風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

G7雑感 グローバルサウスの存在感

2023-05-31 01:59:48 | 時事放談

 G7を巡る狂騒曲を続ける。一見、その存在感が高まっていることを称揚するかのような、あるいは少なくともニュートラルな意味合いに見えるブログ・タイトルだが、正直なところ、グローバルサウスに対して、歴史的には大いに同情するが、最近はその増長振りがやや気になるところでもある。正確に言うと、存在感が、ひいては発言力が高まっていることを感じ、自己主張を強めようとするのであれば、それに応じた国際社会の責任も引き受けるべきところだ。その点では、中国と言う悪しき先例がある(もっとも最近は、アメリカが後退する“隙間”を狙って外交努力を誇示しつつあるが)。

 グローバルサウスが、ロシアとウクライナとの戦争からも、また、アメリカと中国との対立からも、距離を置きたがり、巻き込まれないように慎重に行動するのはよく分かるが、結局、いずれからも利益を得ているから、あるいは得たいからという現実的で短絡的な(と敢えて言わせて貰う)対応を示しているだけのことで、それは何も今に始まったことではない。ツキュディデスの罠を流行らせたハーバード大学のグラハム・アリソン教授がインタビューしたシンガポール建国の父、リー・クアンユー氏も同様のことを語っていた(『リー・クアンユー、世界を語る』(サンマーク出版 2013年)。

 相対的に中小国が多いグローバルサウスにとって、それがまだ発展途上の彼らが厳しい国際社会を生き抜く知恵であることは理解する。国際政治においてリアリズムが大事であることは、E.H.カーが既に、国際政治学の原典とも言うべき『危機の二十年』(原書”The Twenty Years' Crisis, 1919-1939”は1939年)で指摘していた。だからと言って所詮ユートピアニズムは偽善だとも言い切れなくて、現実と理想(や理念)とのバランスの問題だろう。前回ブログでは、アメリカが中国に引っ張られて、理念を置き去りにするような行動に走り、今、グローバルサウスの台頭でも、理念がよく見えない。理念がなんだか不憫な扱いをされる時代である。

 ロシアとウクライナとの戦争に関して、グローバルサウスは、ロシアの行動を非難することには辛うじて賛同し、戦争が早く終わって欲しいと望みつつ、制裁、すなわち力による現状変更という国連憲章違反の行為が高くつくことを思い知らしめる行動には乗って来ない。第三次世界大戦を回避し、秩序を維持しようと返り血を浴びながらも健気に努力する西側の行為(などと、かなり西側寄りの発言であるが 笑)には背を向ける。果ては、食糧危機は西側の制裁のせいだとロシアが声高に宣伝するのを信じる国すらある。同様に、アメリカと中国との対立ではどっちもどっちなのか、中国に非はないのか、という理念の問題について、問い掛けたい。

 アメリカの苦悩は、実はグローバルサウスには分からないだろう。何故なら、グローバルサウスは中国が欲しがるような技術を持たないし、アメリカほどのインテリジェンスもないからだ。アメリカは、自由と民主主義を尊ぶオープンな社会で、科学・技術が発展していればこそ、中国をはじめ多くの国々から多くの人々が学ぶために集まり、共創し、アメリカの科学・技術の発展を助けるとともに、それぞれの出身国の経済発展にも貢献する。中でも中国は、そのオープンな環境に乗じて、技術を学ぶだけでなく、金に飽かせて技術を買い漁り、正当に入手できない場合は窃盗し(先のグラハム・アリソン教授は、中国の場合はR&D&Tとなる、すなわちR&DにとどまらずT=Theftまでやると言われた)、自国の軍(正確には共産党の軍)の近代化に余念がない。それが、人口数千万程度の開発独裁国ならまだしも、国家資本主義という異質の体制で、既に世界第二の経済大国に登り詰め、なお国家がその全精力を傾けて国の経済と軍事の発展を主導する国なのだから、覇権が脅かされる(とアメリカを揶揄しつつも)アメリカにとってはたまったものではない。

