風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

デコピンの始球式

2024-08-31 19:58:58 | スポーツ・芸能好き

 28日のオリオールズとの第二戦で、大谷翔平選手の愛犬デコイことデコピンによる始球式が行われた。

 マウンドに登場したデコピンは凛々しかった。翔平お父ちゃんの合図でボールを咥えると、18.44mを全力疾走し、ホームプレートで待ち構えるお父ちゃんにボールを無事送り届ける大役を果たした。これまで多くの始球式の映像を見て来たが、前回ブログで取り上げた我らが江川卓は寄る年波に勝てず劣化が著しく、かの稲村亜美は伸びやかで素晴らしいと、毎度、感心するが、今回のデコピンが文句なしに歴代一位の愛らしさだった。そして、デコピンへのご褒美のおやつが入っている、がま口状のポーチに肉球のデザインがプリントされているのと、翔平お父ちゃんが履いているニューバランス社製スパイクの左右の側面にデコピンの顔が描かれているの話題になった。

 そんな縁起担ぎの翔平お父ちゃんは、既に23日のレイズ戦九回二死満塁の場面で劇的なサヨナラ本塁打を放ち、史上6人目の「40本塁打、40盗塁」、所謂「40-40クラブ」入りを果たしていた。今季126試合目での到達は、これまでの最速記録である2006年のソリアーノがマークした147試合を大幅に更新するものだった。今年から、接触プレーによる怪我防止のためベースがやや大きくなり(結果、ベース間の距離が僅かながら短くなり)、試合時間短縮のため投手の牽制回数を制限する(結果、走者はスタートが切りやすくなった)という、ルール改正に助けられているとは言え、同じ条件であるはずの他の選手を寄せ付けない圧倒的なパワーとスピードの両方で、魅了して止まない。そしてこの日は、愛犬の前で1本塁打2盗塁をマークし、1998年のA-ロッド以来、史上二人目となる「42-42」を達成した。

 こうして、この日は「大谷家」の躍動が絶賛されたのだった。そして、それを予告するかのように、デコピンと翔平お父ちゃんのボブルヘッド人形が配布され、MLB公式によると試合開始7時間前から長蛇の列ができる程の人気で、先着4万人に配付されたそうだ。羨ましい。

 なお、その後、30日のダイヤモンドバックス戦で、翔平お父ちゃんは史上初の「43-43」を達成し、前人未到の「50-50」も夢ではなくなって来た。余りの上出来ぶりに、最近、冗談半分で彼の弱点探しが始まり、「お〜いお茶」の期間限定「大谷翔平ボトル」にプリントされている彼の俳句が「つまらない」と話題になった。逆に言うと、それくらい翔平お父ちゃんに弱点が見当たらないのが、そら恐ろしい・・・

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甲子園球場100年

2024-08-24 00:09:50 | スポーツ・芸能好き

 第106回全国高校野球選手権大会、夏の甲子園は、夏のオリンピックと同様、17日間の熱戦の末、京都国際が初優勝を飾って幕を閉じた。京都代表の優勝は、1956年の平安高校(当時)以来、実に68年振りだった。

 夏のオリンピックは100年振りにパリで開催されたが、その前回パリ大会の年に開場した甲子園球場が100歳になったのを記念して、この夏の大会の始球式に江川卓氏が登場した。「阪神甲子園球場開場100年の節目に際し、球場の歴史の中でも鮮烈な印象を残した選手として、始球式をお願いした」(場内アナウンスによる)ということだ。

 確かに江川(当時を振り返るときは慣例により商標として呼び捨てにさせて頂く)の印象は鮮烈だった。1973年、彼が高三になる春と夏、私は草野球に興じて甲子園を夢見る小学生で、彼の試合をテレビにかじりついて、見た。とりわけ記憶に残るのは、夏の二回戦、強豪・銚子商を相手に0-0で迎えた延長12回裏、一死満塁、フルカウントの場面だ。どしゃ降りの雨の中で投じた渾身の一球は、この日の169球目、高めに大きく外れた。実は一回戦も延長15回にもつれ込んだので、二試合目ながら実質三試合目に相当し、疲れもあったと思われる。本人曰く「ボールにはなりましたが、高校3年間のなかで最も悔いのない、最高のボールでした」。押し出しという不本意な形でサヨナラ負けを喫したのに、サバサバとした表情で甲子園を去って行く後姿を、見ているこちら側が諦め切れない思いで未練たらたら呆然と眺めていたのを、つい昨日のことのように思い出す。この日を含めて、彼の野球人生は運命の女神に翻弄された劇的なもので、彼の性格を独特なものに形作ったように思われるが、それについてはまた稿をあらためたい。

