に舞い戻ると想像するのは難くない。いや、20年前の経験に学んだタリバンは、穏健化するのではないかと期待する声がある。国際世論を意識した最近のタリバン幹部の声明を聞く限り、そう思えないこともない。中国共産党ですら、人民の生活向上を、そのための経済の発展を、自らの統治の正統性(正当性)を担保するものとして重視する時代であり、その意味でも国際社会の支援は欠かせない。しかし、そう簡単に性格が変わるものではないと冷ややかに見る目もある。タリバンと言えども一枚岩ではなく、末端まで含めて方針が徹底するとは限らず、現に20年前の統治を彷彿とさせるような過激な動きが末端で出始めているようだ。
 西側世界の住民としては、この20年のアフガン人の経験は、最近のミャンマー人の抵抗に表れるように、決して小さなものではなかったと思いたい。中国では、共産党政権が経済発展の一方で監視社会化を進め、民主的な停滞はむしろ強化される一方だが、このパンデミックが時計の針を進めたと言われるように、アフガニスタン(やミャンマー)での民主的な統治の経験は、仮にアメリカをはじめとする西側世界による外来の一時的な支援に基づくものであったにせよ、もはや民主化は不可逆的とも言えるような遷移(サクセッション)の契機になったと、後の世に振り返るようになることを願ってやまない。啓蒙主義思想を持ち出すまでもなく、決定するのはタリバンではなく、住民なのである。
 その意味でも、言い訳がましいバイデン大統領の発言には、留意すべきだろう。「アフガン政府軍が自分たちのために戦う気を見せない戦争で、米軍が戦うことは不可能だ。米軍は戦うべきではなく、死者を出すべきではない」、と。その限りにおいてはその通りで、台湾の人々の抵抗の意思が確固たるものである限り、中国共産党は攻めあぐねるだろう。尖閣諸島を守ることでも同様だ。それなのに、日本はアフガニスタン在留邦人保護のために自衛隊機を出す手続きを踏んだようには見えなかったのは、残念だ。国家意思を見せて欲しかった。このあたりは戦後日本人の弱点であろう。
 そんな気迫に欠ける日本人の一人ではあるが、この撤退戦の無事をも祈って止まない。

(補足)日経(2021.08.23)によると、「加藤勝信官房長官は23日午前の記者会見で、アフガニスタンに残る邦人らの退避のために自衛隊機3機を派遣すると発表した」ようだ。「今夕に第1便が出発する。国際機関に勤務する邦人に加え、日本大使館などで働いていたアフガニスタン人スタッフを運ぶ計画だ」ということで、先ずはやれやれである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京五輪・分断の理由

2021-08-12 00:39:16 | 時事放談
 私のようなオリンピック大好き人間にとって、此度はオリンピック出場選手が不憫でならない、残念な大会だった。いや、事前の圧倒的多数の反対派(民意と言うよりは所謂オピニオン・リーダー)に気兼ねして声を出せなかった人たち(民意)が、いざオリンピックが始まってみれば素直に応援の声を挙げることが出来る明るい雰囲気になれたことは良かったと思うが、実際に、現在進行形のメダリストのインタビューでは、移ろう民意を忖度して、この場に立てたこと、オリンピックが開催されたことへの感謝を表明する選手が相次いだ。前回・前々々回のブログ(「東京五輪・開幕」および「同・閉幕」)では、理不尽な現状に多少自棄になりながらも(笑)、私なりに自己批判(オリンピック批判)を試みたのだったが、そもそもこの民意の分断は何だったのか、何故おこったのか、あらためて考えてみたい。
 橋下徹さんは今日のプレジデント・オンラインで、「感染拡大を心配する側は徹底した反対派になる。リスクはないと考える側は徹底した賛成派になる」とズバッと本質を衝かれた。橋下さんの批判は、飽くまで「インテリ」という、橋下さんお得意のやや苔むした呼び名ではあるが(笑)、学者・ジャーナリスト・評論家・ブロガーなどの言わばオピニオン・リーダー(というのも苔むした呼び名 笑)的存在に向けられていて、民意(国民全般)とは区別されている。曰く、「東京オリンピックが閉会した今、国民の多くは『開催してよかった』と感じる一方、新型コロナ感染症の感染拡大には不安を覚えている。しかし、世間のインテリ論者は「オリンピックと感染拡大」の因果にこだわり、こうした民意が見えていないのではないか」、と。
