風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

爆買いの諸相(上)

2016-02-28 12:02:38 | 時事放談
 所謂「爆買い」を裏側から、つまり中国側から眺めてみる。
 中国では豊かになるにつれて海外旅行も空前のブームになっているそうで、中国紙・経済参考報によると、海外旅行者数は日本の総人口並みの1億2000万人に達し、消費額は1940億ドル(約23兆円)に及ぶそうだ。日本人の海外旅行者数がここ10年、年1700万~1800万人で頭打ちで、海外旅行費用の平均24万円を掛け合わせると消費額は約4兆円になることからすると、日・中の総人口比と経済的な豊かさを比較しても、感覚的に中国人の海外旅行好きなのが察せられる。一方、日本を訪問した中国人は、2011~13年は1%台半ばで推移していたが、昨年は4%を越えたらしい(日本の統計でも昨年499万人の中国人が訪日)が、感覚的にはまだ少ないように思う。
 中国では海外旅行での消費もブームで、一人当たりの消費金額もうなぎ上りらしい。2011年までは1000ドル前後で推移していたが、その後急上昇し、昨年は1600ドル(19万円強)を越える勢いなのだそうだ。一方、日本の統計で、中国人が日本で使った消費金額1兆4174億円を499万人で割ると約28万円となり、単純比較になってしまうが、中国人旅行者が日本で積極的に購買行動していることが分かる。
 先の経済参考報は、空前の海外旅行と消費ブームの背景として、以下の要因をあげている。
  (1)中国製品への信頼性が低く、これが逆に海外での消費を刺激している
  (2)中国では売買時のマージン(差額利益)が高いが、海外では割安と感じている
  (3)中国では製品の品ぞろえが不十分
 そのため、日用品から高級品まで、幅広い分野で海外市場への需要が急拡大しているという。それにしても、中国は、中国人の海外旅行での消費金額が、中国を訪れる外国人の中国内消費金額を上回る、世界的にみても稀有な国らしい。後発の経済発展で俄かに大金を手にした成金がカネにあかせて海外で買い漁る・・・といったイメージか。
 かつてソフトブレーンを創業し、42歳で経営から引退して生活の拠点を北京に移した宋文洲さんによると、確かに中国の海外旅行ブームは2010年あたりから始まり、「日中関係の緊張が和らぐにつれて、もともと日本にも行ってみたかった人たちが、それまでたまっていたストレスを発散するかのように、2014年から日本に行き始めた結果、日本で『爆買い』が起こった」と解説する。
 ジャーナリストで中国ウォッチャーの中島恵さんも、「爆買い」は、「円安・元高や中国人の生活水準の向上など、複数の要因がタイミングよく重なったことによって2年ほど前から起きた自然発生的な現象」で、「こうした要因にともなって、廉価で高品質な日本製品を欲しがる中間層が増えたこと、従来は厳しかった中国人に対するビザ発給が緩和されたこと、中国でのSNSの発達なども『爆買い』を加熱させる要因」だと説明する。そして、中国経済が多少悪くなろうが、「そもそも『爆買い』に来ているのは中間層かそれよりもう少し上の層で、余剰の資金で来日しているのであって、株安がすぐに懐具合を直撃するような人々とは直接関係がない」し、もはや「単純な買い物だけに終わらず、その形態や中身を少しずつ変えながら、『爆買い』はまだ続く」と分析している。
 中島恵さんによると、中国人の訪日モチベーション・アップに貢献しているのは中国のネット上にあふれる日本情報ということだ。人口13億7000万人の中国で、実に7億5000万人がスマホを利用していると言われ、スマホは中国人の日常生活と切っても切り離せない存在になっているという。特に微信ウェイシン(WeChatとも呼ばれる中国版LINE)という中国独自SNS上に、知人や企業などから発信されるさまざまな日本情報があり、SNSの存在なくして、中国人は日本に来られないと言っても過言ではないらしい。
 日本の薬や化粧品を研究する台湾人の専門家も、中国や台湾からの旅行客はネット上の口コミを決め手に買い物をしていると言う。「旅の前に、買った人の評価をネット上で読んで参考にして買い物リストを作り、日本に来てからも日本人がその商品を本当に買っているかどうか注目している」ということだ。
 そんな「爆買い」の4割は「代理購入」と言われ、友人や親戚の頼みに応じるばかりでなく、ネット販売に出品する業者の依頼を受けて大量に買い付けを行うこともあり、そうなれば一種の「密輸」である。いずれにしても、日本の商品の「安全」「安心」で「健康的」な品質へのニーズが高いことのあらわれであるとともに、経済参考報が挙げた消費ブームの要因の中にもやんわりと指摘されているように、中国の流通構造への不信や反発のあらわれでもある。一説によれば、「代理購入」による高級ブランド品の持ち込み金額は、中国国内のブランド品の売上の半分近くにまで膨らんでいるようであり、流通改革のきっかけにもなり得るかも知れない。またSNSを通して、日本のトイレはキレイ、日本のタクシーは礼儀正しく対応が丁寧、といった日本の文化までもが情報として拡散し、中国内でも「良いレストランかどうかは『トイレ』をみれば分かる」などと口コミサイトで囁かれて、トイレの美化に努めるレストランが出て来たり、日本的なサービスを取り入れるタクシー業者も出て来たりしているらしいのである。いやはや、中国共産党の統治の行方はいざ知らず、中国人のもつパワーが横溢して、中国社会は確実に変わりつつあるのを感じざるを得ないのである。
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床屋談義

