風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

追悼・高倉健さん

2014-11-26 00:53:49 | スポーツ・芸能好き
 役者の高倉健さんが11月10日に亡くなっていたことが、一週間以上経ってから明らかになりました。享年83歳。
 それから更に一週間、私の中で、健さんの死を受け止めるのにちょっと時間がかかったのは、必ずしもファンを自任していたわけではなく、逆にファンでもないのに寂寥たる思いに囚われたからでした。この喪失感は何だろう・・・と。フランス映画のそこはかとなくアンニュイな産湯を使い、ハリウッド映画のエンターテインメント性を浴びて育った私には、正直なところ、日本の任侠映画で一世を風靡した大スターは遠い存在でした。ようやく身近に感じられるようになったのは、「幸福の黄色いハンカチ」をはじめとして、最近では「鉄道員」など、現実的な役柄の中で見せた「寡黙で、折り目正しく、ストイックで情に厚い…」(映画ジャーナリスト・田中宏子さん)男の生き様に触れるようになってからのことでした。ある記者はこう表現しました。「寡黙で、武骨で、不器用で-」。健さんの周囲にいる人たちが語るエピソードは、そんな健さんの人柄を偲ばせて静かな感動を呼ぶのですが、その中で、武田鉄矢さんの言葉には思わずドキリとしました。「健さんはスティーブ・マックイーンのように、セリフでセリフをいうんじゃなくて、存在でセリフを言うようなお芝居を夢を見ていたのだと思います」。私が大好きな映画俳優スティーブ・マックイーンの日本版だったんだ・・・と、日本版などと言うと失礼に聞こえますが、決して悪意はなく、ただ二人とも必ずしも二枚目ではないけれども、どちらも「渋い」という形容がぴったりで、良い面構えをしているところは共通しますし、セリフではなく沈黙の中にこそ存在感を見せるのもまた共通していることに、今さらのように気が付いたのです。
 最近、ある朝鮮半島研究者が、在ソウル日本大使館前の従軍慰安婦像の向かいで健さんの映画を流し続ければいいと冗談半分に話したことがありました。健さんは「昭和38年、東映任侠路線の出発点となる『人生劇場・飛車角』で鶴田浩二と共演、耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役でストイックなイメージを確立」(産経Web)したわけですが、韓国があちらこちらで歴史認識問題にからめて反日的な言動を繰り返すのが目に余り、片や日本はじっとガマンを重ねて大人しく引き下がったままだと思わせるのは癪で、いざとなったらドスを抜いて暴れるところを見せつけるべきだ、と(笑)。それほど健さんの任侠映画は、日本人の国民性の一面の真理(!)をきっちり描き切って日本人の心を捉えているとも言えるのでしょう。
 これ以上、私ごときが百万言費やしても、何の足しにもなりません。先ずはご本人にまつわるエピソードからご本人の発言を引きます。

 昨年秋、文化勲章を受章したとき、親授式の後で、「日本人に生まれて、本当によかったと、今日思いました」「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います」。

 映画「マディソン郡の橋」が日本でヒットする前から原作を絶賛する慧眼ぶりを見せ、檀ふみさんが「日本で映画にするなら健さんと吉永(小百合)さん」と言うと、すぐに「檀ふみって言えよ」。

 「幸福の黄色いハンカチ」の撮影の合い間に、武田鉄矢さんや桃井かおりさんがしょげたりしていると、健さんはそっと、「晩飯は、いっぱい食うなよ」と言って、晩飯の後、3人で出掛け、レストランを借り切って・・・健さんはワインを飲んでいた。あの夜のぜいたくな思い出は生涯忘れない(武田鉄矢談)。

 続いて、関係者の証言を引きます。

 脚本家・倉本聰氏 「あれだけ本気に映画に向かわれる方は、そうはいないと思います。1本の作品に向き合ったら、それ以外は何もしない。かけ持ちなんてしないで、何年かに1本ですからね」「最後のスターですよね。今はマスコミがみんな私生活を暴いてしまいますが、彼はそれは絶対に嫌だったから、私生活に関しては徹底して秘めていた。あそこまで秘めている方は、ほかには原節子さんくらいでしょう」。

