風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

2022回顧④安倍晋三 銃撃事件

2023-01-07 02:35:39 | 時事放談

 個人的には、2月24日に加え、7月8日という日付も忘れることが出来ない。Wikipediaでは「安倍晋三 銃撃事件」と命名された。この事件を知ったときの、昼食時の会社の食堂という場所だけでなく、コロナ禍で時間をずらして黙食が奨励されてまばらなはずの食堂のテレビの前の一角にやたら社員が居残り、どこか沈んだ空気に包まれていて、私も着席してテレビ画面に何気なく目をやって一瞬にして凍り付いた、その状況までもが鮮明に記憶に残り、つい昨日のことのように思い出される。

 去る者は日々に疎し、と言うが、その後、間延びした国葬儀に至るまでの政治を取り巻く社会状況は、日本らしくない、と言うよりも、安倍氏亡きあとも安倍長期政権によって進んだ社会的分断あるいは安倍氏への憎悪が極限にまで達して、如何にも、と言うべきかもしれない。コロナ禍でストレスが溜まって増幅されていたのかも知れないが、正直なところ醜くて正視に堪えなかった。反論は歓迎するが、憎悪には辟易する。国葬儀に抗議するために招待状をアップして欠席を表明した著名人は「見苦しかった」。「正義」を常に訴える存在であるはずの市民運動家は、安倍は殺されて当然とまで言い放った。もはや論理ではなくて生理である。

 政治状況に関して言うと、安倍政権以来、たとえば集団的自衛権の限定行使容認などを捉えて、国会での審議もなく閣議決定されてよいのかとか、議論が尽くされていないとか、国民の理解が得られていないとか、説明が足りないといった批判が多くなった気がする。実際には、集団的自衛権の限定行使容認などを巡って、かなりの時間が費やされているのだが、お世辞にも生産的な議論が行われたとは言えない。これには、自民党にも無論責任があるが、むしろ良い質問や厳しい追及が出来なかった野党の責任こそが重いと考えられることからすると、ためにする批判と言うべきではないか。そういう意味でも、これらは論理ではなく生理、生理的反応だと見做せるかも知れない。

 かつてトクヴィル(1805~59年)は、民主制のことを多数派による専制と呼んで警戒した。フランス革命の急進主義がヨーロッパ全土を巻き込んで荒廃に至らしめ、王政に復帰した時代の、貴族の生まれである彼の偽らざる心情であろう。ノブレス・オブリージュという自負の表れと言うべきかも知れない。同時に彼は、アメリカを旅して、ローカル・コミュニティにおける自治の可能性にも注目し、今に読み継がれる『アメリアのデモクラシー』(1835及び1840年)をものした。もともとの民主制は、古代のアテネにしても、中世イタリアの都市国家にしても、統治規模は小さかった。ルソー(1712~78年)は、全ての人間に自由が保障されるような政体の建設を夢想し、僅か広島県ほどの面積でしかないコルシカが先陣を切り、そうした理想的政体を樹立するよう期待した。宗主ジェノヴァ共和国に対して、農牧民を主力とするコルシカ独立戦争またはコルシカ革命と呼ばれる武装反乱が1729年に発生し、1755年に独自の憲法を布告するまでに至っていたからだ。「ルソーはそのアイディアを古代都市国家から引き出し」ており、「大衆による統治はある限られた地域と人口の国においてのみ有効なのであって、18世紀中葉の広大なヨーロッパにおいて、フランスのような大国に適用されるべきだとは決して言わなかった」(杉本淑彦氏による)という。

 翻って現代の私たちは、代議制により、高度な産業社会にあっても、専門的であるべき官僚制を基礎にした国家レベルの民主制を実践している(その意味では、同じ民主制でも、都市国家で実践された直接民主制とは似て非なるものと言う専門家もいる)。古代アテネでは、なんとクジ引きこそ「民主的」であり、選挙は党派的であるとして嫌われたのだったが、現代の私たちは、主権者たる国民の代表を選ぶのに選挙制度を採用し、過ぎたる党派性に悩まされる。アベガーと言われる人たちは、安倍長期政権を多数派の専制と呼ぶに違いないが、平等という大義のもとに少数派の横暴もあり得ることには気付かない。

 更に言うと、最近はポピュリズムを大衆迎合主義などと訳すが、学生時代には「衆愚政治」と教わった。国家の主権者たる衆を「愚」と呼んではいけないようだ。これもポリコレ全盛の時代の言葉狩りの一種だろうか(ついでに思いつくままに、例えば発展途上国という呼称だって、発展を是とするようで何だか鼻白むが、ありのまま後進国と呼んではいけないようだ。片手落ち、なども禁止用語になった。不自由な時代である)。そういう点からも、民主政治は絶対善ではないし、逆に王政も絶対悪ではなく、民意を汲んで自由が尊ばれるならば王政や貴族政であっても善政があり得ることも教わった。主権行使の形態はともかくとして、主権行使のありようこそが問題とされるべきなのだろう。

