風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ウェストファリア体制

2019-10-30 23:12:47 | 時事放談
 最近、固有名詞は現地語読みするのが習いのようなので、Wikipediaにあるように「ヴェストファーレン」と呼ぶのが正しいのだろうが、英語読み(あるいはラテン語読みとも)で「ウェストファリア」体制とは、ご存知の通り、三十年戦争(1618年~48年)の講和条約によってもたらされた近代ヨーロッパの主権国家体制のことである。もっともこの戦争を境にすんなり中世から近代に移行したわけではなく、王権神授が完全否定されるには、150年以上後のナポレオンを待たなければならないが(彼がローマ教皇の手によらず自らと妻ジョセフィーヌに戴冠する有名な絵が残されている)、今、我々が国際連合をはじめとして念頭にある「国家における領土権、領土内の法的主権および主権国家による相互内政不可侵の原理が確立され、近代外交および現代国際法の根本原則が確立された」(Wikipedia)画期となるものである。
 何故こんな教科書的なことをくどくどと書くのかと言うと、東アジアは近代西欧起源のウェストファリア体制が今なお妥当しない、別の秩序観に支配された不思議な空間だということを言いたいがためである。
 一つは韓国だ。今日で、韓国最高裁が徴用工訴訟で新日鉄住金(現・日本製鉄)に賠償を命じた確定判決から1年になるが、韓国の国務調整室長は国会政務委員会であらためて「紛争の調停(日本が提案した第三国による仲裁委員会による)には応じない」と述べて、近代国際法(ウィーン条約)を無視する姿勢を続けている。釜山では「左派系団体が日本総領事館付近の歩道を『抗日通り』と名付け、徴用工像がある近くの公園で警察ともみ合った末、『抗日通り』の看板を園内に設置した」(産経)そうだ。市民の暴挙・・・駐韓米国大使公邸乱入事件もそうだし、慰安婦像や徴用工像の設置などと同様、ウィーン条約違反(公館の威厳の侵害等に関わる問題)を止めることが出来ないという意味において、韓国の政治は相変わらず弱いし、韓国市民社会は国際法遵守を受け入れるまでまだ成熟していないようだ。品目別の貿易統計によると、不買運動に興じる韓国向けの9月のビール輸出額は前年同月比で実に99・9%減(!)だったそうで、この理不尽さには溜め息しか出ない(苦笑)
 もう一つは中国だ。かつて(2010年のARF:ASEAN地域フォーラムで)、時の温家宝首相は「我々は大国である。しかしあなた方は小国である」「これは現実である。中国の国益を軽視すべきではない」などと恫喝し、言わば「小国は大国に従え」みたいなことを暗示して、周囲をびっくりさせたことがあった。最近、中国の研究院出身の大学教授たちと飲む機会があったときにも、酔った勢いで、小国には外交上の発言権などない、というようなことを平気で主張されていた。ご存知の通り国連総会ではどんな小国であろうと大国アメリカと同じ一票の重みをもつ、という事実とは矛盾する。こうして、鄧小平が唱えた「韜光養晦」(爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術の謂い)の意味がはっきりするであろう。ぶっちゃけた話、実力がない内はどうせ影響力がないのだから大人しくしていようぜ、ということだ。また、一帯一路の裏の目的もはっきりするであろう。意識が高いアジアの国々から賛同を得るのは簡単ではないが、50ヶ国を超えるアフリカや30ヶ国を超えるラテンアメリカから、お金で釣って20票や30票を掻き集めることはそれほど難しいことではない、ということだ。かつて(戦前のことになるが)矢野仁一・京都帝国大学教授は、中国には国境の観念がなく、実力に応じて延び縮みし、支配可能な領域を自らの領土と考える、というようなことを仰っていた。南シナ海や東シナ海への海洋進出を見れば、その観念が変わっていないことはよく分かる。つまり中国はウェストファリア体制を受け入れることはなく、昔ながらの華夷秩序観のもとに依然あるということだろう。
 こうして、世界広しと言えども、日本ほど不思議な戦略環境にある国はない。東アジア(韓国と中国)は、一見、近代的に見えて、その実、中世(もっと言うと古代王朝世界)を生きているのであり、日本の対外政策上の苦悩はまさにここにあるように思う。
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働き方改革

2019-10-26 22:18:14 | ビジネスパーソンとして
 今朝の日経二面に、「小売り、24時間営業転機」と題した記事が掲載されていた。サブタイトルに「働き方改革、消費者も変化」とあり、さらにそのサブに「『持続可能』模索続く」とある。
 名前の通り朝7時から夜11時まで営業するのを売りに参入した「セブンイレブン」が24時間営業を始めたのは、意外にも福島県の店舗で、1975年だそうである。石油ショックを受けながらも高度成長で日本中が浮かれていた頃だ。それが1980年代には全国に広がったという。「吉野家」やファミレスでも24時間営業が当たり前になり、私が学生の頃にはその恩恵を存分に受けて、二次会、三次会、四次会で飲みくたびれたときには「からふね屋珈琲」で酔い覚ましにぼんやりしたり仮眠をとったりと重宝したものだった。ところが最近は少子高齢化でアルバイト確保もままならず、さらに働き方改革という半ば上からの意識改革が進められ、9月末現在、230店舗が時短の実験をしているそうだ。