 それはそれでその通りなのだが、やや言葉足らずだろう。と言うのも、パンデミックがなかった東京1964オリンピックでも開催前には反対が多かったと、麻生太郎副総理が吠えておられたからだ(笑)。曰く、「反対が圧倒的に多かった、60数%。みんな終わったら“良かった、良かった”って書いてたけど、いつ転向したの、あれ。やる前は、みんな反対。57年経って、今回も全く同じ傾向だったんじゃないのかなと」(Abema Times)。1976年のモントリオール大会にクレー射撃の日本代表選手として出場された方だけに、重みがある。
 これは、オリンピックという存在そのものに内在する問題、やや下世話な言い方をすれば、アスリートの中でも市民xxxではなく世界トップを目指すようなレベルの「強者」を称えるものであることへのヤッカミが根底にあるように思われる。民意の分断は、所謂日本的リベラルと保守という、左派と右派の分断にほぼ沿った形で起こっている。弱者救済を大義とする理想主義的な左派は、オリンピックのような強者崇拝が、とりわけパンデミックで飲食業界など苦悩する人たちがいる中で(あるいは今にも病床で死に瀕している方がおられる中で)開かれることが許せない、優先順位が間違っていると憤る一方、どちらかと言えば現実をありのままに見る右派は、いやこの程度の強者崇拝は他の文化振興と同様に問題とはならず、パンデミックにしても、第五波で感染は増えているけれども、ワクチン接種で死亡者が大幅に減って、所詮は風邪に過ぎない類いのものだから騒ぎ過ぎだと見做すというように、やや極端な見方をそれぞれに代表させたが、このあたりで分断を生んでいるのだろうと想像される。
 そしてこれは、どちらかと言うと左派=反体制、右派=体制支持で、パンデミック対応にせよ、オリンピック開催にせよ、政権批判のネタにするか否かとも概ね対応するものだから、先日、物議を醸した安倍前総理の発言ともシンクロする。曰く、「極めて政治的な意図を感じざるを得ませんね。彼らは、日本でオリンピックが成功することに不快感を持っているのではないか。共産党に代表されるように、歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対しています。朝日新聞なども明確に反対を表明しました」(月刊Hanada 8月号)。
 安倍さんは、二度にわたる政権運営でやや被害妄想に陥っておられて、その気持ちは分からないではないが、問題の本質は、オリンピック反対派=反日的と短絡するのではなくく(因みに短絡したのは安倍さんではなくアベガー)、飽くまでオリンピック反対派=リベラル左派の特性にあると言うべきだろう。いや、こうした整理の仕方こそ、橋下さんのことをとやかく言っていられなくて、やや苔むした発想かも知れない(苦笑)。
 私は、こうした左派による「下方圧力」とでも言うべきものには根本的に賛同できない(社会にとって弱者救済・保護は重要であるが、別のレベルの問題である)。勿論、このパンデミックという、時と場合によることは承知の上である。スガ政権のパンデミック対応はお世辞にも上手く行っているとは思わないし、密を避けるのは良いとして、毎度、対策として夜の盛り場を槍玉に挙げるのは余りに芸がないし、気の毒だし、私自身もぷらぷら飲みに行けなくて辛い。しかし、昨年の今頃と比べれば、スガ政権の対応は相も変わらずで知恵がないにしても、明らかに事態は変化しており、少なくとも得体の知れない新型コロナはある程度までは得体が知れるようになって、多少はcontrollableになって来た(と言うと、五輪誘致の際の安倍さん発言が思い出されて、失笑を買いそうだが 笑)。そして、「下方圧力」の言わば極論であることを承知の上で、学生時代のある教授の口癖を紹介したい。その教授はロシア政治専攻で、当時の旧ソ連の共産主義体制を蛇蝎の如く嫌っておられて、何故、旧ソ連がダメかと言うと、一人のドストエフスキーも生まなかったから、と端的に表現されたのであった。至言であろう。凡そ左と右とを問わず、合理主義・機能主義を突き詰めた社会では、スポーツを含む文化は蔑ろにされる・・・というのは極論であることは承知の上である。
 ジャン・ジャック・ルソーが言った「一般意志」を思い出す。「全体意志」とは区別される概念である。個人にはそれぞれ「特殊意志」があって、例えば、オリンピックに反対する意見として、子供の運動会は中止されるのに、何故、オリンピックは開催されるのか、といったものがあった。子供の運動会とオリンピックを比べるのはやや乱暴な気もしたが、それはともかく、こうした自分の利益しか考えない「個別意志」を足し合わせた「全体意志」は、しかし社会全体の公共の利益を考える「一般意志」たり得ないのである。パンデミック下のストレスに晒される中で、「個別意志」の発露が、「全体意志」圧力となり、オリンピック中止のムーブメント(風向き)を生んだような気がする。残念ながらそこでは「一般意志」としての例えばオリンピックの理念のようなものは遠景に霞んでしまった。
