風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

パラダイム転換(上)人を活かす

2010-12-30 22:22:51 | 日々の生活
 かつてペナンに駐在していた時の駐在仲間だった同僚が、今月限りで会社を辞めました。まだ30代の今こその決断だったのだろうと思いますが、社費でMITに留学し、MBAを取得していた彼を、結局、会社は活用出来なかったようです。
 私の周囲を振り返ってみると、かつて社費留学をして今でも会社に残っている知人はごく僅かで、殆どが会社を去り、会社に見切りをつけて辞めてから大学院に進学したツワモノもいます。実際、こうして海外の大学院に留学する志の高い社員がMBAなどを取得して辞めてしまうのは、私の会社に限った話ではなく、どうやら多くの日本の企業に共通する悩みのようで、留学で研究するテーマを業務に近いものに絞る、といったような企業の自衛的な動きが報じられたこともありました。そもそも海外の大学院を選ぶこと自体に海外志向あるいは日本的経営とは違うところに働く場を求める強い志向を認めることが出来るわけで、社内に留め置くのは簡単ではなさそうです。しかし現状に満足しない上昇志向や変化への志向が強いのもまた事実であり、そうした社員を核に、同質性の強い社内組織に新しい風を吹き込み、刺激を与え、変化を起こすことにもっと期待してもよいように思うのですが、日本の企業は社員教育の領域でも、目先の「費用投下」と回収に拘って、中・長期的な「投資」とみなす余裕はなくなったのでしょうか。
 本来、MBAのような経営の科学は、例えばアメリカでも、いったん企業で数年勤務した後で、大学院に進んで勉強し直す対象ですが、MBAを取得すると職種転換したり給与水準が上がったりする通り、MBAホルダーはマネジメントのポテンシャルがある即戦力として扱われます。ところが、日本の企業社会では、苦労して取得するMBAがキャリアとして余り評価されず、また元の職場や職種に戻って、同じような給与水準で元の仕事を続ける例が多いため、卒業後に活躍する外国人の同級生の話を聞くと、自分も活躍の場を外に求めたいという思いが募るであろうことは想像に難くありません。結局、中途採用がまだ少なく、大低は新卒で採用して徒弟制度の名残りの中で育て上げる日本の企業風土の中で、同じ技能に対して企業の枠を越えて給与レベルが変わらないような、技能毎に給与相場が決まるオープンな労働市場が成熟していない、企業毎に閉塞的な日本の雇用環境に問題がありそうです。
 同じ問題が、学生の就職率が統計を取り始めて以来最低を記録して、就職氷河期からなかなか抜け出せないという文脈の中で、大きくクローズアップされました。人生における貴重な学生時代に、腰を据えて学問に取り組むことなく、大学院への進学も避け、海外留学・遊学する暇も惜しんで、就職に有利と見なされるような資格取得に勤しむといったような昨今の学生気質が紹介されるにつけ、暗澹たる気持ちになります。目先の就職という課題に囚われるばかりに、その後の人生の基盤を形造るリベラルアーツや海外の異文化に触れる機会が失われるのは、実に惜しい。これは学生にとっては自己防衛本能のなせるワザで罪があるとは言えません。むしろ責められるべきは、学生に十分な就労の機会を提供できない企業人や政治家たるオトナの方です。11月に雇用対策法に基づく「青少年雇用機会確保指針」(=「青少年の雇用機会の確保等に関して事業主が適切に対処するための指針」)が一部改正され、事業主は、新卒者の採用枠に卒業者が卒業後少なくとも3年間は応募できるようにすべきものとすることが新たに盛り込まれましたが、付け焼刃の感が拭えません。こうして、日本の経済基盤が、人材という足元から、脆くも崩れつつあるような気がしてなりません。
 最近、日経新聞に興味深い数字が掲載されていました。トヨタの来年度の販売計画は770万台、内、国内販売は130万台、国内生産は310万台というものでした(記憶が正しければ)。プラザ合意以降の1980年代後半の急激な円高や、1990年代以降のグローバリゼーションの進展、更に2000年代の新興国市場の立ち上がりの中で、生産の海外移転を進めて来た日本ですが、トヨタは流石に海外売上比率が高いこと、しかし今なお国内需要を満たして国内市場に倍する国内生産を輸出に振り向けていることが、私にはちょっとした驚きでした。しかし、今の円高は企業努力ではとても克服し得ないレベルであり、更にEVが主流になれば、もはやトヨタのものづくりのノウハウが十分に活かせなくなり、他のエレクトロニクス製品同様、世界の工場たる中国や新興国にその地位を脅かされる可能性があります。
 グローバリゼーションと呼ばれる現象は、ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に行き来し、あらゆるレベルで競争がグローバル化すること(個人や企業はもとより、都市間や国家間の競争もあります)を言い、その本質は、グローバルな市場と近代国民国家との間の相克にあります。人類はまだそれをアウフヘーベンする枠組みも知恵も産み出し得ていません。
 その過渡期の現代にあっては、企業だけが富めば良いということはありませんし、ある都市だけが、あるいは国だけが豊かになることもまた不可能です。さながら複雑な方程式のようであり、その全てのレベルをそれなりに満足させるのは、生半可ではありません。そして日本は、どのレベルの競争にも後れを取りつつあります。だからと言って、アメリカやオーストラリアといった移民社会の自由を目指せと言うつもりはありませんし、中国のようなガチガチの管理社会で勝ち組と負け組の緊張を内に抱えながら、国家としてはまがりなりにも成長を続けるというのも、もとより無理があります。その間のいずれかにあって、同質ながら高品質で厚みのある日本人=人材をベースに考えざるを得ませんが、固定的な社会を260年にわたって続けた歴史があり、相応の外圧がなければ自ら変れないほど我慢強い耐性をもった国民性です。守るべきものと変えなければならないものを見極めながら、数百年に一度というパラダイム転換を、乗り切ることが出来るのかどうか。なんだか閾値に近づきつつあることを感じた2010年も、あと一日になりました。
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東京島

2010-12-27 00:42:44 | たまに文学・歴史・芸術も
 この夏に映画化された桐野夏生さんの小説を、先日、アジア出張の移動の機内で読み継ぎました。映画「東京島」のキャッチコピーは、「あなたなら、どうする? 助けの来ない無人島に、男23人と、たったひとりの女。」(因みに原作では男35人)という、無人島への漂流譚で、ひもじいサバイバル生活が綴られるものですから、私の出張中の食事が有難く美味しく感じられたのは、もっけの幸いでした(笑)。
 もとは短編読み切り予定だったものが、結局、連作としてほぼ4年間にわたり計15回、断続的に雑誌「新潮」に連載されて一冊の本になったものだそうで、確かに章ごとに完結し、それぞれ語り手が変わるのはまだしも、通しで読むと時系列が乱れて分かりにくく、継ぎ接ぎ感が否めません。そのせいか、これまでの桐野さんの作品と比べると、続きが気になって一気に読みたくなるような高揚感がなく、私にとって、ぶつ切りになっているのが、却って移動時間の読書にちょうど良かったのですが、アマゾンのカスタマーレビューでは評価が分かれています(本日時点で、星5つ23、4つ26、3つ39、2つ34、1つ22)。それでも、登場人物を丁寧に描き分け、主人公の女性としての“性(サガ)”の逞しさと異様さ、その心理の変化を追う筆の巧みさは桐野さんらしく、一遍の小説の体を成しているのは見事と言うほかありません。
 この小説は、戦争末期に実際にあった「アナタハンの女王事件」をモチーフに、時代設定を現代に置き換えたものだそうです。実際の事件では、若い女性を巡って男性が争い、謎の死が続出して、当初32人いた男性が7年後に救出された時には19人まで減るという、まさに小説を超える猟奇性があったようですが、桐野さんの小説では、肥満気味の40過ぎの中年女性を主人公に据え、取り巻く男性を現代日本を代表する草食男子にすることによって、猟奇性の要素を抑え、脱出つまり生への執着の視点での女性と男性の対比や、生活力の視点での日本人と中国人の対比や、文明生活と原始生活の対比を、際立たせます。
 かつて東京砂漠という歌がありましたが(古い!)、東京島というタイトルは象徴的で、島の要所要所をコウキョ、オダイバ、ブクロ、シブヤ、ハラジュクなどと名づけ、それぞれの文化を体現する若者たちが棲み分ける様は、一見、無人島生活における文明社会・日本に対するノスタルジー的行為と映りますが、その実、薄っぺらな文明の虚飾を剥ぎ取った後の現代日本の社会そのものでもあり、文明の脆さを思わせ、恰好の寓話を成しています。私にとって久しぶりに読んだ小説でしたが、桐野さんらしい鋭い風刺が効いて刺激的で、十分に楽しむことが出来ました。高揚感や作中人物への感情移入がなくて突き放したところがある分、星1つ減らして星4つ、かな。
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プロフェッショナル

2010-12-25 11:13:32 | スポーツ・芸能好き
