風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

本日の日経全面広告

2016-09-30 00:05:19 | 時事放談
 今日の日経は、全面広告に目が留まった。朝はベッキー、夜は新華社である。どういう風の吹き回しであろう。
 ベッキーの方は、宝島社の広告で、30段カラー見開き(つまり丸々2頁分)、ショートヘアに裸の背中を大胆に見せるものだった。実は朝の通勤電車ではベッキーみたいだけど果たしてベッキーなのかどうか特に気にも留めなかったのだが、産経Webが「(イメチェン)衝撃写真」と報じていたので、夜、あらためてしげしげと見てしまった。上部に「あたらしい服を、さがそう」「宝島社」と、それほど大きくない言葉が添えられただけのシンプルなもので、それだけにインパクトはある。同社が発行するファッション誌を盛り上げるのと、ベッキーの身上とを掛けたもののようだ。
 ベッキーにすっかり飲まれたのか、日経夕刊8面に新華社のカラー全面広告が出ていたが、ネットでは全く話題になっていなかった。日経に新華社の全面広告が掲載されたことに、私は初めて気が付いたのだが、もしかしたら過去に既にあったのかも知れない。
 勿論、アメリカでは中共系メディアが著名紙によく広告掲載し、学校の先生に訴えるワガママなガキ然と、独り善がりの主張をしているのを知っている。所謂パブリック・ディプロマシー(広報文化外交)である。中でも4年前、尖閣諸島を国有化したときに、チャイナ・デーリー紙(中国の英字紙、中国日報)がNYタイムズ紙とワシントン・ポスト紙に「釣魚島(=尖閣諸島)は古来より中国固有の領土」「日本が横取りした」などと広告を掲載したのに対し、在米日本大使館が激しく抗議したことが記憶に残る。
 今日の全面広告では、先般、杭州で開催されたG20で習近平国家主席が行った開催スピーチを誉めそやし、「『中国の処方箋』はなぜ世界に賞賛されるのか」とタイトルし、「処方箋」の内容には一切触れずに、ただ空虚な言葉で現象を自画自賛するばかりである。どこそこの国の誰それもこんなふうに褒めている、などと引用するが、実はオーストラリアの経済学者もフランスの国際関係の専門家も華人系だったりする。ここ数年、大国意識を背景に周辺諸国に対して強気に出て却って反発を招き、裏目に出るのを、ちっとは反省しているのだろうか。例えばプロパガンダで民衆を誘導する中国より、自由な言論空間が広がる日本で、相手国への感情が悪化していることに、ちっとは気を揉んでいるのか。あるいは新常態と呼んで、内需主導の経済へのスムーズな転換を図りたい中国共産党は、日本の対中投資の落ち込みが想定以上に激しいのを懸念しているのか。
 この全面広告は、何度読んでも何が言いたいのか理解できず、さっぱり頭に入らない。これまで裏で日本のメディアを操ってきたのを、堂々と正面から懐柔しようとしているのかどうか、それなら、もっと日本語らしい日本語で日本人に書いてもらうようにした方がよいし、露骨に体制に擦り寄る姿勢はしらじらしく、日本人には全く受けない(ここは言論の自由が保証された日本である)ことも、理解しておいた方がよい。
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バリウム検査