 野球人・長嶋茂雄氏 「ファンの多くは映画の中の高倉さんを見て、日本人の男としてのあるべき姿を学んだのではないでしょうか」。

 美術家・横尾忠則氏 「とにかく、日本人の良心のような方だった。礼儀、礼節をいつも態度で示された。僕にとっては三島由紀夫さんがなくなられて以来のショック」「僕にとってアイドルなどというものを超えた存在だった。健さんの映画はすべて見ているが、最近では地でいってらっしゃるような登場人物を演じられていた」。

 元東映社長・高岩淡氏 「誠実で誰に対しても同じ目線に立って話をした。己を律する気持ちの強い人でしたから」「僕から見たら(俳優として)日本一よ。全て自分で試して苦悩してきた。俳優らしくない役者。地(本人自身)の迫力がある」。

 映画監督・中島貞夫氏 「演ずるというより、自分の存在を投入する。役と自分が一体化する希有な俳優だった」。

 歌手&俳優・佐川満男氏 「眠れなかったのはエルビス・プレスリー以来。高嶺の方でした」。

 その静かな死が、三島由紀夫の衝撃的な割腹自殺やエルビス・プレスリーの絶頂での若過ぎる衝撃的な死にも匹敵すると言わしめるのですから、以て瞑すべし、と言うべきでしょう。合掌。
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横浜マラソンへの道(2)

2014-11-24 16:59:27 | スポーツ・芸能好き
 昨日、よこすかシーサイド・マラソンを走って来ました。今シーズン初のレースで、ハーフ2時間2分でした。頑張れば2時間を切れたかも知れませんが、シーズン練習を開始して三ヶ月弱、週一なので練習は通算10回、しかも二週間前の週末が出張で潰れて前後二週間走れませんでしたので、こんなものだと思っています。負け惜しみではなく、そもそも、このレースを目標にしたわけでも、そのための調整をしたわけでもなく、飽くまで3月の横浜マラソンに向けて、長いシーズンのメリハリをつけるため、これから毎月一回、タイム・トライアルとしてレースに出て、身体の仕上がり具合いをチェックするのが目的であり、その意味で、昨年のこの時期には2時間17分、一昨年は2時間半だったことと比較すれば、三シーズン目に入って着実にマラソン足が出来つつあるのを実感し、上出来だとすら思っています。
 実は、そう言いつつも、三シーズン目に入って、ある迷いがありました(また、あるいは、いつも、と言うべきか)。会社の同僚で、歳は私より5つほど上で・・・ということは20年程前のことになりますが、36歳のときにたまたま10キロレースに出て40分で走り、才能があるんじゃないかと練習を重ねたところ、フルマラソンで3時間を切るまでになり、順風満帆に見えたのですが、その後、原因不明の神経痛で走ることが出来なくなった人がいます。私自身も高校時代は競技として中距離を走っていましたので(と、偉そうなことを言って、インターハイ大阪予選すら勝ち抜けないヘタレでしたが)、週一の練習でジョギング程度のスピードでちんたらハーフなりフルを走るのがやっとの今の自分には忸怩たる思いがあります。記録を望むなら、週二回と言わず三回も四回も走らなければならない。しかし身体をこわしたら元も子もないし、あれもこれもと欲にまみれて、とてもそんな時間をつくることは出来そうにない。一体、何のための市民マラソンか・・・と。
 さて、レース前には、Tシャツ1枚で十分なのかもう1枚必要か、タイツは暑すぎるか・・・何を着て走るのか実に悩ましく、この日も、8時45分、三笠公園傍のポートマーケットをスタートして、海沿いを観音崎の先で折り返し、昼前にはゴールするので、海風が冷たいかも知れず、あれこれ悩んだ挙句、抜けるような青空に恐れをなして、上2枚・下2枚と、真冬と同じ恰好で飛び出しました。さすがに汗が出尽くすまでは暑苦しく感じて、着過ぎてしまったことを後悔しましたが、汗が引いてからは、さほどでもなく、むしろ寒すぎず暑過ぎず、マラソン日和の快適な一日となりました。途中、坂道が何度かあって、シーズン初めの身体にはこたえましたが、それ以外は平坦で走りやすいコースで、だましだまし身体をゴールまで運んで、やれやれこれでもう走らなくてもいい・・・という安堵な思いは格別です。
 ハーフだったのに、またしても右足裏にマメが出来てしましました。昨シーズンの最後を飾る板橋シティ・マラソンでの苦い教訓を活かして、走る前に専用ジェルで二度にわたってコーティングしたのですが、それでも効果が出なかったのは、靴のサイズが足に合っていないのか、しかし左足は何ともなくて右足ばかりにマメが出来るので、走り方に問題があるのか、レースに慣れれば問題なくなるのか・・・今後の課題になりました。また、走り終えて、胸にチクッと痛みが走ったので見ると、乳首が擦り切れて、Tシャツに血が滲んでいました。足マメ、乳首、いずれにしても、普段の17キロの練習では何ともないのに、タイム・トライアルでちょっと気張ると身体に異変が出るのが何とも不思議ですし、昨シーズンの最後のレースから8ヶ月、しっかり鍛えなければいつの間にか身体は元に戻ってしまうのが、なんとも歯がゆいのですが、だからこそ身体を鍛える契機にもなるのでしょう。
 上の写真は、折角、横須賀まで来たので、昼食にご当地の海軍カレーを食べ、ついでに昼間っから東郷元帥のビール(日本ビール製造・販売)まであおってしまった証拠写真。日曜夜の定点観測で体重はいつもより2キロ増えていました。身体を傷つけ、体重を増やし、一体、何のための市民マラソンか・・・(絶句)。
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アジア点描・サイゴン

2014-11-18 00:15:04 | 永遠の旅人
 今回の出張で訪れた三つ目の都市・ホーチミン市(Ho Chi Minh City、略称HCMC、人名と区別するためにCityを付けるそうです)では、今なお旧名サイゴンが公式・非公式にさまざまな場面で使われ、都市名としてはホーチミンよりも通じるほど(Wikipedia)なのだそうです。なんだか同じベトナムでありながら占領・被占領の人々の間の微妙な感情が垣間見えます。「サイゴン」と言うと、私には、子供の頃、新聞一面を飾った「サイゴン陥落」の文字が強烈に印象付けられ、一種のノスタルジックな感情を催します。子供でしたから、当時、何を思ったか、その後に加えらえた感情も入り混じって、今となっては正確に思い出せませんが、国が戦に敗れることの悲哀(戦後世代にとっては想像力の世界ですが)、しかも、代理戦争だったとは言え、圧倒的な強さを誇り世界の警察官を任じる、あのアメリカでも敗れるという、俄かには信じ難い衝撃と一種の脱力感のようなものに彩られ、なんとも曰く形容しがたいものがあります(と、このように表現すると、後年の脚色まみれになりますが)。しかし「ホーチミン市」と言うと、もはやそんな情念渦巻く印象は掻き消され、明らかに戦後の町になってしまいます。
 珍しく今回の出張では週末を挟み、土曜日にホーチミン市からシンガポールを経由してメルボルンに移動する日程で、どうせシンガポール発の夜行便に乗るので、ホーチミン市でなるべく長い時間を過ごすことにし、土曜の朝、ホテルから歩いて15分というので、散歩がてら統一会堂 (Dinh Thống Nhất)を訪れました。
 これは、南ベトナム政権時代の旧大統領官邸で、閣議室から、応接室、宴会場、寝室、映画館やダンスホールやビリーヤード台のほか、屋上には常に緊急用ヘリが待機し、地下には指令室や通信室など軍事施設を備え、大小100以上の部屋がある豪勢なもので、今でも国賓や会議の際に利用され、普段は観光客向けに一般公開されています。地下には立入禁止の通路や開かずの間が多く、どうもその先の通路の一つはタンソンニャット空港まで続いているという噂もあるようです。何より、1975年4月30日、所謂(北の)解放軍の戦車が無血入城を果たし、ベトナム戦争が終結した歴史的な建物でもあります。先ほど触れたように、アメリカ的な文脈では「サイゴン陥落」と呼ばれ、現地では「サイゴン解放」と呼ばれるものです。
 ロバート・カプラン氏は近著「南シナ海」で、「8世紀のチャンパ王国(注:ベトナム中部沿海地方に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国、192~1832年)は、北はダナンから南はドンナイ川平原まで領土を広げた」とジャン・フランソワ・ウベール氏が「チャンパの芸術」(The Art of Champa)に書いたくだりを引用し、「これをベトナム戦争の時代にたとえると、北限がベトナム戦争時代の軍事境界線、南限がサイゴンだ。よって、ウベールの中世の地図は、冷戦時代の地図をそのまま示している」と言い、「ベトナム南部の歴史・文化の伝統の源となっているチャンパ王国は、中国化した大越(注:北部の王国で、1000年以上も中華帝国の属州だった)よりも、つねにクメール王朝(9~15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアの元となった国)やマレー人の世界との関係が深かった」と述べています。ベトナム戦争で戦った北と南は、当時のソ連とアメリカからそれぞれ支援を受けつつ、中華圏に属する地域と、南アジアおよび東南アジア圏に属する地域の歴史的な対立だったとも言えるのを知ると、感慨深いものがあります。東南アジアというのは、奥が深い。
 上の写真は、統一会堂から見る敷地内の前庭と、その先にはレユアン通り。この道を解放軍の戦車がやって来たのかと思うと感慨深いのですが、今はその面影すらなく、観光客が訪れる公園であり、オートバイが疾駆する成長著しいベトナムの喧騒の街の一角でしかありません。
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アジア点描・対中

2014-11-15 22:46:53 | 永遠の旅人
 一週間、日本を離れている間に起こったことで驚いたことが二つありました。一つは、衆議院解散・総選挙が既成事実化されていたこと。政局の観点から見れば、これから国論の割れる政策課題に挑み支持を落とすかも知れない自民党にとって、2年後の選挙に挑むより、安定的な支持を得ている今の内に選挙をこなして4年の時間を稼ぐことに意義を見出すのは、当然の発想なのでしょう。しかし私たち国民には明らかな争点が見えない上、総選挙一回で800億円もの血税が投入されると知れば、何ら大義がないことに憤りを隠せないのもまた当然の発想です。もう一つは、事前予想を大幅に超える25分に及んだ約3年振りの日・中首脳会談です。正式な首脳会談を開くために、中国側は、領土問題(尖閣諸島を巡る領土問題が日・中に存在することを日本側が認めること)と歴史問題(安倍首相が今後靖国神社を参拝しないことを表明すること)の2つの条件を提示したそうですが、以前から条件をつけないと公言していた安倍首相は、いずれをも呑むことはありませんでした。そのため、習近平総書記は、ロシアのプーチン大統領や韓国の朴槿惠大統領を国賓として迎え、公式の首脳会談としながら、安倍首相との会談で撮影された写真には両国の国旗を映さず、単にAPEC主催国の首脳とAPEC出席国の首脳との非公式会談に格下げし、ぎこちない笑みを浮かべて歩み寄る安倍首相に目を合わせることなく仏頂面で応じました。まるで未熟な子供の喧嘩ですね。世界第二の経済大国の首脳たるものが、なんと料簡の狭いことでしょう。テレビのニュース映像を見ていて可笑しくなりました。これこそ、中国側が如何に国内の反発をおそれ、神経質になっているかの証左と言えましょう。日本側では日中歩み寄りの第一歩と好意的に受け止められていますが、何のその。実際に、当日夜のCCTV(中国国営中央テレビ)は、習近平総書記と外国要人の会談の様子を延々報じた後、安倍首相との会談はパプアニューギニアに続く7ヶ国目に、ほんの数秒間、握手の場面を放映しただけだったようです。挙句に、事前に発表された4項目の合意文書の英語版は共同で作成せれず、それぞれ勝手に作成して別々に発信されました。因みに、領土に関わる項目3を、日本側では“Both sides recognized that they had different views as to the emergence of tense situations in recent years in the waters of the East China Sea, including those around the Senkaku Islands…”と訳したのに対し、中国側では“The two sides have acknowledged that different positions exist between them regarding the tensions which have emerged in recent years over the Diaoyu Islands and some waters in the East China Sea…”と訳しました。お分かりの通り日本は領土問題で「異なる見解」(different views)と述べた(つまり日本は領土問題を認めていない)のに対し、中国は「異なる立場」(different positions)と、さも領土問題が存在するかのように言い、日本は「尖閣諸島を含む東シナ海における緊張」と述べたのに対し、中国は「東シナ海の尖閣諸島を巡る緊張」と名指しするなど、お互いに都合の良い言い方を貫きました。
 前置きが長くなりました。今回、出張で訪れたフリピンにしてもベトナムにしても、中国を仮想敵国として(と言うと言い過ぎかな)、防衛装備や海上監視の装備を着々と整え、しかもこれらの分野では日本企業に期待を寄せています。