 先日の報道ステーションで、サッカー審判員の西村雄一氏が紹介されていました。いつもにも増して日本代表が活躍した名場面がいくつも浮かぶ今年のFIFAワールドカップでしたが、準々決勝(オランダ対ブラジル戦)を含む4試合で主審を務めたのは日本人で4人目、準決勝(ウルグアイ対オランダ戦)に続き決勝(オランダ対スペイン戦)でも第4審判員を務め、決勝の審判団に名を連ねたのは日本人として初めての快挙だそうです。サッカー音痴の私は西村氏の存在を全く知りませんでしたが、もう一人の日本代表です。
 調べてみると、ただでさえドイツ-イングランド戦を含め「誤審」が問題となった今回のW杯で、そもそもサッカーがそれほど強くない国の審判として信頼性に懐疑的な目を向けられる中で、西村氏の冷静な判断は常に高い評価を得ていたようでした。
 とりわけ西村氏の審判振りを際立たせた場面として、準々決勝のオランダ-ブラジル戦73分、ブラジルのフェリペメロ選手に対してレッドカードを出した場面を、報道ステーションは取り上げていました。フェリペメロ選手が倒れた選手の太ももを故意に踏みつけたのは、超スローのビデオ映像から明らかでしたが、広い競技場で目まぐるしく試合が流れる中の一瞬の出来事です。いざグランドに立つと、選手が入り乱れて視界が遮られることが多く、実際にフェリペメロ選手のスパイクそのものは西村氏の位置からは見えなかったと言います。それでも躊躇なくレッドカードを出したのは、踏み出した足が着地せずに戻ったところを確認したからだと淡々と述べておられましたが、あらゆる状況を想定して準備ができていた上に試合に集中していたからこそ成しえた神業でしょう。当時のドイツ公共放送「ARD」の実況アナウンサーは、「ニシムラは反則をよく見ていた」と絶賛したそうですが、反則を見ていたというより状況を判断したのでしょう。オランダ代表のファン・ボメル選手は、試合後のインタビューで、「両チームが審判と一緒に試合をした」と西村氏を高く評価したそうです。審判はMF並みに一試合で12Km動くそうで、そのための鍛錬を常日頃から欠かさず、審判はともすれば敵のように見られるけれども、選手と一緒にゲームをつくる存在であり、審判は選手のためにあることを信念とする西村氏には、これ以上ない褒め言葉でしょう。当のフェリペメロ選手からも、試合後、ブラジル・チームの関係者の手を通してユニフォームが贈られてきたそうですが、反則を犯して退場した選手からも一目置かれたのですから、立派です。
 月曜日のNHKプロフェッショナル・仕事の流儀では、長谷川穂積選手が登場しました。強い相手との対戦にこだわり続ける強い闘争心と、彼の才能・・・相手の出方を読む勘に優れ、ぎりぎりのところでかわす天性のディフェンス能力と、飛び抜けたバランス感覚ゆえに可能とされる高速連打、スピードを出すために肩から先の力を抜いてムチのように腕をしならせると言われる左ストレート・・・を私はこよなく愛します。しかし、番組で興味を惹いたのは、トレーナー・山下正人氏の存在でした。ボクサー経験が全くない兵庫県警・暴力団対策刑事から転身し、トレーナーとして長谷川選手を世界チャンピオンに育てあげ、今はジムを経営しています。
 当初、パンチをミットで受けようとしても、速くてタイミングが合わなかったと言い、海外トレーナーの練習方法をビデオで研究したり、各地の試合に出向いて他の選手の練習を見て技術を盗んでは、トレーナーとして必要な技術を習得していったそうです。週末には長谷川選手をお好み焼き屋へ連れ出して、何をしてほしいか尋ね、刑事として容疑者の心理を読むことで磨かれた洞察力で、「相手のくせをすぐに見抜く」と長谷川選手からも信頼され、所属したジムと方針の違いから引退を仄めかした長谷川選手のために、とうとうジムを作ってしまいました。
 スポットライトを浴びるのは常に選手であり、その栄光は、多くの裏方の人たちの努力によって支えられている・・・などと文部省推薦文めいたことを書きたいわけではありません。人それぞれの生き様が面白い。この齢になってようやく、信念に殉じる生き方が潔く美しい、と、しみじみ思います。まあ、哲学者シオランが言うように、こうしたことは実は二十歳の頃に既に頭では分かっていたことですけどね・・・
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さかなクンの快挙

2010-12-23 12:15:11 | 時事放談
 クニマスが70年ぶりに発見されたことが報道されたのは、つい一週間ほど前のことでした。ニュースを紐解いてまとめると、きっかけは、「さかなクン」が知人の京大・中坊教授から、田沢湖の固有種で絶滅したとされるクニマスの姿を再現するイラストを描くことを依頼されたことで、ホルマリン漬けの標本では、ひれやウロコがわかりにくいので、「ヒメマスと比べたら」との教授のアドバイスに従い、知り合いの漁師に頼んで各地のヒメマスを取り寄せたところ、山梨県・西湖から特徴が違う魚が届けられたため、教授のところに持ち込んで遺伝子分析までして調べてもらったところ、ヒメマスと交雑した亜種ではなく、クニマスそのものであることが確認された、というものでした。
 魚類学のことはズブの素人で、クニマスと言われても聞いたことがなく、環境省のレッドリストに絶滅種として記載された魚が再発見されたのは初めてだということの重大さに至っては評価のしようがありません。ただ、その快挙にタレントの「さかなクン」が関与していたことに驚き、その「さかなクン」が京大教授を知人にもつ東京海洋大学客員准教授だったとことに二度驚き、魚類学上の新発見とタレントの掛け合わせでニュース・バリューが増したのだろう程度にしか思っておらず、そう言えば「さかなクン」は、ひれやウロコの数まで拘りながら正確な絵を描くのが上手だったことを思い出し、今回もその拘りが新発見に繋がったことを思い、好きこそものの上手とはこういうことかと、些か長屋のご隠居さんのように、半ば達観して感心しつつ、半ば他人事のように聞き流していました。
 ところが今日になって、今度は天皇陛下の口から「さかなクン」の名前が出てきたことに、三度驚かされました。この一年を振り返って、社会問題の中から印象に残ったことを語る中で、「クニマス発見に大きく貢献され、近くクニマスについての論文を発表される京都大学中坊教授の業績に深く敬意を表するとともに、この度のクニマス発見に東京海洋大学客員准教授さかなクン始め多くの人々が関わり、協力したことをうれしく思います」と、快挙を称えるとともに、12歳の時に、大島正満博士の著書「少年科学物語」の中に、田沢湖のクニマスは酸性の水の流入により、やがて絶滅するであろうということが書かれてあるのを読んだ、という思い出話にまで言及され、陛下の魚類学者らしい関心の高さを示されたのでした。
 実は天皇陛下と「さかなクン」は知らない仲ではなかったことが、産経新聞のニュースで分かりました。昨年10月、東京海洋大学品川キャンパスで、陛下自ら会員として活動している日本魚類学会の年会に、あくまで会員の一人の学者として出席された際、「さかなクン」も同席し、夕方の懇親会で、周囲に促された「さかなクン」が陛下の近くに移動し、初対面が実現したそうです。僅かに2分弱、懇親会後の取材で「さかなクン」は「緊張しました~」を連発し、陛下とのやり取りはよく覚えていないようでしたが、関係者によると、「さかなクン」が学会の資料に魚のイラストを寄せたことを話すと、陛下は「あなたが描かれたんですね」と応じてページをめくられたといい、子供たちに魚の魅力を伝える活動をしていることを「さかなクン」が言うと、陛下は感心されていたそうで、その間、トレードマークのハコフグの帽子をかぶったままだったそうですから、陛下もさぞ心和まれたことでしょう。
 芸は身を助く、とは言い過ぎですが、天皇陛下に親しくお言葉をかけられ、喜寿の誕生日会見で名指しまでされて、男をあげたなあ(というのも言い過ぎですが)と、これまた長屋のご隠居さんのように、半ば羨ましく、半ば他人事のように感心したのでした。「さかなクン」の顔がますます魚に似てきたように思うのは、私だけでしょうか。
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在日本アメリカ大使館

2010-12-21 23:12:59 | 日々の生活
 先日、港区赤坂一丁目にある在日本アメリカ大使館を訪問しました。これまで在外日本総領事館(ボストン、サンフランシスコ、ペナン、シドニー)は、子供の義務教育期間の教科書受け取りやパスポート更新のために訪れたことがありましたし、ペナンでは、現地会社のイベントのためにハッピや鯉のぼりや日本の玩具を借りに行ったこともありましたが、親しくお付き合いするのも、海外にいてもそこは日本だから。在日外国大使館・領事館を訪れるのは初めてことです。
 言わばグァムやサイパンよりも日本に近い、と言うよりも、日本の中にあるアメリカ合衆国は、一体どんな様子かと言いますと・・・溜池山王駅を降りて、徒歩数分、大使館の壁に沿って歩みを進めようとすると、警備員(警官?)に呼び止められます。テロの危険が付きまとう昨今、用も無いのに大使館には近づくな、と言うわけです。厳重なゲートをくぐり、建物に入ると、玄関には空港の搭乗口のように金属探知機があり、携帯電話は電源を切った上で取り上げられます。