2016-09-27 23:07:46 | 日々の生活
 人間だれしも生きている限りは健康でありたいと思う。寝たきりなんて真っ平御免で、生きている甲斐がない。何より子供たちをはじめ他人様の手を煩わせることになる。というわけで予防が肝心とばかり、健康診断は真面目に受けることにしている。ささやかながら、健康保険の厳しい財政事情を救う一助にもなる。なお、春先にマラソン・シーズンが終わってから秋の気配が漂うまで完全休養する(つまり夏場に走るような無茶をしない)ズボラな私は、健診は、一年の内で最も不健康と思われる、再びマラソン・シーズンが始まる前の秋口に受けることにしている。
 私の会社では、ご多分に漏れず、法定の定期健診のほか、年齢によって生活習慣病(予防)健診が義務付けられる。かつては成人病(予防)健診と呼ばれ、加齢と言うより生活習慣が深く関与していることから、予防に意識を向かわせるために生活習慣病健診と呼び換えられたものだ。目玉は、超音波検査とバリウム検査で、この内、私はバリウム検査がどうにも苦手だ(まあ世の中広しと言えども得意な人はいないだろうけど)。胃がんや食道がんの早期発見のためとは言え、どうしてこんな非人間的な検査が21世紀の現代に生き残っているのかと、訝しく思う。というわけで、いまいましいので、ちょっと調べてみた。
 正式には「(上部消化管)造影検査」と呼ばれ、造影剤としてバリウムを飲まされる。バリウムと言えば、学生の頃に習った記憶が曖昧ながら、金属の一種だ。そんなものを体内に取り込んでどうするのかと思うが、X線を透過しにくいという性質を利用し、通常のレントゲン写真(つまり静止画)ではなく、連続して照射しながら、バリウムが口腔から食道、胃、十二指腸へと流れていく様子を動画で見て、ポリープや潰瘍などで狭くなっているところがないかどうか、また、胃の粘膜についても、胃潰瘍によるくぼみや胃炎で荒れた状態がないかどうか、調べるのだそうだ。
 そのために、先ずは胃を空っぽにする必要があり、検査の前日、夜9時以降の絶飲絶食を言い渡される。次いで胃を膨らませて胃の中のひだひだを伸ばして病変を発見し易くする必要があり、検査直前に発泡剤を飲まされた挙句、ゲップをしてはいけないと殺生なことを言い渡される。そしてあの、ドロドロとして比重が高く、とても飲み物とは思えないバリウムを、たっぷり大き目の紙コップ一杯分、少しずつ流し込む。そんな苦労をしながら、撮影後は、バリウムを速やかに体外に排出する必要があり、大量の水とともに下剤を飲まされる。身体に悪いはずの異物を入れて、速やかに流し出す・・・検査のためとは言え、なんと理不尽なことだろう。
 尾籠な話になるが・・・このバリウムを長らく体内に残しておくと固まってしまい、腸閉塞を引き起こす危険すらあるので要注意だ。下剤は、ご存知の通り、大腸壁を刺激して腸の動きを促進し、排便を促す。水分を多く摂ると、より効果的だ。下剤の効果は(個人差があるものの)凡そ4~5時間位で出るので、その間はなるべく(キンチョーするような)会議の予定を入れないとか、外を無闇にうろうろしないなどの注意が必要になる。もし夕方までに排出しない場合、夕食後に2度目の下剤を飲むことを勧められる。しかし、どれだけ頑張っても、全てを出し切るのに、早くて検査の翌日まで、つまり2日かかる。そのため、食事は通常どおり摂っても構わないのだが、野菜などの繊維質が多い物を勧められるし、アルコールは、腸内の水分を奪ってしまってバリウムが固まり易くなるため、ご法度だ。出しきった目安は、色が白からいつもの茶色に変わるので、簡単に分かるが、検査日の内に出来るだけ排出しておかないと、翌朝にはコンクリートの塊もどきに変わるので、後悔することになる。
 さらに調べてみると、バリウム検査は30年前の理論だと突き放す専門家(医者)がいる。ネット上の情報だから、本当の医者かどうか分からないし、そういう意味では話半分に聞いておいた方がいいのだろうが、「御意」である。しかも、粘膜の凹凸の変化が出るのは、ある程度がんが進行している状態なので、バリウム検査では早期がんは見つからないとまで断言する(そのため、内視鏡で表面の色を見て発見することが最新のやり方なのだ、と)。へええ、である。更に、バリウムが体内で固まり、臓器に穴を開ける重大な事故(穿孔)が多く、ひどい時には死に至ること、そして通常の胸部レントゲン撮影の150~300倍もの放射線を浴び続けるため、発がんリスクが高まることも指摘されている。では、どうして30年来、事態はあらたまらないのか。胃カメラは高給取りの医師しか操作が許されない検査方法だが、バリウム検査はレントゲン技師が行うことができ、検査機関にとって安上がなのだという。また、レントゲン医師の雇用を奪わないためともいう。さらに利権の存在を指摘する声もある。国立がんセンターや集団検診を行なう地方自治体からの天下り組織となっている日本対がん協会と全国の傘下組織が検査を推奨・実施し、メーカーや医者・病院も潤うのだと。話半分にしておくにしても、なんとも憂鬱な話だ。
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シン・ゴジラ補遺

2016-09-25 09:04:40 | スポーツ・芸能好き
 「シン・ゴジラ」には、さりげなく日本の伝統技術が活かされていて、なかなか芸が細かい。
 一つは、伝統技術と言うより伝統工芸と言うべき、“折り紙”が使われている。これはさりげなく、ではなく、重要ポイントなのだが、ゴジラ研究の牧元教授が残したという「謎の図面」は、ゴジラの特異な細胞膜の活性を抑制する「極限環境微生物」の分子構造を立体的に表現するデータで、平面で見ても意味がなく、折り紙で表現されていたのである。折り紙と言っても子供の遊びと侮ってはいけない。2005年に小惑星「イトカワ」に到達した「はやぶさ」君が持ち帰った岩石質微粒子を博物館に見に行ったとき、隣で展示されていた、将来使われる予定という人工衛星のソーラーセイル(だったと思う)は、折り紙の折り方を応用し、地上で折り畳んで小型化して打ち上げ、宇宙に解き放ったときに広げる(なおかつ強度を保つ)というものだった。このように、宇宙産業では、巨大な宇宙構造物を地上で効率的に折り畳み、打ち上げ後に宇宙空間で展開し利用する“折り紙”の技術研究が続けられ、ソーラーセイルだけでなく、ソーラーパネルやパラボラアンテナなどにも応用されている。
 次いで二つ目は、伝統技術と言うより伝統芸能になるが、ゴジラのモーション・キャプチャー(現実の人物や物体の動きをデジタル的に記録する技術)を狂言師・野村萬斎氏が担当された(野村萬斎氏の動きをモーション・キャプチャーでおさめ、ゴジラに反映させた)。これは宣伝しないことには分からないので、話題になっている通り。フルCGで制作されたゴジラに「魂を入れたかった」という樋口真嗣監督直々に野村氏に連絡を取られたようで、その経緯について「狂言では、妖怪とかキノコとか、人間ではないものも人間が演じるんですよ。それを見たときに『萬斎さんだったらいける!』と思いました」と語り、「日本のゴジラなので、日本の要素を入れたかったんです。精霊とか存在しないものを狂言でやられている萬斎さんかなと思って。ゴジラが“降臨しちゃってる感”が凄かったですよ」と大絶賛されたという。当の野村氏は「日本の映画界が誇るゴジラという生物のDNAに私が継承しております650年以上の歴史を持つ狂言のDNAが入ったという事で非常に嬉しく思っております」とコメントし、「今回のゴジラには狂言や能の様式美が必要とされているのかな、と感じました。ゴジラは“神”に近いイメージ。ゆっくり、どっしりとした動きのなかで表現しようと意識しました」と撮影時を振り返っている。着ぐるみゴジラなら人間が演じるので、何がしか人間味あるいは動物味を出すことが出来るが、フルCGならではの起用であろう。監督の茶目っ気を感じるが、そういう一種の隠し味が楽しい。
 三つ目は、技術というより芸術なのだが、片岡球子女史の富士山の絵だ。多摩美術大学の小川敦生教授は、首相官邸と思しき部屋の壁に片岡球子女史の絵が掛かっているところに注目される。片岡球子と言えば、際立った個性が必ずしも評価されるわけではなかった日本の画壇の中で、原色のような派手な色使いに、あえて稚拙さを出したような独特の造形をなす、個性豊かな画家で、だからこそ、一目見て、彼女の作品と分かるのであり、首相官邸が登場するたびに絵に目が行く、その絵にはパワーがあるのだ、と言う。あたりさわりのない表現の日本画が現実にたくさんある中で、敢えて片岡球子の作品を「選んだ」結果だろうと推測される。
 最後に、まさに日本の技術として、映画の最後の方で東京駅が映し出されるシーンに、今はまだないビルが登場するらしい。私は全く気が付かなかったが、三菱地所が2027年度の完成を目指す「常盤橋街区再開発プロジェクト」のB棟で、日本で最も高い390メートルになる見通しだ。敢えて時間軸を攪乱しているのではないかとの穿った見方があるが、ここにも制作者の茶目っ気を感じる。
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シン・ゴジラ

