風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

米中の確執はつづく

2019-05-25 13:38:04 | 時事放談
 昨晩、霞ヶ関界隈を歩いていると、主だった四つ辻で四方を見張る警備の人が立っているのが目についた。今日、トランプ大統領が到着するからだろうか。明日は千葉でゴルフだそうだが、時ならぬ猛暑で御出迎えすることになろうとは、まことに気の毒な話だ。
 ところで一昨日・昨日と連載された、FNN解説委員の平井文夫さんのコラムは、なかなか微笑ましかった。「安倍外交は日本を取り戻したのか」(前・後編)と題して、前編で内政、後編で外交についてエピソードを中心に解説する。前編の内政では、安倍さんが本当にやりたいこと4つ(憲法改正、拉致問題解決、北方領土返還、皇位継承の安定)は、このままでは何も達成できずに(それらの前提となる経済の強化がままならないし、それ以上にその他のことで足を引っ張られ過ぎ・・・これは野党やメディアが安倍さんの真意を意識してか意識せずでかイジワルしているとしか思えないが 笑)、任期を終えてしまう、いや、最後に4つとも全部やってしまうのではないかと思っていると言い、後編の外交では、安倍政権は支持率が高いにもかかわらず「絶対に嫌い」という人も多く(いくら嫌いでも我らが首相のことを「アベ」などとまるで記号のように!?呼び捨てにするのは如何なものかと思う 苦笑)、好き嫌いが分かれる政権で、安倍さんのことを「嫌い」という人でも外交における安倍さんの存在感は否定できないだろう、というのが結論めいた氏のメッセージだが、そこに至るエピソードこそがメインディッシュと言うべき力作である。後編で各国首脳を紹介する中で、トランプ大統領の公人としての品のなさに対して私人としてのお節介オヤジ振りはなんとなく想像がつくが、安倍さんとのケミストリーはかねて聞かされていたとは言え微笑ましいを通り越して驚きですらある。大統領就任後のトランプさんを、日・中首脳がそれぞれ相次いで詣でたときのこと、習主席がフロリダを発った後、トランプ大統領はすぐに安倍さんに電話して、「習が今帰った。シンゾー、君がいなくて寂しいよ」と言ったというのだ。平井氏は「ほとんど恋人かストーカー、そんな感じである。しかもトランプの片思いである」と解説する(微笑)。また、外交から経済まで全て頓珍漢なトランプ大統領に、毎回、一から説明しなければならいことにウンザリした安倍さんが外務省に、「トランプ大統領にちゃんと事前にレクするように米国側に言ってくれ」と文句を言って、その通りに外務省がホワイトハウスに伝えたところ、「悪いがトランプ大統領は俺らの言うことは聞かない。だからシンゾーさんよろしくお願いします」と回答してきたという(苦笑)。私も政権に近い学者から、二人が良く電話会議するという話を聞いたことがあり、しかも、ほとんどトランプ大統領が聞き役というから、さもありなん(笑)。しかし最近はトランプ大統領が話す時間が長くなっているらしく、もしかしたら自信をもち始めているのではないかとその筋で噂し合っているらしい(笑)が、余談である。それにしても安倍さんはボンボンなのに、トランプといいプーチンといい不良と付き合うのがうまいと、平井氏が安倍さんに伝えたら、「だって不良には麻生さんで慣れてるから」と答えたらしい(爆)。
 前置きが長くなった。
 前回ブログで触れた米中貿易交渉決裂のあと、堪忍袋の緒が切れたトランプ大統領は関税引上げに続いて、中国の通信機器メーカー「華為技術」をアメリカの通信ネットワークから事実上排除する制裁カードを切った。米国内での華為製品調達を制限するほか、指示を受けた商務省が、華為とそのグループ企業を禁輸リストに掲載すると、グーグル(言わずと知れたスマホOSのAndroid開発)や英国Arm(米国子会社の技術をベースにプロセッサー開発)をはじめ、キー・コンポーネントを供給する米系メーカーが一斉に取引を手控えて、今後の同社のスマホ開発・生産にブレーキがかかるという、三年前の通信機器メーカー「中興通訊(ZTE)」制裁の悪夢が再現し始めた。華為の社長は既に何年も前から内製化に向けた準備をして来たから大丈夫だと大見得を切り、いずれこの時に備えて半年とか1年分の在庫を積み増して来たとも報道されているが、この業界でOSやプロセッサーといったデ・ファクト・スタンダードのキー製品がアップデートされないのは致命的だ。ユーザーが増えるほどアプリ開発が増え、さらにユーザーが集まるという好循環の「ネットワーク効果」のことをまさか知らないわけではないだろうが、立場上、強がらざるを得ないのが気の毒である。
 華為はバックドアを仕込んで情報を抜き取っているとの批判に対して、「品位と独立性を維持」してきたし、「(中国政府から)スパイ活動への協力を要請されたことは一度もなく、いかなる状況においてもそのような要請は拒否する」と主張するが、仮にこれまでのところがそうであったとしても、中国では既に国家情報法が施行され、国家の情報活動に協力することが企業にも個人にも義務付けられている以上、今後は企業や個人の意思では抗えず、その主張は虚ろに響く。IoTの時代には全世界津々浦々の情報が吸い上げられ、監視されかねないし、人知れず(中国で始まっているような)信用格付けがなされたり、戦争の代替として重要インフラが攻撃されたりしかねない。