2016-02-26 02:56:20 | 時事放談
 どうやら明日(既に今日になってしまったが)、民主党と維新の党は、民主が維新を吸収合併する形で3月中に新党を結成することで合意する見通しだ。ところが産経新聞とFNNが20、21両日に行った合同世論調査では、この合流構想に「期待しない」63.1%が、「期待する」32.5%を大きく上回ったらしい。そりゃそうだろう。同じ調査で、自民党の支持率が、甘利経済再生担当相の辞任や丸川環境相や丸山参院議員の失言や宮崎衆院議員の辞職があっても37.8%に達したのに対し、民主党9.7%、維新の党1.4%、両党合わせても11.1%に過ぎず、政権与党の自・公合わせた42.3%に遠く及ばない。かつて政権を担った民主党に当時の面影はなく、与党のやることなすことに反対ばかりで対案を示すわけではなく、政権を獲る意欲も覚悟もまるで見えないし、維新の党との合流にしても、野党5党による夏の参院選での共闘にしても、動機不純なのは誰の目にも明らかだからである。産経新聞が調査主体ということで、やや保守に偏っているというなら、政党支持層別に見ればはっきりするはずだが、さして変わらない。民主支持層でこそ「期待する」のが60.8%であるが、維新支持層では35.7%、無党派層でも37.6%と低調だ。
 夏の参院選で野党5党が共闘の旗印にしている安全保障関連法廃止も同じような状況で、共同通信社が20、21両日に実施した世論調査では、「廃止するべきでない」47.1%が、「廃止するべき」38.1%を上回ってしまった。直近で北朝鮮が核実験やミサイル発射したことや、中国が南シナ海で傍若無人に振舞うことも影響していることだろう。それにしても、安全保障政策については、与党と野党とを問わず、大きく変わるべきではない。たとえば今、アメリカ大統領選挙で、各候補が中国をどう見るかを比較検討すれば外交政策の違いが際立つわけだが、それでも恐らくグランド・デザインはどの候補者でも変わらない。そもそも防衛装備品の開発から運用まで30年かかると言われるくらいだから、政権交代があろうがなかろうが国防や安全保障政策の基本が変わってもらっては困るのである。
 相次ぐ失言やスキャンダルを見ていると、与野党を問わず国会議員の質が低いことにガッカリさせられる。閣僚や議員の辞職を迫ったり、任命責任を追及するのはほどほどに、どうやったら質を上げられるか、真剣に議論してもらいたいと思う。
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ポルシェ

2016-02-23 23:18:00 | 日々の生活
 街で見かけた魅力的な「貴婦人」に目を奪われ、ついふらふらっとお尻を追いかけてしまった。逃げ足が早くて、ついて行くのが大変なほど。つぶらな瞳に、丸顔のツンとした表情にはしかし愛嬌がある。ぷいっと突き出た丸いお尻もなかなかセクシー・・・などと、以前、擬人化した姿をブログに書いたことを思い出した。あるモーター・ジャーナリストは、独特の“かえる顔”に猫背型のボディなどと形容したが、失礼な。私にとっては「貴婦人」である。タイトルにある、ポルシェ911カレラのことだ(さしずめランボルギーニはイカしたお兄さんか)。
 ポルシェ・ジャパンが新たに開発した水平対向6気筒ターボエンジンを搭載した新型911カレラを国内初披露したという記事を見かけた。1964年デビュー時の2.0リッターから拡大を続けてきた排気量(従来モデルは3.4リッターと3.8リッター)が、今回のモデルチェンジで初めて3.0リッターにダウンサイズされたが、2基のターボチャージャーの過給により、最高出力は20馬力多い370馬力に向上、燃費も改善し、軽々とレッドゾーンの8500回転まで吹き上がる超敏感なエンジンレスポンスは健在のようだ。今回はオンライン・ナビゲーション・モジュールとボイス・コントロールを備えたPCM(ポルシェ・コミュニケーション・マネージメントシステム)を標準装備し、インターネットへ常時接続することで、リアルタイムの交通情報によるナビゲーションや世界中の放送局を雑音なく聴取することが可能だという。ポルシェもとうとう情報端末と化した。
 男はモノに執着するところがあるが、何よりポルシェの優雅な曲線美が憧れだ。アメリカ駐在したのはかれこれ20年近く前だが、写真集や1/24模型などを買い漁り、いまだに部屋を飾っている。ペナン駐在のとき、展示されている911カレラの運転席に生まれて初めて身を沈めた。何たる恍惚。
 緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ・・・と山口百恵が歌ったように、ジジイになったら颯爽と乗り回すのが子供の頃からの夢なのだが、価格は1244万円からというから、夢のまた夢、か。
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青梅への道ふたたび(4)