 ついでに言うなら、中国が欲しがる技術をまだ辛うじて持っている日本も、アメリカの苦悩は十分には分からないだろう。何故なら、アメリカほどのインテリジェンスがないから、技術が盗まれているかどうかすら分からないだろうからだ。日本の経済人の多くがお人好しでお気楽でいられるのは、そのせいではないかと思う。

 中国やロシアは、多極化した世界を望むことで一致する。欧米的な自由・民主主義が全てではなく、中国やロシアのような権威主義も、さらにグローバルサウスのような発展途上の世界も、存在感を主張し、その限りでは理解できなくはない“美しい世界”だが、そのときの秩序はどうなるのだろうか。共有できる理念はあるのだろうか。中国やロシア(だけでなく、イランや北朝鮮などの)サイバー攻撃をはじめとする無法は許されるものではない。以前であれば、産業スパイ事件は新聞の一面を飾る事件たり得たが、サイバーを介した産業スパイは日常茶飯事になってしまった感がある。言葉は悪いが、北朝鮮は犯罪国家であり、中国は共産党が人民を搾取する泥棒国家という形容が成り立ち得る。そんな世界で、大規模言語モデルが急速に発展し、AIのリスクが俄かに語られるようになったのにはワケがある、というべきだろう。今朝の日経記事(英エコノミスト紙の翻訳記事)は、人種差別や子供を対象にした性犯罪、爆弾の作り方に関する情報の提供などの危険が考えられると言い、強大化するAIモデルが、偽情報や選挙操作、テロ行為、雇用の喪失などの危険をもたらす可能性がある、という。最近は雇用の喪失が多く語られるが、私はどちらかと言うとそこは楽観的で、それ以外の政治・社会的リスクが恐ろしい。

 なお、そのグローバルサウスの一つとして招聘された韓国が、G7入りに意欲を示し、日本の支持を期待しているとの記事が目に留まって、目を疑った。ドイツの首相が30年振りに、また欧州委員長も、G7後に韓国を訪問した。NATO以外の国で、韓国ほどの経済力があって、今なお法的には戦争中で、ウクライナに武器・弾薬の支援を出来る国は、世界広しと言えどそうあるものではない。この期にNATOや欧州の関係者が韓国に秋波を送るのはもっともだと思うが、当の韓国はそう思わず、勘違いしている可能性がある。保守政権で日本の悪口をあちらこちらの国々で触れ回る「告げ口外交」を恥じることなく、その後の左派政権では反日活動に勤しむ市民団体に数千億円の補助金を出して、反日を大いに煽って戦後最悪の日韓関係に立ち至らせた国である。グローバル・イシューを語るに足るパートナーだと、自ら自負されているのだろうか(もっともG8発言のヌシは韓国の駐日大使で、ほんの都内での講演での軽口だったのかも知れないが)・・・

 日米欧の民主主義陣営にしても、中露の権威主義陣営にしても、グローバルサウスを取り込むことに躍起になっているが、いずれもグローバルサウスには振り回されそうな予感がする。これも(中国やロシアと同様)、歴史の復讐であろうか・・・

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G7雑感 中国に歪められる世界

2023-05-28 19:37:33 | 時事放談

 ロシアとウクライナによる戦争が一年を超え、世界が自由・民主主義国と、権威主義国と、そのいずれからも距離を置きたがるグローバルサウスという日和見(と敢えて言わせて貰う)のグループに分断される中で、G7がどのようなメッセージを発出するのか、それに対してG7を取り巻く利害関係者がどのような反応を示すのか、注目された。

 先ず、岸田首相の念願だった地元・ヒロシマ(地理的にとどまらない意味合いを込めて敢えてカタカナ表記する)での開催らしく、将来に向けて核兵器の廃絶を訴えた。共同声明「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」によくぞ漕ぎつけたものだと思うが、反核の市民団体からは不評で、「失敗」だったとこき下ろす声もあった。核保有国の米・英・仏に加え印も参加したG7で大胆な進展など期待できないことは織り込み済みだろう。それよりも、首脳たちが個別に資料館を視察し、被爆者と面会し、G7首脳が揃って原爆慰霊碑に献花し、戦没者を追悼する場面があったのは、日本ならではの貢献であり、快挙と言うべきだろう。

 このヒロシマでの開催に、ウクライナのゼレンスキー大統領が飛び入りで参加し(正確には、オンライン参加を対面参加に切り替え)、G7後半の話題をさらった(いや、そのための花道をわざわざ用意したと言うべきだろう)。2014年以来、米・英をはじめとして様々な支援を受けて来たとは言え、いくら所詮は資源大国でしかない、冷戦時代の装備が残るロシアの攻撃であれ、今なお持ち堪えているのは驚異的だが、これはNATOをはじめとする後方支援あってこそ。ヒロシマという地でのインドをはじめとするグローバルサウスとの対話は、ウクライナの存在感を示す良い機会だったことだろう。移動手段については当初、アメリカ軍機を使う予定だったが(当然であろう)、飛行出来るのが同盟国、友好国の上空になるなどの制限があり、かつ20時間以上かかることから、フランス機に切り替えたようだ。日本に到着してから(日本が用意したとは言え)ドイツBMW社製の防弾車に乗り、会場で最初に面談したのはイタリアとイギリスの首相という(このあたりは日経による)、毎度のことながら気配りの行き届いた訪問だった(微笑)。

 対中では、部分的であっても「デ・カップリング」というネガティブな表現は敬遠され、「デ・リスキング」で纏まった。誰もが巨大な市場の中国に依存し、一定程度の恩恵を受けつつも、一定程度のリスクをも意識する中では、当然の成り行きであろう。もとは3月にEU委員長が発した言葉で、4月にアメリカの安全保障担当大統領補佐官が続き、G7で決定的になった。「人類運命共同体」なる高邁な理想を掲げる中国が、明確に世界の「リスク」と見做されることは、さぞ心外だったことだろう。その中国によれば、G7は「中国を中傷し、内政に乱暴に干渉している」として、「強烈な不満と断固とした反対」を表明し、日本に「厳正な申し入れ」をしたという(時事による)。とばっちりを受けたのは垂大使だが、「中国が行動を改めない限り、G7として共通の懸念事項に言及するのは当然だ」と反論された。かねて垂大使のご発言には敬意を払って来たが、この毅然たる対応は天晴れと言うべきだろう。中国は都合の悪いときには決まって「内政干渉」だと、グローバルに説得力のあるとされる言い回しで誤魔化す(その根本をなす思想は異なるのだが)。惜しむらくは、日本からではなく駐中国日本国大使からの発言だったことだ。こうした重要な立場は、明確に(言うべきことは言うと言い放った首相や外務大臣など)日本国政府として発信すべきだろう。

 例えばアメリカのCHIPSs法やインフレ抑制法を見ると、あのアメリカが・・・と、隔世の感がある。1980年代後半に不当とも言える(発展途上の、と敢えて言う)日本の内政に干渉したアメリカだったが、今や当時の日本も顔負けの、否、むしろ国家資本主義の中国に対抗せざるを得ない状況に追い込まれ、なりふり構わぬ国内産業育成・保護の補助金行政を強行するのだ。あの、理念の共和国・アメリカが、である。これを、中国が歪めていると言わずして、何と言おう。それは、グローバルサウスに対しても同様であろう。「債務の罠」と呼ばれるが、中国自身は、首尾一貫して他国の内政には干渉しないが、冷徹に経済的な搾取(いわゆる新・植民地主義)を続けている。

 だからと言って、アメリカの行動を許容するものではない。ただ、アメリカ自体は、依然、西側と呼ばれる自由・民主主義世界では唯一と言ってよいほどの人口増加と経済の高成長を続けるが、さすがのアメリカを以てしても、相対的な地盤沈下によって、有志国と共同しなければ単独では対処できない事実に呆然とするだけである。