 正月三が日でも小売りが休まなくなったのはいつ頃からであろう。そんなことを思って、今でも思い出すのは、アメリカ滞在中、Thanksgivingの休暇にMartha's Vineyard島(東海岸の街ボストン郊外のケープ岬の付け根にある)を訪れたときのことだ。11月後半ともなれば、ボストン界隈は冷え込む。しかもこの聖なる休暇で、お店がことごとく閉まっていて、晩飯にありつくのに苦労した。1990年代後半の頃の話である。因みにこの島は、時の大統領クリントン氏が奥さんのヒラリーと娘のチェルシーと共に夏の休暇を過ごすことで注目を集めていた。だからと言って訪れるほどミーハーなわけではなく、その先にあるNantucket島が本命で、いざ直前に旅行を計画したときにどちらが都合が良いかで選んだに過ぎない。ところが、その半年後に、JFKの長男(JFKジュニア)とその奥さんとそのお姉ちゃんの乗った小型飛行機が、この島の海岸沖に墜落したという偶然に驚いた。もっともJFKはマサチューセッツ州ブルックリンの生まれで、政治家として地盤となし、奥さんのジャクリーンは、私がアメリカに赴任した年(1994年)に亡くなるまでこの島で過ごしたという意味では、ケネディー家ゆかりの保養地だったということなのだろう。
 閑話休題。何が言いたいかと言うと、便利さが全てではないだろう、ということだ。いや、実際にMartha's Vineyard島でレストランを探して、震えながらうろついていた時には、個人主義のアメリカを、なんて身勝手なんだと恨めしく思ったものだ(苦笑)。しかし不便だと分かっていれば、やりようがある。そして日本でも時代は変わった、と言うより、私たち日本人の意識が変わった。
 私たち日本人、と一般化するのは良くないかもしれない。私のような昭和のサラリーマンは、「場」の意識が強い。自らのプロフェッショナリティを提供するという意識は変わらなくても、その方法論として成果で測るのではなくその過程、つまりその場にいるという意識が根強かった。かつて若い頃は、なんとなく会社にいて、遅くまで残業するのが当たり前だった。それこそ藩に忠誠を尽くしたサムライの如く、いったん就職すれば終身雇用のもとで安定的に、勤め上げるほど給与も上がる年功序列のもとで、一生を捧げると言う意味では、およそ西欧生まれで効率を至上命題とする資本主義とは性格が異なる。
 最近、私の会社でも「働き方改革」キャンペーンが繰り広げられ、一時はケジメがないと中断されたフレックス制度が復活し、2020オリパラの渋滞回避を目的に実証実験した在宅勤務の本格導入が始まった。お陰で職場の行先表示板には、フレックスやら在宅勤務やらの文字が賑わうようになった。生産性改善を旗印にしているが、少なくとも成果が目に見えて落ちない限り、奨励されるべきだろう・・・といったことは、若い人にはごく当たり前のことと思われるかも知れないが、私のような昭和のサラリーマンにとって「働き方改革」はマネジメントの問題であり、ひいては「生き方改革」だと、馬鹿馬鹿しいほどに大仰に構えてしまうのだ(笑)。
 我が身を振り返ってみる。仮に一日8時間勤務として、仮に一日中オフィスにいて、どれほど集中して仕事しているかと問われると甚だ怪しい。さらに創造的な仕事をしているかと問われるともはや疑わしい(笑)。8割は雑用だという乱暴な言い方もあって、確かに雑用も仕事には違いないし、生産的な仕事の仕方を工夫する必要はあるだろう。が、それでも(仕事の生産性をあげたところで)生理的に脳は高度な集中力が続くものではない。仕事を切り替えるときの脳の切り替え、気分転換だとか、休憩という名の「アイドリング」「遊び」が必要で、一日を眺めてみると、山あり谷ありなのは経験的に実感されるところだし、実証されてもいる。仕事にあってはFace to Faceが最も生産性が高いと思うが、以上の通り、仕事は常にFace to Faceである必要はない。じゃあ働く場所も働き方も柔軟であっていいではないか、ということだ(仕事のタイプによるけれども)。
 「遊び」は、実は余り認めたくないかも知れないが、一定程度は世の中の潤滑油として必要悪なのだろうと思う。人間の活動で100%の生産性はあり得ない。80%がいいところだろう(飽くまでも心がある人間の話であって、機械は別だ)。かつて民主党政権の時代に「事業仕分け」と言ってムダを切り詰めようとして、「二番じゃ駄目なのか」と本質的ではない議論をして、評判を落としたことがあった。大いなるムダがあるとすれば話は別だが、小さいムダを切り詰めるのであれば、一律20%削減にして後は現場に任せる度量が必要だったのだろう(そこは時の民主党という、日本のリベラル(=革新)の限界だったのかも知れない)。所詮「遊び」は中央でどうこう判断するべき問題ではなく、現場で一人ひとりが裁量する話だと思うからだ。
 実は私たち日本人は・・・とまた一般化してはいけないな。昭和のサラリーマンの私は、その「場」にいるという意識が強いばかりに、その「場」にいて何をしているか、果たして生産的に仕事をしているか、結果として、創造的に集中しているときもあれば「遊び」もあるといった実態に、無頓着だったかも知れない。私は、どこでも眠ることが出来るように、どこで仕事をしても同じだと思うタイプの人間で、却ってオフィスの方が集中できると思っているが、そうじゃない人もいるということに想いを馳せなければならないのだろう。こうして一種の「思い込み」を外して自由になることは大事なことで、それによって全体のパフォーマンスがあがれば、それに越したことはない・・・とまあ、昭和のサラリーマンの言い訳がましい戯言である。
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即位の礼

2019-10-24 00:59:28 | 日々の生活
 中東のアルジャズィーラは「お祝いムードは台風によって和らげられたが、式典が始まった時に空が晴れた」と歓迎し、英BBCは「式典が始まったとたんに激しかった風と雨が止んだ」と伝え、式典直前に虹が架かったというツイッター利用者の投稿写真をBBC電子版に掲載したらしい。雨があがって晴れあがるのが令和の時代を象徴するのだとすれば、まことに喜ばしい。