2016-02-21 23:04:42 | スポーツ・芸能好き
 今日、青梅マラソンを走って来た。今シーズンは青梅30キロでサブ・スリー(3時間を切ること)を目標にやって来たのだったが、残念ながら3時間を切ることが出来なかった。今は徒労感ばかりが残っている。
 毎年、同じレベルの練習をして身体を鍛えても、着実に一つ齢を重ねるので、記録は伸び悩むのが道理だ。怠け心を騙しつつ工夫しなければならない。昨シーズンは11月から5ヶ月続けて毎月一回レースに参加して、緊張感が続かずだらけてしまったので、今年は参加するレースを絞り込み、青梅は11月のつくばマラソン以来三ヶ月ぶりのレースとなった。つくばではシーズン初めながら、自分なりによく走れて、気分よくシーズンを過ごせるはずだったが、レースに参加しないのをいいことに緊張感が途切れてだらけてしまい(なんと一ヶ月半も完全休養してしまった)、走り込み不足で、今日は後半に粘りが出なかった。ナマケモノには困ったものだ。マラソンはまさに自分との勝負なのだ。スタート地点に立ったところで、どれだけ準備出来たかで9割方は既に決まっている。そして今日の私は余裕なく、緊張していた。一昨年まで週一ジョガーを自称し、限界を感じて、昨年からはレース前に限って週二に変えたが、やはり限界を感じてしまう。
 青梅マラソンは11時半スタートなのがタフである。私レベルのランナーは、昼飯時を挟んで、2時半前後にゴールすることになる。昨年は空腹で血糖値が低い状態になったせいか20キロ過ぎで瞳孔散大し・・・つまり視界が白く飛んでしまい、平衡を保つのが難しくなり、ヨタヨタと歩くはめになった。今年は、おにぎり三個とバナナ二本を持ちこんで、10時頃に早めの昼食をとり、走っている途中も怪しくなって、ブドウ糖のタブレットをかじること二度、更にゴールしてから視界が白く飛んだ。若い人は皆、涼しげな顔をしているが、どうしたことだろう。
 また、青梅マラソンは田舎道を1万7千人が駆け抜けるものだから大渋滞を起こし、前半は抑え気味に走らざるを得なくなる。JR青梅線河辺駅界隈をスタート/ゴールとして、青梅線沿いに奥多摩の山をなだらかに上り、川井駅界隈で折り返して、なだらかに下るコースで、ランナーがばらけることはなかった。給水所は最後まで大混乱で、驚くべきことである。しかし、沿道の応援もまた熱烈で、小さいお子さんからお年寄りまで、一般の方から消防士さんや警察の方まで、小旗を手に、あるいはチョコレートや餡パンや水・ポカリ入り紙コップやヤクルトを手に、大掛かりに交通規制をして、これほど街ぐるみで応援してくれる大会も珍しい。有り難いことである。
 今年は50回記念大会で、スペシャル・スターターに瀬古利彦さんと高橋尚子さんという、マラソン界最大のと言ってもよい功労者が招かれた。Qちゃんは20キロ地点でも待ち構えて、疲れが見えるランナーを鼓舞しながらハイタッチしてくれ、最後の10キロをともに走ってくれた。オリンピック金メダルに国民栄誉賞まで貰って、相変わらず私たち一般ランナーに優しい。また招待選手には公務員ランナー川内優輝さんもいて、ちょうど10キロ地点で折り返して来た先頭集団とすれ違ったのだが(彼らは20キロ地点)、その時点では5位だった。私たち一般ランナーから一段と大きな声援が飛んだものである。結果、2つ順位を上げて3位でゴールしたようだ。スポーツ報知によると「すれ違う選手や沿道から、かなり『川内ガンバレ』の声援がきたので元気が出ました。ここは何とか3番に上がらないといけないと思った」と振り返ったらしい。
 冒頭に戻ると、またしても青梅には思いを残してしまった。30キロとは言え、なかなかタフなコースで、齢を重ねる毎にキツくなるのだが、言わば昭和の街並みが懐かしく、沿道の応援も熱い・・・また来年も戻ってくるのであろうか。
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齢をとるということ・続

2016-02-19 00:54:46 | 日々の生活
 シケた話のついでに。先日、私より一回りほど年上の、しかし私とは比べものにならないくらい功成り名を遂げた著名なビジネス・パーソンの成功物語を講演で聴いた。その最後に、その方は、これからの半生(1/4生?)をどう過ごすか、「人が死ぬときに反省すること・トップ5」を思い浮かべつつ、思案しているところだと語った。その5つとは、以下のようなものだった。