 この敷地は日本の国有地で、賃貸料(1983年から1997年までは約250万円/年)を1998年以降支払っていないことが話題になりました。1997年を期限とする賃貸借契約に代わる新たな変更契約が期限までに合意に達しなかったからだと言われますが、大幅な値上げには応じられない根拠としてアメリカ側が持ち出したのは、1896年に交わした契約書で、値上げの規定はなかったと言いますから、恐れ入ります。現在(2008年~2012年)は、1万3千平方メートルの敷地に対し、年1千万円の賃貸料を支払うことで合意に達しているそうですが、一等地でこの値段は格安ですね、羨ましい。
 アメリカ大使館に職員として勤務する日本人女性は、有給休暇の消化を強要され、早々と先週木曜日から年末年始の休暇に入ってしまいました。この敷地の中では、制度や習慣もアメリカで、これもまた羨ましい。
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市川海老蔵

2010-12-18 00:13:19 | スポーツ・芸能好き
 最近はNHKもワイドショー化したものだと、以前、別のブログに書きました。ワイドショーは一種の井戸端会議と言えましょう。最近は井戸がないので、井戸端会議という言葉も死語で、それがワイドショーだったり、あるいは井戸端の代わりに公園やスタバやホテルの喫茶店や白金台のイタリアンだったりするのは時代の流れで、いずれにしてもゴシップ好きは変らないと言うことです。
 それが民放だけでなくNHKもワイドショー化しているということは、言わば一億総“井戸端会議”化しているとも言え、なんだか最近の日本人の内向きで海外に出たがらない引き篭もり状況を連想させて、やや憂鬱になります。そしてこの一億総“井戸端会議”化がもつ、図式を単純化し平準化し薄っぺらにする圧力のようなものに、やや違和感を覚えずにはいられません。
 最近のワイドショーで最もホットな話題は、表題に書いた市川海老蔵の暴行事件です。天下の(!)NHKも詳細に報じていたのには驚きを禁じえませんでしたが、これもただの芸能界ではなく、伝統芸能の世界だからでしょう。市川海老蔵は、本人に人気があるとか重要な人物だからというわけでは全然なく、ただのスケープゴートとして、NHKが庇護する相撲界と言い、歌舞伎界といい、伝統的に裏の世界との繋がりがある伝統芸能の世界にあって、現代の井戸端会議の格好の標的になっているわけです。
 こうした表と裏の世界は、日本では持ちつ持たれつ、付かず離れずで、社会の陰の部分(金融や娯楽産業など)を構成し、共存してきましたが、他の先進国に倣って、法規制が強まるにつれ、また経済・社会構造が成熟するにつれ、一部は完全に潜伏しつつ、その他のかなりの部分は境界が曖昧になり、表に染み出して表面上は見分けがつかなくなりました。
 現代の井戸端会議は、現代に残された数少ない裏の世界にも容赦なく光を当て、面白おかしく取り上げて、その実、裏の世界との縁を断ち切る一種のキャンペーンのような意図を隠しているように見えますが、結局、裏の世界が完全に潜伏するか表に染み出して見分けがつかなくなるかを推し進めるだけで、人間の心に闇がある限り、また社会を構成する中では光が当たらない闇が出来る限り、簡単に消えてなくなる類いのものではありません。むしろ潔癖さを追求し、正義感ぶって表面を取り繕ってよしとする現代の日本の風潮には、大衆化という一言では片付けられないような、ある種の脆さや危うさを感じてしまいます。
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アジア・続

2010-12-15 23:42:13 | 永遠の旅人
 前回に続いて、アジア出張の落穂拾いです。
 心理的な日本への近さ、ということで判断基準となるのは、日本食レストランがあるか、NHKや日本語新聞を見ることが出来るか、日本語ミニコミ誌があるか、といったところでしょう(逆に日本から遠い、あるいはアジア的と感じるのは、町並みや食の清潔さに乏しく、交通が乱雑で、怪しげな対面販売がまかり通ることと言えましょうか)。その意味では、海外在留邦人数の公式統計(外務省領事局政策課、2009年10月現在)通りで、バンコク(3.3万人、世界第4位)、シンガポール(2.3万人、同7位)、マニラ(1.0万人、同19位)の三都市は、居酒屋や日本人が経営するヘア・サロンまでありますし、ホテルのテレビでNHK衛星の日本語放送を見ることが出来ますし、朝、ホテルの部屋に日本語新聞が届けられていて、現地での生活に不自由は少ないだろうと思われます(同時にアジア的でもあります)。
 しかしニューデリーは地理的な距離以上に日本から遠いようです。ホテルで見たNHKは英語放送だけでしたし、日本食レストランがほとんど無く、現地に長らく生活する駐在員ですらもしょっちゅう食中りをおこすほどの衛生環境で、今回も、現地会社の社長さんのお宅に呼ばれて晩飯をご馳走になるという、それこそ20年以上前に先進国で見られた駐在員生活が今なお続いています。今なお続いているという意味では、空港からホテル、ホテルからオフィスと、全ての移動を現地駐在員にアレンジしてもらって、外の空気に触れることはありませんでしたし、交差点で信号待ちしているところに、赤ん坊を抱いたお父さんが近づいて来て物乞いをするという、話には聞いていた光景も目の当たりにしました。特にこの光景には、日本人としては憐憫の情を催し、気が気でないわけですが、現地人運転手に言わせれば、金を与えたところで、オヤジが酒を飲んでしまうだけだと、冷静です。
 他方、東南アジア最大の先進国と言っても良いシンガポールは、それだけ日本に近いかと言えば、必ずしもそうとは言えないのがアジア的な不思議さでしょう。東洋のイスラエルと呼ばれる、流浪の民・客家人の国で、明るい北朝鮮の異名をもつ監視社会でもあり、労働者党などの野党の存在は認められているものの野党候補が当選しようものなら中央から予算削減などの露骨な嫌がらせ受け、言論や集会・デモは厳しく制限され、報道規制についても「国境なき記者団」から強く批判され、ファイン・アンド・ファインとまで揶揄される清潔な街並みは、500万本ある街路樹の一本一本について、肥料を施した日や、開花や落実の時期などの細かい点に至る樹歴がコンピュータ管理されていると言われ、そういう意味での政治的安定と経済的自由を享受する代わりに、事実上の一党独裁で政治的自由は放棄している状況です(一部Wikipediaにも出ていますが、現地会社の社長も実感を込めて語ってくれました)。
 こうして見ると、日本では、最大限の自由を享受できてなお、人々の行動には節度があり、街並みは美しく、規律ある社会を形成する国民の成熟度は、アジアという喧騒と混沌において特筆すべきものであることが分かります。
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アジア

2010-12-13 00:16:37 | 永遠の旅人
 昨日までの丸一週間、マニラ(フィリピン)、シンガポール、バンコク(タイ)、ニューデリー(インド)の四都市を巡る出張に出ていました。西へ少しずつ移動する日程だったので、時差も少しずつずれて(遅れて)気が楽でしたが、シンガポール以外では24時間以上滞在することはなく、移動ばかりでちょっとくたびれてしまいました。
 こうして連続してアジアの発展途上の諸都市を見ていると、シンガポール更には日本の街の美しさが際立ちます。それだけマニラでもバンコクでもニューデリーでも、巨大なビル群が乱立する一方、都会の真ん中に、スラム街とまでは言わないまでも開発に取り残された区画が残っていたり、裏通りに入ったとたんに道端が汚くなっていたりして、そういうところは臭いもきつく、治安も悪そうに見えます。こうした街の風物でも、とりわけ国の豊かさを象徴するのが街を行く車でした。ニューデリーでは、バイクだけでなく自転車もまだ多い。マニラでは、バイクのほかに、薄汚い軽トラック型の乗り合いタクシーが一杯走っていました。シンガポールはもとより、バンコクでも車がきれいなのに驚きましたが、自動車の生産拠点の恩恵を受けているのでしょうか。
 他方、こうした発展途上の諸都市では、後発ほど空港が新しくて立派なのも顕著な特徴です。経済成長とともに航空需要が増加するのはいずこも同じですが、冷戦が崩壊した1990年代以降、グローバリゼーションが本格化し、人の往来が増えた時代に対応していることに加え、多かれ少なかれ開発独裁の手法により、国の威信をかけて巨大な玄関口を建設しているわけです。チャンギ国際空港(シンガポール)は1981年開業ですが、1991年のターミナル2に続いて2008年にターミナル3が開業して一段と利便性が増しましたし、スワンナプーム国際空港(タイ)は2006年、インディラ・ガンディー国際空港(インド)のターミナル3は今年7月に開業したばかりです。
 そして、後発ほどホテルの部屋の時計が合っていないように思ったのは、気のせいとばかりは言えないのでしょう。5~10分の違いは当たり前、ニューデリーでは15分以上も狂っていました。日本の神経質とも言えるほどの正確さに慣れてしまうと、却って戸惑ってしまうのが、なんとも哀しい性と言えましょうか。こうした大らかさ、あるいはいい加減さは、良くも悪くも会議時間に間に合わない人が多いことにも表れていて、これじゃあ生産性が上がらないと言うべきか、まだまだ上がる余地が一杯あると見るべきか、そんな発展のノリシロが多いことをそこかしこに感じて、なんとも懐かしくも、羨ましく感じた一週間でした。
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六十五回目の夏(9)砲艦サンパウロ

2010-12-04 12:45:39 | たまに文学・歴史・芸術も
 六十五回目の夏と言いながら12月に入ってしまいました。
 二週間ほど前、東大の学園祭で講演した鳩山前総理は、「理念としての友愛を、政府として堂々と掲げていくべきだ」と述べ、「メディアでは、鳩山が日米関係をめちゃめくちゃにしたという記事がたくさん出ているが、めちゃくちゃになっていない」と反論しました。もはや総理大臣ではないとはいえ、前総理として政権与党の重鎮と見なされるであろう人が、ここ数ヶ月で国際環境の荒波に晒されてなおこのような認識を変えていないのがなんだか不思議ですが、後者の根拠になっているのが、その日の朝、米国大使館を訪ね、ルース駐日大使と一緒にアメフトの試合をテレビ観戦したエピソードだというのですから、呆れてしまいます。普通、我々は、xxx(敢えて伏字)は、個人的につきあうと良いのだけど、国としてはね・・・なんて言い方をするものですが、この方は何かにつけ国家関係と個人関係との混同が甚だしいし、むしろその違いの機微を理解したくないもののようです。
 昨今の荒波の最大の発生源である中国は、尖閣問題だけではなく南シナ海でもベトナムやマレーシアを相手に領土紛争を仕掛け、日本だけでなく欧米諸国に対してもレアアースの輸出制限を行い、ノルウェーはじめ諸外国へも民主活動家のノーベル平和賞受賞を巡って高圧的な態度を見せてきました。さらに、自らの体制を守るためには国民が飢えても核開発を続け、哨戒艦を沈没したり韓国本土を砲撃してまで瀬戸際外交を続ける北朝鮮を、中国は見殺しにすることなく陰で支援し続けます(ウィキリークスを見ていると、最近の中国は必ずしも北朝鮮の動きを制御出来ていないように見えますが)。一方で、日・米・韓といいながら、韓国も気を許しているわけではなく、歴史問題では、中国・韓国・北朝鮮ともに反日で共通します。「友愛」が国家間のおつきあいを円滑化することは疑いませんが、だからと言って「友愛」だけでは何ら根本的な解決に至らないこともまた明らかでしょう。それにも係らず、左翼思想育ちの仙谷氏や菅氏は、中国に過剰に配慮して、国益を毀損すること甚だしいと批判されて来ました。
 こうした対中協調外交を見ていると、戦前の幣原外交との類似性を思い、あの時も中国は反日どころか侮日行動はとどまることを知らず、あの時は結局、嫌がる日本を大陸での戦争に引き摺り込み、英米との衝突へと誘導し、挙句に太平洋戦争が不可避となり、最終的に日本が国家として破滅するに至った苦い歴史が思い出されて、暗澹たる気持ちになります。とりわけ幣原外交の対中宥和さらには無策・弱腰ぶりが英米との関係悪化を招くきっかけとなったのが、1927年の南京事件です(チェンバレンのイギリスによるヒットラーへの宥和策が、彼を増長させ、第二次大戦の遠因になったことが連想されます)。
 南京事件と言えば1937年の南京大虐殺が有名ですが、これは今なお犠牲者の数が定まらず、アメリカが犯した戦争犯罪である原爆投下以上の犯罪にでっちあげようとした東京裁判や、更に南京で行われた国民政府国防部戦犯軍事法廷など、敗戦後に日本を裁く軍事法廷で誇大広告されたもののようですが(昭和41年9月に岸元首相の名代として5名の日本人台湾使節団が訪台したときに、その内の一人、松井大将の秘書だった田中正明氏に対し、蒋介石は、南京に虐殺などなかった、松井閣下には誠に申し訳ないことをした、と告白したと伝えられますが、その当否はともかく、蒋介石が終戦に至るまで行っていた中国人向けラジオ演説で大虐殺に触れたことはなかったようですし、1937年当時、12月5日に南京にいたロンドン・タイムスのマクドナルド記者をはじめとして、日本軍の非道が国際的に報道されていなかったのは事実のようです)、この1927年の南京事件はホンモノです。
 1927年4月、蒋介石が南京で反共クーデターを起こし、左派の武漢政府に対抗して右派の国民政府を樹立する渦中で、国民革命軍や中国人暴徒が、英米領事館を襲撃したのをはじめ、租界の商店や企業を焼き討ち・略奪し、外国人居留民に暴行を加えたため、これに激怒した英米両国が報復のために暴徒に向けて砲撃するという、この事件の模様が、スティーブ・マックイーン主演映画「砲艦サンパウロ」に描かれています。この時、自衛のため日本も一緒に立ち上がり行動するよう英米から呼びかけがあったにも係らず、日中友好を害するとして砲撃に参加せず、これが却って、日本には野心があって、中国と裏でつるんで抜け駆けするのではないかというような疑念を、英米両国に抱かせ、英米からは孤立していくとともに、中国からは弱腰と見られて、以後、中国革命運動や過激化する中国のナショナリズムの標的になって、大陸進出は泥沼化して行きます。