 パンデミック下で、というのは確かに問題ではあるが、それ故にこそ、パンデミックというアブノーマル下で人々をしてノーマルを思い出さしめ、長くていつまで続くのか朦朧とするばかりのトンネルの中で一筋の光明を、自信を、与えることになったであろうオリンピックを、私は評価したいのである。スポーツを含む文化には、そのような力がある。
 まあ、それほどかけ離れたものではなく、微妙な違いでしかないのかも知れないが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京五輪・閉幕

2021-08-09 12:36:41 | スポーツ・芸能好き
 戦略家のエドワード・ルトワック氏はかつて、「死力を尽くして戦った国は案外、戦争が終わったあと仲良くなる」というようなことを言われた。最近のことで言えば、日米関係がそうだし、米とベトナムもそうだ。逆に、中国共産党のように、国民党を前面に立てて日本と戦わせ、自らは漁夫の利を狙って身を隠すような小賢しい組織は、いざ中国大陸で政権を執ると、その統治の正統性を証明するために、歴史を捏造して恥じるところがないし、日本を貶めることにも余念がない。韓国に至っては、当時、日本の一部として共に戦った仲なのに、戦後、連合国の仲間入りを図ろうと画策して英米に却下されると、被害者ヅラして、何かと「強制された」と言い募るなど、歴史認識をこねくり回して過去をずるずると引き摺ることになる。こうした近隣諸国との関係はなかなか好転しそうにない。
 同様に、言うまでもないことだが、東京オリンピックで死力を尽くして戦った選手たちの、勝敗が決した後にお互いの健闘を称え合う姿は美しいと思う。オリンピック精神とまで称賛され、私も感情移入して大いに涙した(笑)。当事者だからこそ、その困難さを知るが故に、お互いに敬意を表する気持ちになるのだろう。SNSによる誹謗中傷が話題になったが、あれは他人たる周囲が囃し立てることで、当事者たちは(特定国であっても)至って冷静である。私たちは、当事者である選手たちに学ばなければならない。
 17日間の熱戦が終わった。どうでもいいことだが、私の会社は、混雑回避のために、オリンピックに合わせて今週一杯、全社一斉の夏休みとし、まるでオリンピックを応援せいと言わんばかりだった。いや、急かされるまでもなく、応援した。振り返れば、オリンピックの混雑解消に資するよう、私の会社は在宅勤務の実証実験を繰り返し、期せずしてコロナ禍にスムーズに対応した。言わばオリンピック狂騒曲とでも言わんばかりの、オリンピックに振り回された数年だった。私個人としても、いずれ老後の愉しみのためとは言え、数年前、早めに通訳案内士の資格を取って、この日に備えた。メディアにはボランティアの「おもてなし」を称賛する記事が溢れたが、私も喜んでその一部になる覚悟でいた(はずだったが、ズボラな私は、結局、何もしなかった)。
 以前からモヤモヤしていて、今回、開催するにあたっては明瞭に世論が割れて、それでもいざ始まってしまうと、選手たちには罪はないと人々が熱狂する、この一種の怪物のようなオリンピックとは一体、何なのか? という問いがあらためて突きつけられる。
 前々回のブログに書いたように、国旗を背負った選手たちの活躍を応援し、内外からの客人を迎え入れて経済を盛り上げるという、大きいことはいいことだ的な昭和な時代のノスタルジーがあろうが、そろそろ時代に合わせて決別すべきだろう。スケートボードやサーフィンのように新しく加わった競技を見ていると、そして、そこで悲壮感はなく楽しみながら躍動する10代の若い人たちを見ていると、その思いを強くする。他方で、世界大に広げて見れば、4年に一度の代理戦争としての役割は、基調としてなお色褪せることはなさそうだ。