   (1)「自分をもっと幸せにしてあげたかった」
   (2)「あんなに一所懸命働かなくても良かった」
   (3)「愛する人に有難うを伝えられなかった」
   (4)「自分自身に忠実に生きれば良かった」
   (5)「友人と良い関係を続けたかった」

 ググってみると、「人が死ぬときに反省すること・トップ5」には、いくつかバリエーションがあるようだ。オーストラリアの Bronnie Ware さんによると、長年、人生最後の時を過ごす患者の緩和ケアに携わった経験から、死の間際に人はしっかり人生を振り返るものなのだそうで、そんな患者が語る「後悔」には似たものが多く、上記(3)の代わりに「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」が入って、順番は(4)、(2)、(3)、(5)、(1)と続く。

   その1. 「自分自身に忠実に生きれば良かった」
   その2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」
   その3. 「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
   その4. 「友人関係を続けていれば良かった」
   その5. 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」

 その1は、つまり自分らしくありたかったということ、また自分にも夢がいろいろあったことを思い出すようだ。その2、仕事に時間を費やしすぎず、もっと家族と一緒に過ごせば良かったと後悔するらしい。その3、多少なりとも自分の感情を押し殺す処世を、死ぬ間際にはバカバカしく思うのか。その4、死ぬ前には、連絡が途絶えてしまったかつての友達に想いを馳せるのだろう。その5、幸せは自分で選ぶものだと気づいていない人が多いらしい。
 なんとなく、身につまされる。人は所詮は弱い生き物で、誰もが同じように多少なりとも人生に未練を残して死んで行くものなのだとすれば、これからの人生で、少しでも同じ過ちを繰り返さないよう、今から心を入れ替えることが出来たら・・・そんなことを考えてしまうのも、齢をとるということなのだろう。
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齢をとるということ

2016-02-17 00:56:08 | 日々の生活
 最近の総合病院ときたら、待合室の隣にタリーズなどのコーヒー専門店やコンビニが入っていて、誠に便利だ。以前(と言っても既に10年位前になるが)、マレーシア・ペナンに駐在していた頃、近所の病院に贔屓のパン屋が入っていて、遠くまで買いに行くのが面倒な家内は、パンを買いに病院に通った(!?)ものだったが、日本も変わったものである。
 こんな話をするのも、久しぶりに総合病院に行ったからなのだが、歯医者や町医者(数年前に肉離れをおこした)以外に、また見舞いの機会を除いて、何十年振りのことであろうか。40代までは勢いそのままに健康そのもので、50を前にして初めて、会社の定期検診で一部の数値が標準を外れ、今回とうとう再検査を指示されてしまった。マラソンを始めたのは、そんな狭間で、努力しなければ健康を維持できない年齢に達したと諦観したことによる。いくつか検査を受けた後、医者からは、その年でマラソンを問題なく走れるのだから大丈夫でしょうと言われたが、トドメのCTスキャンまで受け、問題なしとの太鼓判を貰った。
 やれやれといったところだが、年のせいか、身近に亡くなる人を見るようになって、自分が死ぬときは、なんとか健康を維持した挙句、ポックリ死にたいと思うようになった。死ぬ寸前まで、自分の足で歩き、自分の目や耳や鼻や口で知覚・聴覚・嗅覚・味覚し、周囲の手を煩わせることなく、おとなしく自らの生を終えたいものだと思う。
 昔なら、日本でも、老衰で済まされたであろうが、最近の医療技術の進歩と、医療が身近になったお陰で、自分の健康がガラス張りになり、治療を受けて生き永らえる確率が高くなり、それに伴って多少は生活に不自由する、場合によっては寝たきりの老人も、多くなったようだ。それで本人は果たして幸せなのかどうか、家族などの周囲の自己満足のためではないのか、生の尊厳と言うより医療産業のためではないか、などと私がまだ若いせいかも知れないが、勘ぐってしまう。実際に、私だけでなく、福祉大国スウェーデンをはじめとする欧米諸国では、高齢者が自ら食物を摂取出来なくなると、無理な延命を施さず、せいぜい内服薬を処方するだけと聞いた。点滴や胃ろうなどの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であり、自然な死を迎えることこそ、高齢者の尊厳を保つ最善の方法だと考える成熟した価値観があるようである。冷静に考えれば、医療技術は、単なる延命のためではなく、救える人にもっと向けられるべきであろう。世界一の長寿大国・日本を単純に喜んでばかりはいられないように思う。
 最近、医療費をはじめ高騰する社会保障費を抑制するため、単なる寿命ではなく、健康寿命という言葉が脚光を浴びるようになったが、お上に言われるまでもなく、自主的に考えるべきものであろう。いずれにしても、普通に日常生活を送れるのは70歳程度までと言われるので、日本の老人はその後10年近く不自由な生活を送ることになる(あくまでも平均の話だが)。今回、再検査を徹底的に実施したのも、関心はそこにあって、長生きすること自体が目的なのではなく、まだやりたいことがあり、そのために生きる限りは健康でありたいと願うからだ。若い内は健康のことなど意識しない。意識しなくても健康でいられる。齢をとるということ、あるいはもう若くないと思うのは、健康を意識し、健康のために努力し始めるところにある。努力するのは、普通の日常生活を送るためだ。自分の足で歩き、好きなものを食べ、美味い酒を飲む・・・そんなごく当たり前のことが出来なくなる人生ほど寂しいことはない。なんだかシケた話だが。
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チリ・ワイン

2016-02-14 22:03:05 | グルメとして
 ワインと言えば一般にはフランスだが、日本ではその知名度の高さ故、従いプレミアム価格の高さ故、滅多なことでは買って飲もうと思わないし、余程気取ったときでもない限り注文しないのは、私ばかりではないと思う。コスト・パフォーマンスで言えば、欧州ではイタリアやスペイン、そして南アフリカ、呑み助の間では南米チリやアルゼンチンが人気で、実際に昨年のワイン輸入量で、チリ産ワインがフランス産を抜いて初めて1位になったらしい。
 日経ビジネスによれば、チリ産ワインの輸入量は、この10年間で実に7倍の規模に拡大し、既にイタリアやスペインを大きく上回っていたらしい。チリのワイン産業の歴史は浅いものの、豊かな国土とブドウの栽培に適した冷涼な風土に加え、政府の手厚い振興策もあって成長を続け、日本だけでなく世界各地で需要が増え、チリにとって重要な輸出品目だという。とりわけ日本では、2007年に経済連携協定(EPA)が発効し、ワインの関税が段階的に引き下げられ、もともと価格競争力が高かったチリ産ワインの輸入が促進されたということらしい。かつて10数年前に南米に駐在していた知人の商社マンも、高級チリ産ワインを楽しんでいたというから、いよいよ本領発揮というところか。
 私も、カリフォルニアとシドニーにそれぞれ1年滞在したときには、地元の旨いものを・・・との名目で(実のところ、現地ビジネスのリストラが課題で、憂さ晴らしに酒に逃げていたのだが)、コスト・パフォーマンスの良いワインを求めて、安いものから順に片っ端から試し飲みし、カリフォルニアでは25ドルくらい、シドニーでは40豪ドルくらいに落ち着いたものだった。円換算ではいずれも2500円相当、日本に輸入されればその倍の5千円、レストランで注文するときには更に倍の1万円と考えれば、驚きはない。しかし、日本に戻って、そんな大枚をはたいて飲む余裕はなく、再び安いワインから順に試した挙句、諦めかけていたところ、知人(彼も南米駐在経験がある)から騙されたと思って飲んでみろと勧められたチリ・ワインが実に美味いので、ワイン生活が再開した。「アルパカ」というブランドで、店によっては税抜き500円を切りながら、コクには欠けるものの安いワインにありがちのザラザラ感や渋みがなく、実にすっきりまろやかで後味が良く飲みやすい。
 こうして貿易は極力自由に、国々がそれぞれ強みを活かしながら棲み分ければいいじゃないかと、実に古典的な発想に囚われてしまうのである。
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お坊さん便・続

2016-02-12 23:08:41 | 日々の生活
 前回は檀家制度を中心に、歴史的に日本人と仏教との関わりを振り返ってみた。ある種の強制力をもち、無理してきたような文化・習慣は、より自由な社会にあっては続かない、ということだろうと思う。今回は、仏教本来の意味と、その変容(すなわち儒教化された仏教)について、ちょっと補足的に振り返ってみたい。
 そもそもインド仏教(原始仏教)は、キリスト教やイスラム教と同様、現世を超越する契機としての「死」に価値の重きを置く思想である。現世の中で生・老・病・死の「四苦」は人間の宿命であり、シャカは、この世に生まれて生きること自体を苦しみとし、この世を苦しみの世界と捉えた。仏教では、「四苦」を繰り返す「輪廻」のサイクルから抜け出たとき、人間は本当の幸せになれると考える。つまり、仏教は「悟り」を得て「解脱」し「成仏」することを理想とするもので、仏教におけるさまざまな修行は、「輪廻」から抜け出ることを目的としたものである。そうではない、つまり「悟り」を得て「輪廻」のサイクルを脱け出ない限り、人間は再びどこかの世界に生まれ変わることになる。仏教では、死後は「中有(ちゅうう)」という時間に入ると考え、その長さは49日とされ、その間に、次に生まれ変わる場所が決められるため、そこで少しでもよい所に生まれ変われるように、僧を通じて供養するわけだ。それではどこに生まれ変わるかと言うと、「天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界」という6つの候補となる世界があり、いずれの世界に生まれ変わるにせよ、自分が所属する世界での死を迎え、再び生→死を繰り返すのである。「解脱」して「仏」とならない限り、すなわち「成仏」しない限り、いつまでも「輪廻」のサイクルを抜け出ることは出来ず、「輪廻」のサイクル内にとどまる限り、苦しみの生活が続く。従い、そもそものインド仏教にあっては先祖供養そのものは意味をなさない。さらに本人は別の存在として新たな肉体を持って生まれ変わる限り、もとの肉体は単なる抜け殻となり、抜け殻である死体や骨には何の意味もなく、墓も不要で、山や川に捨てても構わないことになる。
 日本の仏教で、先祖供養や位牌や墓参りやお盆といった習慣が当たり前なのは、儒教をはじめとする様々な要素が結びついた結果だと言われる。ある研究者によれば、日本の仏教の8割はインド仏教とは無関係な先祖供養、1割が心の救済を求めてのインド仏教、1割が現世利益を求めての道教の要素から成り立っていると言う。その8割に影響を与えたのが、中国の儒教である。
 儒教は、「未知生、焉知死」(未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん)という孔子の言葉にあるように、もともと「生」に価値の重きを置く思想であり、先祖霊崇拝・先祖霊信仰というシャーマニズムを基礎にして、家族理論と政治理論を積み上げて成立した広大な思想体系である。儒教は単なる倫理道徳ではなく、底辺に「先祖崇拝」という宗教的要素を持った宗教なのである。先祖霊への崇拝を土台とする儒教は、外来のインド仏教と鋭く対立し、仏・儒の抗争の中で、仏教側が譲歩し、輪廻思想とは全く無関係な先祖霊崇拝・先祖霊信仰を取り入れるようになったという。こうして中国仏教、いわば儒教化した仏教が成立し、それが後に日本にも伝来した。古代の日本には、こうした中国と共通するシャーマニズム的土壌があったため、中国から伝来した仏教は、日本古来の先祖霊崇拝と無理なく融合することができたと言われる。日本における仏教は、初めから先祖霊崇拝や供養・喪礼を強く前面に出したものであり、我が国における宗教の中心的立場を確立していくことになる。
 その儒教では、先祖代々の霊はいつまでも存在し、墓と位牌を通路として呼び出すことができ、子孫である家長はその墓と位牌の管理者の役割を代々努めるのであり、逆に家長とは墓と位牌の管理者のことである。ところが本来のインド仏教に、墓石(墓標)を立てることや墓参りはない。日本の家庭に見られる仏壇は、仏教本来のものではなく、儒教における祠堂(しどう)がミニチュアとして取り入れられたものだという。また仏壇や寺に安置される位牌も、仏教本来のものではなく、儒教の招魂儀式で呼び寄せた祖先の霊を憑かせる「神主(しんしゅ)(依代(よりしろ))」を模倣したものだという。こうして日本の仏教には中国の儒教的要素(東北アジアのシャーマニズム的要素)が強く反映し、日本の仏教はインド仏教が儒教と深く混交したもとというわけである。
 いろいろググってみた結果を縷々述べてみたが、確かに古代の日本には中国と共通するシャーマニズム的土壌があったと思われるが、日本にあっては、中国や韓国に見られるような、恨みのある一族の墓を暴くといったような極端には至らない、その意味で、日本にあっては、先祖霊崇拝はもっと清らかですっきりしたものであり、中国や韓国の儒教世界とは異質なものと言わざるを得ないように思うのである。そして、「お坊さん便」をやや冷めた目で眺めながら、徳川時代が遠ざかるにつれ、あるいは一種の封建的な軛を離れて、仏教的なものや儒教的なものが薄れて、日本古来の神道的な世界へと回帰しつつあるように思うのであるが、どうだろうか。
 それでは神道的な世界とは何かについては、稿を改めたい。
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お坊さん便