2016-09-23 00:41:43 | スポーツ・芸能好き
 最新の「ゴジラ」を観た。1954年に誕生してから62年、シリーズ29作目、ハリウッド版を除いて日本のゴジラ製作は12年ぶりだそうである。そろそろブログに書いても、ネタバレを心配することもないだろうか・・・今度の「ゴジラ」は、周知の通り、お子様向け「怪獣映画」ではなく、これまでのシリーズとは一線を画している。これまでは何だかんだ言ってゴジラが主役だったが、今回は恐らく「怪獣」という言葉は映画の中で一度も出てこない代わりに、「巨大不明生物」呼ばわりされ、後景に引いている印象だ。エグゼクティブ・プロデューサー山内章弘氏は「ゴジラという題材でどういうことを描こうとするか。政治劇なんです。ポリティカルドラマ」と語り、それが実に良く出来ていて、大のオトナに好評だ。
 ポスターには「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」とある。確かにゴジラは飽くまでゴジラ、海洋投棄された核廃棄物を代謝できるよう適応・進化した深海生物という設定の、虚構の「巨大不明生物」であり、立ち向かうのは現実のニッポン、ニッポンという国を背負う虚栄心にまみれ途轍もなく頭は切れるが自分たちにしか通じない専門用語を立て板に水の如くまくしたて縦割り組織の中で自らの責任のみ全うしてよしとする鉄壁の官僚機構と、票とカネしか頭にないふやけた政治である。しかし、そのどうしようもないニッポンが、未曾有の危機に直面する中で、化ける。立ち上がるのは、年功序列の政治家でも御用学者でもなく、奇人・変人ともいうべき若手研究者や若手政治家・官僚たちだ。なかなか痛快である。
 モチーフは、東日本大震災に伴う“未曾有”の福島第一原発事故だろう。何を決めるにもまずは会議からという悪習、官僚による会議での閣僚に対する「メモ出し」の様子、「どこの部署に対して言っているんだ」という言い方に象徴されるような省庁間の煩雑な調整、記者会見前に防災服を手配するエピソード・・・「シン・ゴジラ」に出てくる内閣府や各省庁の官僚たちがテンポ良く映し出されるシーンは、あの当時の経産省、原子力安全・保安院(当時)、内閣府、文科省、東京電力などの様子によく似ているというジャーナリストの声がある。緊急災害対策本部の設置、都知事からの治安出動による有害鳥獣駆除要請、初の防衛出動、無制限の武器使用許可、等々、展開は驚くほどリアルで、現実の官僚たちも注目したようだ。そう、今度の「ゴジラ」では、普段はなかなか固有名詞が出てこないような若手政治家・官僚や自衛官が主役なのである。
 この映画ではいろいろな問いかけが仕掛けられ、興味深く仕上がっている。「シン・ゴジラ」の「シン」は、「新」であり、「真」でもあり、また「神」でもあるのだそうだ。先の山内氏は、いろんな想像をしてほしいという意味でこういうタイトルにしたと語っているが、実際、いろいろな人が様々に好き勝手に語っていて、そんな議論を誘発する包容力ある曖昧さが実にいい。例えば・・・

 自民党の石破茂元防衛相は、ゴジラの襲来に対して、何故、自衛隊に防衛出動が下令されるのか、どうにも理解が出来なかったと述べておられる。「いくらゴジラが圧倒的な破壊力を有していても、あくまで天変地異的な現象なのであって、『国または国に準ずる組織による我が国に対する急迫不正の武力攻撃』ではないのですから、害獣駆除として災害派遣で対処するのが法的には妥当なはず」とのご指摘である。