 このように表向きはあっけない幕切れだったが、水面下ではちょっと劇的なことが進行していたことが後で明らかになる。チーム事情は良くなかったらしい。一つには、春から夏にかけて基礎練習ができず、徹底的に鍛えることができないまま、あの夏を迎えていたこと。春のセンバツで、栃木の"怪物"がテレビで全国にお目見えし、4試合で60個の三振を奪って大会記録を塗り替えるなど、噂に違わぬ活躍で注目を浴びたものだから、その後、全国から招待試合に呼ばれ、週末、遠征に出ると、月曜日の授業に間に合わせるために夜行列車で栃木に戻るというようなこともあったという。もう一つには、江川を巡って報道が加熱し、チームメイトは取材攻勢に晒される江川と距離を置き、仲間を気遣う江川は孤立するなど、チーム内がぎくしゃくするようになっていたこと。夏の予選の栃木大会のチーム打率は2割4厘で、「打っても評価されないから、みんなおかしくなっていった」(捕手の小倉氏談)。最後のあの場面で、マウンドに集めたチームメイトに、江川は「真っすぐを力いっぱい投げていいか」と尋ねた。江川がこんな頼りなさそうな顔を見せたのは初めてだったという。「お前の好きなボールを投げろ。お前がいたから、おれたちここまで来られたんだろ」と答えたのは、反・江川の急先鋒と言われていた一塁手の鈴木だった。「あの瞬間、勝とうというよりも、全員がこの野球を最後までやろうという気持ちだった。それまではいがみ合いとか、いろいろあった。最後の1球でチームがまとまったというのはその通りかもしれない」(前述の小倉氏談)。

 あれから51年、投球フォームこそ当時を彷彿とさせるとメディアはゴマをすったが、ふっくらとおじさん体形で投じた始球式の球はワンバウンドでキャッチャーミットにおさまり、まるでカーブのような山なりの球は「全力のストレート」と本人も苦笑いし、「甲子園は春と夏にだけ現れる"幻の場所"。プロ野球で投げるのとは全く違う感覚です。歴史のある大会で投げられたことに感謝です」と感慨深げに語った。

 前置きが長くなった。今日のブログは甲子園球場が主役だから、その100年の歩みを足早に振り返る。

 100年前の1924年8月1日に竣工式が行われ、当時、甲子園大運動場と命名され、同年8月13日に初めての選手権大会として、第10回全国中等学校優勝野球大会が開催された。1928〜29年にかけて芝生の張り付けが行われ、同年、アルプス・スタンドが建設され、1934年に外野中央にスコアボードが完成し、現在の姿に近くなる。戦時中はその鉄傘が供出させられ、戦後は球場自体が米軍に接収されたが、1947年3月にセンバツが復活し、同年夏の大会も復活して、現在に至る。

 そんな長い甲子園の歴史で、今年の京都国際の優勝は、ある意味で画期をなすものだった。同校の前身は在日韓国人向け民族学校で、2004年度から日本人にも門戸が開かれ、在校生138名中、男子生徒70名、その内61名が野球部員で、この夏にベンチ入りしていた韓国籍の者一名以外は日本人だったそうだが、校歌は韓国語で、その中には「東海」の言葉が出てくる。勝利して慣例により校歌が流れ、日本の公共放送NHKは、自国の領海を他国の基準に従って歌う場面を生中継した。韓国語の音は分からなくても、NHKは「日本語訳は学校から提出されたものです」とお断りのテロップを表示した上で、日本語字幕に「東の海」という言葉を流した。さすがにSNS上では誹謗中傷が相次いだようだが、別のシチュエーションであったなら、あるいは仮に逆のことが韓国で起こっていたなら、もっと大変な騒ぎになっていただろう。彼らにとっても甲子園は"幻の場所"なのであり、それを奪うことは出来ない。

 私にとっても・・・小学生の頃、クラスメイトと作った即席の草野球チームは、コーチを互選する民主的な運営の手作りチームながら、個性派のツワモノ揃いで、リトルリーグのチームを相手に連戦連勝する"幻の"強豪だった(笑)。私は守備コーチ兼任で、長嶋さんに憧れてホットコーナーの三塁を守り、自称「鉄壁の三遊間」を誇るとともに(笑)、後に江川さんに憧れて投手もやった。私には甲子園の舞台は遥かに遠く、自ら甲子園に出られる年齢を過ぎると、不思議なもので自分事としての関心が薄れて、まるで"幻"の如く遠い存在となったが、夢見る野球少年や選ばれた球児たちの夢を叶える場所として甲子園球場はそこにあり、これからもずっと"幻の場所"であり続けるのだ。

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アラン・ドロン死す

2024-08-20 00:01:02 | スポーツ・芸能好き

 フランス映画を代表する世紀の二枚目スター、アラン・ドロン氏が亡くなった。享年88。

 今は映画と言えばハリウッドだが、かつてはアンニュイな雰囲気を醸し出すフランス映画も人気があった。中学生になって突然、洋画に目覚めた私は、なけなしの小遣いをはたいて「スクリーン」なる月刊誌を毎月購入し、憧れの銀幕の大スターのリラックスしたプライベート映像をうっとりと眺めては溜め息をついたものだ。あの年頃にとっては永遠のヒーロー、ヒロインだから、いざ訃報に接すると、それだけの時間が経過していることを忘れて、ぎゅっと胸が締め付けられるような喪失感を覚える。あの頃の感性が蘇り、そうさせるのだろう。

 とりわけアラン・ドロンは(と、商標として、愛情を込めて呼び捨てにさせて頂く)ただの二枚目俳優ではない。透き通るようなブルーの瞳は、その決して幸せではなかった生い立ちの影を纏い、哀しみと危険な憂いをたたえて、男なのに色気があって美しいと思わせる唯一無二の男優だった。ルネ・クレマン監督の代表作「太陽がいっぱい」(1960年)では、殺害した金持ちの友人になりすまし、財産と女を手に入れる貧しい孤独な青年を好演した。イタリアの浜辺で太陽をいっぱいに浴びて完全犯罪に酔いしれて一息つくラストシーンは、ニーノ・ロータの甘美なメロディとともに、映画史上に残る名場面であろう。また、「地下室のメロディー」(1963年)ではジャン・ギャバンと、「ボルサリーノ」(70年)てはジャンポール・ベルモンドと、そして「さらば友よ」(1968年)では私の好きなチャールズ・ブロンソンと共演した。

 私生活でも、危ない影が付き纏った。1968年、ボディーガードだった男性が他殺体で見つかり、フランス政界を巻き込むスキャンダルに発展した。今年2月には、彼の自宅から無許可で所持していた大量の銃が押収され、話題となった。晩年、同居していたヒロミという日本人女性を巡って、彼へのモラル・ハラスメントなどがあったとして“お家騒動”が勃発した。そして多くの女性と浮名を流したが、中でも1964年、私の大好きなパリジェンヌ、「個人教授」(1968年)のナタリー・バルテルミー (本名フランシーヌ・カノヴァ 、後のナタリー・ドロン、実際にはイタリア=スペイン系のフランス人で、仏領モロッコ出身)と結婚し、その後、破局を迎えた。二人は子供時代が不遇で似ており、強く惹かれあったと言われる。

 映画館でリアルタイムで鑑賞したわけではなかったが、辛うじて、テレビの●曜ロードショーで見かけるほどには、すれ違った。私の人生で、洋画なるもの、フランス人なるものの深い印象を残してくれたことに感謝したい。合掌。

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終戦から79年

2024-08-16 20:03:42 | 日々の生活

 パリ五輪の熱戦を終えて帰国直後に開かれた会見で、今やりたいことは何かと聞かれた早田ひな選手は、「アンパンミュージアムに、ちょっとポーチを作りに行きたい」と、地元の福岡の施設を取り上げてほっこりさせたのに続けて、「あとは、鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、そして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることというのが、当たり前じゃないというのを感じてみたいなと思って、行ってみたいなと思っています」と、意外な場所を挙げたのが話題になった。

 早速、好意的な反応がある一方で、早田選手がアカウントを開設したばかりの中国weiboには否定的なコメントが殺到し、人民日報系のスポーツチャイナや中国新聞社はSNSで、早田選手をフォローしていたパリ五輪の二人の中国人メダリストがフォローを外したことを伝えた。一種の(いかにも中国的な)ポピュリズム的な反応に、中国の言論空間の息苦しさをあらためて感じ、中国人メダリストを気の毒に思う。ついでながら、かの国では、石川佳純さんと張本智和選手がテレビ番組の企画でパリ五輪前に渋谷区の東郷神社を必勝祈願に訪れていたニュースまで掘り起こされ、物議を醸した。一種のゲーム感覚であろうが、党の方針に沿うとは言え、このような言論統制は、党にとって諸刃の剣で、時として行動を制約することになりかねない非生産的なことなのだが、懲りることはないようだ。

 日本でもステレオタイプな反応が見られた。社会学者の古市憲寿氏は、「特攻があったから今の日本が幸せで平和だっていうのは違う」とした上で、〝悲劇的な話〟として終わらせずに、二度と特攻のようなものが起こらない社会づくりや平和について考える必要があると訴えたそうだ。早田ひなさんを批判する趣旨ではなく、「特攻隊の話題が出てくるたび、都合良くその歴史を美化する人を批判してるんです」と言い訳される通り、自らのイデオロギー的な主張を伝えたいだけで、話は噛み合っていない。これも、個人の趣味とは言え、別の意味で窮屈な言論空間と言えなくもない。

 もっと素直に反応できないものか。知覧特攻平和会館の受け止め方を拾ってみよう。「早田選手の発言でより多くの皆様に当会館のことを知っていただく機会をいただき大変ありがたい」「特攻の史実を知っていただき」「生きていることのありがたさや、命の尊さ、平和のありがたさを感じていただければ幸い」。

 知覧は私の生まれ故郷の隣町で、万世特攻平和祈念館に至っては地元の施設なのだが、三歳のときに上阪し、(本籍は残したまま)40年も離れたままで、両施設のことは心に思うばかりである。素直に、静かに、訪れたいと思う。

 あの(玉音放送の)日も、蝉は喧しかったのだろうか。

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オリンピックに見るフランスらしさ

2024-08-13 20:52:13 | スポーツ・芸能好き

 オリンピックが17日間の熱戦を終えて閉幕した。人間の肉体の限界に挑み、勝って涙、負けて涙の選手たちの躍動にもらい泣きした単純な私は、目も鼻もずぶずぶになりながら、せせこましい日常で濁った魂が多少なりとも浄化されたかのような爽快感を覚えたものだ。しかし終わった今となっては、まだ暑い日が続くというのに、心に秋風が吹き抜けるかのような一抹の寂しさを覚える。メダル獲得の有無にかかわらず、選ばれて参加された選手の皆さんに感謝の気持ちがあるのみである。

 今回は、100年ぶりにフランス・パリでの開催となった。「史上最もサステナブルな大会」を謳い、温室効果ガス排出量を従来の大会から半減させる意欲的な目標を掲げた。なるべく既存の施設を使うなど、理念には大いに賛同するが、あのセーヌ川でトライアスロンを実施するとは思わなかったし、100年前のパリ五輪で初めて導入されたという選手村システムに皺寄せが行き、選手には頗る評判がよろしくなかったようだ。まず、食事は植物由来のものが多く、まるでビーガン食のようだと話題になった。地産地消にこだわり、卵、肉、牛乳はすべてフランス産というのは理解するが、動物性たんぱく質を摂れる食品、端的に肉が少なく、これじゃあ元気が出ないと、栄養バランスに悩む選手が多かったようだ。また、部屋にエアコンが設置されていないことも話題になった。涼を取る手段は一台の扇風機と地下水を利用した床下冷房のみで、大会期間中のパリは朝こそ涼しいものの、日中は30度を超える日が多く、エアコン慣れした先進国の選手にはさぞ凌ぎ辛かったことだろう。簡易なエアコンを設置した国もあったらしい。

 高い理念を掲げ、誇り高く行動するフランスらしいと私は思う。

 かつてフランス革命を、ドーバー海峡を挟んだ対岸から眺めていた、保守主義の父エドマンド・バークは、急進主義の危うさに警鐘を鳴らした。それはイギリス経験主義と対比的に語られる大陸合理主義の哲学の祖デカルトを生んだフランスで、論理に溺れ熱狂する人々の危うさでもある。今般のオリンピックに無理矢理、結びつける必然性はないのだが、再生可能エネルギーへの傾斜が、ロシアのウクライナ侵攻で冷や水を浴びせられたように、過ぎたるは及ばざるが如し、理想と現実と、どちらか一方に偏るのは危険で、バランスが大事だと思っているに過ぎない。