 問題はやはり中国である。

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5月8日

2023-05-13 21:26:07 | 日々の生活

 この日は、暫くは記憶に留められるエポック・メイキングな日になることだろう。新型コロナウイルスの変異株は、感染症法上の分類が「5類」となり、それで感染力や重症化のリスクが上がった変異株が出ない保証はないし、尾身茂さんのような専門家は、「波の高さはともかく、第9波が来ることを想定した方がよい」と言われ、警戒を続けるよう求めておられるのはよく分かるが、世の中は変わった。

 8日付の朝日新聞は、街行く人でマスクを外す人の比率が4割近いと伝え、その後も、私の乏しい経験からも、もはやマスクを外す人が目立つようになった気がする。隔世の感がある。オフィスでも、即日、執務フロアからも食堂からも会議室からもアクリル板パーティションが取り外された(食堂の密を避けるための時差昼休みは継続中だが)。象徴的な動きを、恐らく会社としても率先したいのだろう。

 思えば3年前、突然の原則在宅勤務が宣言されて、先が見通せない状況の中で、どのような条件が揃えばコロナ禍が収束したと言えるのかという、当時としては途方もない儚い夢でしかないような議論があった。それは世間がコロナウイルスを恐れなくなったときだと述べた方がおられたのは、まさに慧眼で、もう一つ付け加えれば、同調圧力が強い日本人社会の動きは遠慮がちで、「5類」に分類されたことをキッカケに、待っていましたとばかりに世間の動きが変わったことからすれば、「宣言」のような象徴的な号令が必要なのだと、あらためて思った。

 私は・・・と言えば、当初2年間はほぼ9割方、在宅勤務していたが、この一年はほぼ9割方、出社し、運動不足解消のための強制的な散歩ではなく、出退勤途上の街をそぞろ歩く楽しさを取り戻していた。最近は職場の同僚と合意の上で、喋るとき以外はマスクを外していた。ほぼ時を同じくして、外出時もマスクを外していた(花粉症の季節は、逆行してマスクを着用したが)。季節は移ろい、今あらためて解放感に浸っている。マスクを外して、人の表情を読めることが、なんだか懐かしくも嬉しくもある。

 こうした個人的な経験はともかくとして、社会としてはどうだろうか。甚だ気になるところである。尾身さんはインタビューに次のように答えておられる(5月8日付 東京新聞)。

「2009年の新型インフルエンザの流行で、いろいろなことを学んだ。次のパンデミックに備えようと、関係者が時間を費やして議論して提言書を国に出した。その中では、PCR検査体制や保健所機能、医療体制の強化、国と専門家の関係のあり方などコロナで課題が指摘された問題の多くについて具体的な提言が書かれていた。これは私の個人的な考えだが、その後、政権交代や(東日本大震災などの)自然災害などがあり、政府は集中的にこれを実行することができなかった。」

「重症急性呼吸器症候群(SARS)や新型インフルエンザなどの時も大変だったが、これだけの大変な思いをしたのは少なくとも私の人生ではなかった。100年に1度の感染症だったといえる。一言で言えば、感染症という危機に対応する準備が不足していた。これだけの経験をしたのだから、やはり次の感染症の流行に備える上では、新型インフルの時のように提言はまとめたものの実行されないということを繰り返してはならない。今こそ第三者も含めて政治、行政そして専門家集団が何を(文書として)書き、言い、したか、事実ベースでの検証が求められる。」

 しかし、水に流すことが得意な日本人は、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのだろうか。島国で、地震・雷・火事・台風以外に深刻な(例えばパンデミックだけでなく異民族の侵略のような)脅威に直面する経験に乏しい、良くも悪くも人が好い日本人を自覚する私としては、「大変だったね」と言いながら、このまま日本人らしく流されるのだろうか。

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