 A.T.カーニー日本会長の梅澤高明氏は、「巨大不明生物特設災害対策本部」、通称「巨災対」が組織されて以降、危機対応における極めて理想的なオペレーションが展開されて行くことに注目され、その要素を三つに整理される。一つ目は、「巨災対」が実力主義の専門家で組織されていること(その多くは、通常であれば組織の中で浮いてしまうような異端児的な扱いづらい人材である)、しかも省庁横断かつ学者も交えた官学横断というように、実力を基準に組織の壁を超えてチームを作ること、二つ目に、優れた現場リーダー(「巨災対」事務局長の内閣官房副長官)に権限を委譲し集中させたこと、三つ目に、トップ(総理大臣臨時代理)がこうした体制を構築した後、しっかりと現場をバックアップしたこと(閣僚11人が亡くなり、派閥の年功序列で就任した臨時総理大臣は、途中までは無能なトップの象徴として描かれているが)、この三つが揃うことが、巨大プロジェクトを成功させるために必要な要素という。もっともシン・ゴジラのような状況では、容易に問題意識や危機意識を共有できるので、機能しやすいだろう。その他、あのプロジェクトが成功した要因として、オープン・イノベーション(ゴジラのデータを外部に広く提供し世界中の知恵を集める)と、その結果としてのクリエイティブな作戦(八塩折(ヤシオリ)作戦)、そして作戦の実行を支えた現場力(自衛隊と米軍、さらに民間企業も含め)だとも言う。ビジネス・パーソンとして、このあたりの組織論的な見方には大いに共感するところだ。

 一般社団法人ガバナンスアーキテクト機構研究員の部谷直亮氏は、本作に日本人ならではの労働観を認めておられる。「巨災対」メンバーは、食事はお茶とお握りとカップうどんで、不眠不休で働きづめ、リーダーは風呂にも入らずワイシャツも変えないのを難詰される場面もある。時間との勝負なので止むを得ないのだが、全体のために一心不乱に働く姿を美しいと感じるのが日本人だ。しかし、戦争において睡眠不足と栄養不足と不衛生を極めた集団がどのような結果になるかは、太平洋戦争の中盤以降の悲惨で無残な各戦線における展開を見れば明らかだと、部谷氏は手厳しい。現代の自衛隊でも、日米合同演習を行うと、自衛官側が不眠不休かつ戦闘糧食で短期的には圧倒するのだが、米軍側は規則正しいシフトで十分な睡眠と温かい食事をとって長期的に優位に立つということが繰り返されていたという。睡眠には「辛い出来事からのショック」を癒し、「混乱する思考」を整理し、やる気と元気を回復する機能がある。もしも映画の中で「巨災体」が三交代制で規則正しく業務を行い、リーダーが定期的に睡眠をとって熱い風呂に入り、チーム全員が高級なカツサンドや天丼、すき焼き弁当、高級アンパンなどを頬張りながら対策を練っていたら、観客は感情移入できず、共感も感動もなかっただろうと断りつつ、実際上、今の日本に必要なのは合理的な危機管理の運用であると主張される。防衛省内局・自衛隊に蔓延する慢性的な寝不足問題を解決し、国民は危機時のリーダーやスタッフには粗衣粗食ではなく「結果」をこそ求めていくべきである、と。

 また部谷氏は、官民連携した軍事作戦についても注目される。本作では、「MQ-9リーパー無人機による六次にわたる波状攻撃、無人新幹線および在来線爆弾、トマホーク巡航ミサイルと仕掛け爆弾によるビル倒壊攻撃でゴジラを行動不能に追い込み、製薬会社に急きょ大量生産させた血液凝固剤を、これまた民間のコンクリートポンプ車で飲み込ませて機能停止に追い込む」のだが、こうした最新技術と在来の装備をミックスして新たな作戦構想で運用するという発想は、最近の米国・国防総省が目指す方向性と重なっているのだそうだ。2012年に、その具体的な運用方法を模索するために創設された「戦略能力室」によると、「すでにある民間などの技術を新しい作戦構想と結びつけて、実戦で即座に使えるようにする(中略)理想は第2次世界大戦初期のドイツの電撃戦だ。ドイツは、当時としては約20年前に初めて実戦投入された飛行機や戦車、無線を上手に組み合わせることで欧州を征服した(後略)」つまり、今や軍事よりも先を行く民生技術や民生品を在来兵器と組み合わせる発想と作戦構想が、今の時代に求められている、というわけだ。

 監督・特技監督を務めた樋口真嗣氏は「住民たちがどうすることもできない国難が起こったとき、守り、支えてくれる人たち、ちゃんと仕事をする人たちを撮ろう、という気持ちがありました。組織として間違っていることもあるけれど、そこにいる真面目な人たちを真面目に描きたかった」と語っている。
 確かに、私は、この映画の根底に制作者たちが抱く「信頼」のメッセージを読み取った。一つは、科学・技術への「信頼」である。ゴジラは、海洋投棄された核廃棄物を代謝できるよう適応・進化した深海生物という設定で、体内に原子炉状の器官をもち、そこからエネルギーを得る、言わば生ける原子力発電所である。それを徒らに恐れ遠ざけることなく、一時的とは言え抑え込むのは、アメリカ的な巨大な「力」よりも前に、先ずはニッポンの科学・技術力なのだ。もう一つは、ニッポンがもつ底力への「信頼」である。それは自衛隊への「信頼」であり、若い人たち(政治家や官僚や研究者など)への「信頼」であり、よく言われる「現場」の強さへの「信頼」である。ごくありふれたものながらも、効果的に挿入されることによって印象に残るフレーズがいくつも登場する。例えば、正確な言い回しではないが、「自衛隊はこの国を守ることが出来る最後の砦」と言って涙を誘い、「根拠のない希望的観測がかつて破滅に追いやった」「ニッポンはずっとアメリカの属国」だが、「現場が強い」ニッポンは「スクラップ&ビルドでやってき」て、「若くて有能なやつが多い」「ニッポンはまだまだやれる」のである。
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東京都知事