 今回も、政治的な要素がそこかしこに散見された。権威主義国ベラルーシの選手が、コーチを批判したとして帰国指示が出たことに逆らって、ポーランドに亡命した。SNS時代のオリンピックに相応しく、ナショナリズムが絡んだ、選手に対する誹謗中傷が話題になった。とりわけ特定国が批判されたのは、国家の発展段階における特殊な成熟度の(つまり、国家統合のために演出されたナショナリズム高揚から派生する)問題と言うべきだろう。成熟度という意味では、お隣の国もまた、一部の人たちの動きとは言え、挙げて行けばキリがない数々の反日的な言動が、いちいち日本人の癇に障った。冒頭のルトワック氏は、これは隣国の国内問題だと喝破されていて、私もそう思うが、それによってお互いの表向きの国民感情がお互いから離れてしまい、外交上の制約条件になってしまうのは、実に勿体ない話である。そして、毎度のことながら、中国(の在米NY総領事館)は、開会式の中継で米NBCテレビが台湾を含まない中国の地図を画面上に映したとして抗議した。200を超える国・地域が参加し、その歴史的経験値や発展段階における立ち位置が異なる以上は、本当の熱戦よりはマシだとして、疑似戦争としての経験を共有し、ナショナリズムのガス抜きをし(あるいは健全なナショナリズムへと昇華し)、より相互尊重と国際的な連帯へと目を向けるようになるとすれば幸いであろう。五輪憲章では「国家間のメダル競争」が禁じられているにもかかわらず、日本をはじめとしてメダル獲得数をランキング形式で並べて国威発揚を煽ったのは、奇麗ごとだけでは済まない一面の現実であろう(が、いずれポリコレの刃が及ぶかも知れない 笑)。
 それでも、天下泰平の世であればまだしも、この戦時下とも言われるパンデミック下でわざわざやる意義があるのかという疑問は消えないが、オリンピックだけでなく、パンデミックという事態そのものの軽重を問う問題でもあって、簡単ではない。昨年、延期したのは止むを得なかったが、今年もコロナ禍を克服したとは言えない状況で、さらにデルタ株の蔓延に神経を尖らせながら、ぎりぎりの強行となった。この機を逃せば、これ以上の延期はあり得なかっただろう(あるとすれば、ブリスベン大会の次の2036年になってしまう)。そこで見直すべきは、オリンピックの原点としてのアマチュアリズムへの回帰である。
 象徴的だったのが、ゴルフの松山英樹選手の呟きだった。「オリンピックがすごい大会であることはわかります。でも、プロゴルファーにとってオリンピックって、どうなんでしょうか。よくわからないんです」
 ゴルフには四大大会がある。世界の強豪が集い、優勝すればステータスと多額の賞金を手にすることが出来る。ところがオリンピックのゴルフ競技ときたら、出場人数はメジャー大会の半分程度の60人に過ぎず、出場国が偏らないように各国4人までの制限があって、当然、その中にはメジャー大会で馴染みのない選手もいて、全体の競技レベルは低くなる。それでも松山選手がオリンピックでメダルを目指したのは、自国開催であり、しかも会場が自らに縁のある霞ケ関カンツリー倶楽部だったからだろう。
 テニスの大坂なおみ選手も同様で、メジャーで既に名声を確立してなお、自国開催だからこそ出場を望んでいることは本人が公言していた。野球における侍ジャパンの活躍には狂喜したが、出場したのは僅か6ヶ国で、中でも野球大国アメリカは3A中心のチーム編成であるのを知ると、なんだかやり切れなくなる。プロ選手にはプロ・スポーツの世界で活躍する場が与えられている。オリンピックはそうじゃない、普段余り浮かばれることがないスポーツを、4年に一度くらいは称揚する場でありたいものだと、スポーツ好きの(高校時代に地味な陸上をやっていた)私としては思う。それは、コマーシャリズムを極力排して、人間の肉体の限りない可能性に驚嘆し称賛するミニマリズムの機会であってよい。その価値を認められる程度の均衡点にまで規模を縮小するのも、止むを得ないように思う。
 こうしたパンデミックの困難な状況でも開催できるのは日本しかないという、海外からの感謝の声が一再ならず聞こえてきた。単純にお世辞とは思えない。男子柔道フランス代表(100kg超級銅メダル、混合団体金メダル)のテディ・リネール選手の言葉が心に響く。「日本のおかげでコロナを気にせずに試合ができた。五輪は全てのアスリートの夢なので、とても感謝している」 日本の政治や諸団体はさておいて、現場力の面目であろう。パンデミックに加え、真夏の猛暑や、更にはサイバー攻撃やテロの脅威にも晒されながら、17日間の競技をどうやら無事終えたようで、私たち見る者を楽しませてくれたことは、選手の活躍とともに、それを支えるボランティアや関係者の方々のご尽力の賜物であり、大いに労いたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする