風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ニオイの魔力

2016-01-14 00:57:08 | たまに文学・歴史・芸術も
 ニオイというのは根源的なものだ。ある霊長類研究者から聞いたところによれば、哺乳類は基本的には夜行性であり、ニオイ(嗅覚)で生きているため、目は見えているのだが解像度は相当低いらしい。ところが人間は夜行性ではなくなって、目が発達し色が見えるようになるとともに、嗅覚は衰えていったという。パトリック・ジュースキントはその小説「香水 ある人殺しの物語」の中で、主人公のグルヌイユの感覚を次のように描写する。

(引用)
人間は目なら閉じられる。壮大なもの、恐ろしいこと、美しいものを前にして、目蓋を閉じられる。耳だってふさげる。美しいメロディーや、耳ざわりな音に応じて、両耳を開け閉めできる。だが匂いばかりは逃れられない。それというのも、匂いは呼吸の兄弟であるからだ。人はすべて臭気とともにやってくる。生きているかぎり、拒むことができない。匂いそのものが人の只中へと入っていく。胸に問いかけて即決で好悪を決める。嫌悪と欲情、愛と憎悪を即座に決めさせる。匂いを支配する者は、人の心を支配する。
(引用おわり)

 この小説は、超人的な嗅覚を持って生まれた(そして本人には何と体臭がない)孤児ジャン・バチスト・グルヌイユの、匂いにまつわる狂気に満ちた生涯を描いた作品である。
 下水道が完備した今どきの日本からは想像もつかないが、そもそも街は臭うものだということを、私はマレーシア・ペナン島に生活してあらためて知った。かつては「東洋の真珠」と謳われたほど美しい、マレー半島にへばりつく小さな島だが、今では生活排水を垂れ流し、海岸はヘドロに覆われ、通りを歩くとゴミの臭いがそこはかとなく漂う、エントロピーの法則を地で行くような放ったらかしの田舎街だ。本書の舞台である18世紀のパリはなおさらだろう。この小説にも、セーヌ川にかかる橋の上の建物で香水を調合しながら、平気でゴミを川に投げ捨てる場面が登場する。考えてみれば、夏目漱石の三四郎だって、上京する列車の窓から弁当の空箱を捨てたではないか。日本だって、つい数十年前までは汚かったし悪臭が漂った。そんな街に、汗臭く脂ぎった人間や、うら若い女性のかぐわしいニオイが行き交う。この小説は様々なニオイに充ち満ちている。
 そして香水である。その昔、谷村新司の歌に登場したゲラン社の香水「Mitsuko」は、クロード・ファレールの小説「ラ・バタイユ」(1909年発表)に登場するヒロイン、ミツコに因むものとは後で知ったが、フランスの香水に東洋の女性の名前が冠せられた、何とも官能的な取り合わせが忘れられず、初めて海外出張したときに免税店でつい買い求めてしまった。さながらかつて日本の宮廷で遊ばれ(薫物合せ)、その後、茶道や華道と同じ頃に作法が整った香道(香あそび)の心境である。またその当時、香水に関する本でココ・シャネルの物語を読み、その芸術的なまでの職人技の奥深い世界に惹かれもした。生前、マリリン・モンローは、夜は何を着て寝るのかと問われて、シャネルの5番と答えたのは有名なエピソードだが、世の男性を大いに惑わせたものだった。やはりニオイは人間の根源に関わるものとして、脳の古層を刺激する魔力があるのだろう。主人公グルヌイユの調合する香水にも、大いに想像力をかきたてられる。
 なお、Wikipediaによると本書は「1985年の刊行以降シュピーゲル紙のベストセラーリストに316週連続で載り続ける記録を打ち立てたほか、46ヶ国語に翻訳され全世界で1500万部を売り上げるベストセラーとなった。1987年度世界幻想文学大賞受賞。2006年にトム・ティクヴァ監督、ベン・ウィショー主演で映画化された」そうだ。日本での映画公開は2007年3月3日ということは、私はその時まさにマレーシアのペナンにいたから、記憶にひっかかっていないわけだ。たまたまブックオフで表題に惹かれて手にした本を読み、映画で見る(私はまだ見ていないが)ニオイの世界は、どこまでも想像力の世界で、もどかしいところがなんとも魅惑的だ。
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