2016-09-21 21:23:06 | 時事放談
 前回は民進党代表を取り上げたので、ついでに東京都知事についても触れてみたい。
 小池百合子女史について、辛うじて記憶にあるのは、防衛大臣のとき、防衛庁の天皇と言われ防衛利権の元凶だった守屋武昌事務次官(当時)と差し違えて退任させたことだが、それ以外には、その人となりは殆ど存じ上げない。ところが今回、退路を断って都知事選に立候補したことで、ちょっと点数を稼いだ。他候補とは比べるべくもなく当選されたのは予想通りにしても、リオ五輪閉会式に着物姿で登場し、点数を重ねた。今回の築地市場の豊洲移転の延期問題では、最初はどうなることかとハラハラしたが、なかなかどうして、更に点数を稼いだ。かつて舛添さんが登場したときに期待した私は、羹に懲りて膾を吹いているのかもしれないが、もう少し注意深く見守りたい。
 女性活躍時代の女性リーダーに求められる資質について、CSRコンサルタントの竹井善昭氏は、企業や社会でリーダーシップを持って活躍したいと考えている女性のことを想定して、「カッコイイ女性」、カッコいいとは、まずビジュアル面で「女を捨てていない」こと、その上で「男前」であることだと述べておられる。そして、株式会社リクルートエクゼクティブエージェントのエクゼクティブ転職コンサルタント森本千賀子女史がかつて「現代の女性エグゼクティブの特性として“潔さ”と“柔軟さ”を持ち合わせている、一言で表現すると“男前”である」と発言されていたのを引用し、やはり「男前」が現代の女性リーダーのキーワードということなのだろうと、気を良くしておられる。このあたり、私も、蓮舫女史に対して、女性らしさを失わず、しなやかに身を処して欲しい、と前回ブログに書いたことと重なって、何となく納得するのだが、彼そして彼女の言い方がちょっと軽いと思ってしまうのは私も齢をとったせいか。
 そういう意味では、蓮舫女史は、二重国籍問題を巡って、大いに「女を下げ」てしまった(竹井氏流の言い方では「カッコ悪い女」になってしまった)。蓮舫女史の政治家としての資質・個性を高く評価しているという立命館大学の上久保誠人氏は、高く評価しているからこそ、現時点での野党第一党の代表就任は早すぎるし、もったいないと思う、と述べておられる。本当に勝負すべき時は、2020年の東京五輪後だ、というのだ。おそらく「任期延長」となり東京五輪を仕切る安倍首相の後継が、(安倍首相の秘蔵っ子)稲田朋美防衛相と、野田聖子元郵政相の争いになる時だ、と。そして、五輪を終えた小池百合子東京都知事も参戦してくるだろう、と。蓮舫女史は、その時まで、表舞台に出ることなく、政策を練り、人脈を作る研鑽を積んでおいたほうがいいように思う、と。
 私は、蓮舫女史の政治家としての資質・個性については留保するが、上久保氏の言われる通り、日本でも遅まきながら女性政治リーダーの静かな戦いが始まったのは間違いない。ここは暫く高みの見物と行きたいと思う。
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民進党代表

2016-09-19 21:23:16 | 時事放談
 「なぜなぜ分析」という言葉がある。「ある問題とその問題に対する対策に関して、その問題を引き起こした要因(「なぜ」)を提示し、さらにその要因を引き起こした要因(「なぜ」)を提示することを繰り返すことにより、その問題への対策の効果を検証する手段」(Wikipedia)である。私なりには真因を探るプロセスと思う。トヨタ生産方式を構成する代表的な手段の一つで、トヨタでは「なぜ」を5回繰り返すと言われる(まあ、必ずしも5回に拘る理由はないとも言われる)。
 民進党代表に蓮舫女史が就任した。旧民主党時代を含めて初の女性党首の誕生だそうで、最近で言えば英国やオーストリアや台湾やミャンマー、さらに遡ればポーランド、ネパール、クロアチア、スコットランド、チリ、ノルウェー、韓国、バングラデシュ、ドイツなど、首相や国家元首クラスに女性が就任し、近い将来も健康の懸念さえなければ米国でも女性がトップになりそうなご時勢で、時代は変わったものだと思うが、勿論、民進党においても歓迎はする(ただ、女性らしさを失わず、しなやかに身を処して欲しいものだと思う)。しかし、国籍という重大事を疎かにして来たのは、(うちの上の子も米国生まれで国籍を選べるだけに)決して記憶違いでもうっかりでもないと断言する。国会議員として、また将来の総理の椅子を狙うのであればなおのこと迂闊では済まされない。真摯に反省して欲しい(税金をはじめとして国民国家体制の根幹に関わる問題だけに、果たして反省すれば済むのかという気すらする)。それはさておき、新代表に選出された挨拶で「重責をしっかりと受け止めて、必ず選んでいただける政党に立て直す先頭に立っていきたい」と抱負を語ったのは、まさにポピュリズムそのもので、いただけない。「なぜなぜ分析」に従い、何故「選んでいただける」のかと考えると、国民の支持を得られる、さらには国家百年の大計とは言わないまでもリードして支持を得る政策を打ち出すこと、そしてそれに沿って野党第一党としての矜持をもち自民党と建設的な議論を戦わせることだろう。ところが、早速、衆院東京10区、福岡6区両補欠選挙で、野党共闘の枠組みを維持すると言う。党綱領で自衛隊解消を掲げ、日米安保条約廃棄を目指す共産党と、である。これで国民に「選んでいただける政党」になれると思っているとしたら、これも迂闊では済まされない。鳩山・菅政権で失った党への信頼を回復するのに20年かかると言った評論家がいたが、それは大袈裟にしても、こうしたところからも信頼は掘り崩されるわけで、前途は極めて厳しいと言わざるを得ない。二大政党制が良いかどうか議論があるが、国会内でチェック・アンド・バランスを働かせることは重要である。民進党の奮起を促したい(今のままではどう転んでも余り期待できそうにないのだけど)。
 以前にも引用したニクソンの著書「指導者とは」は、実に味わい深い言葉に溢れている。ドゴールについて、こう評している。「運命の流れを感じていたドゴールは、単に大統領になりたいから大統領職を欲したのではない。フランスの必要とする指導力に応じるのが自分を措いてないと信じてはじめて、大統領職を望んだ。政治の世界のおとなと子供を区別するのは、まさにその点――子供は偉くなりたいから高いポストを狙うが、おとなは何事かを為すためにそれを望むものである。ドゴールが権力を欲したのは、わが身のためでなく、それを行使せんがためだった。」何と言う傲慢。しかし何と高邁なことか。もとよりドゴールと比べられても、可哀想なだけなのだが。
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リオ五輪番外・日本編