 昨日のロイター通信は、華為への締め付けを主導したのはアメリカではなくてオーストラリアだったと報じた。昨年初め、オーストラリアの首都キャンベラで、オーストラリア通信電子局(ASD)のエージェントであるハッカーたちが破壊的なデジタル戦争ゲームを遂行したという。「あらゆる種類のサイバー攻撃ツールを使って、対象国の次世代通信規格『5G』通信網の内部機器にアクセスできた場合、どのような損害を与えることができるか」(ロイター)を検証し、攻撃のポテンシャルの大きさに愕然としたという。かねてオーストラリアの資源経済は中国への依存を深めていたが、所謂「ファイブアイズ」の一角を占める同国の切り崩しを狙ったのだろう、2003年に中国の工作員3000人が活動していたのが明らかになったのをはじめ、私がシドニーに駐在していた2008年頃、軍施設近郊の通信設備の入札から中国企業が排除されたことがあったし、2014年にはオーストラリアの大手企業が会社のネットワークから華為製品を介して不正にデータが中国に送られていることに気がつき、以降、政府関係機関や大手企業に華為製品を使わないよう非公式に通達されていたというし、昨年には政界・学界・出版界などで中国の献金・寄付金や人脈を通して中国に不利な言論や研究活動を(円満に!)封じ込める所謂「シャープパワー」による工作活動が広がりを見せつつあるのを警戒したオーストラリア政府は、外国の干渉を排除する法案を通した。アメリカによる華為の通信機器排除に真っ先に呼応したのは、そうした事情があったのだ。
 アメリカの貿易赤字は一種の見せ球で、貿易交渉の本丸は中国の構造改革にあり、これをひっくるめて米中の(技術ひいては軍事の)覇権争いと称するならば、悪名高き「中国製造2025」の中核メーカーである華為を制裁するのは、本音丸出しの露骨な禁じ手とも言えるものだ。ところがトランプ大統領ときたら、貿易交渉で合意できれば(華為問題を)何らかの形で取引に含めるかもしれないなどと、譲歩を引き出すための取引材料にするかのような発言をして、商務長官や政府高官は「法執行と貿易交渉は別問題」と否定した。まさかトランプ大統領は貿易赤字にしか興味がないわけではないだろうが、彼のディールにはいつもハラハラさせられる(笑)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米中の仁義なき戦い

2019-05-16 00:31:52 | 日々の生活
 昨年12月、トランプ大統領と習近平国家主席との間で貿易戦争の一時休戦が約されてから5ヶ月、閣僚級協議(米通商代表部代表のライトハイザー氏と習氏側近の劉鶴副首相)で中国の産業補助金削減や知的財産権保護、為替政策の透明化など7分野について150ページにわたる合意文書(案)が纏められたが、突然、105ページに修正・圧縮されて、一方的にアメリカ側に送付されたらしい。アメリカとしては中国による構造改革の実行を担保するべく法的拘束力をもたせようとしていたところ、中国指導部によって「不平等条約」に等しいと判断され、軒並み削除・修正されたのだという。「不平等条約」って何やと思ったら、アヘン戦争後の南京条約や日清戦争後の下関条約などを指すらしい。「中華民族の夢」として「中華民族の偉大なる復興」を掲げ、帝国主義時代の屈辱の歴史を晴らさんとしているとは、つとに聞かされていたが、まさか民族意識高揚キャンペーンのレトリックとしてだけではなく具体的な外交交渉においても百数十年前の屈辱が語られるとは、あらためて中国人の執念深さには恐れ入る。しかも今回の合意内容(案)が果たして「不平等」なのかどうか・・・内政干渉に近い押しつけがましさはあるが、中国のビジネス・プラクティスがとてもフェアとはいえないシロモノなのは、世界中のビジネス・パーソンは誰しも常日頃感じていることだろう。
 劉鶴副首相は「中国は原則にかかわる問題では決して譲歩しない」と強気の発言をしていたが、「原則」=「中国の主権と尊厳の尊重」、すなわち中国共産党の一党支配を揺るがしかねない構造的問題については譲らないという主張をあらためて明確にしたことになる。かつて、習氏は政府が管理・監督する国有企業について「経済の根幹であり、改革が進む中でも政府は市場のように盲目になることを避けなければならない」と慎重に進める考えを示していた。既得権益層の抵抗や社会的な混乱を懸念するからだが、天安門から30年の節目にあたり、北京は政治の季節に入って神経質になっている側面もあるだろうし、かつて日米構造協議によって日本が骨抜きになり、その後の失われた10年なり20年と言われる凋落の歴史を一つの教訓として学んでいることだろう。
 早速、トランプ大統領は「中国が約束を破った」と激怒し、制裁関税第四弾発動の指示を出した。
 かねてトランプ大統領は貿易赤字のことしか理解しないと揶揄されていたが(苦笑)、昨年8月の国防授権法(政府調達から華為などの中国製通信機器や監視カメラを排除、中国向け機微技術の輸出規制強化、中国によるアメリカ内投資への規制強化を含む)は超党派で採択されたし、中国に対する長年にわたる関与政策が失敗に終わった挫折感と、技術(ひいては軍事)覇権を巡る対決姿勢は、もはやアメリカ内で与野党を問わず共有されているので、安易な妥協が許される雰囲気ではなさそうだ。それに、次期大統領選挙対策として、アメリカ国民の雇用を奪っているとされる(というのは誤解だと思うが)中国に強く出るのは、トランプ大統領の支持層には強くアピールするだろうし、チベットやウイグルに住む少数民族に対する弾圧を問題視し人権を重視するグループや、同じくチベットやウイグルで信教の自由が奪われていることを問題視し信教の自由を重視するグループにもアピールするので、トランプ大統領としては比較的安心して利用できるテーマだろう。