 昨日の「即位の礼」の報道を見ていて、つくづく日本は不思議な国だと、感慨をあらたにした。欧州では革命や内乱があって、王朝は入れ替わり、欧州を跨いで血が混ざり、恐らくそれが欧州の一体感に(キリスト教文化とともに)繋がっているのだろうと想像されるが、東洋の片隅の、中国大陸から微妙な距離を置く日本列島の、文明は流れ込むけれども乱は滅多に届かないという奇跡的な環境の中で、日本一国だけにひっそりと世界最古の王朝が息づき、今なお平安絵巻が繰り広げられる・・・中国4000年の歴史と言うけれども、王岐山さんはどんな思いでこの儀式を眺めていただろうかと興味深い(笑)
 「即位礼正殿の儀」には、外国から191の国と国際機関などの代表423人、国内から1576人、計1999人が参列したそうだ。「饗宴の儀」は、皇族方の負担軽減や儀式の簡素化のため、平成の時より規模が縮小されたそうだが、古式ゆかしい儀式は、質素な中に威厳があることにこそ日本ならではの価値がある。列席した方々の民族衣装は実にきらびやかで豪華絢爛、中でも今なお連綿と残る王室のネットワークには目を見張る。チャールズ皇太子の肩肘張らないリラックスした中に漂う高貴な佇まいはさすがだ。デンマークのメアリ皇太子妃は実に優雅。白い軍服を身にまとったブルネイのマティーン王子は、ブルネイ王族ながらInstagramで100万人以上のフォロワーを誇るらしいが、さもありなんと思わせる凛々しいお姿。そして日本の皇族方も、雅子さまはすっかり皇后らしい貫録を身につけておられるし、紀子さまと佳子さまは十二単が実に良く似合う。皇室は、間違いなくアニメと並ぶ日本のソフトパワーだ(笑)。
 そんな不思議の国・日本の、世にも珍しい古式にのっとった厳かな儀式が海外でどう報じられたか、興味がある。歴史が浅いアメリカのCNNは30分近くも「即位の礼」を生中継し、「長年にわたり伝統が受け継がれている」と伝えたという。生中継したという点では、お隣の韓国YTNもそうで、天皇陛下が「平和」と「憲法」に言及されたことに触れ、上皇さまのかつてのご発言と「相通ずる」と指摘し、「改憲に力を入れている安倍総理と対照的だ」と報じたらしいが、相変わらず余計なお世話だ。韓国は休戦中とは言えGDPの2.6%もの軍事費を使っているくせに、GDPの0.9%しか使わない日本の「改憲」を軍国主義復活のように警戒するのは、日本の「良識」のメディアと勝手に認定する朝日新聞に感化され過ぎではないか(笑)。中国の国営新華社通信も、「古式ゆかしく高度に儀式化されている」と言及し、ネット上には「伝統を感じる」「5千年の歴史を持つ中国は伝統文化をとうに失ってしまった」と羨む声もみられたそうだが、相変わらず一体いつから5千年の歴史になったのか(笑)。他方、イギリスのリベラルなガーディアン紙は「160億円の税金が投入されることが、政教分離の原則に反するとの批判もある。女性は天皇になれないが、保守的な安倍政権には、これを見直す意欲はほとんどない」などと報じたらしいが、先ほども触れたように、一国で皇室伝統を繋いでいる日本と、血が入り混じって高貴な男性の血も当たり前にある欧州(イギリスも含めて)とでは、王室の継承の在り方が違ってもやむを得ないのではないか。
 天皇・皇后両陛下の経歴も話題のようで、BBCは天皇陛下がオックスフォード大学に留学されたことや、5月のトランプ大統領とメラニア夫人との面会で、雅子さまが流暢な英語を披露したという、毎度のエピソードを紹介したらしいし、中国の国営中央テレビも「第二次世界大戦後に生まれた初めての天皇」「修士の学位を持ち、留学も経験している」と天皇陛下の経歴を紹介したらしい。ロイター通信は「ハーバード大学で教育を受けた皇后」と紹介し、仏ルモンド紙は「悠々として現代的な二人」「いくつもの言葉を話す天皇、皇后両陛下は初めてだ」と驚きをもって迎えたらしい。
 もう一つ、「饗宴の儀」で何が供されたか、余計なお世話だが献立をチェックしてしまった(笑)。国賓をお招きする宮中晩餐会よりも規模がかなり大きい祝宴となるため、コンパクトに提供できる日本料理が選ばれたという。なるほど、日本料理とはそういうものか・・・。「日本の山海の食材を味わってほしい」(宮内庁幹部)という方針で、前菜にはかすご鯛の姿焼きや鮑の塩蒸しや篠鮟肝のほか珍しいところで百合根、酢の物には帆立貝やヒラメやワカサギ、焼き物には日本料理らしくない牛肉アスパラ巻、温物にはフカヒレの茶碗蒸し、揚げ物にはカニやキスやクワイや銀杏、吸物には伊勢エビやマツタケなど、ヨダレが・・・じゃなくて、溜め息が出るような、なるほど簡素ながらもなかなか豪華なものだったようだ。はあ~
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にわかラグビー・ファン

2019-10-22 10:40:26 | スポーツ・芸能好き
 日曜日にNHK総合で放映されたラグビーW杯・準々決勝「日本-南アフリカ」戦で、アナウンサーと解説の五郎丸さんが、本来はネガティヴなイメージをもつ「にわかファン」という言葉をポジティヴに使ってこの大会を盛り上げたことを称えて話題になった。私が「にわかファン」を自称するには恥ずかしいほど、テレビ観戦すらしていないのだが、それはラグビーが、というよりテレビを見なくなっただけで、熱狂は常に肌で感じていた。
 予選リーグで日本は、ロシア、アイルランド、サモア、スコットランドに全勝し、目標だった決勝トーナメントに進出し、世界ランク6位にまで浮上した(しかしすぐに8位に落ちた)。アジア勢初の8強は本当に素晴らしい。高校時代、狭い校庭をラグビー部と野球部と(私のいた)陸上部とで分け合っていたので、スポーツとしてのラグビーにはとても親近感がある(笑)。しかしシドニーに住んでいた頃、テレビ放映されるスポーツはラグビーかクリケット・・・は、まさに大英帝国の名残りで、対戦相手はNZやインドやスリランカに、フィジー、サモア、トンガと来れば、どこか遠い世界のスポーツのようにも思ったものだった。まさか日本でW杯が開催され、しかもティア1のアイルランドとスコットランドを破り、史上初めて決勝トーナメントに進むとは、夢にも思わなかった。予選リーグを終えた主将のリーチ・マイケルさんが「怖いくらい強くなっている。国民の応援があってここまで頑張れている」と語ったのはまさに実感だろうし、国民の多くも賛同した快進撃だった。