 と、かつてチャーチルが「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。 これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」と揶揄したように、リベラルな方々が何かと絶対視する民主制を相対化したところで、昨今の政治状況の話に戻ると、論理ではなく生理によって支配された感なきにしもあらず、であって、憂いを感じないわけには行かない。論理を経た上での生理だとする反論が返って来そうだが、どうも論理のない生理だと、違和感を覚えないわけには行かない。

 安倍氏を巡っては、内政とりわけ経済の成長戦略は不発で、大いに不満が残るが、外交・安全保障政策は評価している、とは本ブログでも繰り返し述べて来た。この外交・安全保障政策は、党派を超えて国家として一貫性があってこそ諸外国から信頼され安心されるのが一般的だが、日本の場合はどうもコップの中の争い、所謂党派争いに巻き込まれて翻弄されるか(例えば冷戦時代に社会党が非武装中立論なんぞを唱えたように)、選挙で票にならないから真面目に扱われない(ばかりに不勉強な政治家が多く、これもポピュリズムの成れの果てであろう、そういう人たちに説明が足りないと言われても、何をかいわんや、であろう)か、実に無残な扱いを受けて来た。それが安倍氏に対する世間の評価にも繋がっている。そして、その後の政治状況、とりわけ「人の話をよく聞く」政治の頼りなさを思うにつけ、政治信念や志ある政治家であることにこそ、実は私は安倍氏を評価していたのではないかと思うようになった(まあ、アベガーと言われる人たちは、誤った信念と言いたいかも知れない 笑)。それだけに時間が経つにつれて、なおのこと、政治家・安倍晋三ロス・・・喪失感をしみじみ感じる今日この頃である。

 エッセイストとして、かつては山本夏彦氏や谷沢永一氏を、今は塩野七生さんを愛読している。その塩野さんが、『誰が国家を殺すのか』という些か挑発的なタイトルの(最新の)新書の後書きで、安倍氏の死を悼んでおられる。

(引用)人間とは何か大事を行うとき、その動機が私的か公的かにかかわらず、自分の行動には必ず誰かが賛成してくれるにちがいないと思えるからできる、という一面がある。完全に孤立して誰一人賛成してくれないと思うとき、人間はなかなかそれに踏み切れない。  政治家にかぎらず何らかの権力を持っていた人には、必ず敵がいるものだ。何かをやったから、その当人を排除する考えも出てくるのだから。この論理だと、権力を持っていながら何事もやらなかった人ほど、寝床の上で自然死を迎える率が高くなる、ということになる。安倍元首相の殺害事件を知って、暗殺された権力者たちの列伝を書いてみたら、と思った。もはや体力がなくて、想いだけで終わるであろうけれど。(引用おわり)

 以て瞑すべし、であろう。この私の反応も論理ではなく生理かも知れない(笑)

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2022回顧③カタールW杯

2023-01-05 23:21:15 | 時事放談

 年末にサッカーの「王様」ペレが亡くなった。享年82。カタールでのW杯決勝のエムバペとメッシの新たな伝説を見届けて、安心したかのように逝った。ネイマールはインスタグラムに「ペレ以前、サッカーは単なるスポーツだった。ペレが全てを変えた。彼はサッカーを芸術、エンターテインメントに変えた。旅立ってしまったが、彼の魔法は残り続ける」と綴った。

 そんなペレの後を追って周回遅れでスタートした日本が、此度のW杯で活躍し、日本中を湧かせた。いや、ドイツやスペインといった優勝経験国に逆転する金星を二つもあげて「死の組」を1位通過した(しかし何故かコスタリカには負けてしまった)。日本だけでなく、C組ではサウジアラビアがアルゼンチンを下したし、モロッコに至ってはアフリカ勢で初のベスト4進出を果たすなど、アジア・アフリカ勢の躍進が目を引いた。舞台裏で、日本人サポーターが客席のゴミ拾いをして去り、日本代表がロッカールームをキレイに片付けて感謝のメッセージと折り鶴を残すのが称賛されるのは見慣れた光景、日本人の面目だが、表舞台でのこれらの戦績は間違いなく、守保監督の言う「新しい景色」を垣間見させてくれるものだった。