 外交交渉にはWin-WinかLose-Loseしかないと言われるが、昨年、アメリカの対中輸出は1200億ドルだったのに対して、中国の対米輸出は5400億ドルと4倍以上の規模の差があり、制裁関税の応酬はアメリカに有利とされているし、中国は対抗措置として(中国に進出しているアメリカ企業の)アメリカ製品の不買運動など、何をしでかすか分からないところもあるにはあるが、昨年の制裁関税によって既に年約1650億ドル相当の貿易の流れが変わったとされるように、中・長期的には、中国に進出している外資が生産拠点を東南アジア等に移管する流れが強まるだろうから、中国に厳しい展開となりそうだ。世界経済の減速など、お互いに経済の共倒れなど望んでいないので、どこかで手打ちが行われるだろうが、ディールの達人・トランプ大統領の「仁義なき戦いぶり」に注目したい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

補足

2019-05-09 23:31:01 | 日々の生活
 前回ブログで触れたように書き損じのメモ書きを、備忘録として残しておきたい。
 巷間、批判される通り、ネットの世界ではGAFAやその中国版のBATHといったプラットフォーマーに牛耳られ、かつて世界に冠たる日本の「ものづくり」は台湾・韓国、更には中国や東南アジアにとって代われられ、世界的な、という意味での日本の存在感はすっかり薄れてしまった。これは象徴的な事例の一つに過ぎないが、平成の30年は長期低迷した時代と回顧されることが多い。産業界の片隅でひっそりと時代の風に触れた一人として、平成を「総括」するなどと大上段に構えるのではなく、「実感」を書き留める。

<産業構造の変化>
 平成の時代思潮を表現する言葉にはいろいろあろうが、前回ブログでは、「コモディティ化」が予想以上に進展したことを挙げた。昭和から平成にかけて、ムーアの法則が象徴的に語られたように(世紀末に提唱されたポラックの法則では、コンピュータのプロセッサ性能は比例より劣るらしいが)、半導体が産業のコメとして爆発的に普及し、産業界を様変わりさせてしまった。半導体産業自体は装置産業で事業サイクルが異なるため、分社化して別の管理に移行したのはいいが投資が続かず、韓国系財閥や国家資本主義の中国にその地位を譲って行った。日本に残ったのは半導体製造装置産業だけである。他方、コンピュータの性能は向上し、いまやスマホはかつて(例えばアポロ計画の頃)のスーパーコンピューターを超え、各人の掌に納まるほどになった。その流れを作ったのは、部品メーカーの存在もさることながら、意外にも、汎用コンピュータ産業の雄として君臨し、1990年代後半、ビジネス・シーンで服装のカジュアル化が進んでも最後まで保守的だった(笑)、IBMである。アップルに後れてパソコン市場に参入するとき、彼らの強みである垂直統合の事業モデルではなく、外部からOSをはじめキーコンポーネントを寄せ集めて組立てる水平分業の事業モデルを採用して、一気に市場を席巻したのであった。この画期的な出来事は、皮肉なことに自らの首を絞める結果となり、IBMの躍進は一時的なものに終わる。当時、車のガレージでパソコン会社を起業するといった話があちらこちらに転がっていたように、参入障壁が下がったことで競合が増えたからで、市場は急拡大し、アメリカ西海岸のシリコンバレーが活性化した(かつて「ボストン=垂直統合」と「シリコンバレー=水平分業」を比較した『現代の二都物語』というアナリー・サクセニアン教授の著作があった)。
 こうしたエレクトロニクス業界地図を、台湾のパソコン・メーカーAcerの総帥・施振栄(スタン・シー)会長は「スマイル・カーブ」で表現した。口元のカーブに見られるように、左(上流:素材・部品)や右(下流:システム・インテグレーションやサービス)は利益率が高いが、その間(中流:組立て)は儲からない、というものだ。その儲からない中流を請け負っていた台湾系のEMS(電子機器の受託生産)企業は、より上流の設計も取り込んでODMなどと呼ばれ(特にパソコン業界で)、あるいはフォックスコン(鴻海科技集団)のように80万人もの従業員を抱えるほどに巨大化し、その創業者は今や台湾・総統を狙うほどだ(笑)。このように水平分業はグローバルに進んで、日本のパソコン産業をはじめとするエレクトロニクス産業は空洞化し、数量で勝てなかったために急速に競争力を失って行く。
 数量で勝てなかった、つまり世界で受け入れられなかったのは、製品デザインがグローバルじゃなかったことも一因だろうと思う。四半世紀前、アメリカに駐在したときに現地で買い揃えた家電製品は安かったが、お世辞にも洗練されていたとは言えなかった。例えば(固定)電話機はごつごつしていて、日本人の小さな手には納まらないほどだったが、機能する限りにおいて、アメリカ人は満足するのだろう。それに対して日本人は生来の職人芸が疼いて、手が込んだものを愛する。その後、マレーシアに駐在したとき、日本のパソコンが売れないのは、余計な機能まで盛りだくさんで(当時テレビを見ることが出来たのは画期的だったが)コスト・アップになり、しかもソフトやオプション品との互換性評価のために時間がかかり、リリースされる頃には最新性能ではなくなっているから・・・といった話を聞いたことがある。それに対してアジアの人たちは、とにかく最新の性能で安いものを求めるという、分かり易い性格だった。こうして日本の製品が手が込んだものになりがちなのは、日本の消費者の要求レベルがそもそも高いからか、日本のメーカーがそのように誘導するからか、若しくはその両方なのだろう。今風に言えばこれも一つの「ガラパゴス」だと思う。挙句に、苦し紛れの製品戦略として、ハイエンド領域を狙うようなラインアップにすると、数は出ないし、いずれ「コモディティ化」の波にさらわれて、縮小均衡の罠に陥る。