 加瀬俊一氏は、1945年9月2日、降伏文書調印式で、重光葵外相ら全権団に随行し、戦艦ミズーリ上に居合わせたのをはじめとして、戦前・戦後の激動期に外交官として活躍し、後に初代国連大使や外務省顧問を歴任した方です。私がまだ20歳前後のみそらで、氏の自伝を読んで外交官を夢見たこともあったように(でも出自が良いわけではないので実際になれるとも思わず諦めて勉強もしなかった)、私の人生の初期に嗜好という点で小さからぬ影響を与えた一人ですが、100歳を越えて回顧(101歳で永眠)された「あの時『昭和』が変わった」(光文社)を読むと、「私は歴代の外務大臣の信任が厚かったために、誰よりも秘書官生活が長かった」などとぬけぬけと述べるほか、誰の発言なのかよく分からない大言癖があるのが玉に瑕です。そんなわけで、彼自身の見方なのか、あるいは近くでお仕えしたやんごとなき方に触発されたのかは分かりませんし、回顧録ほど真実を糊塗して眉唾なものはないのですが、その書の中で、「中国が混乱していたことが、日本と英米をして、太平洋戦争を戦わせた」と述べています。確かに、日米交渉の終盤でアメリカの態度を硬化させる決定的な影響を与えたのが1941年7月の南部仏印進駐で、これは英米蘭からの経済封鎖に耐えかねて資源獲得を目指すとともに、英米の援蒋ルートを断つことを狙うものだったというように、太平洋戦争の淵源は中国大陸にあります。日本が中国市場を独占しアメリカを排斥しようと企てたことで、門戸開放主義を掲げるアメリカと衝突し、日本が期せずして中国大陸に果てしなく戦線を拡大するうちに、揚子江沿岸のイギリスの権益を侵すまでになりました。さらには、「英米が、中国が巨大市場であるという誤った幻想を抱いていたことが、戦争の要因となった、これは今日、先進諸国が中国市場へ過大な夢を描いていることと変わりがない、私は今後、中国の安定が長く続くまいと思う」とも述べていますが、それは余談です(私も同感ですが)。氏が親英米派で、当時はどちらかと言うと疎外されたであろう僻みもあるでしょうし、貴族趣味のところもあって、多少、割り引いて見る必要があると思いますが、当時の外交の前線にいて現場を知る声としては貴重です。
 さて、現代に話を戻して、鳩山さんが友愛を語った勇気には感服しますが、やや時期尚早でした。中国をはじめ北東アジア情勢の難しさと、外交下手の日本の両方を掛け合わせると、国際協調を旨として当たることが重要であることが歴史の上からも看取されます。その時々の「国際」がどこであるかは問題ですが、それが日本として生きる道なのだろうと思います。
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日本の病・続々

2010-12-03 01:15:45 | 時事放談
 昨日、軍隊経験の有無が及ぼす影響に触れました。今日は、日本にそれが無いことが幸いしているのではないかという話です。
 韓国社会には、日本にだけノーベル賞受賞者が出て、何故、韓国には出ないのか、不満が渦巻いているのだそうです。理由の一つは、以前、このブログでも触れた通り、科学技術の蓄積の違い、すなわちノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多く、時間差があることが挙げられます(最近は時間差が短縮している例も出ているようですが)。それだけの理由であれば、いずれ韓国でもノーベル賞受賞者が出る可能性がありますが、そうでもなさそうだと言うことのもう一つの理由として、軍隊経験を挙げる人がいます。上意下達の命令絶対の軍隊で若い時代を過ごすことによって、世の中で常識となっているような前提条件を疑ったり、全体をひっくり返したりするような、スケールの大きな基礎科学が育ちにくくなっていると指摘する韓国人科学者がいるのだそうです。
 果たしてほぼ人格が固まった20代前半の僅か2年間の徴兵制の経験が、本当に将来にわたって科学技術の可能性を狭めているのか、私には甚だ疑問ですが、もしかしたらそれは過ごす時間の絶対量の問題ではなく、たとえ短い時間であってもその間の経験の濃さに依るのかも知れません。残念ながら私は軍隊経験がないので、何とも言えません。
 あるいは儒教が強いる秩序に依るのか。それにつけても日本は秩序が緩んで自由度がどんどん高まっているように見えるのが良くも悪くも将来の日本に影響を与えそうです。
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