 月並みだが、「個」の力が強くなったのだろう。陸上の400mリレーに典型的に見られるように、相対的に弱い「個」の力を「個」の連携によるチームプレーで補うのが、これまでの日本の戦い方だった。ところが此度の日本代表メンバー26人中、欧州組が実に19人にのぼった。24年前に初出場を果たしたフランス大会ではゼロ、全員がJリーグの国内クラブ所属だったことと比べれば、隔世の感がある。たとえば三笘薫がこれほど活躍するとは思ってもいなくて、スペイン戦で見せたライン際1ミリで折り返すスーパー・アシストは圧巻だった。

 それでも、大久保嘉人氏は、日本代表に足りないものとして、なお「個の力」を挙げる。レベルアップのためにポゼッションサッカーの進化も必要だが、「ポゼッションをするにも個の力がないとできない」と言う。「日本は組織として守る、攻撃するっていうのはできると今回分かった。だけど組織でやってるときに研究されると、立たないといけない場所にディフェンスがいるんです。そうなった時に自分たちで考えて動かないといけないし、一人でドリブルで抜いたりとか(ディフェンスを)はがさないと、その先には行けないんじゃないかなと思います」と。中村憲剛氏は、「個」か「組織」かの二者択一ではなく、「個も組織も」の両立が必要だと語った。

 そして大会決勝は、エムバペとメッシという「特大の個」を押し出したフランスとアルゼンチンの間で争われ、アルゼンチンが制した。「神の子」マラドーナが伝説的な活躍をみせた1986年メキシコ大会以来36年振り三度目の世界一で、主将メッシが史上初めて二度目の大会MVPに選ばれた。

 メッシと言えば、19年間のキャリアで、2008年のオリンピック、チャンピオンズリーグ4回、FIFAクラブワールドカップ3回、ラ・リーガ10回、昨年夏には待望のA代表初タイトルとなるコパ・アメリカ優勝を果たし、史上最多7度のバロンドールを受賞しながら、唯一欠けていたタイトルがW杯だった。いくら日本をはじめアジア・アフリカ勢が頑張ったと言っても、華のあるメッシのプレーの前では霞んでしまう。画竜点睛を欠くと言うが、まさに竜だか達磨だかに「瞳」を入れてメッシを伝説にするための大会だった。

 天国のペレも、「魔法」が残り続けて、さぞ安らかなことだろう。サッカーの「魔法」には魅せられる。

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2022回顧②白紙運動

2023-01-03 11:29:05 | 時事放談

 11月末に、中国の学生さんたちがゼロコロナに堪え切れずに立ち上がった。三期目続投を決めた習近平政権にとっては過去10年で初めてのことで、これほどの大掛かりな政治デモは天安門事件以来とも言われ、その対応が注目された。

 天安門事件では人民解放軍が出動し、その名に恥じて、人民を踏みにじって、やっぱり党の軍隊に過ぎないことを露呈した。当時、世界中から非難を浴びた反省もあるのだろう、あれから33年余りを経て、IT技術の進歩はすさまじく、当時のように露骨に武力で制圧するのではなく、街中に設置された監視カメラやネット検閲によって、密かに主要人物に警告し場合によっては拘束するなど、圧力をかけるのも巧妙化しているようだ。

 おまけに驚いたことに、12月7日にはゼロコロナ政策の緩和に踏み切った。メンツを大切にする中国で、とりわけ統治の正当性を最重視する共産党に誤謬があってはならないはずだが、どうやらゼロコロナ政策そのものが撤回されたわけではなさそうだ。今、中国で流行しているウイルスは、感染力は強いが弱毒性のオミクロン株BF.7という系統で、都市封鎖された上海で広がっていたBA.5系統と違って重症化せずに軽症で済むため、「中国は率先して状況に応じて防疫措置を最適化し(中略)新しいコロナウイルス感染を『乙類甲管』から『乙類乙管』に移行させ、重点を感染予防・抑制から重症化予防・健康管理へと徐々に移しています。これは科学的かつ(ウイルスの変化と感染状況に沿った)臨機応変の対応で必要なことです。」と強弁した(12月28日の外交部定例記者会見)。言い換えると、習近平政権は、一見すると、学生さんたちに迎合したように見えるが、その実、ゼロコロナ政策を続けることによる経済低迷のダメージと、ゼロコロナを止めて経済を回復させるために人民に集団免疫をつけさせるには一時的に混乱するであろうダメージとを比較衡量して、後者、すなわち経済回復を選択したということだ。言わばショック療法で、学生さんたちに対抗したとも言えるし、タイミングがたまたま合致しただけで、学生さんたちの運動を政策転換に利用したとも言える。