2016-09-17 19:50:35 | スポーツ・芸能好き
 ついでながら最後に、日本は史上最多メダル(41個)を獲得したが、金メダルの数(12個)自体は2000年のアテネ五輪(16個)には及ばなかった(因みにアテネ五輪でのメダル総数37個)。と言っても、アテネ五輪では、野村忠宏や谷亮子や鈴木桂治を擁した柔道が実に8個の金メダルを獲得していた(のに対してリオ五輪では3個)ので、それを除けば、そしてアテネの後、北京で金9個(総数25個)、ロンドンで金7個(総数38個)とやや落ち込んだことを考えれば、やはり善戦したと言える。
 その要因について、ノンフィクションライターの松瀬学氏は、三つの要因を挙げておられる。先ずは2年前のIOC総会で、2020年の東京五輪開催が決まったことだが、これには誰も異存ないだろう。実際、どの競技団体も、リオ五輪を2020年に向けた前哨戦と位置付けていたという。2020年に向けた戦いは既に始まっているのだ。
 次に、国の強化支援が拡充したことで、文科省(現スポーツ庁)のマルチサポート事業が2008年にスタートし、予算が年々拡大し、今年度の競技力向上事業は実に100億円を突破し、結果的に、今大会のメダル41個の内、40個がマルチサポートのターゲット競技種目の対象競技だったという。相沢光一氏も、ナショナル・トレーニングセンターの効果を強調されている。トップ選手は他競技の選手たちと切磋琢磨しながらトレーニングできるようになったし、国際試合に頻繁に出場するようになって、実力の点でも精神力の点でも逞しく成長したと見る。また、リオに設置された「ハイパフォーマンス・サポート・センター」も評判が良かったらしい。食堂では、米飯、うどん、焼き魚など和食を中心にさまざまなメニューが提供され、炭酸泉、サウナ風呂、疲労測定器、最新の治療機器などによるリカバリー施設も充実していたという。
 三つ目として松瀬学氏が挙げたのは、ロシアのドーピング問題の余波で、五輪でのドーピング検査が厳格化され、日本選手にとっては相対的にプラスに働いたと見られている。しかしロシアが金メダルを減らして日本が増やしたと言うよりも、それ以外に例えば中国がこの流れで金メダルを減らして日本が拾った、といったところはあったかも知れない。
 しかし、日本が獲得したメダル数のレベル自体は十分とは言えないようだ。人口比でメダル数を比較したデータを見ると、もし日本と同じ人口規模だとすると何個のメダル数に相当するかを単純比較した場合に、ジャマイカ512個、ニュージーランド497個は別格として、アメリカ48個、英国131個、ドイツ65個、フランス80個、イタリア58個、オーストラリア155個、オランダ142個と、日本41個は先進国の中では最低レベルのようだ。なお、ブラジル12個、ロシア49個、中国6個、南アフリカ23個で、先進国優位も明らかのようだ。衣食足りて礼節を知ると言うが、経済が充足してこそ、というところは以前にも触れた。
 まあ、負け惜しみではなく、メダルに余りに拘るのもどうかという意見は多いだろう。日本選手団の橋本聖子団長はリオ市内で行われた総括記者会見でいいことを言っている。「メダルの数を増やすために頑張っていると思われがちだが、まずは人としてどうあるべきかが大切。人間力なくして競技力向上なし。自分自身に強い自信を持てる人間はどんな時にも対応力があるし、どんな人にも優しくできる。五輪を教育として捉えた時に、メダルの数より大事なことだ」と。ドーピング対策強化やビデオ判定導入はいいが、だからと言ってメダルを獲れそうな人気薄の競技を狙うというようなメダル至上主義は好ましいものではない。まあ、心情的にはなかなか難しいのだけれど。
 来るべき東京五輪も、どう転んでも、いろいろ思うところがあるのだろう。ナショナリズムという心の琴線に触れるところは、取扱いが難しい。
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リオ五輪番外・ロシア編

2016-09-12 21:45:26 | スポーツ・芸能好き
 ドーピング問題で揺れたロシアの金メダル獲得数は19個(4位)に終わり、前回ロンドン五輪の24個には及ばなかった。
 ロシア研究者の袴田茂樹氏は、クリミア問題で国際的に孤立して以来、ロシアでは皇帝アレクサンドル3世(在位1881年~94年、改革派の父アレクサンドル2世とは反対に、ロシアの独自性を強調した反動政策や軍事大国化の政策で有名)の次の言葉がよく想起されるのだと言う。「我々は常に次のことを忘れてはならない。つまり、我々は敵国や我々を憎んでいる国に包囲されているということ、我々ロシア人には友人はいないということだ。我々には友人も同盟国も必要ない。最良の同盟国でも我々を裏切るからだ。ロシアには2つの同盟者しかいない。それはロシアの陸軍と海軍である」
 実際に、ドーピング問題でも同様の反応が見られたというわけである。当時の報道を紐解くと、世界反ドーピング機関(WADA)の調査チームが、検体をすり替えるなどロシアが国家ぐるみでドーピングを隠蔽していたとする報告書を発表し、WADAは、リオデジャネイロ五輪・パラリンピックでロシア選手団の全面的出場禁止を検討すべきだと国際オリンピック委員会(IOC)と国際パラリンピック委員会(IPC)に勧告したことに対し、プーチン大統領は、東西冷戦期と同様に、スポーツが「地政学的圧力の道具」とされており、「五輪運動は再び分裂の瀬戸際に立つかもしれない」と主張、米国などの反ドーピング機関がロシアのリオ五輪出場停止を訴えていることについて、「一国の組織が世界のスポーツ界に意思を押しつけている」とし、今回の調査報告の背後には米国の存在があるとの考えを滲ませたのだった。
 さらに、袴田氏は、昔から「法とは馬車の長柄のようなもの、どちらにでも御者が向けた方に向く」という諺があることに触れ、ロシアのある世論調査では、国民の82%がその通りだと認めていると言う。つまり、オリンピック憲章、国際法、国連憲章、国家間の合意やその時々の指導者や政府の声明なども、ロシア側は「単なる方便」と見ており、利用できるときは徹底的に利用するが、その解釈などはその時の都合で勝手に変更され、また不都合となれば反故にされる、つまり、法や合意、約束を尊重するという、秩序のための基本的精神が欠如しているのだと解説される。
 それに引き換え、日本はどうだろう。かつて空白の一日を衝いて、江川卓氏が巨人と入団契約を結んだとき、日本中の非難を浴びた。本来、法に不備があったことを問題視するべきところ(と、大学でローマ法を専攻する教授は、日本法の諸相と題して講義してくれた)、日本人は法の不備ではなく、法の精神を尊び、不備のある法の抜け穴を利用することを許さなかったのだった。
 お人好しな私たちの隣人たち(中・韓・露)はかくも特異なのだと、あらためて心してかからなければならないのだろう。
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リオ五輪番外・中国編

2016-09-07 22:52:08 | スポーツ・芸能好き
 前回の韓国に続いて今回は中国である。五輪メダル獲得数の点で、中国の退潮も著しい。8年前の北京五輪のときには金51個(銀・銅を含めて計100個)を獲得し、地元開催の利点を活かして常勝アメリカを抑えて初めて世界の頂点に立ったが、前回ロンドン五輪では金38個(計88個)に減らし、今回リオ五輪では更に金26個(計70個)まで減らして、英国に追い抜かれて三位に転落した。中でも体操は、北京で金11(計18)と量産し、ロンドンでも金5(計12)と善戦したが、リオでは金ゼロ(銅2のみ)にとどまった。
 中国メディアは、外国メディアが「(中国が)金メダル至上主義ではなくなった、それは大国の自信の表れである」「真の意味でスポーツ大国に近づいた」と報じていることを引用し、「スポーツ大国で金メダルが減ることは悪いことではない」と自ら慰めているようだが、依然、歴史教育を「プロパガンダ」として政府が完全に管理し、何事も国威発揚に利用してしまう彼の国で、民衆の意識がそれほど急に変わるとは思えない。背景に政府の意向が働いていると考えるのが自然である。
 福島香織さんは、NYタイムズが「中国の五輪への執着は依然強い。中国の民衆は日本に対し、深い敵意を抱いているので、中国政府は東京五輪で最多の金メダルをとることを選手たちに要求しているらしい。目標を東京五輪に置いているので、リオ五輪に若手選手をより多く参加させたが、その分、成績が悪くなったという意見もある」と分析しているのを紹介されているが、それも否定は出来ないものの、目の前のご利益に飛びつきがちの中国共産党がそれほど深謀遠慮で奥床しいとは思えない。
 中国研究者の澁谷司さんは、前回ロンドン五輪(胡錦濤時代)直後の秋の中国共産党18回全国代表大会(18大)以降、習近平が総書記へと代わってから、いわゆる「贅沢禁止令」が出ていることに注目されている。また「反腐敗運動」が始まり、中国スポーツ界の監督・コーチは、各方面から賄賂を受け取ることが難しくなり、選手を育てるインセンティブを失ったのではないかとも分析されている。さらに2014年以降、中国経済が停滞し、北京政府にスポーツに多額のカネをつぎ込む余裕がなくなって、選手団の低迷に繋がっているのかもしれないと付言されている。
 同様のことを福島香織さんも指摘されている。中国経済の悪化は切実で、金メダリストに対して、かつてのようなバブリーな賞金や企業スポンサーによる副賞がなくなったと言う。実際に、リオ五輪の金メダリストに対する国家体育総局からの奨金は19万元で、前回ロンドン五輪の50万元の半分以下、前々回北京五輪の25万元、前々々回アテネ五輪の20万元をも下回るようでは、選手たちのモチベーションが下がるのも仕方ないかもしれないと解説される。さらに地方政府とスポンサー企業からの副賞もかなり減ったという。リオ五輪の自転車トラック競技女子チームスプリントで宮金傑と鐘天使ペアが中国史上初の自転車競技の金メダルを獲得した際、宮金傑の故郷の吉林省東豊県の書記が彼女の父親に50万元の奨励金を贈ったことがニュースになったらしいが、北京五輪の頃の奨励金は破格で、卓球選手の王皓が卓球男子団体の金メダルを吉林省初の五輪金メダルとして持ち帰ったとき、吉林省政府から120万元、長春市政府から100万元、さらにスポンサー企業から68万元と豪華マンション一戸が贈られたという。総額にして軽く6倍の差があるだろうという。
 そして、その背景に習近平政権の反腐敗キャンペーンが影響していると言うわけだ。地方政府の奨励金が高騰したのは、もともとバブル経済が膨らんでいたという事情もあるが、地方の官僚の出世と五輪の成績が密接に関係し、スポーツ育成は、地方政府、体育当局や体育学校、ナショナルチーム、スポンサー企業らの腐敗、不正、利権の温床となっていたらしい。それが、習近平政権になって、地方財政が逼迫した上、いびつな体育行政とそれに伴う腐敗の問題が、反汚職キャンペーンのターゲットとして追及されたという。2014年頃から中央規律検査委員会の国家体育総局の本格的立ち入り捜査が始まり、スポーツ行政界隈の腐敗がドミノ式に暴露され、2015年6月には国家体育総局副局長だった蕭天が汚職で失脚し、地方や企業の五輪選手育成熱に冷や水をかけたという。
 何事もカネで動く中国らしいスポーツ・バブルと言えようか。言われてみれば、中国にしても韓国にしても、そのありようが如何にも五輪の成績にも反映されて、微笑ましい。成熟した民主主義国ではない場合、スポーツを含め社会現象が不安定で揺れるものだと思う。
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リオ五輪番外・韓国編