<市場の変化>
 市場について一言で形容するなら、間違いなくグローバル化の進展であろう(かつては「グローバリゼーション」と英語そのままに呼ばれたが、最近はとりわけ悪“意”を際立たせるためかイデオロギーとしての「グローバリズム」が多用され、なんとなく混同されている)。平成とともに天安門事件は抑えられたがベルリンの壁やソ連邦が崩壊し、東欧や、やがて中国がグローバル経済に組み込まれた。水は低きに流れるという喩え通り、「コモディティ化」したエレクトロニクス製品の生産は、低賃金のこれら新興国に移って行った。その恩恵を最も受けたのは言わずと知れた中国で、改革開放の波に乗り世界の工場ともてはやされた。その実、その多くは外資によってもたらされたものであり、中国側では安い労働力を提供し続けるだけでは、いずれ経済原理に沿って頭打ちとなり、国家経済として中所得国の罠に陥りかねないことを懸念した中国共産党は、高付加価値化の取組みとして、2015年に「中国製造2025」というハイテク領域での国産化政策を策定し、折からの軍民融合政策とも相俟って、アメリカとの技術摩擦を深めて行くが、それは令和の時代の基調となるであろう。平成の時代には、日本は地の利もあって、裏庭のような中国に挙って進出し、生産コストを下げることで競争力を維持しようと躍起になった。長引くデフレの一端は、間違いなくこうした日本企業の努力にある。雇用を守るための善意の努力であったが、コスト弾力性を高めるために、雇用の非正規化をも進めざるを得なかったのは、飽くまで結果論だが不幸なことだった。

<日本社会の変化>
 この底流にある日本の社会状況は、間違いなく少子化と、結果としての人口減少、とりわけ生産人口の減少である。経済成長を実現するのはイノベーションだと主張する経済学者がいて、その限りではその通りだが、今の日本経済を説明するには十分ではなく、人口が減少すれば市場は萎むのだ。10連休前の日経に、人口がさほど増えていない中国でも二桁成長を続けてきたのだから、平成の日本は人口減少を言い訳にはできない、といった解説が見られたが、日経にしては随分と大雑把な議論である。中国では、高度成長期の日本のように、地方から都会(主に沿岸部)へ若者を中心とした民族大移動が起こり、拡大する労働需要を支えたのだ。あのときの日本には田中角栄という、自民党にありながら社会主義的な再配分政策を実行する奇特な政治家がいて、それは彼が越後という地方出身の立志伝中の人物だからであったが、世界でも稀に見る国土(ほぼ)均一な豊かさを実現した(その分、無駄も多かった)のだが、共産主義社会の中国で地方が置いてきぼりになったとは、何とも皮肉だ。中国で西部開拓が進められたのは、再配分政策と言うよりも、市場原理が働かない計画経済ゆえに過剰に積み上がった在庫の解消が目的だった。さらにかつての共産圏である中央アジアにも歩みを進め、それらの散発的な開発プロジェクトを纏めて「一帯一路」と称し始め、さも戦略的であるかのように偽装している。共産主義者はレトリックに優れるのだが、これは余談である。

<前時代(昭和)の成功体験の罠>
 日本的経営は、昭和という安定した時代背景のもとで成功体験として固定化され、次の平成の時代の変化に取り残されてしまった。所謂「成功体験の罠」である。実際のところ、昭和の冷戦時代は、米ソ核戦争の危機に晒され緊張感が高まったが、高まる緊張感のもとで、米ソの直接的な衝突は回避され、せいぜい地域限定の代理戦争(紛争)にとどまって、今から振り返れば却って平和だったとすら言え、こうした(逆説的だが)不安定な状態が安定的に続いた時代は、終身雇用で年功序列の日本的経営は、日本の企業が安定的に成長する基盤として機能した。キャッチアップ型の日本の企業は、先行する欧米を追いかけるという意味で目標も明確であり、長期的な経営が可能だった。ところが、平成のように地殻変動に見舞われた時代には、雇用の流動性に乏しいことが日本の企業の足を引っ張ることになる。
 そのため、平成の時代半ばになると、日本的経営が解体し始める。折しもネット・バブルで、アメリカの専業メーカーの躍進が目立ち、総合と名のつく産業(総合電機や総合商社や・・・)が不振をかこつや、コンサルタントがアメリカ式のKPIや成果主義などの手法を吹聴しまくり、本来、日本の文化に根差した一貫した体系だったはずの日本的経営に、アメリカ的経営が部分的に接ぎ木され、現場に腹落ち感がないまま、却ってモラールを下げてしまった。富士通で成果主義を推進していた人の告発本が出たのはその頃のことだ。
 また、日本の産業界は、昭和の時代に「ものづくり」に成功し過ぎて、その成功体験に拘り過ぎたのではないだろうか。そこには日本人の我慢強い性向もあり、農耕民族に特有の、持ち場で頑張り、否、頑張り過ぎる性向も作用していよう。資本の論理が働けば、アメリカ人のようにさっさと新たな市場の開拓を目指すところだが、日本人は生産コスト低減のために安い労働力を求めて中国で「ものづくり」し、国内の人件費すらも切り詰め、利益率が低いと投資家に非難されても、頑張ってきた。そこに一つ誤解があるとすれば、日本の「ものづくり」は、昭和の時代に安い為替のゲタを履かせて貰って、上手く行き過ぎたことだろう。平成が始まる寸前のプラザ合意で、Wikipediaによれば、「発表翌日の9月23日の1日24時間だけで、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落し」「1年後にはドルの価値はほぼ半減し、150円台で取引されるようになった」のであった。日本人はつい目の前の現実に対処しようとするが、振り返れば、それまで円が安過ぎたのだと言えなくもない。
 もっと言うと、日本の社会自体が、昭和の時代の成功に最適化してしまい、平成の時代の変化について行けなかったということではないだろうか。例えば、日本でキャッシュレス化が進まず、ライドシェアも進まない一因は、現金による支払が安全に整備されて便利で安心だからであり、タクシーが安全で渋滞を避ける術を心得ていて安心だからである。日本は、昭和の高度成長の時代に、極めて精緻で安心できる社会インフラを構築することに成功した。成功し過ぎた。
 平成の激動を迎えて、企業経営を含む社会インフラの「調整」は痛みを伴った。エレクトロニクス業界で言うと、サンヨーはパナソニックに経営統合されて消滅し、シャープは台湾企業(鴻海精密工業)に買収され、かつてDynabookとして一世を風靡した東芝のパソコン事業はそのシャープに買収されて台湾資本の傘下となり、東芝の白物家電は中国企業(美的集団)に買収され、NECや富士通やIBMのパソコン事業はレノボに実質的に買収されて、かつてのIBMの人気ブランドThinkPadはNECの米沢工場で生産されて人気である(!)。

<安定志向>
 以上、長々と書いてきたが、組織体制はどうであれ、所詮はそれを動かす人の問題である。
 それにつけても思い出すのは、昭和の根性のまま平成に突入した私自身の意識である。あけすけに言うと、昭和の終わり頃、大学については、偏差値で(文系・理系も含め出来るだけ高いところで自分が入れそうな科目で)選び、入ってから何を勉強するか考えようとしていた、恐らく世の大多数と似たり寄ったりの主体性のない私は、会社についても、当時の就職人気でなるべく高くて無難なところで、OB訪問をしながらフィーリングで選ぶという、ミーハーぶりであった。世間知らずの学生はそんなものだとも思う。当時、日本の学生は就職にあたり財閥系の安定した大企業を志向するのに対し、アメリカの学生は起業を志向するという指摘を聞いて、驚愕したものだった。私自身のことに戻ると、大学選びより企業選びが多少は成長したと言えるのは、バブル崩壊前夜、文系学生の多くが給与水準の高さに目が眩んで金融機関(都市銀行は当時13もあった、ほかに生保など)に殺到したのに対し、天邪鬼なところもあって、そんな虚業ではなく、あくまで実業の「ものづくり」で、時代の風を感じたいと、まあそうは言っても右も左もわからない中で当時は上げ潮だったエレクトロニクス業界を選んだことだろう。実際に感じた時代の風は、しかし順風ではなく、逆風であった。
 因みに、官僚養成学校を起源とする東京大学の最近の学生は、中央官庁ではなく外資系やコンサル会社を目指すようになったと聞いて、時代の変化を感じる。もっとも、いい加減な政治を陰で支えてきた優秀な官僚組織が弱体化するのではないかと、気になるところではあるが、これも余談だ。

<まとめ>
 こうして平成を振り返るには昭和と平成を一連の流れとして捉える必要があり、そうすると平成の時代は、昭和の時代に安定的に成長することに最適化し、結果として固定化した体制を「調整」する、長い停滞の時代と言えるのだが、正確に言うと、巡航速度に戻ったということではないかと思う。勿論、それは少子高齢化で人口減少する社会での巡航速度である。今さらダーウィンでもないが、自然界でも経済界でも、最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない、変化によく対応する者だけが生き残るのだ。
 どんな社会でも常に競争環境にある以上、比較優位を失って後発に譲らざるを得ない部分があり、時間がどれほどかかるかは別にして、「調整」は必要になる。問題はその「調整」にかまけている内に、何で食って行くのか、ドメインを確立することに出遅れてしまったことだろう。結果として、日本の企業は事業の切り売りや撤退で、ジリ貧に陥ったままになっている。
 今年1月、USニューズ&ワールド・レポート誌が発表した国家ランキング「ベスト・カントリー・ランキング」によると、日本は前年の4位から、過去最高の2位に浮上した。企業家精神、冒険的要素、市民の権利、文化的影響力、文化・自然遺産、原動力、ビジネスの開放度、パワー、生活水準など様々な要素を勘案し、言わば「その国を他国の人がどう見ているか」を数値化したもので、日本が対外的に高いブランド力を作り上げた結果だと言う意味では、GDP統計のようなフローの実力ではなく、長年にわたって育て積み上げてきたストックの実力であり、大いに自信をもってよい。ところが同誌は同時に、一般に日本以外の殆どの国は他国民が自国のことを評価する以上にポジティブに自己評価するのに対し、日本人ったら、他国民が日本のことを圧倒的に高く評価しているのに、過小評価していることにも注目している。そして、この日本特有の「自虐性」は、謙遜を尊ぶ文化や大東亜戦争での敗戦という歴史的な影響やバブル崩壊後の経済の停滞などによる(そして外国人はそのことに余り気づいていない可能性もある)のかもしれないが、そんな過小の自己評価は日本に良い影響を与えるはずがないと警告する。プラスに受け止めて日本ブランドを対外的に宣伝してこそ、外国人観光客を呼び込むにしても、投資を呼び込むにしても、良い循環ができるはずだ、と。
