戦後80年の今年は昭和100年の節目でもある。明治維新以来、不平等条約解消のために一等国を目指した日本は、第一次世界大戦が終われば世界の五大国に昇り詰めた。昇り詰めたのは良いが、昭和という時代は、増長したのか、世間(国際社会)知らずでナイーブだったのか、周回遅れの帝国主義的「暴挙」(「中央公論」の名編集長だった粕谷一希氏は、先の戦争を「暴挙」だったが「愚挙」ではなかったと、さらっと総括された)により欧米諸国に頭を押さえつけられ、一挙に転落して敗戦の廃墟となった前半と、再び力強く立ち上がり、経済大国へと昇り詰めた後半との、ジェットコースターのような激動の時代だった。それは短い20世紀とでも言うべきもので、左翼史観が言う15年戦争と冷戦(という名のThe Long Peace by John Lewis Gaddis)という「戦争の世紀」でもあった(実際に日本人にとって「戦争の世紀」は長い20世紀とすべきであって、明治維新さらにはペリー来航に遡るべきだと思うが)。
この季節になると関連書籍を読み、静かに来し方・行く末を振り返る。最近、通勤電車の中で辻田真佐憲著『「あの戦争」は何だったのか』(講談社現代新書)を読了した。
辻田氏は、「あの戦争をどのように把握するかは、事実関係だけの問題ではない。史料を無視することはできないが、最終的には解釈の問題に行き着く。問題は、どこに絶対的な事実があるかではなく、どのような解釈を取るかなのである」(P56)と言い、続けて「歴史を振り返る意義は、過去を美化することでも、糾弾することでもない。重要なのは、なぜ当時の日本がそのような選択をしたのかを深く理解し、わがこととして捉え直し、現在につなげることにある。そのためにも、われわれはあの戦争を解釈しつづけ、適切な物語を模索しつづけなければならない」(P59)とも述べる。本書の趣旨はここに明らかであろう。そして、本書では、左・右で交わることのない国内の議論(歴史観)を整理するとともに、東条英機が大東亜会議の年(1943年)に外遊した南京、上海、新京(長春)、奉天(瀋陽)、マニラ、サイゴン(ホーチミン)、バンコク、シンガポール、パレンバン、ジャカルタ、クチン、ラブアンにある多くの歴史博物館や記念碑を実地に訪ね、「大東亜」という大義は後付けではあったが、それへの彼らの評価を読み解こうとする、なかなかユニークな取り組みである。
「歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈にほかならない」(P5)とまで言い切ってしまうと、歴史学の先生方は戸惑うであろうが、客観性は歴史学に任せるとして、私たちに必要なのは、客観性を踏まえながら、過度に卑下することなく、そうかと言って美化する必要もなく、日本と日本人のありようを素直に指し示し、国民に共有される、「国民の物語」であろう。私もかねて、私たちは「先の戦争」を総括していない、できていないことを嘆いてきた。それなしには、関係諸国、とりわけ歴史を直視せよと、歴史問題を外交カード化し、ことあるごとに日本の出過ぎた行動(往々にして中国に不都合なもの)に釘を刺そうとする、毛沢東の大躍進や天安門事件などの自らの不都合な歴史は揉み消すような中国と、対等に渡り合うことは出来ない。
そして辻田氏は小林秀雄を引用する。「歴史を貫く筋金は、僕等の哀惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではない。」 そして小林秀雄は「子供に死なれた母親」を引き合いに、次のように述べたそうだ。
(引用はじめ)
母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという、感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。
(引用おわり)
これこそ「国民の物語」と私が思い抱いてきたものの本質だろうと、はたと膝を打った。行き過ぎて失敗したことばかりでなく、さりとてその陰で成し遂げた小さな成功にも目をつぶることなく、「哀惜の念」を込めて日本および日本人なるものの来し方を振り返り、行く末に思いを馳せることであろう。
それで、東条英機の「大東亜外交」の足跡を訪ねる著者の旅はどうだったか。その結論だけ言ってしまえば、勿論、それぞれの国の「国民の物語」と密接に関わり、場合によっては発展途上で国威発揚に利用されながら、受け止め方はさまざまであるが、「許そう、だが忘れない」と総括できそうだ。あの南京大虐殺記念館の展示にも「歴史をしっかり銘記しなければならないが、恨みは記憶すべきではない」と記されているそうだ(と、きれいごとを言ったところで、彼の国では歴史を外交に利用することはまた別の議論となる)。私たちも、これら近隣諸国の記憶を逆撫でしたり、ないがしろにしたりすべきではないだろう。これはまさに、安倍元総理が70年談話で、先の大戦に関わりのない子孫やその先の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とする一方、「謙虚な気持ちで過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任がある」と述べたこととも符号する。
歴史というものは厄介である。知人の元・自衛隊幹部と、昨日も大いに議論になったところで、軍人(と敢えて昔の呼び方をさせて頂く)にとって帝国陸・海軍の戦略性のなさや愚行を許せないのは分からないではないが、私は先人の判断を先ずは尊重し、その結果の良し悪しに関わらず先ずは敬意を払うべきだと思っている。そもそも戦後80年の間、敗戦の反省に立つとは言え、謙虚で真面目な日本人が、戦前は謙虚じゃなかった、真面目ではなかったとは到底、考えられないからだ。勿論、いつの時代にも、いけ好かない野郎はいる。今もいる。でもそれが世の中というものであろう。いけ好かない野郎だけを捉えて、全体の評価を下すのはフェアではない。
辻田氏も、歴史は現在地を起点とする解釈だと言う以上、昨今の中国の増長ぶりを見て、戦前・戦中の歴史の見直しが進むであろうことを示唆される。日本及び日本人が先に述べた通りであるように、戦前・戦中の中国及び中国人が、左翼史観が言うように、残虐な日本のなすがまま、虐げられるままの可哀そうな存在だったとは到底、考えられない。実際、神田の古本屋街に行けば、当時の大陸の残酷物語を難なく見つけることが出来る。
だからと言って、それで溜飲を下げて済むものではない。辻田氏は、本書で歴史を簡単に振り返りながら、日本の対外政策が一環した指導のもとで進められていたわけではなかったという構造上の問題、すなわち「司令塔の不在」を指摘される。確かにドイツ人は、ナチスやヒトラーのせいにすれば先の戦争を「総括」できる。イタリアもムッソリーニのせいに出来るかもしれない。知人の元・自衛隊幹部は東条英機はどうだと批判されるが、天皇陛下をこの上なく尊敬する忠臣で、極めて優秀な官僚に過ぎない彼が、戦争を止められなかったからと言って、ヒトラー並みに責めを負う存在とは到底、考えられない。GHQは軍部独裁の歴史をラジオ放送して、戦後の私たちは、ニュルンベルク国際軍事裁判でナチスが裁かれたように、極東国際軍事裁判(東京裁判)で軍部が裁かれたのだと信じ込まされて来たが、日本の憲政がそれほどヤワだったとは思えない。確かに、首相は今でこそPrime Ministerだが、当時は閣僚の一人に過ぎず、軍部が海軍大臣や陸軍大臣を出さなければ内閣は成立しなかった。陸軍と海軍の確執があったのも事実だし、それぞれの軍の中には派閥闘争もあったし、外務官僚もいたし、当然ながら国会もまがりなりに機能していた。「総括」する難しさは、このあたりにあって、現代に繋がる問題として、これからの難しい時代を前に、日本人は今一度考えてみる必要があるのではないかと思う。