2016-09-05 22:52:07 | スポーツ・芸能好き
 隣近所の国々の中で、さすがに中国の動向については世界経済や地域の安全保障への影響が大きいため追いかけるようにしているが、個別事象(例えばリオ五輪)における中・韓の反応などといった不思議なことではあるが些細なことは気にしないでいた。私たちの隣人でありながら余りに懸け離れた民族性がここ数年で際立ち、初めの内は何故だろうと暫く研究対象にしていたが、飽きてしまったのだ。端的に興醒めしているというのが正直なところだが、我が同朋の中には依然(面白おかしく)気にする人がいるので、どうしても関連記事が目に留まってしまう。
 たとえば韓国での盛り上がりはイマイチだったようだ。金メダル9個、銀3、銅9というのは、それなりの成績だと思うが、玉置直司氏によると、「柔道やテコンドー、レスリングなど有望種目で優勝候補の選手がばたばたと敗れてしまったこと」と、何より「日本の成績が思いの外に良かったこと」が原因らしい。韓国ではあらゆる分野で日本への対抗意識が強く、中でもソウル五輪以降の大会のメダル獲得数で、アテネ五輪を除いて、日本を圧倒し優越感に浸ってきたのに、今回はそうならず、悔しくて仕方なかったようなのだ。日本人は韓国のことなど歯牙にもかけないのだが・・・相変わらず不思議な国民性である。
 もっとも、まるで日韓戦かと見紛うほど日本を引き合いに出す韓国のメディアの体質が古いと冷めた目で見る一般の韓国人もいるようだ。また、ネットでは「ククポン」なる造語が飛び交ったという。「クク」は「国」、「ポン」は「ヒロポン」のことで、「愛国主義ヒロポン」を打つように、過度に愛国主義を煽る行為を否定的に指す言葉なのだそうだ。五輪期間中、自国選手を過度に応援する中継放送を「ククポン」と呼んで、特に若者を中心に敬遠する雰囲気があったという。
 玉置氏はある大企業の役員の声を紹介する。「アーチェリー、柔道、射撃、レスリング・・・韓国のスポーツ界は五輪でメダルを獲得できそうな種目を選び、財閥に支援させて集中的に強化・育成してきた。陸上や水泳など基礎種目を強化しようという発想などなく、メダル獲得という目標に一直線に進んできた」「造船、鉄鋼、半導体、自動車・・・など政府と財閥が二人三脚で特定産業を育成してきたのと同じパターンだ。一部の業種、種目はまだ大丈夫だが、全体的にはどちらも大きな壁にぶつかり始めている」というのだ。なるほど、持てる少ない資源を勝てる分野に集中投資する、後発の弱者の戦略と言えようか(「圧縮成長モデル」と呼んでいるらしい)。お国柄をよく表していて、鋭い分析だ。韓国よりも後発の国が似たような戦略を取れば、韓国の立場は苦しくなる道理だ。サムスンのスマホが、小米のような後発の中国企業に苦しめられているように・・・
 さらに菅野朋子さんによると「韓国がエリート教育にだけ集中しているのに対し、日本は生活体育(生涯スポーツ)が根づいており、そのため、競技人口の底辺が広く、広い裾野からエリート教育を進めている。生活に根づいたスポーツを広めることが大事」と論じる(まともな)韓国メディアもあったようだが、日本はむしろエリート教育が苦手である。日本をライバル視するのではなく、単なる一つのモデルとして、韓国自身の行き過ぎたありようを是正するべく冷静に見詰め直した方がよいように思うが、余計なお世話か。
 なお、韓国と言えば、前回ロンドン五輪のサッカー、柔道、フェンシングなど、「韓国がらみのおかしな判定」が横行したことを引き合いに出し、今回リオ五輪では、「誤審防止」の名目で、判定に異議を唱えたらビデオ判定するシステムが導入されたため、柔道で16年振りに金メダル・ゼロに終わった、などと、まるで「審判買収」が出来なくなったことを韓国不振の原因とみる鋭い分析もあったが、コメントは避ける。
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