 ちょっと古いデータですが、アウンコンサルティングが2年前にアジア10ヶ国で実施した親日度調査によると(http://www.auncon.co.jp/corporate/2012/2012110602.pdf)、フィリピンは日本という国が「大好き」「好き」合わせて94%(各67%、27%)、ベトナム97%(各34%、52%)に達し、中国55%(各14%、41%)や韓国36%(各8%、28%)と対照をなしました。実は東南アジアのどの国も大同小異で、タイ93%(各58%、35%)、インドネシア91%(各41%、50%)、シンガポール90%(各66%、24%)、マレーシア86%(各41%、45%)といった塩梅です。ついでながら同調査で、台湾84%(各49%、35%)、香港84%(各46%、38%)となっており、中国と韓国の異常さが際立ちます。
 だからと言って、戦前の大日本帝国による侵略の歴史が全て許されていると考えるのは早計でしょう。しかし、東南アジア諸国は、中国や韓国と違って、自らの統治の正統性を主張する契機に乏しく、過去に拘るより未来を見ていることは確かで、しかも大東亜共栄圏というコンセプトに似て、「敵の敵は味方」という(蛇足ですが、当時の敵は西欧植民地帝国であり、また今の敵は中国であり、敵の敵はいずれも日本と位置づけられます)、冷徹な国際政治の現実感覚から、日本に好意を寄せているに過ぎないとも言えます。勿論、戦後70年にわたり日本が平和勢力として台頭した国のありようが評価されていることは間違いありません。日本は、ODAなどの経済援助にあたって、中国のように美味しいところを全て自国・自国民でかっさらうような品性下劣なところはありませんし、何か自国に有利なように条件をつけることもありませんから・・・。
 フィリピンのアキノ大統領は、今月4日、マラカニアン宮殿(大統領府)で日本記者クラブ取材団と会見し、「集団的自衛権行使を容認するための日本の憲法解釈変更を改めて歓迎、南シナ海や東シナ海での中国の台頭を念頭にフィリピン軍と自衛隊の『合同演習ができればよい』と述べ、防衛協力の段階的深化に期待を示」すとともに、「領有権問題で国際社会が中国の強硬姿勢を前に沈黙すれば、この問題に『関心がないような印象を与え、(中国を)さらに増長させてしまう』と警鐘を鳴らし、国際規範を守るよう圧力をかけ続ける必要を訴え」ました(産経Web)。さらに今年2月4日の米ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)とのインタビューでは、「過ちだと信じていることをそのまま認めてしまえば、(中国の)誤った意思が一線を越えかねないと指摘」し、「世界は中国に『いいかげんにしろ』と言うべきだと、国際社会に警鐘を鳴らし」ました。その上で「1938年に当時のチェコスロバキアのズデーテン地方がナチス・ドイツに併合された歴史を挙げ、『ヒトラーをなだめて大戦を防ごうと割譲されたことを忘れたか』とし、融和策の危険性を訴え」ました(いずれも産経Web)。フィリピンは、中国との間でスプラトリー諸島(南沙諸島)の領有権を巡る対立で、2012年春、中国から「嫌がらせ」の一環でフィリピン・バナナの輸入制限が始まり、日本へのバナナ輸出が増えたこと(そのためバナナの価格が下がっていること)が報じられたことがありましたが、多分、状況は変わっていないことでしょう。
 ベトナムもまた、中国との間でパラセル諸島(西沙諸島)の領有権を巡って緊張を高めたこと、しかも小国でありながら果敢に中国に立ち向かったことは記憶に新しいところです。中国が5月にこの海域で石油掘削リグを設置したことが知れると、ベトナムが抗議し、海上で両国漁船が衝突したり、ベトナムの工業団地で反中暴動が起きて死者が出たりするなどし、中国は7月に係争海域からリグを撤去しました。
 日本としては、あくまで平和国家としての原則を崩すことなく、一方で、これら東南アジア諸国との間で、甘い幻想に浸ることなく、過去を真摯に反省しつつ、信頼を醸成しながら、他方で、冷徹な国際政治の現実感覚をもって、粛々と連携を進めるべきだと思います。
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アジア点描ふたたび

2014-11-12 23:41:25 | 永遠の旅人
 一週間、アジア・大洋州に出張していました。マニラ(フィリピン)→ハノイ(ベトナム)→ホーチミン(ベトナム)→メルボルン(オーストラリア)の4都市を回り、使った航空会社は、フィリピン航空、タイ航空、ベトナム航空、シンガポール航空、カンタス航空の5社、ハノイ行きはフライトの便が悪くバンコク経由となり、ホーチミンからメルボルンに行くのもまた不便で遠いためシンガポール経由の夜行便となるなど(帰国便もシドニー経由で成田への夜行便)、成田以外に7つの空港に降り立ち、移動にほとほと疲れ果ててしまった一週間でした。
 それでも、メルボルンへの往復の夜行便2泊はさておき、マニラ、ハノイ、ホーチミン、メルボルン各都市でちゃっかり1泊ずつしてしっかり食事をとれたのは決して狙ったわけではなく、勿怪の幸いでした。マニラでは何故かいつも日本食レストランに連れて行って貰うので省略します(それだけ現地駐在員にとって出張者を連れて行くローカルの恰好のレストランを見つけるのは難しいのだろうと察しますが、どうでしょうか)。ベトナムでは、アメリカ西海岸駐在の頃に覚えてお気に入りのベトナム麺のほか、本格ベトナム料理を堪能しました。ホーチミンの、もとはシルクの高級ストールが有名で、今やコーヒーショップやレストランやリゾート開発も手掛けるカイ・シルク(Khaisilk)のオーナーが経営するNam Phanという高級店で、高級フランス料理店と見紛うようなコロニアル調の建物に、味は現地にいる方々の間では賛否あるようですが、凝った盛り付けに、調度品や照明などの落ち着いた雰囲気は、文句なしに素晴らしい(そのかわり値段もそれなりです)。トランジットで立ち寄ったシンガポール空港のフードコートでは、ささっと(これもまたお気に入りの)肉骨茶(バクテー)をすすることができ、メルボルンでは、フリンダース・ストリート駅のはす向かい、サウスバンクにある高級店でワイン片手にオージー・ビーフを頬張って、ちょっとご満悦でした。
 しかし、こうした食事も含めて、それぞれの国の最も良い面ばかりを、つまりは上っ面を撫でて過ごしただけで、とても「アジア点描」などというブログ・タイトルには値しません。本当は、地図を片手に自らの足で路地を歩き、さまざまな店を自らの目や耳や鼻や舌で試して、観光ガイドにはない発見をして自己満足に浸りたい・・・ところですが、空港とホテルとオフィスをタクシーで往復するだけの籠の鳥状態で、私自身、極めて不本意でした。
 辛うじて、マニラでは、この7月に国の人口が1億人を突破したそうで、人口の半分以上が25歳以下、実際に平均年齢は23歳と言われ、ベトナムなど周辺国に比べて圧倒的に若い労働力が経済成長(因みに2013年の実質GDP成長率は7.2%)を押し上げる「人口ボーナス」が続いているとされる、その片鱗を、都会の喧騒と共に、タクシーの窓越しに感じました。ハノイやホーチミンでは、相変わらずのオートバイの洪水はあらためて息をのむほどで、こうした状況では、急な加速・減速はご法度、車線変更も細心の注意を要するといった、マレーシア・ペナンでの運転を、つい昨日のことのように思い出しました。こうしたアジアの成長に引き換え、メルボルンの落ち着いた佇まいは、私たち日本人に、ある種の安心感を催させます。逆に、フィリピンやベトナムの、一面、豪勢な高層ビルが立ち並ぶ開発独裁の勢いに圧倒され、他面、目を背けたくなるような薄汚い裏道やスラム街が残って、懐かしいやら街の若さが羨ましいやら、心がさざ波立って、情緒不安定になるのが、良くも悪くもアジアなのでしょう。
 上の写真は、Nam Phanにかかれば、春巻きだってこんな盛り付け・・・趣味が余りよろしくないと思うのは私だけではないかも。隣に鎮座するのはローカル・ビールの「333(現地語でそのままバーバーバーと呼びます、一説には3つの3という意味でバーバーとも)」。
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浮世絵の魅力

2014-11-02 22:32:08 | たまに文学・歴史・芸術も
 浮世絵や狩野派・琳派などの所謂「やまと絵」が西洋絵画に影響を与えたことは知られます。それは、世界史上、ほとんど初めてと言ってもいい、日本という東洋の果てで独特の進化を遂げた神秘の島国が、幕末・明治維新の頃に西洋と相まみえた頃に当たり、単なる異国趣味(ジャポネズリー)を超えて、ジャポニズムと呼ばれています。
 きっかけは、フランスの版画家・陶芸家であり画家でもあったフェリックス・ブラックモン(1833~1914)が、摺師ドラートルの工房で輸出磁器の梱包に使われていた「北斎漫画」を見て感動し、やがて入手した後、友達に自慢してまわったのが発端だと言われます(1856~57年頃)。私がシドニーに住んでいた頃、ある美術館でユニークな企画展があり、有名な印象派画家の作品と、彼らにヒントを与えたと言われる浮世絵を並べて展示していたのを見て、確かに影響力が小さくないことは知っていましたが、どれほど大きいものかは想像の外でした。
 最近、城一夫さんの講演で聞いた話を紹介します。
 当時の西洋絵画は、19世紀初頭、ギリシャやローマの美術を規範とする様式的で拡張高い新古典主義と、その反動として19世紀中ばに現れた写実主義に影響されていたようです。新古典主義と言えば、ナポレオンの時代でもあり、ギリシャ神話、騎士道伝説、キリスト教説話、英雄物語などの限定された主題で、男性的で立体的でボリューム感のある絵画が追求されました。シンメトリーの構図、重厚な形態と色彩の表現が重視されました。それに対し、クールベに代表される写実主義は、日常生活や風景、社会的事件を主題に、対象を「見たとおり」に描き、光と影(“影”よりも“陰”の方が正確なような気がしますが)によって対象物の立体感を表現し、遠近法を用いることによって空間を立体的に把握する技法を発達させました。しかし、絵の具を重ね塗りすることで、減法混色(色を表現する方法のひとつで、シアン、マゼンタ、イエローの混合によって色彩を表現する方法で、これら3色は色を重ねるごとに暗くなり、3色を等量で混ぜ合わせると黒色になる)によって、画面から明るさが喪失して行きました。クールベは「陰から描きなさい」とまで言い、写実主義を標榜しながら、実際の明るさが消失したのです。
 こうした状況下でもたらされた日本の浮世絵は、先ずはモチーフが自由でユニークなことで西洋画家に衝撃を与えました。役者絵を主題とした浮世絵は、ロートレックやドガに影響を与え、世紀末のムーランルージュの歌手やダンサーを、また踊り子たちの練習風景を絵にして世に広めました。北斎漫画は、様々な職業の人々や動物の闊達な表現で人々を魅了し、それまでの西洋絵画には少なかった猫などの小動物が主題として登場します。また、富嶽三十六景のように、一つの対象物を時間の推移に応じて、また異なる角度から連続的に描く連作は、それまでの西洋絵画の伝統にないものであり、以後、モネはルーアン聖堂を33点、積藁を25点、睡蓮に至っては200点以上も描き、セザンヌはサン・ヴィクトワール山を87点もものしました。版画家アンリ・リヴィエールに至っては「エッフェル塔三十六景」と数を合わせてもいます。
 次に、むしろモチーフ以上に斬新だったと私が思うのは、カタチを表現する技法です。西洋絵画は「見たとおり」に描くことをテーゼとするがため、光と影(陰)によって対象物の立体感やヴォリュームを表現するのが当たり前で、浮世絵のように、陰影の縁を輪郭線で括り、形を表現するのは革新的なことでした。また西洋絵画は、あるがままの奥行き(背景)を克明に描くことにより空間性を確保するわけですが、「やまと絵」のように背景を描かずに(あるいは金箔を貼って)無地にして、あるいは遠近法を無視して、平面的に描くことにより、却って主題を強調する手法には思いも至りませんでした。クリムトが金を背景に使ったのは、1873年のウィーン万博で琳派(俵屋宗達の「伊勢物語色紙」)を見たからだと言われますし、マネの有名な「笛を吹く少年」は背景を無視し、主題を浮き上がらせたものでした。さらに、西洋絵画は対象物と並行の視点をとることが多く、浮世絵の予想外の視点、たとえば俯瞰的な視点や、一つの画面で多角的な視点から対象物を描く手法は斬新で、やがてそれはピカソに繋がりますし、日本絵画に見られる自由な視点に基づいた非対称(アシンメトリー)な構図によって、画面全体に躍動感と何よりも自然らしさを表現する手法もまた斬新で、スーラの「グランドジャット島の日曜日の午後」やドガの「三人の踊り子」などでは、中心をずらせたり、対象を左右の両端で切ることで却って奥行を感じさせる構造になっています。また色彩にしても、日本絵画には光による陰影がなく、鮮やかな色彩によって一様に塗彩され、ゴッホをはじめとする印象派の画家は、日本は陰影もないほど陽光が降りそそぐ南の国だと勘違いし、日本に憧れたのでした。
 以上、長々と再現しましたが、城一夫さんの解説を聞いて気が付いたのは、私たちにとって当たり前の「漫画」という表現形式、つまり、光や影(陰)ではなく輪郭線で括って形を表現し、独特の空間上の「間」合いや言葉(擬声語や擬態語)を最大限活用し、これらによって限られた四角い空間に躍動感をもたらすのは、日本固有の表現だったという事実でした。北斎漫画あるいは古くは鳥獣戯画がその元祖だと言われる、今、クール・ジャパンの筆頭に挙げられるマンガやアニメに対する海外での人気は、決して不思議でも何でもなく、一世紀以上前のジャポニズムが現代に続いているものだと言えそうです。日本にいる限りにおいてはとても気付きませんが、他の国と比較して認識させられる日本人の感覚の不思議さを思います。
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