2016-02-08 23:40:56 | 日々の生活
 先週の「春秋」(日経新聞朝刊一面の左下にあるコラム)で、アマゾンにお坊さんが出品されたとあった。アマゾンが「モノ」だけでなく「コト」を扱い始めたのは聞いていたが、まさかと思ってあらためてチェックしたところ、「お坊さん便」として、通常の法事・法要で僧侶を自宅やお墓に派遣するサービス(お布施やお車代を含めて全国どこでも一律3万5千円)のほか、戒名・法名の授与(2万円)もあった。「春秋」は、「注文のための画面にある『在庫』や『返品について』などの言葉が、なんともシュールに響く」と書き、仏教界からは「宗教をビジネスにしている」という批判の声があがっているらしいが、こう言っちゃあなんだが、宗教(とりわけ仏教)側は既にここ100年、いや戦後70年、急速にビジネス化しており、批判に当たるとは思えない。というのも、以前、島田裕巳氏の「葬式は、要らない」(幻冬舎新書) を読んだことを思い出したからだ。
 そもそも日本に伝来した当初の仏教は、高度な学問の体系として受容されたのは周知の通りで、現代のような「葬式仏教」の側面はなかった。ところが仏教には、死者が赴く浄土の世界を、豪華で美しいものとして描き出す志向があり、やがて葬式が派手で贅沢なものになっていったという。それでも檀家も墓も江戸時代以前は特権階級にのみ許された贅沢だった。それが変わったのは、応仁の乱以降、荘園制が崩壊して郷村が、そして広範な「家」の概念が成立し、寺院の財政基盤が荘園から一般民衆に変わってから、とりわけ江戸時代にキリスト教を禁止する中で、キリスト教徒ではない証として寺請証文を発行させるようになって以降のことである。武士・町民・農民といった身分を問わず特定の寺院に所属させる(=檀家になる)、仏教を国教化するに等しい政策が行われ、1687年の幕法は、檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要のほか、寺への付け届けまでも義務化した(Wikipedia)。檀家がこれら責務を拒否すれば、寺は寺請を行うことを拒否し、従い檀家は社会的地位を失うことになるため、寺と檀家には圧倒的な力関係が生じ、江戸時代における檀家は、寺の経営を支える組織として、完全に寺院に組み込まれたものだったという(同)。寺院が強権的な立場を利用して檀家から際限なき収奪を行うことには、江戸時代初期から批判があった。
 現代においても、仏教寺院の収入は葬式や年忌法要の布施に限られ、宗教法人である以上、税はかからないが公的補助も受けられないため、財政基盤は檀家の数次第となる。檀家の数が多ければ、葬式や法要の機会が増え、言い方は悪いが経営が安定するのが道理で、一般に一つの寺を維持するためには300の檀家が必要だと言われる。しかし周囲を見渡しても分かる通り、檀家離れが進み、仏教寺院の経営は厳しく、全国7万以上あるとされる仏教寺院のうち約2万は住職のいない「無住」の寺と化しているらしい。結果として、現代の仏教寺院が置かれた状況を考えれば、経営を成り立たせるために「葬式仏教化」は強まりこそすれ、弱まることはないというわけだ。
 かつて、中江兆民は、癌宣告を受けた年に亡くなったが、遺言は「おれには葬式など不必要だ。死んだらすぐに火葬場に送って荼毘にしろ」というものだったらしい。実際に葬式は行われず、遺体は当時としては珍しく解剖され、墓碑も建てられなかったという。ただ、残された者たちは、彼の死を悼み、自由民権運動に参画し生前の兆民と親交のあった板垣退助や大石正巳たちが青山会葬上で、宗教的なものをいっさい排除した「告別式」を開いたのが、今日一般化している告別式のはじまりだとされている。しかし今は、葬式の前の晩に告別式もやる。しかも葬儀費用の比較で、イギリスでは平均12万円、韓国で37万円、浪費大国アメリカでさえ44万円なのに対し、日本は231万円もかかるという。確かに私も、母親の葬儀にあたっては、祭壇や生花など、参列者の目を意識して恥ずかしくないように、そして一生に一度のことだからケチることなく、さりとて無理に派手を取り繕うことなく、結局、似たような金額をかけたように思う。
 徳川時代の軛を離れ、戦後、都市化とともに「家」意識が薄れ、平安貴族の贅沢でもあった葬式が今もなお一般庶民の間で続けられることに疑問が生じ、仏教離れあるいは檀家離れが進むのは、やむを得ないのかも知れない。近年、火葬場に僧侶を呼ばず、荼毘に伏すだけで終わりにしてしまう「直葬」が増え、首都圏では葬儀全体の4分の1を占めるまでになっているらしい。「お坊さん便」は、仏教界の心ある方々は否定するかも知れないが、危機的な現実を反映するものであろう。「出品」している葬儀関連会社は既に400人にのぼる僧侶と提携しているらしい。先の「春秋」に戻るが、「結局はお坊さん個々人の見識や力量がいままで以上に問われるのではないだろうか」と言い、「法事の席で『なるほど』と得心のいく法話や所作に触れられれば、出会ったきっかけに善しあしはないと思う」と結んでいる。島田裕巳氏も、仏教界がなすべきことは、檀家になることの意味を明確にし、それを檀家にも伝えることであり、もし、そうした試みがなされるならば、葬式仏教や戒名のあり方に対する批判も、これまでとは違ったものになってくることだろうと言う。
 正月三箇日に初詣に出掛ける日本人は全国で8000万人にのぼると言われる。勿論、身近に神社仏閣が存在する日本で、イスラム教の巡礼月に世界中からメッカに集まる巡礼者250万人は、サウジアラビア政府が制限していることもあり、単純比較は出来ないが、全国トップの明治神宮には320万人、川崎大師や成田山新勝寺には300万人、浅草寺280万人、伏見稲荷270万人、鶴岡八幡宮250万人、そのほか数十万人規模の参拝者が訪れる神社仏閣は全国津々浦々にあり、日本人が宗教的ではない理由はない。しかし日本人の宗教との付き合い方は確実に変わりつつあるようだ。
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永遠の野球少年