 英BBC放送(電子版)は「日本のラグビーが日本国民と世界のファンの心をわしづかみにした。開催国としてグラウンド内外でW杯に活力を与えた日本は胸を張っていい」と記し、ロイター通信は「その勇敢さにわずかな不足もなかったが、南アの筋力を突き破ることはできなかった」と言い、英インディペンデント紙は「高速で汚れのないパスゲームで、(1次リーグの)対戦相手全てを破った」と伝えたらしい。アイルランドのスポーツ番組のコメンテーターは「フィジカルが強いだけではなく、プレーはテクニカルで正確。運動量も豊富だ」と、また仏紙の記者は「結果だけでなく、内容が素晴らしい。プレーにリズムがある」「松島と福岡の両WTBは観ていて楽しい」と称えてくれた。
 この準々決勝は、平尾誠二さんの命日だったことも話題になった。以前、辛坊さんの番組「ウェークアップ・プラス」で、かつてイラクで殉職された外交官の奥克彦さんが、早大ラグビー部の縁で時の首相・森喜朗さんに招致を働きかけたことを知った。当初は誰も真に受けなかったらしい。平尾さんも、W杯日本開催の招致委員会でゼネラルマネジャーを務め、開催が決まった時には「日本のラグビーにとって画期的なこと。決勝トーナメント進出という高い目標を持たなければ」と話していたらしい。奥克彦さんの遺志がラグビー・ボールに込められ、様々な人がパスを繋ぎ、実現したW杯であり、決勝トーナメント進出だったことを思うと、感慨深い。
 4年前のイングランド大会で南アフリカを破った「ブライトンの奇跡」の再現はならず、逆に返り討ちに遭ってしまったが、子供たちは、激しくぶつかり合いながらも終わってしまえば「ノーサイド」でお互いの健闘を称え合うW杯の感動を、そして場外でも、台風19号で中止になって無念だったろうに、カナダ代表選手たちは土砂除去を手伝ってくれ、ナミビア代表選手たちは台風被害を受けた市民を元気づけたいとファン交流会を開催してくれたように、飽くまでも紳士として振舞うスポーツであることを、しっかり目に焼き付けたことだろう。W杯が日本で開催されたことをきっかけに、日本のラグビーがもっと強くなることを確信している。
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今ごろ、オフコース

2019-10-19 16:11:53 | スポーツ・芸能好き
 JALの機内で睡眠をとろうと、久しぶりにオフコースの曲も聴いてみた。高音に伸びがあり、透明感があって・・・という意味で聖子ちゃんと並び称される同じ1980年代の男性ボーカリストとしては、小田和正を措いて他にないと言ってもよいかも知れない。しかし、どうにも歌詞が女々しい(というのは今どき差別用語だろうか・・・)と思われたせいか、当時、男が大っぴらにファンを公言するのは憚られるという不思議なバンドだった。
 しかし存外、音に厚みがあって聴き甲斐がある。大学生の頃、軟派な軽音楽サークルでアリスのコピーバンドを結成し、なお軟派なことに某女子大の学園祭のステージに上がったこともある、思い出すだに恥ずかしい時代だが、すぐ隣にオフコースのコピーバンドがいて、かすみちゃんという女の子がドラマーをやっていたのが滅法カッコ良かった。アリスのコピーバンドがアコースティック中心の素朴な音楽を追求していたのに対し、オフコースのコピーバンドは健気なかすみちゃんのドラムを含めてなかなかヘビーだったのがとても新鮮だった。オフコースの良さをコピーバンドで知るとは皮肉なものだ(いや、知っていたのだが、再認識したというところか)。
 オフコース通算19枚目のシングル「Yes No」の、「きみを抱いていいの~? 好きになってもいいの~?」とはまた実に女々しい(!)セリフだが、実はこれが二番目に好きな曲で、当事者の思いを切々と歌い上げるところにはつい共感してしまう。そして一番好きな曲は、その次のシングル「時に愛は」で、思いのたけを吐露する抒情詩の「Yes No」とは対照的に、愛の叙事詩を他人事のように淡々と突き放して描写する、その抑制的なところがまた良いのだ。
 ついでに三番目に好きな曲は、時代が少し下って、オフコースではないのだが、小田和正のシングル「ラブ・ストーリーは突然に」。トレンディ―ドラマの草分けである、フジの月9ドラマ「東京ラブストーリー」の主題歌に使われて、自由奔放なリカと優柔不断なカンチの切ない恋物語と、私の中では一体化してイメージ・ソング化してしまっている。鎌倉出身の知人によると、鎌倉高校(通称カマコー)生の頃の彼女は「私、キレイ?」と(聞きようによっては口裂け女みたいだが 笑)真顔で尋ねる不思議ちゃんだったらしいが、ちょっと違う意味での突き抜けた不思議ちゃん振りが、リカのキャラにはよく似合った。
 いずれにしてもオフコースは隠れた名品・・・
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今ごろ、聖子ちゃん

2019-10-17 00:18:57 | スポーツ・芸能好き
 JALの機内で睡眠をとろうと、久しぶりに松田聖子の曲を聴きながら目を閉じた。高音に伸びがあり、透明感があって、そのくせ甘ったるくもあって、心憎い。懐かしくて、眠るのを忘れてつい聴き惚れてしまった。
 大学時代、久留米大附設高校出身の知人がいて、松田聖子と言えば地元では悪の限りを尽くしたことで有名なのだとこれみよがしに語ったものだが、そんなことは私にはどうでもいいことだった。確かに当時、ヤンキーのお兄さんたちに絶大なる人気を誇ったし、「ぶりっ子」と呼ばれて見透かされてもいたのだが、アイドルは目の前に映る姿が全てだ。同じ時期にデビューした河合奈保子がビジュアル系(!)だったのに対し、松田聖子はビジュアル系としては甚だ弱かったが、中身で勝負・・・声質が飛び抜けていて、良い曲に恵まれたと言うよりも、良い曲を惹きつける磁力が圧倒的で、いつの間にかスターダムにのし上がった。
 とにかくデビュー曲「裸足の季節」の伸びのある歌声は衝撃的だった。さらに8枚目のシングル「赤いスイートピー」は別の意味でも衝撃的だった。「半年過ぎても あなたって手も握らない~」のがいいという知人がいたので、これほど甚だしい虚像もないだろうと表では悪態をつきつつ(笑)、裏ではなかなかいい情感の曲だなと感心していたら、呉田軽穂を名乗る松任谷由実が初めて手掛けた曲だと知って、納得した。その後も著名アーティストを動員して、ヒットを飛ばし続けたが、サントリーのペンギンCMにも使われた「SWEET MEMORIES」をしっとりと歌われた日には、思わず参ってしまった・・・(笑)。
 同時代を生きて来た同世代として、ディナーショーにでも行って今の聖子ちゃんを聴いてみたいものだと、ふと思ったのだった。
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海外から見るデフレ日本

2019-10-15 22:46:57 | 日々の生活
 二泊三日でシンガポールに出張してきた。台風19号上陸の翌・日曜日に出発することになっていたので、そもそも空港まで行き着けるのか、空港に着いても機材があって飛べるのか、ぎりぎりまで気を揉んだ。幸い、前日(台風上陸当日)はほぼ全面的に欠航となり、機体が羽田にとどまっていることが予想できたので、当日、天気になればいつでも飛べると逆に焦ったが、地下鉄を除きJRなどの公共交通機関が昼頃まで殆ど動かないことに配慮した日本航空は、出発を11時半のところを夕方5時半に遅らせてくれて、その頃には普通にスムーズに移動することが出来た。欠航となることも想定して、あれこれ頭の体操をしていたが、幸い大事に至らなかった。
 それはともかく、こうして海外に行って気になるのは、シンガポールなどのアジア諸国にしてもアメリカにしても、物価が着実に上がって、日本の物価が相対的に安く感じられることだ。
 それと関係があるのかどうか分からないが、空港でクレジットカード会社や航空会社のラウンジを使うときに残念に思うのは、海外ではだいたい食事もアルコールもサービスされるのに、日本ではほぼソフトドリンクのみと世知辛いことだ。コストダウンのためにケチっているのではないかと勘繰ってしまう。
 日本のデフレは、節約志向の日本人が過当競争に明け暮れた末の縮小均衡なのだろうと私は勝手に想像している。電機メーカーにしても自動車メーカーにしてもレストラン・チェーンにしても、数が多く、ダーウィンの自然淘汰より今西錦司さんの棲み分け理論に従うかのように、廃業を簡単に選ぶことなく、それぞれ切り詰めながら痩せ我慢の経営をして、本来はゲゼルシャフトなのにゲマインシャフトの共同体を構成して生き延びるのが日本的な生き方だ。明らかな勝ち負けやら白黒をつけるのではなく、三方一両損を美学としてしまう不思議な国民性だ(大岡越前までもが損をすることはないだろうに 笑)。隣に安い労働力を供給する巨大な中国という存在があったからではあるが、生産を中国に移しながら、非正規の雇用を増やしながら、人口が増えないからマーケットも広がらない中で、節約に節約を重ねて、品質を落とすわけでもないのが日本人の素晴らしいところだが、つつましく生きる。最近、それは必ずしも褒められたものではないような気がしている。
 世界の中の日本として見たときに、日本の高品質は高価であって然るべきだと思う。日本では、どこで何を食べても美味いと思うのは私が日本人のせい(日本人の舌をもっているせい)でもあるが、同時にそれが安いことを嬉しいと思うのではなく、おかしいと思うべきではないだろうか。そろそろ日本人は、日本品質を自覚し、余り金を落とさない韓国人観光客が減って嘆くのではなく、また本物を求める中国人が爆買い出来ないほど本物は高いと見せつけ、安いホテルをばんばん建てるのではなく、高級旅館や高級ホテルに長期滞在してもらって、高価な日本品質をじっくり堪能してもらうという稀少価値のサイクルに、気づくべきではないだろうか。
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エコノミック・ステイトクラフト

2019-10-11 22:28:30 | 時事放談
 最近、Economic Statecraft(以下ES)なる言葉を目にする機会が増えてきた。「経済外交策」とか「経済的国政術」と訳され、「経済手段を通じた国益追求」と紹介される。自由貿易を“国策”とする日本が、北朝鮮制裁以外に、自国の利益を追求するために独自に経済政策を実行するには心理的な抵抗が大きいと思われるが、少なくとも米国の同盟国として何等かの協調的な対応を求められる局面は、これまでもあったし、今後も増える可能性がある。
 今年の3月20日、甘利明氏を会長とするルール形成戦略議員連盟が、「国家経済会議(日本版NEC=National Economic Council)創設」を提言した(注①。なお、安倍首相に提出したのは5月29日)。米国の国家経済会議(NEC)に倣ったもので、この「国家経済会議は1993年にクリントン政権において、『軍事的安全保障』と並んで、『経済的安全保障』という考え方のもと、国家安全保障会議と同じ機能を果たすことを期待されて大統領令によりホワイトハウスに設立された。会議の役割は、ホワイトハウスにおいて経済政策の一貫性を維持する為、また、各経済官庁の調整を図って政策立案を行なうこと」(Wikipedia)とされる。今朝の日経には、国家安全保障会議(NSC)傘下の国家安全保障局(NSS)に経済担当部署を設けるとの報道があったのは、恐らくこのNECをイメージしているものと思われる。
 これと足並みを揃えるように、「経済安全保障」に関する組織の新設が続いている。経済産業省の大臣官房内に6月2日付で「経済安全保障室」が新設され、安全保障的な視点から技術・産業戦略を推進するとされる(注②)。外務省の総合外交政策局安全保障政策課の傘下に10月1日付で「新安全保障課題政策室」が新設され、経済・技術分野における安全保障政策に係る取組みを強化するとされる(注③)。さらに防衛省の防衛装備庁の傘下に「装備保全管理官」が新設され、防衛産業の情報保全の強化や海外への装備品輸出の際の技術流出防止を担うとされる。
 甘利明氏が所属するルール形成戦略議員連盟のブレイン的な組織と思しきものが多摩大学にある。ルール形成戦略研究所と言い、甘利明氏はその顧問兼シニアフェローを務め、所長である国分俊史氏(多摩大学教授)や井形彬氏(同客員教授)が積極的な発言を行っている。
 その一つは、昨年2月26日に「日本の『安全保障政策』に欠けている視点・・・『ES』とは何か」と題して、井形彬氏が東洋経済オンラインに寄稿したもので、先行すること2月1日、国分俊史氏とBrad Glosserman氏が米外交専門誌The National Interestに寄稿した“Japan's New National Security Economy”を下敷きにしている。他国が自国の意向に反する政策をとった場合に見せしめとして輸入制限したり、一帯一路などで援助受入国を借金漬けにして自国の意向に沿わない政策を取りにくくさせたりするなど、中国やロシアが多用し始めている経済外交を、米国はESと定義し、これに対抗するES戦略を描くべきである、といった議論がオバマ政権末期から安全保障政策専門家の間で高まっていたという。昨年初めには戦略国際問題研究所(CSIS)が、米国は「中国の挑戦」に対抗するために、より洗練されたESを用いる必要があると提案したほか、他のシンクタンクも同様の具体案を構想し始めているという。そして、主要な同盟国である日本について、これまでの安倍政権の安全保障政策を評価しつつも、経済的な手段を以て戦略的に地政学的な国益を追求するESの視点が抜け落ちており、民間企業と連携しつつ、安全保障に対してより広い視野をとるES戦略の構築を検討するよう提案している(注④)。
 昨年12月21日のWedge誌に寄せた論考「米国がここまで中国ハイテク企業を“恐れる”理由」で、国分俊史氏は、上記のような米国の動向を振り返りつつ、「米国がZTE(中興)を狙い撃ちして半導体の供給をストップした結果、中国のハイテク産業育成政策「中国製造2025」の推進を遅らせられることを見せつけたのは、まさに準備されていたESの発動であった」と述べる(注⑤)。
 さらに今年5月13日の金融ファクシミリ新聞紙上のインタビュー形式の記事「安全保障経済政策の確立急務」で、国分俊史氏は、「相手国の経済全体にダメージを与えるような経済制裁は戦争リスクを高めることから最終手段にすべきであり、まずはポリシーメーカーの急所に絞って発動することが、国家間の緊張を刺激することなく的確に影響を与える有効な手段となる」「私は米国の経済制裁チームと話をする機会もあるが、彼らは『ピンポイントで経済制裁をして相手の考えを正すことによって、戦争など国家間の大きな問題への発展を止める』という意識を明確に持っている」と述べる。ここで例として挙げられているのが、対ロシア制裁に違反したとして中国共産党中央軍事委員会で装備調達を担う装備発展部とその高官1人を米独自制裁対象に指定したもので、米国では、どの組織の誰をターゲットにすべきかというデザインが予め明確に描かれていると言う。更に、自由主義経済論の始祖アダム・スミスが国富論の中で喝破している「国防は経済に優先する」という思想が浸透している米国では、自由が生み出すバランスの崩壊が国防を脅かすようなら、バランスを取り戻すために一時的な保護主義は当然という前提も埋め込まれているとも言う(注⑥)。
 米国では過去10年来、中国の防衛産業や情報・通信産業に対する警戒感を強め、各種報告書が提出されてきた(米国防総省報告書2011年、米中経済安全保障委員会報告書2011年、米下院情報特別委員会報告書2012年、FBIカウンターインテリジェンスレポート2015年など。またペンス副大統領演説2018年10月4日の原型として、米中経済安全保障委員会報告書2015年、201年など)。その延長上に、「国家安全保障戦略」(2017年12月)と「国防戦略」(2018年1月)が位置付けられ、さらに中国の技術覇権ひいては軍事覇権を求めるかのような「能力」構築としての「中国製造2025」と、「意思」表示としての「国家情報法」(2017年6月27日公布、施行)や各種法制化が掛け合わさって、米国において急速に脅威認識が高まったものと理解される。
 ESという概念は、政治戦略・外交政策の「目的」より「手段」に注目するもので、目的を達成するための術策や方法、手段等が経済に関わるような国政術のことを言う。
 鈴木一人・北海道大学教授(国際政治学)は、最近の週刊ダイヤモンド(9月21日号)で、「経済ツールを使って、相手国に何かを強制し、自国の安全保障の目的を実現すること」「相手に対して、武力を使って何かを強いるのが戦争。経済を使うのがエコノミック・ステイトクラフトと言える。つまり戦争に限りなく近いニュアンスを持つ行為であり、相手国も国際世論も刺激する」と解説される。また同誌において、国際経済学の伊藤元重・東京大学名誉教授は、「経済は経済、政治は政治というこれまで通りのナイーブな考え方が通用しない現実が出て来ている。この現実は私たちのような経済学をやる人間も、既に認識し始めている」「経済と安全保障を完全に分けて議論することは出来なくなった。そういう世界の中で、日本だけ純粋な経済活動をすることは不可能である」と述べる。
 1985年にプリンストン大学のDavid A. Baldwin氏(Senior Political Scientist in the Woodrow Wilson School of Public and International Affairs)が、そのもののタイトルで書籍を出版されたものが古典的著作として知られており、最近でも、Ambassador Robert D. Blackwill氏とJennifer M. Harris氏の共著になる“War by Other Means”(2016年、Belknap Press)が出版された。
 David A. Baldwin氏が執筆したブリタニカ百科事典の用語解説(注⑦)によると、影響力行使の試みとしてのStatecraftは、
(1)economic statecraft
(2)軍事力の行使や威嚇によるmilitary statecraft
(3)交渉によって影響を及ぼすdiplomacy
(4)言語シンボルの意図的操作によるpropaganda
の4つに分類され、大抵の対外政策はこれらのツールの組合せである、とする。
 このうちのESには様々な方式があり、positiveなものとnegativeに分けられるという。positiveなものとは報酬やそれを約束するもので、特恵関税、補助金、対外援助、投資保証、外国投資に対する優遇税制などがあり、negativeなものとは懲罰やそれをちらつかせた脅しであって、禁輸(輸出拒否)、ボイコット(輸入拒否)、ブラックリスト掲載、独占購入、所有権剥奪(収用)、懲罰的課税、援助停止、資産凍結などが挙げられる。こうしたESは、戦争の準備・回避・遂行、民主化の推進、人権侵害への懲罰、共産化の推進または反対、経済開発の促進または妨害、政権交代の抑止または推進など、さまざまな対外政策の目的を達成するために利用されるとする。
 他方、Ambassador Robert D. Blackwill氏は、その著作でESの「七つ道具」として以下を挙げる(週刊ダイヤモン9月21日号)。
(1)貿易 貿易相手国に関税を課したり、特定品目の禁輸措置を行ったりする
(2)投資 地政学的な目的を念頭に他国産業への投資や企業買収などを実行する
(3)制裁 経済的手段を通じて制裁を加え、相手国に打撃を与えようとする
(4)サイバー攻撃 インターネットを介したサイバー攻撃を用いることで混乱に陥れる
(5)経済援助 軍事支援や人道支援に資金を投じ、戦略的な影響力を持とうとする
(6)金融・通貨 金融政策や通貨のコントロールを通じて、支配力を高めようとする
(7)エネルギー・コモディティー 原油などのエネルギー資源や鉱物資源、農産品といったコモディティー(国際商品)の保有国が、他国への供給停止などを振りかざす
 鈴木一人教授は暫定的にESを以下の4つの態様に分類する(注⑧)。
(1)他国の行動や政策を変更させようとするES・・・北朝鮮やイランの核開発、イラクの大量破壊兵器の開発に対する制裁など
(2)他国の行動に対する懲罰としてのES・・・米国のキューバに対する制裁(オバマ政権による制裁解除とトランプ政権による制裁再開)や、米国のイラン核合意からの離脱に伴う制裁の再開、トランプ政権によるベネズエラ制裁、ロシア機の撃墜に対してトルコに行った制裁など
(3)外交・安全保障上の圧力に対する報復・反発としてのES・・・1970年代に石油ショックを引き起こしたOAPEC(アラブ石油輸出機構)によるイスラエルの同盟国・友好国に対する原油輸出の禁止、中国が日中関係や米中関係の悪化の際にレアアースの輸出を規制した事例、EUが実施したロシア制裁に対してEUの農産物の輸入を対象とした逆制裁を実施するといった事例など
(4)覇権争いのためのES: かつて日本が急速に経済成長し貿易不均衡が生まれた際に、アメリカが通商法を用いて日本に圧力をかけて貿易摩擦を展開したこと。現在では中国を相手に、報復関税や投資規制に踏み切ったり、第五世代携帯電話ネットワーク(5G)の開発から中国企業を排除したりするなど、覇権争いのために経済的手段を用いる行為など。
 戦後日本は、憲法上の制約や軍事を忌避する社会的制約のもとでの政治的選択として、経済的価値の追求を眼目とする経済外交を基調としてきた。経済「目的」の追求に焦点を当てつつ、その「手段」は外交交渉だけではなく、戦後初期の賠償やそれ以降の政府開発援助(ODA)など、positiveなESを活用して来た。
 新興国の台頭により、経済のパワー・バランスが変化し、日本の経済力が相対的に低下するとともに、安全保障環境が厳しくなる中では、非軍事的手段による安全保障を重視する日本が、自由貿易を基本としつつも、輸出管理の運用の見直しとして韓国に対して見せたように、独自の経済力の行使すなわちESにより、言わば経済戦争から日本企業を保全すると言う意味では飽くまで「自己防衛的」に、外交目標を達成する局面が増えて来ざるを得ないと思われる。注視されるところである。

注①  https://amari-akira.com/02_activity/2019/03/20190320.pdf
注② https://diamond.jp/articles/-/213058
注③ https://www.sankei.com/politics/news/191001/plt1910010060-n1.html
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_007868.html
注④  https://toyokeizai.net/articles/print/209782
https://nationalinterest.org/feature/japans-new-national-security-economy-24307
注⑤ http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14826
注⑥ https://www.fn-group.jp/933/
注⑦ https://www.britannica.com/topic/economic-statecraft
注⑧ http://jair.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/committee/no205recruit.pdf
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「表現の不自由展」への違和感

2019-10-09 23:42:53 | 日々の生活
 政治色の強い作品が物議を醸していったん中止に追い込まれた「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の展示が再開されたらしい。展示内容の全貌を知らないので、敢えてブログに書かなかったが、慰安婦像らしきものが鎮座していることはニュースで知っていたので、こりゃ論外だと思ったからでもあった。名古屋市の河村たかし市長が、同展の会場がある愛知芸術文化センター前の広場で抗議の座り込みを行ったらしく、賛同するが、その主張はやや分かりにくい。
 「表現の不自由展」企画の趣旨を正確には知らないが、想像するだに興味深く、「表現の自由」には最大限の敬意を払いたいと思うし、それが脅迫や抗議の電話や政治家の発言などに屈するとすれば問題であろう。しかし「表現の不自由」と言うからには政治的メッセージが含まれることは十分に予想できたはずで、実際にそうであれば、こうした政治的要素が強いものから行政は遠ざかるべきだと思う。近づいちゃいけない、つまり公金を出すべきではない。少なくとも日本を敵性国家と見る隣国の国民がわざわざ日本に来てまで政治的な主張を行うことに対して血税を投入するような馬鹿げたことにはならないようにして貰いたい。政治性を認めるかどうかの線引きは実のところ簡単ではないだろうが、右や左などの内容の如何に関わらず、政治性という一点で遠ざけるべきだと思う。もし、日本の従軍慰安婦問題も韓国のライダイハン問題も中国の少数民族迫害問題も同時に取り上げるとしたら、厳密にはそれぞれ同列に論じる性質のものではないにしても、大きく見れば政治性を超えて普遍的な人権擁護を主張することになるのかも知れないが・・・
 繰り返しになるが、仮に自費でやるのだとすれば、異なる歴史認識を主張しようが、昭和天皇の戦争責任を追及しようが、公序良俗に反しない限り、止めるべきではない。ヴォルテールの言葉として有名な、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という一線は守られなければならない。問題は、公的な機関が、政治的メッセージが含まれるものに公金を投入するなどして肩入れしていると思わせることへの違和感ではないだろうか。
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青梅への道

2019-10-07 22:47:33 | スポーツ・芸能好き
 今年も東京マラソンへの道はあっけなく絶たれてしまった。今から7年前に最初の応募で当選を果たして以来、7年連続の落選と相成った。この人生でまたもう一度走るチャンスがあるのかどうか、なんだか諦めムードである(笑)。一般エントリー(エリートランナーやチャリティランナーなどを除く)定員26,370人のところに、293,275人もの応募が殺到し、11倍を超える狭き門だったようだ。他方、マラソン仲間の元・同僚は、7年連続外した挙句、今回、目出度く初当選した。実に悲喜こもごも。
 仕方なく今年も青梅を目指すことにした。
 こうして目標が定まらないと、私のマラソン・シーズンは始まらない。昨日、半年振りにいつもの10キロ・コースを走った。シーズン初日とは言え、普段歩いているので、ゆっくりなら騙しだまし走ることが出来る(そして半日の時差を以て、今日の午前中から筋肉痛が始まった・・・)のだが、肩や背中といった、普段、余り使わないところは、走っている最中にも凝ってしまう・・・ところが、なんと今年は違った。この夏に、腕立て・腹筋50回運動を週一から週二のペースで続けてきたので、殆どダメージがなかったのだ。人間の身体というものは、年老いても使っていればそれなりになんとかなるものだと感心する。
 それよりも、夕方に走ったものだから、腹が減って元気が出なくて、余計、ペースが落ちてしまった。だいたい私のようにズボラで練習嫌いの市民ランナーは、仮にそれなりに走り込んだとしても、自分の足に合う靴を余程、慎重に選ばないと、足をマメだらけにして悲惨な目に遭うし、エネルギーをしっかり補給しないと、ガス欠になって、よれよれになる。
 つまり、こういうことだ。齢をとると、運動量が減るから、筋肉が衰えて、基礎代謝が減って、食べる量も減る。そこで、たまに走ったりすると、普段のバランスが崩れて、エネルギーが不足し、それをキャッチした脳が、これ以上余計な運動をすると危険だからと司令を出し、走る意欲が減退する。だから、走る前には、しっかり栄養補給をしなければならないのだが、半年振りのことで、うっかり忘れてしまった。
 走り終わって、恒例の体重測定で、シーズンを終えた3月頃と余り変わっていないことに、やっぱり驚かされる。人間の身体は、冬場に脂肪を貯め込もうとするので、走ってもなかなか体重が減らないのだが、逆に夏場は運動しなくても体重はさほど変わらない。不思議なものだ。
 5ヶ月間のシーズンの始まりである。5ヶ月かけて、青梅30キロを走る身体を徐々に造り上げていく。サボると本番で苦労することになるという恐れと、五体満足、走ることが出来る幸せを噛み締めながら・・・とでも思わないことには、なかなか続かないのだ(苦笑)
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