 令和という時代は、調整を終え、価値ある日本ブランドを礎に、謙虚に、しかし自信をもって、新たな世界に踏み出して行きたいものだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成から令和へ(下)

2019-05-07 23:44:09 | 日々の生活
 これまでこのタイトル・シリーズで皇室のことばかり語って来たので、最後に私なりに平成という時代を振り返ろうと書き始めると、だらだらとキリがなくなってしまったので、やむなく稿を改めることにして、さらっと総括的なことを書いてお茶を濁すことにしたい(笑)。
 何をだらだら書いていたか・・・自分自身を振り返り、昭和の終わりに就職して、令和になった今もサラリーマンでいるということは、サラリーマン生活の盛り(があったとすれば…の話だが 笑)が平成の30年に重なり、一企業人として思うところがあるだろう、それを総括してみようやないか・・・と始めたわけだが、(清水寺のように1年じゃなく)30年を(漢字一字ではなく)一言で表現するとすれば(と、思いつきで、思いを巡らせると)「コモディティ化」と言えるのではないかと思う(電機業界にいるので、こういう言い方になってしまうのは御容赦頂きたい)。技術で言えば、ムーアの法則(集積回路上のトランジスタ数は18ヶ月毎に倍になる)として象徴的に語られるように、半導体は「産業のコメ」となって産業界を様変わりさせた。市場で言えば冷戦崩壊によるグローバル化とともに、中でも中国という(日本と比べたら10倍くらいだが、欧州の国々と比べたら実に20ヶ国以上を合わせたくらいの)巨大な人口が安い労賃で解放されて「世界の工場」として本格的に稼働を始めた。
 こんな話を続けてもなかなかピンと来ないかも知れないので、具体的に・・・私が入社した頃は、部門(30人くらい)で数台のパソコンと、フロア(150人くらい)で数台のファクシミリ(と言っても知らない人が多いかも知れない 笑)を共有し始め、やがてビジネス・パーソン一人につき一台のパソコンが支給される画期的な時代が幕を開け、いまや個人でスマホを一人一台以上持つ時代である。だから何なんや!?ということになるが、そのスマホとは何者かというと、かつて人類を月に送り込んだアポロ計画の頃には部屋を埋め尽くすほどのスペースを食ったスーパーコンピューターを超えるとも言われるコンピュータ性能を持ち、昭和の終わりから平成の初めに象印の保温用のランチボックスくらいの大きさでお世辞にも携帯とは言えなかったような電話の機能が付き、一眼レフ並みの高性能のカメラやビデオ機能まで付いて、手のひらに収まり、かつて米軍が開発した軍用ネットワークが民生用途に解放されてインターネットと呼ばれるものになって、繋がっている。「コモディティ化」(もとはマルクス経済学の用語らしいが、特別感・高級感が薄れて生活必需品化し、ごく当たり前のものとなる)と呼ばずして何と呼ぼう。日本では「失われた10年」が「20年」となり、その「失われた」という形容詞まで失われて30年になるが、とりわけ後半の20年くらいで給与水準は上がっていないとしても、質的には格段に、なんて生易しいものではなく爆発的に、向上した時代なのだ。いや、それが幸せなのかどうかは別問題ではある。電機業界に身を置く者として、事業の栄枯盛衰(栄と盛と言うよりは忙と貧だったが 笑)をイヤと言うほど味わって、今となっては貴重な経験はそれなりに面白かったと言えなくもないが、後味として残るのは大いなる挫折感のしょっぱさである(苦笑)
 この挫折感は電機業界に限らない。昨年夏頃のダイヤモンド・オンラインが、平成元年と平成30年の世界時価総額ランキング・トップ50を比較していて、日本企業はNTTを筆頭に平成元年に32社もランク・インしていたのに、平成30年にはトヨタの1社のみとなってしまった。片やアメリカは15社→31社、中国は0→8社(香港を含む)と、バブル崩壊前夜で絶好調(というよりゲタを履いた状態)と比較するのはフェアとは言い難いが、世界第三の経済力にしては見劣りする現実である。
 ・・・と、さらっと、月並みな話になってしまった。実はまだ、自分なりに納得いくまで総括できていない。
 その間、日本は少子高齢化で人口減少社会となりながら、いまなお成長神話から脱却できているとは言えない(それを目指す気持ちは分からなくはないのだが)。令和の時代は、高齢化・人口減少で世界の先頭を走る日本が、成長の夢から覚めて実質的な調整が行われ、イノベーションで再び脚光を浴び、GDP(per Capita)ではなく真の豊かさを実感できる時代になるものと(実際にそうなり得ると)期待している。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成から令和へ(中)

2019-05-03 01:08:41 | 日々の生活