2016-02-06 00:50:17 | スポーツ・芸能好き
 数日前の深夜、清原が覚せい剤取締法違反容疑で現行犯逮捕された臨時ニュースが流れたときは、やっぱり捕まったかという諦めが先に立ったものの、ここ数日、心の底に引っ掛かり続け、私なりにはかなりショックだった。
 年下だったが、私たち同時代のヒーローであり続けた。チームメイトにも恵まれたが、その誰よりも清原のスター性は輝いていた。あのPL学園では1年生から4番打者を務め、同級生・桑田との「KKコンビ」で、1983年から甲子園に春・夏合わせて5度出場して、2度の優勝と2度の準優勝を果たし、甲子園での通算13本塁打は今も破られていない。1986年に西武にドラフト1位で入団すると、高卒新人として最多の31本塁打を放ち、打率3割4厘で、新人王に輝いた。ここでも4番打者として、3番・秋山と「AK砲」と恐れられ、西武在籍の11年間で8度のリーグ優勝と6度の日本一に貢献した。1996年オフにフリーエージェントで憧れの巨人に移籍してからは、必ずしも満足のいく結果が出せなかったが、2008年の現役引退まで、通算2338試合に出場し、生涯打率は2割7分2厘ながら、2122安打、525本塁打(史上5位)を記録した。打率・打点・本塁打の主要3部門のタイトルがなく「無冠の帝王」と呼ばれたが、サヨナラ本塁打12本は歴代最多であるのに加え、オールスター戦で最多7度の最優秀選手(MVP)にも選ばれるなど、大舞台での勝負強さはピカ一で、記憶に残る選手だ。
 清原を語るときに忘れられないのは、何よりその涙もろさだろう。なりは大きいが、野球少年がそのまま大きくなったような純朴さを保ち続け、可愛い奴っちゃな・・・と思わせて、野球ファンには堪えられないキャラクターだった。先ずは1985年のドラフト会議で、入団を熱望した巨人に指名されずに悔し涙して、人々を虜にし、2年目の日本シリーズでは、その巨人との対戦で、優勝を目前にして、9回2アウトではなくまだ1アウトなのに、守備につきながら涙を流し始め、人々の度肝を抜いた。この涙によって清原伝説は不動のものになったと言えるだろう。2006年、想い出の甲子園で史上8人目の通算1500打点を達成したときは「苦しいときは仰木監督の写真を見た」と目を潤ませ、2008年の引退試合でも大粒の涙を流した。
 写真週刊誌では、自分のことを「ワイ」と呼ぶ「番長日記」で、いかにも奔放な番長振りが読者を大いに楽しませたが、実際には「ワイ」などと言ったことがなく、「番長・清原」は周囲が作り上げた虚像だったようだ。むしろ野球が好きでしょうがない少年のまま、試合後のロッカールームではバットを離さず、野球の話を続けたというし、チームに用具の差し入れなどを頻繁に行ったり、2008年10月1日の引退試合では、完投で10勝目を挙げたオリックスの近藤が清原に手渡したウイニングボールにサインを入れて返すという話もあったりで、気配りの人でもあったようだ。実際に、西武時代の同僚でロッテの伊東監督は「根は優しくて、かわいげのある後輩。残念」と嘆き、巨人の阿部は「新人の俺たちが、やりやすいように気を遣ってくれていた。表向きは番長だけど、すごくみんなに気を遣ってくれていたこともあって、余計に寂しい」と話し、PL学園時代の1年先輩で、関西国際大野球部監督の鈴木英之氏は「清原は『番長』と呼ばれていたけれど、それはマスコミがつくった姿で、そんなに強い人間ではなかった」「番長のイメージに応えるために無理をしていた部分もあったのでは」と語っている。それがスキになり、転落につながってしまったのだろうかと、産経の記事は言うが、軽々しいコメントは避けたい。総じて所謂体育会系で後輩の面倒見がよく、義理堅くて、慕う選手が多かったようだ。暴力団関係者との噂も絶えないが、それも、ある意味で清原らしいと言えるのだろう。
 プロ野球名球会のイベントに参加した1月11日には、でっぷりお腹を突き出したみすぼらしい姿を晒し、かつてカモシカのように痩せて精悍だった彼の見る影もなかった。私も小学生の頃は同級生と野球チームをつくり、一度ならず甲子園を夢見たこともあって、清原の屈託ない笑顔は、今もなお憧れである。永遠の野球少年として、戻って来て欲しい。
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