 いや、そんな邪推より、単に他国の選手の体調を崩す遠謀深慮だったかもしれないと言った方が、此度のオリンピックでは説得力があるかもしれない(笑)

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ヒロシマとナガサキ

2024-08-11 08:30:04 | 時事放談

 広島と長崎を漢字ではなく、ヒロシマ、ナガサキとカタカナで書くと、単なる地名であることを超えて、世界で唯一の原爆被爆地という特別の装いを帯びる。この季節は、特別な思いにとらわれる。

 今年は更に特別な事情が加わった。長崎市が、平和祈念式典で不測のセキュリティ・リスクを考慮し、イスラエルを招待しないと発表したことに、G7の6ヶ国の駐日大使が反発してご本人の出席を見合わせたからだ。

 私の知人は三国干渉の頃と変わらないじゃないかとムッとし、私も当初は踏み込んだ嫌がらせだと憤慨したものだが、調べてみると、長崎市は、駐日パレスチナ常駐総代表部には式典実施への支障はないと判断して招待状を送り、一等参事官が出席しているのを知って、翻意した。長崎市長は自民党の推薦を受けていたはずだが、今回の対応は不適切だったのではないか。

 広島市と長崎市のどちらもウクライナを招待しロシアとベラルーシを招待しなかったのは同じだが、イスラエルとパレスチナを巡っては正反対の対応となった。広島市はイスラエルを招待してパレスチナを招待しなかったのに対し、長崎市はパレスチナを招待してイスラエルを招待しなかったのである。そりゃ、G7の6ヶ国じゃなくても、疑問に思うだろう。この辺りが明確に報道されなかったのも問題だと思う。多くの報道で見られたように、イスラエルをロシアと同じ位置付けにしたというレトリックの方が受け入れられやすかったかもしれないが、要するにエマニュエル大使らは、長崎市がパレスチナを招待する一方、イスラエルを招待しないと決めたことにより、式典が政治化されたとして、参加を見合わせたのだった。

 報道では往々にして少数意見が大きく扱われて見間違うことがあるが、私を含め多くの日本人は広島市の対応を支持するだろう。それはイスラエルが今回(昨年10月)に限っては先制攻撃を受け、一般市民が殺害された上に、人質を取られたからだ。勿論、イスラエルの反撃は、自衛権正当化の三要件の一つ、必要な限度にとどめること(相当性、均衡性)を逸脱しているが(因みに残りの二つの要件は、急迫不正の侵害があること(急迫性、違法性)と、他にこれを排除して国を防衛する手段がないこと(必要性))、戦争という異常心理状態で節度を保つのは容易ではない。また、ガザで無辜の市民に被害がでているのは事実だが、ハマスの戦闘員が非戦闘員たる市民を盾にし、あるいは市民の中に紛れ込んでいるため、イスラエルは市民を逃すために一定の時間的猶予を与える配慮をした上で攻撃しており、ロシアの無差別攻撃とは比べられない。更にこれまでの近隣への拡張主義的なイスラエルの姿勢は問題とされるべきだが、今回の人道的問題とはとりあえず切り離すべきだろう。昨年まではイスラエルも式典に招待されていたのだから。

 核兵器廃絶の願いは全ての日本人に共通するが、他方で、中国・ロシア・北朝鮮という核保有国に囲まれ、アメリカの核の傘に守られた日本が、NATO諸国やカナダ、オーストラリア、韓国とともに核兵器禁止条約に参加しないでいるのは、報道ではダブル・スタンダードと非難されようが、日本人が保つ現実感覚だろう。今回の事案でも報道が偏っている先には、今なおヒロシマとナガサキへのアンビバレントな心情があるせいだろう。それは日本人が先の戦争を今なお総括できないでいることと関係している。

 ヒロシマにまつわる有名なエピソードがそこを突いている。かつて、小野田寛郎・元少尉は戦争終結を知らず、戦後29年間にもわたってフィリピンのルバング島で戦闘状態を解除せず、1974年になってようやく帰国を果たした。後に戦友とともに広島の平和記念公園を訪れ、慰霊碑に刻まれた言葉「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」を見て、「これはアメリカが書いたものか?」と尋ねた。戦友は「いや、日本だ」。続いて小野田氏が「ウラの意味があるのか? 負けるような戦争は二度としないというような・・・」と尋ねると、戦友は黙って首を横に振った。戦前の軍人魂と片付けるのは、た易い。戦後29年経った日本に舞い戻った浦島太郎の小野田氏は、「人間の誇りまで忘れて経済大国に復興した日本に無条件降伏させられているのだ」(氏の著書から)と感じ、程なくして日本を離れ、新天地ブラジルに渡った。小野田氏の問いかけに、私たちは今なお黙って首を横に振るばかりで、それ以上の言葉を見出せないでいる。

 当事者のアメリカは、戦争を終わらせるためとして原爆投下を正当化し、心の平穏を保とうとしてきた。故・安倍さんはオバマ氏との間で、ヒロシマと真珠湾への首脳の相互訪問を実現したが、安倍さんはバーターではないと明言されている。真珠湾攻撃は、宣戦布告の手交が遅れて、アメリカからは騙し討ちだと非難されるが、戦後の少なくない戦闘行為に宣戦布告があったかどうか寡聞にして知らないし、当時、日米間には友好的な空気はもはやなく、交渉は決裂していたし、学術的には、行き過ぎた制裁は武力行使を止められない、所謂「抑止」の失敗事例と捉えられるし、軍事施設を狙った、それ自体は合法的な攻撃であって、ヒロシマやナガサキへの原爆投下や日本中の主要都市への絨毯爆撃のような戦争犯罪とは区別されるべきものだからだ。

 暑い夏のさなか、8月6、9、15日と、毎年、脳裡をかすめるトラウマである。一部の(しかし声が大きい)リベラルなメディア報道と、近隣国による密かな世論戦(とまで言うと陰謀論に扱われかねないが 笑)と、内外から撹乱されて複雑な状況の中で、核兵器禁止条約への対応と同様、私たち日本人自身の良識が問われる問題である。

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オリンピックのスポーツと「道」の間

2024-08-04 05:53:41 | スポーツ・芸能好き

 柔道混合団体・決勝で、前回・東京大会で銀メダリストの日本は金メダリストのフランスと再戦し、3-4で敗れて、二大会連続の銀メダルに終わった。

 柔よく剛を制すとはよく言ったもので、第二試合では髙山莉加が一階級差、第四試合では角田夏実が二階級差をものともせずに勝利し、3-1まで追い詰めたが、続く第五試合では阿部一二三が一階級上のメダリストに敗れるなど、3-3でゴールデンスコアによる代表戦にもつれ込み、ネットでは仕込みがあったのではないかと騒がれたデジタル・ルーレットの抽選でよりによって90キロ超級が選ばれ、本戦に続き斉藤立がリネールと再戦し、6分26秒の死闘の末に地元フランスの英雄に屈し、リベンジはならなかった。

 この大会では(でも、と言うべきだろう)、男子60キロ級準々決勝の永山竜樹や、男子73キロ級準々決勝の橋本壮市など、不可解な判定が続出し、SNS上では“誤審ピック”なる言葉も出て来た。日本人ばかりでなく、イタリア柔道連盟は、母国代表選手らが受けた判定を不服として国際柔道連盟に正式抗議した。人間のなすことだから完璧ではないが、審判は絶対である以上、選手たちの真摯な戦いに応えるために厳正であって欲しい。

 他方、男子90kg級決勝の村尾三四郎のように、ルールはルールとは言え、微妙な判定には不満が残った。男子100キロ超級準々決勝のリネール対ツシシビリ戦では乱闘寸前の騒ぎになり、男子81kg級の表彰台では金メダリスト永瀬貴規を押しのける形で銅メダリストが前に出て目立つなど、柔道「らしからぬ」態度が物議を醸した。私たち日本人は、どうしても柔道は武道との思いが抜けきらないし、戦う選手たちも、ポイント狙いの柔道を嫌ってリスクを負ってでも一本を取るために組み合うことが多いと言われる。翻って、日本の大相撲は様式美を尊ぶ伝統芸能であって、格闘技と勘違いして横綱らしさに欠けた朝青龍や白鵬を批判するのは正当だと思うが、柔の道がスポーツの祭典オリンピックの競技種目に採用された以上は、判定や柔道着に関するルールにしても、それに臨む選手の態度にしても、「道」から外れてスポーツ「らしく」なることに、文句は言えない。

 それでもなおスポーツの国際舞台でも「道」を極めようとする日本人柔道家は、言ってみれば勝手なのだが、私はそれを美しいと思うし、本家本元の日本としては、それでも良いと思うし、それでも勝つ彼ら・彼女らを誇らしく思う。

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