 前回からの続きになるが・・・実際のところ、私たちはロイヤル・ファミリーがあることを当たり前のこととして(このたびの御代替わり以外には)なかなか思いを致さない。最近、私は徒然なるままアメリカという国家の成り立ちと対外政策のありようについて気紛れに調べていて、アメリカの共和政がもつ革命的な意味合いがなんとなく分かるようになったのだが(今さらながら)、当時の旧大陸(欧州)の絶対王政の横暴ぶりと比べ日本の王室の(権力闘争がなかったわけではないが)権威として控え目なありようにも今さらながら驚かされる。そしてここ数日、王朝絵巻を見るような儀式を垣間見て、世界と日本の平和と安寧を望まれる天皇陛下という存在は、長い歴史と伝統文化とともに、21世紀にあって不思議の国・日本を文化的に重層的に奥床しくするし、政治利用されることのない皇室外交の存在は、生臭くもならざるを得ない日本の外交をも重層的に奥床しくして、戦略的に極めて重要に思う。
 上皇陛下は、平成の世に20回にわたって計36ヶ国に足を運ばれたらしい。昭和天皇が戦後2回、欧州と米国の計8ヶ国にとどまったことと比べても、国際化が進展し動きやすくなったとは言え、国際親善を重視されていたことの証だろうと思う。中でも、昭和天皇が果たし得なかった東南アジア3ヶ国(タイ、マレーシア、インドネシア)に加え、翌平成4年には歴代天皇として初めて中国を訪問された(しかも天安門事件以降、国際的に孤立していた中でのご訪問で、中国の国際復帰を先導され、今なお賛否両論あるところではある)。さらに平成9年には、天皇として初めて南米に入り、ブラジルとアルゼンチンを訪問された。
 皇室外交の効用を示す実例2つばかりに触れたい。
 一つは台湾との微妙な関係についてである。東日本大震災のとき、台湾の人々から(他国の倍に相当する)2億ドルを超す義援金が届いたのはよく知られるところだが、翌年の追悼式典に台湾の駐日代表の姿がなかったことは、「一つの中国」政策をとりあえず“理解”し、従い如何に台湾との関係がややこしいとは言え、日本人として内心忸怩たるものがあった。当時の野党政治家から攻撃された当時の野田首相は「台湾の皆さまには温かい支援をいただいた。その気持ちを傷つけるようなことがあったら、本当に申し訳ない」と述べるに至っている(これ自体は1972年の日台断交以来、日本の首相が初めて台湾に謝罪した出来事とされる)。ところが、その春の赤坂御苑での園遊会には、台湾の駐日代表も招待されたのだそうである! 日本側は対外的に公言しないよう求めたらしいが、断交後、初めてのことだという。そして天皇陛下(当時)は台湾の中日代表に笑顔で歩み寄り、あらためて台湾の支援に感謝の言葉を述べられたという。その翌朝の産経1面トップには、「陛下、台湾の震災支援に謝意」との見出しでそのときの写真が掲載されたらしいが(多分、こんなことをするのは産経だけだと思うが 笑)、どうやら北京(中国政府)は日本に抗議しなかったという(このあたり産経電子版による)。
 もう一つは、アラブの王室が日本の皇室を尊敬しているという話だ。サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン副皇太子が二年半前、訪日した際、御所で天皇陛下(当時)と会見された時の写真が、フェイスブックやツイッターなどを通じて世界で大きな反響を呼んだというのだ。何の飾り気もない部屋で、装飾といえば草花を活けた花瓶が1つあるだけ。障子から明かりが差し込む凛とした気品ある空間の中で、天皇と副皇太子が向かい合い、言葉を交わしている・・・フェイスブックの声は、
 「この写真を見ると嬉しく感じる。サウジアラビアの副皇太子が、シルクやジュエリーなどの派手な装飾に頼らずとも、とても穏やかな気持ちで対談されていることが分かるからだ」「本当に素晴らしい場所だ。うるさくないシンプルな作りで、大事な部分1点にまとめられている。日本らしいよ!」(サウジアラビア)
 「日本の天皇陛下と最高のミニマリズムの形」(カタール)
 「これこそが真のミニマリズムだ!」(マレーシア)
 「金も装飾もなく、衝撃的な1枚だ。この謙虚さが美しいのだろう」(米国)
 「写真は最低限のものしか置かれていないにもかかわらず、部屋から美しさや気品があふれています」(モロッコ)
 両陛下の私邸の御所もそうだが、皇居・宮殿も、そこに足を踏み入れた外国の賓客の多くが、その簡素なたたずまいに感嘆するらしい。また長年、駐米大使を務めたバンダル・ビン・スルタン王子は帰国後、国家安全保障会議の事務総長という重責ポストに就いたが、面会が極めて難しいことで知られていたところ、日本の大使とは2度私邸で会い、イランとの水面下の交渉などを明かしてくれたのは、「通常、外国の大使には会わないが日本は例外である。日本の皇室を尊敬しているからだ」と述べたという。
 かつて1970年代の石油危機のとき、大協石油(当時、現コスモ石油)の中山善郎社長は、アラブ諸国から石油の安定供給を受けるには「皇室外交があれば最高」「菊の御紋の威光はアラブの王様に絶大」と語ったらしい。こうした、サウジだけではなくアラブの王室に見られる日本の皇室に対する尊敬の念は、一つには日本の皇室が万世一系の、世界でも珍しい長い歴史と伝統を保持していること、二つには皇室が日本国民の幅広い尊敬と支持を集めていて、「自分たちもこうありたい」という願望をもつものであること、三つには華美や贅から一線を画した精神性の高さだとされる(このあたりは以前、新潮フォーサイトに掲載された西川恵氏のコラムによる)。西川恵氏が敢えて触れていないことを補足すると、そこには日本人の(排他的ではなく)包摂的な宗教のありよう(なんと言っても一神教じゃなく八百万の神だからね)が大きく影響していそうだし、「誠実」「禁欲」「慈悲」といったイスラームの善を日本人からは感じることができ、日本人はムスリムでもないのにイスラームの教えを実現しているとアラブの人から語られるようなところも、影響していそうだ(このあたりは宮田律氏の論を借用)。
