風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

リメンバー・パールハーバー(下)

2011-12-13 01:14:40 | たまに文学・歴史・芸術も
 前回紹介したNew York Times(電子版)の12月6日付コラムに並んで、“A Reluctant Enemy”(by Ian W. Toll)という些か刺激的なタイトルのコラムで、山本五十六連合艦隊司令長官の生涯が紹介されていました。このタイトルは、敵ながら天晴れ、とまでは言わないまでも、敵ながら・・・のニュアンスが入ったものでしょう。まさに12月23日から公開される「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」を紹介するような、悪い言い方をすると、そんな映画のことなど知るよしもないアメリカ人一般にひけらかすために、ぱくったような内容でした(実はこのコラムを書いたIan W. Tollという人は、“Pacific Crucible: War at Sea in the Pacific, 1941-1942”という著作もある作家なので、映画以前によく知っていると考えるべきかも)。いずれにしても、当時は少数派で今となっては理性派とみなされる英米派の主張を、アメリカでも取り上げてくれたのが、ちょっと嬉しい。
 今、本屋の歴史コーナーに行くと、ちょっとした山本五十六ブームであるかのようです。映画のお陰ですが、その映画を監修し、原作書籍を出した半藤一利さんの思いを語った声が、週間文春12月15日号に載っていたので、引用します。「海軍次官の時に日独伊三国同盟に反対し、遺書まで書いたことは有名な話だが、司令長官になってからも、戦争回避のために全力を尽くした。その部分を盛り込みました。」「山本さんの『自分の思っていることと正反対のことをやらざるを得ない。これが天命というものか』という手紙がある。開戦前、親友の堀悌吉さんに出したものです。実物を大分県立先哲史料館で初めて読んだ時、さすがに胸が詰まったね。」「今は、米国と戦ったことすら知らない人がたくさんいる。国力のない日本が無謀な戦争をしてはいけないと、映画や本を通して分かってもらえればと思っています。」
 しかし、山本五十六の生き様としては、既に40年近く前に阿川弘之さんが海軍提督三部作の一つとして描いて、一大ブームを巻き起こしました(因みに、残りの二人は米内光政と井上成美)。この三部作のために、海軍=開明的、陸軍=因循的といったイメージを固定化してしまった点で罪深いと語る人がいるほど、インパクトを与えた本です。そして、日本は勝ち目のない無謀な戦争に何故突入したのかという悔悟の念に囚われ続けた日本人に、そうではない先見の明をもった日本人がいたことを教える点で勇気を与えてくれる本であるとともに、私は、太平洋戦争が、こうして日本国内の事情でしか語られない状況を固定化してしまったのではないかと思われる点でも罪深いのではないかと秘かに思っています。
 そもそも太平洋戦争に至る経緯が、戦前の軍国・日本が全面的に悪かったとする自虐史観か、せいぜい開戦に反対する一派もいたとするややバランスの取れた国内抗争として描かれるか、いずれにしても日本国内の事情にこだわる論説ばかりであることに、私は不満を持ってきました。戦争は、外交の延長だとすれば、相手あってのこと、いわば相互作用の結果であり、一方的に非難される筋合いのものではないはずです。この点に関して、古くは江藤淳さんが「閉ざされた言語空間」で、最近では西尾幹二さんが「GHQ焚書図書開封」で、戦後日本で行われたGHQによる検閲の用意周到振りや偏向振りを丹念に検証し、SAPIO 12/28号で、西尾幹二さんが、連合国軍総司令部指令没収指定図書を調べることによって、戦前・戦中の日本人が、冷静に国際情勢を分析し、的確に「アメリカの戦意」を読み取っていたこと、そのように戦前の日米両国が衝突せざるを得ない宿命にあった事実を、戦後のGHQの検閲が隠蔽したがっていたことの一端を明かしています。
 清水馨八郎さんは、「侵略の世界史」で、米墨戦争(1846~48年)の開戦の契機が「アラモの砦の戦い」だったと述べています。この戦いは、アメリカが自国のアラモ砦を囮にして相手を挑発し、わざとメキシコ軍に先制攻撃させ、自軍に相当の被害を出させた上で、「リメンバー・アラモ砦」を合言葉に戦争を正当化し、国民を鼓舞して反撃に移ったものだったと解説しています。その後、アメリカは、1898年、ハバナを表敬訪問中の米戦艦「メーン」を自ら撃沈させ、2060人もの乗組員を犠牲にし、これを敵がやったことにして、「リメンバー・メーン号」を合言葉に国民を戦争に駆り立て、有無を言わさずスペインに宣戦布告したと言います。「リメンバー・~」は、アメリカが侵略する時の常套手段になっているというわけです。
 リメンバー・パールハーバーという言葉は、それぞれの立場によって、いろいろな思いがこもっている言葉だと、前回、書きましたが、アメリカの指導者にとっては極めて恣意的に利用する言葉であることもまた思い知るべきでしょう。別にアメリカの指導者に限るものではありません。東京裁判やGHQの検閲で言論統制のみならず文化や伝統まで統制され、自立する国家としてはある意味で去勢されてしまった日本人は、今こそ、その迷妄を脱却し、冷徹な国際政治の現実に目覚めるべきだと思います。
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