 もとより習近平政権が勝算のない賭けに出たとは考え辛い。

 世間では、中国製の不活化ワクチンは欧米製のmRNAワクチンより効果が劣るとか(オミクロン株対応でもないらしい)、高齢者の接種率が低いと言われ、中国の医療体制が貧弱なままゼロコロナ解除に踏み切って、この年末にかけて、案の定、医療崩壊して路上で点滴を受けたり、火葬待ちで車の長蛇の列ができたり、日本の薬局で風邪薬の爆買いが起こったりしている報道が溢れた。1月22日には春節の民族大移動が始まり、感染のピークを迎えるとも言われる。果たして、習近平政権にとって想定の範囲内のダメージで済むのかどうかは評価不能とするために、情報統制に踏み切った。12月14日に、無症状感染者数の公表を停止し(大規模なPCR検査を止めたことにより人数把握が不能なため)、20日に、明確なコロナ感染による肺炎や呼吸不全以外は関連死に含めないという基準を決め、25日に、新規感染者数の発表すら行わないことを決めた。このあたりの、(ゼロコロナという)極端から(さしたる準備もなく解禁するという)極端に走り、かつ誤謬を許さない(世間にそれと評価させない)情報統制までやってのけるという強権発動こそ、中国共産党の本領であろう。

 ところで、ウクライナ戦争では、クラウゼヴィッツの「三位一体」論を思い出した。近代国家間の戦争とは、「政策を追求する国家」「それを実行する軍隊」「熱狂的に戦争を支持する国民」が三位一体となったものだという。実際にクラウゼヴィッツが間近に見たナポレオン戦争が強かったのは、それまでの職業的常備軍と違って、国民としての自覚を持ったフランス大衆が国家の危機を自らの危機と認識し、強制によってではなく自らの意志で主体的に祖国防衛に参加するようになったところにあった。それは両大戦に引き継がれ、全ての国民や社会全体を巻き込んだ総力戦が現出した。「三位一体」の「国民」に着目すると、此度のウクライナでは、ナショナリズムに燃えた「国民」から高過ぎるほどの支持があって、もはや安易に妥協することが許されず、さりとてロシアには「国民」が不在で、プーチンの威信を止めることが出来ないでいる。結果として、ウクライナとロシアは交渉に入れないまま、間もなく二年目を迎えようとしている。

 このように、ロシアでは20年余りにわたるプーチン政権の間に、元KGBのプーチンとその取り巻きが統治するマフィア国家となり、中国では70年余りにわたり、共産党という、かつての軍閥の一つが国家を乗っ取って社会統制を強めて来た。いずれにあっても、欧米で言われるところの「国民」は存在せず(因みに中国では「人民」と言う)、自由よりも強権による安定を志向する警察国家である点が共通するのは、かつてモンゴルなどの草原の民によって簒奪された大陸国家の悲哀であろうか。

 それでも、中国の学生さんなど、若者たちはVPN接続によって外の情報に触れていると言われる。そして、強固に統制された警察国家の故に、証拠にされる文言を避け、抗議のシンボルとして「白紙」を掲げた。かつて東欧に見られたカラー革命を連想させて興味深い。因みにロシアでは、2015年の国家安全保障戦略で、次のように述べており、NATO東方拡大は方便に過ぎなくて、プーチンはカラー革命をこそ恐れているのではないかと思わせる。これは習近平の中国でも同じだろう。

 「ロシアと西側の間で現在生じている緊張関係は、内政や対外政策で自律的な道を歩もうとする前者を後者が抑え込もうとしていることに根本的な原因がある。そしてこのような抑え込み政策の手段として、西側は軍事的手段だけでなく、政治・経済・情報などあらゆる手段を用いている」(小泉悠氏『現代ロシアの軍事戦略』より)

 ここに言うハイブリッド戦は、まさに自分(=マフィアや軍閥)がやるから相手(=西側)もやるだろうという猜疑心から生まれている。主権は国民にあって、選挙を通して負託を受けて政治が行われる民主主義社会の一員としては、警察国家と一緒にして欲しくない(まあ、何がしかのカネとクチ=アドバイスは西側から出ているようだが)。逆に言うと、そこ、すなわち統治の脆弱性にこそ、中国やロシアの決定的な弱点がある。

 そうは言っても、香港の民主化デモでも見られたという「白紙運動」は、上に政策あれば、下に対策あり、と言われる中国らしいエスプリが込められるが、ある種の諦めも見て取れなくもない。それが中国4000年とは言わないまでも、秦以来2000年の歴史の中で繰り返されて来た「革命」の火種となるかと言うと、その強固な警察国家の故に、甚だ心許ない。当面は、この感染拡大の成り行きを、警戒しながら辛抱強く見守りたい。

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