 上皇后陛下は、昨年の誕生日に、「陛下はご譲位とともに、これまでなさってきた全ての公務から御身を引かれますが、以降もきっと、それまでと変わらず、国と人々のために祈り続けていらっしゃるのではないでしょうか。私も陛下のおそばで、これまで通り国と人々の上によき事を祈りつつ、皇太子と皇太子妃が築いてゆく新しい御代の安泰を祈り続けていきたいと思います」と文書で答えておられる。「国と人々のために祈る」ことこそ、象徴としての天皇をはじめとする皇室のありようなのだろう。これからも日本国と日本国民統合の象徴として大切に戴きたいものだと思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平成から令和へ(上)

2019-05-02 02:12:30 | 日々の生活
 昨晩から今日にかけて、さながら大晦日から正月がやって来たような華やぎだった。上皇陛下が譲位の意向を示された平成28年8月から一年も経たない平成29年6月に譲位を可能とする皇室典範特例法が成立し(我が国の官僚はやはり優秀だ 笑)、光格天皇以来202年ぶりとなる譲位がつつがなくとり行われ、新たな令和の時代を迎えた。生前退位は、高齢で公務を続けることの難しさと後進に道を譲ることの潔さという意味で、高齢化社会の現実と理想を示されるとともに、祝賀ムードとなるであろう譲位は上皇陛下の思し召しでもあったのだろう。昨日も今日も生憎の雨模様だったが、むしろ水をさすのがよいくらいの、多少のしめやかさが演出されたのは、これも天の配剤だろうか。
 振り返れば昭和から平成は、昭和天皇崩御を受けて自粛ムードの中で、まさにしめやかに行われた。忘れもしない昭和64年1月7日は、前月に友人と香港にふらふら遊びに行って、独身寮の電話当番をサボってしまった罰として、一日電話当番を命じられた日だった(涙笑)。小さなテレビが置いてある受付の部屋で、ひがな一日、テレビ三昧かと覚悟していたら、朝からどの局も特番に切り代わり、ひがな一日、昭和を振り返ることになってしまった。今回は、酒をちびちび飲みながら(電話当番では酒は飲めないからね 笑)、ネットをぶらつき平成を振り返った。
 今に至る象徴天皇を彷彿とさせる歴史的な事績として思い出されるのは、仁徳天皇の「民のかまど」のエピソードである。記紀によれば、人家のかまどから炊煙が立ち上っていないこと(すなわち満足に食にありつけていないこと)を気遣われた仁徳天皇は、3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったといい、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来すると言われる(Wikipedia)。似たような話として、東日本大震災の後、被災地を慮った両陛下は、寒い中でも暖房を控えられていた話を、故ダニエル・イノウエ氏の奥方アイリーン・ヒラノ・イノウエさんが披露されている(産経電子版による)。当時、全米日系人博物館の館長をされ、2012年の秋に国際交流基金賞を授与されて、訪日した際に御所にお呼ばれしたところ、両陛下は「部屋がとても寒いのでは」とお尋ねになり、申し訳なく思うと述べられた上で、そのわけを、被災地で苦しむ方々に思いをめぐらされ、ご自身も暖房や冷房を使わず、エネルギーの節約に努めているのだと説明されたというのである。私の勤める会社でも今なおエレベーターや執務フロアの電灯を間引いて室温も緩めて節電に努めているが、原発反対を叫ぶ人で節電に努めている(そして被災地の方々に思いを巡らせる)人はどれだけいるだろうか・・・とは余談である(笑)。
 ことほどさように、両陛下は、常に国民とともにあることを目指して来られた。即位後は早い時期に全都道府県に赴くことを希望され、平成15年に47都道府県を制覇され、29年には2巡目を果たされたという。三大行幸啓(国民体育大会、全国植樹祭、全国豊かな海づくり大会)は毎年47都道府県が持ち回りで開催しているにしても、である。また、訪問先では高齢者や障害者、子供のための施設を視察されるなど、社会福祉にも関心を寄せられてきたし、災害直後だけでなく、復興状況の視察も繰り返された。さらに先の大戦の慰霊に心を尽くされているのは真に尊い。どうしても記憶しなければならない4つの日として、終戦の日の8月15日、沖縄戦終結の6月23日、広島と長崎に原爆が投下された8月6日と9日を挙げられ、これらの日には黙祷を捧げていることも明かされている。また、パラオやフィリピンを訪問されたのは記憶に新しいが、硫黄島やサイパン島などの激戦地や広島・長崎のほか、昭和天皇が果たせなかった沖縄訪問は、皇太子時代を合わせると計11回(平成だけで6回は、広島5回よりも多い)に及ぶという。「広島・長崎は原爆のため印象的でよく知られていますが、沖縄は逃げ場のない島で、たくさんの人が死んだのに、本土の人たちの視野から落ちがちです」と語られている(昭和62年8月)のを聞くと、頭が下がる思いであり、昨今の沖縄の米軍基地を巡る確執を見るにつけ、まさに国民統合の象徴と言えるように思う。
 ついでに皇室外交についても触れたいところだが、ちょっと長くなりそうなので、続きは次回・・・
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする